2015年2月26日木曜日

正しい判断は公開された議論から生まれる

カール・セーガンといえば、啓蒙科学者として著名な人物だ。「コスモス」という宇宙のドキュメンタリー番組を作り、その作品は世界中で放映されたために、今でも世界的な知名度がある。また、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』という本でも有名で、一時期大量に売れたためか、ブックオフや古書店を回ると、彼の本がよく出回っている。

彼が1996年に亡くなるまで、終世批判を続けたのが「エセ科学」と言われるものだ。科学的な見かけをしているが、再現性が無かったり根拠が無かったりと、様々な理由で科学としては認められないものは世間に多い。水に優しい言葉をかけ続けたら美しい結晶が水の中に出来る、という『水からの伝言』や「ホメオパシー」などにまつわるものが、その典型だろうか。

既知の科学だけではわからないものがある、ということを少しでも信じている人間(私もその一人)は、この手のエセ科学にだまされやすいところがあるから、注意しなければならない。科学的であろう、まともであろう、という姿勢と、形而上のものへの信頼を両立させるためには、慎重である必要がある。

その点で面白いと思ったのが、下記記事で紹介されていた、カール・セーガンがエセ科学を見抜くための基準である。

★ 天体物理学カール・セーガンに学ぶ、物事を正確に見抜くテクニック


カール・セーガンは、上記記事で、「トンデモ話検出キット」というタイトルでエセ科学を診断するための方法を述べている。要約したのを下記に列挙してみた。
  • 提示された事実が本当かどうかをまず疑う。
  • 裏づけとなる証拠をたくさん取る。
  • 証拠は自分だけではなく、様々な人々と議論をして判断する。
  • 「権威はない。専門家がいるだけ」とわりきる。
  • 仮説は一つだけではなく、ありったけ立てる努力をする。
  • 自分の仮説を片っ端から反証してみる。
  • 自説に固執せず、自説を捨てることを考える
これだけできれば確かに間違った判断をすることはなくなりそうだが、人はめんどくさがり屋だから、それがなかなかできない。

事実を様々な立場の人の間で意見してもらうことは大切だ。「三人寄れば文殊の知恵」という。自分だけではわからないことが他人にはすぐに分かることが世の中には多いからだ。

エセ科学のようなものを信奉する人間は批判を嫌うし、詐欺師のたぐいは批判を巧みにかわそうとする。特に意図的な詐欺師は、公開された討論よりも個々のやりとりを好み、相手が詐欺師への批判者と交流することを、あの手この手で邪魔しようとする。

先日とある人物と交流をしていたとき、似たような経験をした。彼は私に、彼が敵対する人と「関わるな」「彼は嘘つきだ」と言い、「このやりとりを公表するな」と言ってとにかく情報の囲い込みを図る人物だった。ところが、後になって彼自身も裏で汚いことをやっていたのが発覚した。

彼からのメールは受信拒否にして今に至るが、このようなことは皆さんも経験したことがあるのではないだろうか。

正しい判断を行なうのは、それを妨げる人々と戦う必要がある。



2015年2月24日火曜日

『「殉愛」の真実』を読んだ(ネタバレ注意)

※この記事には作品のネタバレがあるため、これから『「殉愛」の真実』を読もうとする方は本日の記事を読まないほうがいいかもしれません。

百田尚樹の書いた『殉愛』は33万部を超えるベストセラーだが、発表当時から様々な批判を集めていた。「最後を見とった奥さんのさくらを美化し過ぎている」「家族や親戚を貶めている」などなど。

読み通していない私だったが、様々な媒体に引用された内容を知って、批判をされて当然だと感じた。百田によると、たかじんの娘は銭ゲバで父への愛情の欠片もなかったという。その証拠として、本では、父から食道がんと知らされた際の「何や食道がんかいな、自業自得やな」というメールが紹介されている。

これを娘の悪辣さの証拠、としている百田の感性を私は疑った。心置きなく悪口を言い合えるような親子関係が関西では珍しくないのは、百田尚樹ならばよく知っているはず。深刻な病気の告白を軽く受け流しただけかもしれない。なぜこれを娘の非道の証拠として紹介しなきゃならなかったのか?

ところがそのあと、作品がデタラメばかりだという悪評が出てくる出てくる。妻さくらを初婚のように本では紹介しているけれども、実はバツ1ではないのか、とか、いや、バツ2だろうとか。あるいはさくらがたかじんのメモを偽造したんじゃないか、とか。

ネット上の噂には嘘も多いがネットにしかない真実も多い。真実かどうかは読んでいればだいたい分かるが、私はさくらが以前書いていたブログ記事などを読むうちに、こりゃ、さくらという人物、真っ黒だな、と思うようになった。彼女はたかじんの遺産を食いものにするためにたかじんに食い込んだんだろうと。

ところが唯一解せないところがあった。彼女の写真を観ても、何年もかけて著名人を籠絡するような人間に思えない。


優しげで華奢な印象を覚える。

まあ、私という人間は面倒くさがりで、これから関わろうと思わない相手の第一印象に関してはいい加減で当たった試しはないのだけれども、私以外のほとんどの人だって、彼女を「真面目で気さくな女性」としか認識しないのではないか。

とかく、彼女の写真から伺える人柄と、伝え聞く行動にギャップがありすぎる。

そこが唯一の疑問点だが、昨日『「殉愛」の真実』を読んで疑問が氷解した。



この本の凄いところは、ネットでささやかれていた数々の噂の裏づけを丁寧におこなっている点だ。家鋪さくらというたかじんの元妻は、たかじんと結婚するまですでに離婚を3回も経験していた。

それだけではなくアダルトビデオ製作会社の社長の愛人までしていた。それが明確なのは、家鋪さくらがAV会社社長を、「別れた後もストーカー被害を受けている」と告訴したから。その際に元夫に証拠集めの協力を依頼していたという確たる証拠があるから、彼女が愛人契約をしていたというのは100%間違いない。

この本でもっとも重要な証言は、元夫のアメリカ人男性の告白だと思う。家鋪さくらは多重人格で、会話の途中で突然男の声に変わり、元夫を罵倒して、しばらくすると再びいつものさくらに戻り、男の声で罵倒していたときの記憶を一切失っている、という重要な告白がなされている。

多重人格者が著名人を籠絡して周囲と連絡を遮断、ベストセラー作家と組んで著名人の財産をすべて奪おうと画策するなんて、こんなの小説の設定だったら出来すぎだろう。

少し読んだらやめようと思っていたのに、下手なホラー小説を読むよりも面白くて、ページをめくる手が止まらなかった。
「次はいったいどうなるんだ?」
「どんな証拠が出てくるのか?」
とね。

それ以外にも、彼女が詐欺師だということがわかるさまざまな証拠が挙げられている。

なかには筆者の勇み足もある。
「彼だったらこんなことは言わない、だからさくらは嘘つきだ」
という論理構成に、無理があると思われるものも若干ある。しかし、弱点を上回る数々の証拠があるので、家鋪さくらと百田尚樹の悪辣振りは最早明らかだ。

新宿紀伊國屋でこの本を探したのだが、なんと2階に平積みで、5冊しか置かれていなかった。

出版社はこぞってベストセラー作家の百田尚樹を守ろうとしているらしく、出版社の意向を組んでか、書店もこの作品をママコ扱いするつもりなのかもしれない。書店側も「百田尚樹」という売れる作家を失うのは惜しかろう。彼らは積極的に売らないのではないだろうか。この本だけ売れても、未だ売れ続けている百田尚樹の本が売れなくなれば書店にとっては大損害だから。

実はこの本の陳列棚の前でたたずんでいたときも、少し離れた場所に置かれていた百田尚樹の本について、カップルが話しているのを偶然聞いていた。男が女に『永遠の0』がなぜ素晴らしいのか力説して、彼女に本を読むように力説していた。

「角を矯めて牛を殺す」という格言があるが、書店もその愚は犯したくなかろう。

だから、この本は、いつの間にやら新刊の中に埋もれて消え去る運命となるやもしれず、買おうと思っても買えない、ということにもなりかねない。興味のある方は早めに買うべきではないかと思う。










2015年2月22日日曜日

知っていることをまくし立てるのが説明ではない

妻の説明を「要領を得ない、わかりにくい」とけなし、自分の説明を得意がる夫の勘違いぶりが面白かったので、この問題について述べてみたい。

★ 医師「どうしました?」 嫁「子供の下痢が酷くて熱もあるんです!食べてもすぐもどしちゃうし」 俺(解りづらい説明乙!)
子供(2)が発熱、嘔吐、下痢の三重苦で病院に行った時の話

医師「どうしました?」
嫁「下痢がひどくて、熱もあるんです!食べてもすぐもどしちゃうし…」
俺(解りづらい説明乙…)
医師「えぇと…」
俺(説明しよう!)

俺「金曜日の夜から調子悪くなって、夜中に嘔吐2回、熱は8度3分。水のような便。
土曜日…、昨日は8度5分で、終日食事はとろうとせず、イチゴなどを食べさせましたが、すぐ嘔吐。併せて水のような便。
本日午前中は、8度3分で、ビスケット数枚とイチゴを食べて嘔吐無し。相変わらず、水のような便。
脱水症状防止のため、赤ちゃん用のスポドリを飲ませるようにしています。
ノロ…ですかね?牡蠣とかは食べさせてませんが…」
医師「わかりました」

その後、医師が今後の対応について話すとき、座っている嫁と、立って子供(0)をあやしている俺と、交互に見ながら説明していてちょっと申し訳なかった…
時系列にそって説明とかできないんですかね。国文学科?かなにか、文系のはずなのに
理系の方が向いているなのかな?経緯とか比較とか…

俺自身は、職業的に『状況の説明』とかの訓練を受けているので、比較はできないのかもしれませんが。
仕事をしていて、この手の男性から話を聞かされることがよくある。そしてイライラとさせられる。

相談を受ける場合に、いろいろなケースを想定しながら慎重に話を進めたい。だから、回答は短く要領よくおこなってほしい。あとはこちらの質問に答えてくれるのが一番ありがたい。

ところが件の夫のように、知っていることをまくし立てられると、その情報を理解して、夾雑物を抜き取り、それから判断しなければいけない。それも短時間に。この手の人間はたいてい短気だから、こちらが素早く判断しないと、今度はこちらをバカ扱いする。

「あんた、俺が今説明しただろ? 話を聞いていないの?」

(あんたのムダな説明をだらだら聞く気はこちらにないよ。しかも必要な情報が入っていないじゃないか)

と言いたい気持ちをぐっとこらえて、にこやかに彼に応対するのはなかなか骨が折れる。

冒頭のやりとりでも、何を食べたのかとか、体温の細かな数字など、不必要な数字がいくつもある。 ノロかどうかの判断も、医師がするものなので、余計な素人判断だ。

「金曜日の夜中に嘔吐と水のような下痢が始まり、38.3度の熱が出ました。翌日の土曜日も症状が収まらず、ビスケットなどを食べさせても嘔吐するので、丸一日何も食べられませんでした。今日午前中は吐き気はなく食欲も戻りましたが、熱と下痢の症状が止まらないためにお医者様に伺いました。今は赤ちゃん用のスポーツドリンクだけ、飲ませています。牡蠣とかは食べさせてませんが…」
ということを、聞かれながら答えれば済むではないか。体温などの数字は、医師から聞かれれば答えればいい。どうせ病院では、再び体温を測るのだから。

自分の知っていることをすべて言えばいいと思っている自称優秀な人間はこの社会に多い。彼らは、自分が馬鹿であることになかなか気づかない。「説明」とは相手の理解に応じて行なうものなのに、相手の理解度を図ろうとしない、そこまで頭が回らないという点で彼らは馬鹿であり、自己を客観視出来ないという点でも馬鹿なのだろう。

かくいう私にも、知っていることをまくしたてる傾向があるから、他山の石とせねばなるまいて。

2015年2月20日金曜日

曽野綾子の醜態に作家の特権が失われゆくさまを見た気がした

曽野綾子のコラムが物議をかもして10日経つ。

キッカケは2/11付の産経新聞のコラム「透明な歳月の光」だ。以下の記事でコラム全文が読める。

★ 【追記あり】産経新聞、今度は曽野綾子が人種差別(アパルトヘイト)を肯定するトンデモ全開コラムを掲載

彼女はコラムの中で「移民の身分は日本人と法的に厳密に区別すべきだ」と説き、同時に、南アフリカ共和国の「実例」を紹介した上で、「居住区は人種ごとに分けて住むべきだ」と主張した。

これに批判が殺到したところ、彼女は下記のように弁明。

★ 曽野綾子氏「アパルトヘイト称揚してない」
私はブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て、今回、まちがった情報に基づいて興奮している人々を知りました。
私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう。
さらには荻上チキという評論家と対談して、以下のように解答をしている。

★ 荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし
曽野:はい、あの区別で、差別をしなさいなんて全然言っていないんです。
荻上:日常の中のそうした配慮を区別とおっしゃっていると。
曽野:日常の穏やかなにね、そして相手の立場を持って大人げを持って認めると言うのが私は良いと思っていますよ。
差別を区別と言い換えるのは差別主義者の常套手段だけれども、それを指摘されても彼女は自分の過ちを認めない。
 南アフリカ共和国の駐日大使などが下記のように抗議している。

★ 曽野氏コラムで南ア駐日大使が本紙に抗議

このまま産経新聞も放置しておくわけにはいかないのではないか。彼女に謝罪をさせるか、コラムニスト自体を降りてもらうか、を迫られるだろう。そして、曽野綾子はすでに地位もカネもある人物だから、謝罪をすることもないだろうから、コラムニストを自主的に降板するんじゃなかろうか。

そしてまた日をおいて、『正論』などに今回の騒動の総括をおこない、言論の自由が失われつつある世の中を嘆いてみせるものの、産経新聞とは影響力は段違いだから、特に話題になることもなく、そのまま彼女は忘れられていくような気がしている。彼女ももう、83歳だし。

私のこの件に関する意見を述べる。

彼女はずいぶんと不誠実だ、というのが最初の印象だ。昔から彼女とは同じ保守思想に属しているはずなのに、どうにも賛同できないことが多かった。その理由は、狭い知見をもとにした、彼女の押しつけがましい論の建て方にあった。

たとえば彼女は若いころ、アフリカで貧困生活を現地の人に混じって体験したことがあり(一種の冒険を昔したことがあったため)、
「私と同じ経験をあなた方、したことないでしょ? それなら私の言うことをそのまま受け止めなさい」
と主張する、そんな内容のコラムを読んだことがある。似たような暴論で、なおかつ内容が偏ったものが彼女には昔から多かった。

今回の話も、ヨハネスブルグのマンションに黒人が大勢転居したために白人が逃げ出した、という一例をもって、人種が一緒に住むことはむずかしいと一般論に仕立てあげるのは明らかに論理の飛躍だ(なぜなら人種が共存しているニューヨークなどの大都会がたくさんあるのだから)。そのうえ住居を別にすべきという主張の傍証に、自然に人種が分離したチャイナタウンなどを証拠と挙げるのも卑怯だろう。だったら自然に任せればいいだけである。彼女が主張することはなにもない。

そしてもう一つ。この騒動で私が考えたのが、作家の特権の暴落についてだった。

もはや「作家の特権」は有名無実化しているのかもしれない。

昔は言論を社会に問うことの出来る人間は限られていた。作家はそのような特権階級の一つであり、新聞や書籍などの媒体を使って世の中に意見を問うことが可能な数少ない人種だった。だから、作家には道義から逸脱した言論を吐く権利があると、社会的に認められていたし、作家がそう主張しても、それに違和感を感じなかった。

当時は政治家や官僚などの力が今よりも数倍強かったから、彼らにペン一本で異議申立てするのも今とは比べ物にならないほどの勇気が必要だった。だからそれをする作家に、人々は声援を送ったし、彼らに倫理を逸脱する「特権」が許されていたように思う。

ところがもう、時代が違う。彼女が触れていなかったというインターネットで、誰もが発言をできる時代だ。もはや作家に、今までと同じような特権を与える理由がない。

それに、権利には義務がともなう。特権だったならなおさらだ。作家が特権を主張するならば、彼らはそれに見合ったノーブレス・オブリージュ(聖なる義務)を行使しなければならないのだが、日本の作家がここ数10年、義務を果たしてきたといえるだろうか?

たとえば昔だったら、「四畳半襖の下張事件」という有名な刑事事件があった。当時は権力がとかく人民の自由な表現を邪魔しようとうるさかったから、こうした風潮に噛み付いて、自由に作家活動ができるようにするべきで、読者にもそれを読む権利がある、という作家たちの意見表明に人々は拍手喝采を送ったものだった。こうした言論の自由を守る活動が、作家の特権を支えてきたといっていい。

ところが今、こうした活動をおこなう著名作家は少ない。特に現代社会では企業の力が肥大化しているが、あいも変わらず政治批判をすれば権力に反抗していると考えている方が多いのではないか。名誉毀損などで裁判を起こされるから、企業に刃向かう方がよほど困難、知名度のある作家には頑張って欲しいところだけど、彼らが一丸となって企業に立ち向かう、というような話はあまりない。

いたとしても論の建て方に緻密さがないために、読者に簡単に見切られるようになって、ますます彼らの特権が失われつつあるように思える。もちろん良心的な作家も大勢いるのだが、声が小さく、社会を大きく動かすに至っていないように思う。

曽野綾子が、「私は作家だから」とか「書きたいと思ったら、その時静かに書かせていただきます。それだけのことです」などと、作家としての自負を見せても、もはや形骸化した作家の特権に固執する様に感じられてただ、醜悪なのだ。それに気づかずに自分が特権階級だと思い込んでいる彼女に哀れさを感じてしまって、そのことに愕然としたのだった。



2015年2月18日水曜日

最初の謝罪は直接会うほうがよろしかろう

岡田斗司夫ネタでまだ引っ張っているから、興味のない方は読まない方がいいだろう。

さて、岡田斗司夫が高須克弥医師を怒らせた際の対応について、今回は述べたいと思う。

岡田斗司夫がダイエットネタで人気を博していたときに、高須医師との対談で脂肪吸引手術を了承しながらドタキャンする、という騒動があり、それが最近になって再び騒動となったのは先日ご紹介したとおり。

私が気になるのは次の箇所だ。

★ 高須 克弥さま  お詫びと、経緯説明を申し上げます。
新潮社からは「広告出稿の件もあるので、こちらから手術の件はお断りします。ビジネスがらみになりますので、以後は任せてください。岡田さんから高須先生に直に連絡しないようにしてください」と言われました。
その時に、すぐに僕から直に高須先生に謝罪すべきでした。
しかし、後藤氏より「岡田さんが謝ると、人間味がないのでますますこじれる」と遠回しに言われ、自分でもそんな気がしたので、お任せしてしまいました。
 この部分である。

私は以前、橘玲の『臆病者のための裁判入門 (文春新書)』という本を読んで以来、交通事故でもめている人々のブログや、雑誌の記事、書籍の体験談などに気をつけるようにしている。

交通事故では、被害者は突然の事故によって大変な苦しみを受けることになる。加害者は当然、それに対してお詫びしようとするのだが、最近の損害保険会社は、それを押しとどめることが多いようだ。

「あなたが行っても解決しないから」
「むしろ被害者の感情を悪化させてしまう」
などと言って、加害者がすぐにでも被害者のもとを訪れて謝罪するのを押しとどめようとする。

これには理由がある。損害保険会社が示談交渉をおこなう場合に、加害者と被害者が直接やりとりされると困る。冷静な判断のもとで、法律上で許される裁定ラインで保障額を算定しようとするのを、被害者に拒まれることがある。そのときに、損害保険会社では埒があかないとなると、加害者に直接精神的な揺さぶりをかける被害者がいる。そのようなことになっては加害者側にとって大きなリスクとなるから、それを避けたい、という判断のようだ。

ところが、加害者側が一度たりとも被害者に顔を合わせないようなケースも、最近は多いという。損害保険会社がそう指示するからだ。しかしそれはあまりにも極端だろう、と思う。現にそのようなケースでは、被害者側の感情がこじれて、解決に何年も掛かる場合がある。

損保会社の指示で加害者が被害者に顔を合わせなかったがために、問題がこじれたとしても、それが統計に現れることはないだろう。損保会社側の判断ミスになるし、因果関係がはっきりしないものをわざわざ報告するとも思えないからだ。だから実態は分からないが、最初から加害者が謝っていれば済んだことも、案外多いのではないかしらん。

離婚についても似たような話がある。

夫に何の非がないにも関わらず、妻側から離婚を切り出す場合がある。そういう場合に限って妻は、「夫とは二度と会いたくない」と主張して、弁護士だけが夫に会うケースが多いようだ。それを弁護士が指示するからだ。

当然夫は納得しない。一度でもいいから会おうと言っても、妻はそれを拒否する。自分に非があるから、責められたくない、という自己保身のためだろうか。

沢尻エリカがそれで揉めて、結局夫の高城剛との間で、数年に渡る離婚劇を繰り広げることになった。最近では中山美穂がそれに当たるかもしれない。

謝罪の意思を直接確認したいというのは人間の性だろう。面と向かって言われないと、納得出来ないというのはよくわかる。もともとネット上のつきあいならばともかく、最初からリアルで出会っておきながら、肝心要で会うことが出来ないと、人は裏切られたと感じる。ましてや加害者の謝罪をや。

交通事故の被害者がどう豹変するかわからないし、非のない夫からどう罵られるかわからない、という恐怖があるのも分かる。しかし、相手が暴力気質だと判明しているのでもない限り、やはり道義的には一度は直接会って、謝罪などの意志を伝えるべきじゃないだろうか。それで相手も納得することが多い。

一度目の謝罪に直接訪問するかどうかの判断において、仲介者の言うことに唯々諾々と従うべきじゃない。なぜなら彼らは結局自分の立場を第一で行動しているから。決してこちら側の意図を汲んでいるわけではないからだ。損保会社も弁護士も、最終的に守りたいのは自己の利益だ。損保会社は慰謝料が高額になって欲しくないし、弁護士も和解されて離婚訴訟費用が入らないことはなんとしても避けねばならない。

岡田斗司夫の件でも、高須医師が広告宣伝費を出してくれるか、出さないにしても対談原稿を掲載させてくれるかが問題であり、どちらもダメだったとしたら、せめて新潮社側が火の粉をかぶらないようにしたい、というのが新潮社の意思であっただろう。岡田斗司夫が最終的に高須医師に恨まれようがどうしようがどうでもいいのである(と言うと、新潮社の後藤氏にやや申し訳ないが)。

「会って話をしたい」
などと凄む相手はたいてい輩の類なので、その誘いにホイホイのらないことは大切だ。しかし事件の加害者となったりこちらに非があって離婚を進めたい場合は、やはり一度は会って話すべきだろう。心から謝罪をして、それでも納得しないならば、そこから第三者に間に入ってもらえばいいのだ。



2015年2月16日月曜日

サイコパスは軽口のなかでも真実を明かさない

岡田斗司夫がサイコパスであることは明白なんじゃないかと思っている。

ウィキペディアによれば、犯罪心理学者のロバート・D・ヘアはサイコパスを以下のように定義している。それが岡田斗司夫にどう当てはまるかも書いてみた。
  • 良心が異常に欠如している……文章盗用や不倫騒動など
  • 他者に冷淡で共感しない………捨てた女への態度
  • 慢性的に平然と嘘をつく………岡田斗司夫の普段の行動のとおり
  • 行動に対する責任が全く取れない……美容手術ドタキャン騒動の放置
  • 罪悪感が皆無……罪を問われても言い逃れするばかり。
  • 自尊心が過大で自己中心的……彼のいつも態度
  • 口が達者で表面は魅力的……彼の特徴そのもの
「別の言い方をすると、他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく、社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う」
とか、他にも「 乱交的な性関係」だとか「寄生虫的な生活様式」だとか、岡田斗司夫の特徴そのものがサイコパスの特徴としてずばり書いている。

岡田斗司夫がサイコパスでなければ何なのか? という話だ。

似たような人間として有名なのが田中真紀子氏だろうか。彼女も平気で嘘をつき、口が達者で表面は魅力的であり、それでいながらお手伝いさんの女性を素っ裸で母屋の階段を昇り降りさせたり、雨の中、玉砂利の上で正座させて謝まらされた、などの過去が週刊誌で暴露されていた。報道のとおりならば、彼女も典型的なサイコパスと言える。

さて、岡田斗司夫と田中真紀子の二人には、似たような名言がある。岡田氏の名言はネット上の動画での軽口的な応答から。田中氏の名言は、身近に人に叩いた軽口が漏れ聞こえてきたものから。

「俺は、俺以外の人間はすべて犬とか虫に見える。それが人生観」……岡田斗司夫
「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」……田中真紀子

私はこれまで、彼らのこのセリフは軽口だからこそ彼らの本心を表していると思っていた。だが、前回の記事を書くうちに、どうやら違うな、と考え始めている。彼らにとっては、それ以外の人間がいるのに、それを慎重に隠しているだけなんじゃないのか、と。

岡田斗司夫の場合は、高須克弥がそれにあたる。彼は岡田氏にとって虫けらだろうか? 謝罪の慌てぶりからすれば、決してそうは思えない。虫けら相手にあれほど真摯な対応をするだろうか? 彼が評論家の竹熊健太郎相手に見せた態度とは雲泥の差ではないか。

違うね。虫けら以外の人間だと思っているから、彼は異なる対応を取るのである。

それでは、「俺以外の人間はすべて犬とか虫に見える」という言葉には嘘が混じっているのだろうか? たぶん、そうだ。

私はかつて、サイコパスだろうと思われる上司の下で働いていたことは、このブログを以前から読んで頂いていた方はすでにご存知かもしれない。初めての方に改めて説明すると、彼は学生時代に暴力沙汰で警察の世話になったことを自慢していたり、愛人を10人近く常に抱えていたり、複数回の離婚歴があったり、部下をしょっちゅう殴りつけたり(私も被害にあった)、部下を鬱病で自殺未遂に追い込んだりと、「現実的で長期的な計画の欠如」以外のサイコパスの特徴をすべて兼ね備えているという人物だった(それに典型的な嘘つきだったしね)。

で、だ。

彼の行動を間近でみてきて面白かったのは、彼は利益のためならば、いくらでも下手に出ることが出来る人間でもあった。決して自己中心一辺倒ではなく、上下関係を一見、尊重するふりをするのだ。とはいえ、体育会系の上下関係とは明らかに異なっていた。

面倒見がいい人間、自分が取り行って得になる人間には徹底的に尽くす。その中でも自分をかわいがってくれる相手には常に平身低頭、どんなお願いでも聞いた。特に、権力を振りかざす、敵に回すと怖いタイプの人間との相性が抜群によくて、下手すりゃ夜のお供までしたんじゃないか? というくらい、卑屈になることが出来た。

ところが地位が上の人間でも、公平な人間や力のない人間に対しては、
「あいつは情がない人間だ」
とか、
「彼には挨拶だけしていればいい。そこそこつきあってりゃいいんだ」
と言って、敬意を払うふりをするだけ。彼にとっては、自分をかわいがってくれる人間だけが「情のある人間」であり、利用価値の無い人間を敬うことなど、考えられもしなかった。

この、「利用価値のある人間」や「敵に回すと怖い人間」へ極端に卑屈になるという特徴は、サイコパスの診断表にはまったく出てこないが、サイコパスの特徴の一つとして加えてもいいんじゃないだろうか。

ところが彼らは、自分よりも上の人間が存在する、ということを認めたがらず知られないようにしたがる。
「俺が一番」
「他の奴らは無能」
と威張るのが好きで、自己中心的だから、なによりも自分を敬ってほしい、崇め奉ってほしいと思っているから、「利用価値があって逆らってはいけない上位者」がいる、という事実を認めたがらない。口にしたくない。だから軽口で漏らした人間分類ですら、それを含めないのだ。

それで済むのは、自尊心のある人間ならば、岡田斗司夫が「自分以外はみんな虫」と公言しようが、自分のことを虫けらとは思っていないからだろうか。
「ああ、彼も馬鹿なことを言っているな」
としか思わず、岡田氏が自分のことを馬鹿にしていると考えて怒ることもない。

逆に独裁者タイプの人間にしてみると、他人には傍若無人な人間が自分にだけ擦り寄ると、
「他人には威張っているくせに、俺にはなつきやがって。うい奴じゃ」
と思って逆に可愛いと感じるんじゃないだろうか(気持ち悪いけれども)。

話を整理しよう。
  • サイコパスは、人間を(田中真紀子の分類法を利用するならば)「敵」「家族(または愛人)」「奴隷」の三種類に分類すると公言することがある。
  • しかしもう一つ「利用価値のある上位者」という分類があるが、そのことを公言しない。
  • 周りの人間には自分だけに注目して欲しいのと、上位者に「利用価値があるから媚びへつらっている」とバレるのが怖いからだ。
  • よって周囲は、この手の人間の「自分以外はみんな虫」という言葉を信用しない方がいい。それ以外の分類があることを隠しているだけだから。基本、彼の言葉には嘘が塗り込められていると疑ってかかった方がいい。
ということである。

それと、もう一つ悟ったことがあるが、これもテーマが異なるので別記事にして明後日辺りにアップしようと思う。






2015年2月15日日曜日

岡田斗司夫はなぜ高須克也氏には謝ったのか?

評論家の岡田斗司夫が、一時期ダイエットに成功してバラエティー番組にひっぱりだこになっていたことを覚えていらっしゃる方は多いはずだ。

ただ、ダイエットにはリバウンドの危険性が常に付いて回る(岡田氏も後でリバウンドした)。

ダイエット成功発表直後の2008年に、たまたま雑誌の企画で対談した美容外科医の高須克弥はそれを見越して、
「この際だから肥満再発予防のため、脂肪細胞を吸引してしまおう」
と岡田に提案したらしい。しかし岡田斗司夫は一度受けたその話を手術前になってドタキャンした、という事件があったらしい。

それが今頃になって明らかとなったのは、最近カネに困った岡田が、高須医師に借金の無心をしたために高須医師が怒りを爆発させて数年前のこの件を週刊誌で暴露したからだ。

★ 高須院長が激怒!「岡田斗司夫が金銭的援助を求めてきた」
高須:そう、あり得ないよね。よし、そのメッセージを見せてあげよう!(スマートフォンでフェイスブックを開き、岡田斗司夫氏からのメッセージを見せる高須院長)今回の女性問題で、岡田斗司夫が作ってた女性の格付けリストがネットに流れたでしょ。女性たちのために、それを削除したいってことらしくて。弁護士費用がかかるから、数百万円を援助してくれないか、という内容なんだよ。
「数百万円の貯金もないのか?!」
という批判の声がネット上で飛び交っているけれども、その批判に私は与しない。岡田氏が借金でここを乗り越えようとする気持ちは不思議ではないからだ。

仮にもあれだけの著作をヒットさせている男だ。数百万円の貯金は当然あるだろう。しかし、イレギュラーな高額出費のために貯金を切り崩してはならない、と判断したが故の行動だろうし、その判断は正しい。

借金をしてでも貯金に手を出さない、というのはカネを貯める人間にとっての鉄則だ。これは貯金の不思議な性質であり、詳しくは藤田田の著作「ユダヤの商法―世界経済を動かす (ワニの本 197) 」などに書かれているので、ご興味のある方は読んでみられてはどうだろう。それに財務的には、手元に自由になる現金が常にあることも重要。キャッシュフロー経営という言葉でお調べになれば、なぜそれが大切かがお分かりになるだろう。

ただ、この状況で、自分が以前迷惑をかけた人間に借金を申し込むという行動を理解するのは難しいだろう。しかしよくよく考えてもらえれば、極めて彼らしいと言えるはずだ。

彼は身勝手な人間で自分のことしか考えない。当然今、謝罪することが自分にとって有利だからそうするのだろう。そしてどん底の状態こそ、多くの人と和解するチャンスなのは間違いない。というのも、それは卑屈になれる数少ないチャンスだからだ。

怒らせた相手に謝罪するのは、不必要なリスクを抱え込まないためにも必要な行為だが、謝罪をするには下手に出なければならない。ところが岡田斗司夫という男はたいへんプライドが高い。たとえ自分に非があろうとも、相手に媚びたり卑屈な態度を取ったりすることは我慢できない。これまでもなんとかして言い逃れようとしてきた。

しかし、損得勘定に長けた男だから、カネのためだったら卑屈になれる。そしてそのことを、
「利益のために卑屈になるのは心が位負けらしているのではないから、いくらでも頭を下げる。そんな自分は他人から見ればカッコいい」
とでも考えているんだろう。

この手の傍若無人な人間は、「気にしない」と強がりながら実は人一倍外面を気にする。だから自分が他人に謝罪することで、自分が謝罪した相手よりも下に見られることに我慢できない。この手の男は、人間関係を上下関係でしかとらえないから、自分が他人よりも下の人間だと思われることをはなはだしく嫌う。

ところが現在四面楚歌、窮状にいることは誰しも認めるところだから、謝罪したことが世間に後日バレても、暴落した自分の株は、下げ止まりしていてこれ以上下がらないと踏んだのだろう。

それに、謝罪した相手よりも格が下だからなのか、窮状のせいなのか、それとも借金のために頭を下げたのか、世間は判断できまい、とも考えたのだろう。

様々な計算が働いた結果、高須医師に借金の申し出をしたのだろうが、いかんせん相手が悪かった。高須医師は全て見抜いた上で、岡田氏のメールを先に世間に暴露してしまったのだから。

私信の公開は違法だから、高須医師もずいぶんとリスクの高い行動をとっている。岡田氏が訴えれば高須医師にとってはダメージだろう。しかし岡田氏は訴えまい。訴えれば余計に自分の首をしめることになるからだ。非のある人間が居直るのを許すほど、世間は甘くない。

親告罪だから岡田氏が訴えなければ高須氏の罪を問われることはない。世間的には私信の公開はそれほどの罪だとは思われていないし(だから世間ではメールを平気でネット上で公開している人が多い)、高須氏はオープンな人間で、私信の公開を批判しながら陰口を叩いてきたエセ評論家とは異なるから、高須氏が責められることもなかろう。

そこまで見越しての高須医師の行動だったのだろうが、さすがだね。お見事である。

それに対して岡田氏、早々白旗を上げた。

★ 高須 克弥さま  お詫びと、経緯説明を申し上げます。(岡田氏のFacebookより)
その時に、すぐに僕から直に高須先生に謝罪すべきでした。しかし、後藤氏より「岡田さんが謝ると、人間味がないのでますますこじれる」と遠回しに言われ、自分でもそんな気がしたので、お任せしてしまいました。
編集さんの影にコソコソ隠れたりせず、まず、キャンセルを自分でも伝えればよかったと、今でも後悔しています。
その後、トラブルになっていると聞いたときも、編集さんに任せるだけでは無く、自分なりに誠意をもって謝るべきだった、と痛感しています。
ずいぶん殊勝じゃないか、と面食らった。乱交暴露騒動のあとの公開の場で、
「俺は、俺以外の人間はすべて犬とか虫に見える。それが人生観」
と言い放ったり、竹熊健太郎氏の盗作疑惑批判に対して、
「それが竹熊さんのあつかましいところでさ、あの当時、マンガファンみんな知ってたことじゃん。『オタク学入門』に全く新しい知見なんかないんだよ。」
「今更言うところも含めて、竹熊さんちっちぇえ」
と軽侮してみせた岡田氏と同一人物とはとても思えない。

何なんだろうね? この人……とつらつらと考えているうちに分かったことがある。この手の詐欺師の言葉に、誰もが左右されていたという事実だ。

記事が長くなったので、詳しいことは次の記事で書こう。普段は隔日連載だが、ひとつづきの記事は間を空けない方がいいから、明日記事を書こうと思う。

2015年2月13日金曜日

バレンタインデーで男からチョコを貰うことが普通になるかも

2/14はバレンタインデーだ。女性が思っている以上に、男性はチョコレートをもらうと嬉しいものだ。義理であってもぜひ、お近くの男性にチョコを渡していただきたいと思う。

別に意中の女性や絶世の美女からでなくとも、異性から好まれているというだけで私は嬉しい気持ちになるし、たいていの男性はそうだろう。

とはいえ、なかには偏狭な男性もいるのはたしかだ。好きでもない女性、気に入らない女性からチョコレートをもらうことを嫌がり、それを露骨に顔に出す男もいる。性格が悪い奴らで、まともじゃない、と思う。

……とはいえ、そういう自分は果たしてまともだろうか? と下記の記事を読んで考えた。

★ 同性カップルに結婚相当証明書 東京・渋谷区
東京・渋谷区は、同性のカップルに「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行する新たな条例案をまとめ、来月の区議会に提出することになりました。
区は証明書を持つカップルを結婚と同等に扱うよう区内の事業者などに求める方針で、条例が成立すれば全国でも例がないということです。
同性愛を異性愛と同じように認め祝福するのが欧米先進国のトレンドだ。同じ文明圏に属する日本でも、これがやがてスタンダードになるのだろう。

さて、そのときに、たとえばバレンタインデーで、私が男性からチョコレートをおおっぴらにもらうことが数年後には当たり前になるのかもしれない。そう考えたときに、正直生理的な嫌悪感を感じた。ホモからチョコレートをもらうなんて!

ふいに、昔観た映画を思い出した。

あれはテレビドラマだったかもしれない。

アメリカの白人老夫婦の偏見がテーマだ。彼らは今でも人種差別を当然と思う、古い南部の田舎町に住んでいる。同じような価値観を持つ老人同士で意気軒昂に黒人差別で盛り上がる。現実に彼らが黒人を侮辱する行為に出ることはない。その場所はあまりに田舎なので黒人がいなかったため、それが通用していただけなのだ。ところがとうとうこの街にも黒人が移住してくるようになった。

そこで悲喜劇が起こるのだが、主人公である老夫婦も、やむを得ず黒人とつき合わざるを得なくなる。そしてある事件(なんだったか忘れた)をきっかけに、夫は黒人差別が間違っていることを悟る、というストーリーだ。

ところが、白人夫婦の改心で終わらないところが、この映画の良さだった。最後が秀逸だった。

夫の価値観の変化に戸惑いながら、「夫に妻は従うもの」という古い価値観にしたがい、妻は今度は黒人差別を一切口に出さなくなる。そして黒人に寛容であるようふるまおうと努力する。ところが、最後になってそれがどうしてもできず、彼女は涙を流しながら訴えるのだ。
「黒人差別が間違っていることは頭では分かっているの。でも、生理的に無理なの!」

……

よく、
「嫌なものは嫌なの!」
と自分の感情を変えないことを正当化し、感情を抑えることに徹底的に反対する人々がいる(女性に多い)。上記の白人の老婦人もそうだったのだろう。しかし、この生理的な嫌悪感や感情がどれほど純粋なものであろうとも、正しくないものは正しくない。

キアヌ・リーブスが、かつて、
「あなたは同性愛者ですか?」
と尋ねられたときにこう返したという。
「僕がその噂を否定するのは簡単だ。けれどそんなことをすれば
僕はゲイやバイセクシャルの人間であると思われたくないということになるだろう? 
それはひとつの差別意識の表れだよね。

ゲイだと思うなんて酷い、バイセクシャルの人間だと決めつけるなんて失礼だ
とそんな風に考えること自体が、実はひどく差別的なんだから。

セクシャリティにかかわらず、僕は僕だよ。
僕の俳優としての評価は、セクシャリティとは無関係だ。

だからその質問に対する答えはたった一つ、『ノーコメント』だよ」
これを2ちゃんねるで読んだときにカッコイイな、と思ったが、これからはこれを私達の公式な態度にしなければならないのだろう。同性愛への嫌悪感を示すこと自体、恥ずかしい行為だと認識して、決して口にせず、差別の輪に加わらないような態度だ。

キアヌは差別意識すら否定したが、生理的な嫌悪感、嫌だと思う感情を持つことまでも禁止するのはもはや自由意志の否定だと思うからそれには反対だ。しかし、それを外に出すことが許されない時代は、すぐそこまで来ている。

それに対応できない人間は、セクハラで捕まる老年オヤジのような末路を、これから数年後に迎えるのではないだろうか。そして、差別意識を有したままで態度だけを改めようとしても滲み出てくるのを止めるのは至難のわざだから、それなら意識を変えた方が手っ取り早い。

バレンタインデーでチョコレートを男からもらうことを想像して、生理的な嫌悪感を抱いている男性諸氏は、今のうちから自分を訓練しておいた方がいいかもしれない。

少しずつ自分を変えていき、同性愛者をからかうジョークの輪から一歩身を引き、嫌悪感を外に表さない訓練を少しずつ続けるのだ。

数年経てば、行動が変わり、やがて感情が変わる。生理的嫌悪感を抱くことはなくなるだろう。男性からチョコレートをもらっても、ただ、
「ありがとうね」
と言って笑って感謝することが、自然に出来るようになるのではないか。


2015年2月11日水曜日

ブログを書く効用


「なぜブログを書くのか」
と問われることがある。

承認欲求だとか、アフィリエイトによる利益の追求だとか、人的交流の機会追求だとか、人によっていろいろな理由があるだろう。いや、むしろ理由は一つではなく、複数あることが多いだろう。

かくいう私も、自信のある記事を書いてPVが増えれば嬉しいと思うし、それによってGoogleから多少の小遣い銭が入れば別の意味で嬉しい。それに、このブログを書いたことで増えた友人もいるから、それも楽しい。

いろいろな効用があるが、最近、これももう一つの効用だと思ったのが、
「思考がスピーディーに、論理的になる」
というものだ。それを最近実感して、ブログを書いていてよかった、としみじみ思った。

どういうことか。

私のブログ記事は、よくいらっしゃる方はご存知かもしれないが、案外長い。一記事3000字以上書く、と決めていた時期もあって、それを毎日続けて書いたこともあった。訪問者の方も当時は読むのがしんどかっただろうと、深く反省している。

ところが長文を毎日、あるいは隔日でもいい、定期的に更新していると、ある時期から思考が良い方向に変化したことにふいに気がついた。

どういうことか。

通常人間の思考は、それほど論理的ではない。いや、論理的だがそれを意識することがない、と言い換えるべきかもしれない。

具体的に説明すると、たとえば今まで野球の話を興味深く聞いて、野球の話題も自分から振っていたいような人が、突然、
「俺は野球なんて嫌いだ!」
と怒るようなことがあったとする。

当然怒られた相手は驚く。そして、野球が嫌いだと怒りだした人のことを、
「この人は感情的だ」
と思うだろう。そして、怒った人が自分自身、なぜ怒ったのかを説明できないと、
「あの人は気分屋だ、論理的じゃない」
と周囲から評価されてしまうだろう。

ところが、
「自分は野球が好きだが、それとは別に、不倫という行動が大嫌いだ。ところが今度、不倫相手の女性を殴ったことをメディアで暴露された大久保博元が東北楽天監督となった。それを許すことはできず、大久保の監督就任を許した野球界に絶望した。だから俺は野球を嫌いになった。今は聞くだけで嫌なんだ」
と説明されれば、それに共感できるかどうかは別として、聞かされた方は、
「なるほど」
と納得するだろう。

問題は、こうした思考が普段は無意識下で行われているために、意識できず、意識できないから論理的に説明しづらい、ということだ。

野球が突然嫌になったのは、数日前に聞いた大久保博元の楽天監督就任が影響しているのだけれども、そのことを思い出せず、まさかそれだけの理由で、野球自体がイヤになるほど自分が狭量だったとも自覚していないと、なぜ自分が、突然野球の話を聞くことが嫌いになったのか説明できないだろう。

よく「論理的ではない」と言われる人間の行動や発言には、必ず論理がある。無意識下の複雑な論理が重なった結果、予想外の行動、普段と異なる発言を行なうのだが、それを自覚できないだけなのだ。

ときにはそれは脳の病理によるものかもしれないが、それも、「脳の病理のため」という理由が背後にある。

人間行動にかぎらないだろう。

物事すべての事象には、必ず論理がある。隠されているために読み取れないか、複雑なあまりに論理をたどることができないだけなのだ。それを筋道立てた理屈で説明できる人間が「論理的」と言われるようになるのだ。

そして、日々の行動、思考などを文章化しようとすると、人は論理的になる。

自宅の日記帳にでも書けばいいじゃないか、と思われるかもしれないが、日記は自分に甘くなる。自分しか読まないために、多少論理に整合性がなくとも、不正確でも、論理となる部品の一部が見つからなくとも、
「まあ、いいか」
で済ませてしまうことが多くなる。人間は不精な性格だから、思考の深堀を怠ってしまう。

インターネット上に公開されるブログはそうはいかない。他人に読んで理解してもらうためには理屈を文章につけなければならない。もしもとりとめのない思考をそのまま公表すれば、
「この人、馬鹿だな」
「この人、頭がおかしいんじゃないの?」
と思われてしまうだろう。

他人にまともな人間だと思ってほしいとか、馬鹿とは思われなくない、という自意識が、整合性のある文章を書かせる。「他人に理解してもらいたい」という欲求は、一人で日記に書いていた時には湧きにくい感情だろう。これが大切なのだ。

過剰な自意識は愚劣だと一蹴されがちだが、愚劣な感情には根深く強いエネルギーがある。このエネルギーを利用しない手はなかろう。

そして、論理的な文章を書くことを定期的に続けることで、思考はスピーディーになる。

毎日は暇な時ばかりではなく、急いでブログを書かねばならないこともあるだろう。あと1時間で日が変わってしまうことを恐れながら、時計を気にしながら記事を更新するときもあるだろう。いや、そんなときばかりだ。人生ヒマじゃない。

言わば強制的に、思考を高速に回転する訓練を自らに課しているようなものだ。それをPVやアフィリエイトが応援してくれる。

その繰り返しが重なり、それが数年続いたときに、ふと、自分の思考がクリアになり、合理的になり、スピーディーになり、無意識の行動に説明をつけられるようになった自分に気づくのだ。

私はバカかもしれないが、ブログを書く数年前に比べれば、自分の頭が確実に整理され、改善されたと断言できる。

これもまた、ブログを書く効用の一つではないか。

脳トレブームに見る如く、思考力を伸ばしたい、高めたいという欲求を持つ人はこの世に大勢いる。高齢化社会、ボケを防止したいと思っていらっしゃる老年の方々も多いはずだ。そんな人は、ある程度の量の記事をブログに毎日書いてみるといいのではないか。自己の成長という点で、数年後に必ず、良かったと思えるはずだ。





2015年2月9日月曜日

動詞の敬語と受動態が似ているのは主語が入れ替わったから?

先日、動詞の敬語と受動態が似ていて紛らわしいな、と思いながら、そもそもなぜ両者は似ていたんだっけ? と考えていたときに、こんな仮説が成り立つのではないのか? と思いつきました。

たとえば、
「客は『……』と言った」
という文章を敬語で表すならば、「言った」を「おっしゃった」に変えて、
「お客様は『……』とおっしゃった」
となるでしょうが、「言った」を受動態に変えて、
「お客様は『……』と言われた」
と表すのも間違いではありません。。

後者が受動態が敬語になることの例です。
さて、なぜなのか、と考えたときに、
「他人を敬うために受動態を使うのではなく、他人を敬うために、主語を「自分」に切り替える習慣が長年経って、いつの間にやら受動態を敬語として使うように変化したのではないかな」と考えたのです。

つまり、
「客は『……』と言った」
を敬語に直すとしたら、
「(私は)(お客様から)『……』と言われた」
と変換する長年の習慣がまずあります。

そして、日本語では「は」や「が」という、主語を表す助詞が省略される傾向にあり、そもそも主語自体が省かれる傾向にありますから、人間の頭では短絡的に、
「敬語には受動態を使う」
とインプットされるようになったのではないかな、と。

英語で表すならば、
"He forgot me."
という文章を敬語で表すために、
"I was forgotten by him."
と表現するようになり、普段主語を略して、
"Was forgotten."
と使われるうちに、"He"が尊敬の相手だった場合には、必ず、
"He forgotten me."
 と使うようになった、というのが私の仮説です。

そう考えたものの、まあ、こんなことは国語の専門家ならば誰だって考えるかもしれないな、と思って、ネットで「敬語 受動態 理由』などといった言葉で検索しましたが、そのものずばりの回答がなかなかみつかりません。

★ どうして受け身の形が尊敬になるのでしょうか
では、
実は英語だけでなく「受動態」が敬語になる例は各国語にあります。
なぜ「受動態」が敬語になるかといういうと「動作の主体」が客体になるからです。
という回答があり、一見、私のアイデアに近いのですが、主体が客体となったのちに、主語が入れ替わり、それが脱落した、という意味ではありません。

それに、前半と後半の文章の論旨が一貫していませんね。だからベストアンサーに選ばれなかったのかも。 その点、
個人的な感覚ですが、「れる、られる」の尊敬用法は、自発用法から派生したという考えもありかな、という気がします。
というベストアンサーは面白いですね。

昔、高校生の頃、金田一晴彦著『日本語』を読んだことがありました。そのなかで、「お茶が入る」という日本語の用法の奥ゆかしさについて金田一氏が力説していたのも、思い出しました。

もしや、『日本語』にすでに書かれていたかもしれない、と思って本を探しましたが、しまいこんでいたのか、本棚から見つかりませんでした。

この説に少しは新しいものがあるのかどうかは分かりませんが、仮説として面白いかもしれません。また、英語では主語を省略できませんが、ドイツ語では日本語のように、主語を省略したり動詞の後においたりできるので、ドイツ語では敬語の自動詞と受動態が同じになる、というケースがあるかもしれない、などと考えましたが、ドイツ語は身についていないので、確かめるすべがありません。

2015年2月7日土曜日

武道を稽古するならば型稽古の方がいい

実践形式ではない武道の稽古をすることに、昔は疑念を抱いていました。

日本の伝統武道は、ほとんどが型稽古を重視しています。今の剣道のような防具をつけて竹刀でたたきあうような稽古を始めたのは江戸時代末期の北辰一刀流だそうでして、それまでの道場のほとんどは、型をひたすら繰り返す、というものばかりだったといいます。

学生の頃には、この種の稽古を小馬鹿にしていたことがありました。大学生の頃に古武術を習っていながら、
「こんなの実戦で通用するのかね」
と思いながら稽古していたのも事実。

子どもですから、ヒーロー願望があるんです。

街で暴漢に突然襲われたときに、次々に倒してやりたい、とかね。そんなシーンを夢想したこと、ありませんか?

型稽古を繰り返して、彼ら悪漢を倒せるように成るとは、到底思えず、かといって私の尊敬する武道家たちは「型稽古をやらなければならない」「強くなる」という主張をするものですから、ほんまかいな、と思いながら型稽古を不承不承、やっていたのです。

それから仕事が忙しくなって武道から離れて10年以上となりますが、最近ふたたび武道でも稽古しようかな、と思える精神的余裕を持つようになって、ふと思ったのが、今まで自分がいかに運が良かったのか、という事実。

この年で、たとえば頚椎に損傷を負って下半身不随になったとしたら、どうしようと考えると、ふいに怖くなりました。

考えてみれば、暴漢に襲われて命が奪われる可能性よりも、実践形式の武道の稽古で、打ちどころが悪くて半身麻痺になったり、骨折したりする可能性の方が確率が高いのではないでしょうか。

「危険を避けるため」
に武術や武道をやるのだとしたら、怪我をする危険性が、暴漢に襲われる危険性よりも低くなければなりません。それなのに、アクシデントの多い試合形式の稽古では、リスクが大きすぎます。

筋トレをして、走りこみをして筋力とスタミナをつけ、型稽古をすれば、いざというときに身を守る動きをするには充分ではないか、という確信が、今はあります。筋力をつけるという積み重ねを嫌う人間が、勘だとか技だとかに安易によりかかるのではないか、とも思うのです。

そう考えますと、実戦形式で稽古することには、メリットよりもデメリットの方が大きいのではないか、と思うようになりましたが、これは私が歳をとった、ということなのでしょうかね。



2015年2月5日木曜日

欧米の同調圧力に抗うトルコ

ダーイッシュ(自称イスラム国)に後藤健二さんが先日殺害された。後藤さんのご冥福をお祈りする。

ご家族、特に奥さんの悲しみを思うと胸が張り裂けそうになる。お子さんが生まれたばかりで夫を失い、子どもの誕生という女性にとってもっとも大きな喜びを味わえないのだ。子どもを見るたびに亡き夫を思い出すのはつらかろう。悲しみは、深く刻まれた傷となり、彼女をこれからも苦しめる。あまりに不憫だ。

同胞が異邦人に殺されるのを観るのは嫌なものだ。彼らダーイッシュを憎らしいと思う気持ちが湧きあがる。

今後の課題

彼らの行為を眺めながら、では、どうするか? 安倍総理が今後同種の事件が起きたときのために、自衛隊派遣も含めて検討をしていきたいと述べた。たしかにそれも大切だろう。

ただ、これまで軍隊を派遣しなかったからこそ日本人が世界で得てきたメリットを失う覚悟が必要だ。私が海外を旅していたときに、日本人という理由で親切にされた経験が数多くあった。同じような経験をしてきた観光客、現地駐在人は数多くいるだろう。

デメリットのほうが大きいのではないのか? アメリカにすらできないことをやろうとして、失うものが大きすぎやしないか? ……ただ、それは失ってみなければ分からない。

それに、軍隊を派遣して武装勢力を殲滅するという方法では原因を取りのぞくことはできないだろう。それは一種の対症療法だ。それよりも、紛争をなくすための原因を取りのぞくことが先決じゃないか?

対症療法以外の方法

……とはいえ、対症療法ではない根本療法を探るとしても、どこまで深く追求するべきか、解決方法を実行することは可能か、という問題が立ち現れるだろう。出来ないことについてあれこれ考えてもしょうがない。

たとえば、あの地域にイスラエルを建国したのが悪いだとか、欧米の国際石油資本(石油メジャー)が中東利権を守るためにあの地域の政治バランスに深く関与しているのが悪いだとかいった議論があるのは知っている。しかし、その議論を深めてもあまり意味はないように思う。

原因はそうかもしれないけれども、イスラエルを今さらなかったことにできないし、国家と同じ力を持つ巨大な石油メジャーの行動を縛ることは、私たちには荷が勝ち過ぎる。同じく考えるのならば、少しは考えた末になんらかの効果がある議論を深める方がいい。

たとえば、多様な民主主義を私たちは我慢するべきかどうか、どこまでを許すべきか、それは可能なのか、といった問題だ。

トルコの我慢の限界

ダーイッシュが隆盛を極めている背景には、アメリカがイラクを崩壊させたことだとか様々な要因がからんでいるわけだが、他の要因の一つに、トルコのイスラム回帰という問題があるように思う。

欧米で育ったアラブ系の人々が、なんのツテもないのに身一つでダーイッシュに身を投じていることは多くの報道でご存知だろう。彼らのほとんどがトルコ経由でシリアへ向かうのだという。ダーイッシュの支配地域がシリアのトルコ国境付近に迫っていること、シリアとトルコの国境には森林や小道が多いことから、人知れずダーイッシュへ潜り込むには好都合なのだそうだ。

だが、地理的要因だけのはずがない。アラブ系とはいえ、彼らダーイッシュ志願者たちは土地勘がない。全くその土地と無縁の彼らが、GPSがあったとしても、うまくダーイッシュの支配地域へと忍びこむことができようはずがなく、彼らを応援する草の根の人的ネットワークがトルコ国内に間違いなくある。

トルコの人々のイスラムへのシンパシー。それは現在のエルドアン大統領への熱狂的な支持ぶりからもうかがえる。

都市部ではエルドアン大統領の独裁的手法への批判の声が大きいが、地方ではイスラム教を賛美するエルドアン大統領支持者が圧倒的に多い。シリアとの国境付近の人々ならばなおさらだろう。

だがトルコは、イスラム諸国の中で政教分離を早い段階で成し遂げて成功した民主主義国だったはずだ。そのトルコがイスラムへ回帰を始めたのには理由がある。要因の一つには、トルコがヨーロッパの一部になろうとして、常に拒絶され続けたことに、トルコ国民がうんざりしたという背景があるように思う。

トルコはEUへの加盟を幾度と無く拒絶されてきた。アルファベットを導入して、政教分離を成し遂げ、特権階級を認めない民主主義国家を作り上げたトルコに対して、ヨーロッパはアルメニア人虐殺を謝罪しろだとかキプロス島の権益を放棄せよなどと様々な理由をつけて、批判してきた。批判され続けて少しも敬意を払われない者は、ストレスが溜まり、鬱屈した感情を抱くだろう。トルコの人々は、ヨーロッパの傲慢にうんざりし、イスラムへ回帰しようとしている、という一面がある。

リベラルの同調圧力

トルコがヨーロッパから拒絶されてきた歴史に踏み込むと長くなるので、これ以上書かず、そもそもなぜヨーロッパがトルコをそこまで毛嫌いするのかについて述べたい。要は、民主主義の先進地域という意識が強いヨーロッパは、自分たちに似ているのに自分たちとは異なる存在を許せないのだ。

特に、リベラル勢力にその風潮が強い。彼らは多様性を唱えながら、実のところ同調圧力が大変強い人々だ。自分たちと全く異なる政治体制の国家(中国だとか)や開発の遅れた国々の独裁体制には妙に寛容なくせに、彼らに近い政治体制を取りながら、国情にあった民主主義の発展を目指す国には、自分たちの基準を押し付けようと必死になる。

自分たちを正統と考える人々は、異教徒には寛容でも異端を許せない。トルコの人々はイスラム教を精神的基盤に置きつつも、民主主義国家となることは可能だと考えている。ところがヨーロッパの人々は、キリスト教のベースがない民主主義には懐疑的で、だから何かしら、いちゃもんをつけようとする。彼らのように考えない国を批判したがる。

同じようなことは、日本に対しても行われる。彼らは日本もまた、「真の民主主義国家とはいえない」だとか「民主主義がまだまだ遅れている」などと批判してきた。今回の件でも、後藤健二氏がダーイッシュに拘束されたときに日本で「自己責任論」が現れたことに対して、ロイターのPeter Van Burenという記者が、
日本政府の反応とその支持者たちの態度は、欧米の反応の基準とは基本的に異なっていることを暴露する。(the response of their government and the attitudes of their fellow citizens expose key differences from the standard Western response. )
批判した。紛争地域で危険にあった同胞への対応が異なれば、すぐに民主主義ではない、日本のものはまがい物だ、という批判が彼らから出る。今までもよくあったことだ。

日本は相当、民主主義が根付いた国家だと思うが、それでも彼らは「まだここが違う」「あれが違う」と言って日本の民主主義を認めようとしない。欧米人のように行動して、彼らのように考えることを望む。口では多様性を唱えながら、その国の伝統に沿った民主主義の発展を決して認めない。

たとえば、同性婚を認めるのがここ10年ほどの欧米の風潮だが、それが主流になると、もうそれ以外を認めなくなる。10年前には同性婚を認めない人々が欧米でも多数で、それでいながら民主主義が成立していたのにもかかわらず、だ。今はそれを認めない人間や国は基本的人権を尊重する仲間にあらず、という見方をする。

本来、基本的人権の考え方とは合わない伝統をそれぞれの国が持っているものだから(たとえば君主制だとか宗教に関するものだとか)、進んだ部分、遅れた部分はどこにでもあるのだ。それぞれが国家の実情に沿ったスピードで、変えるものは変え、変えられないものは変えずに、少しずつよりよいものへと変えていけばいいはずなのだ。特にイスラム教の影響の強いトルコでは同性婚を人々が認めにくかろう。しかし欧米人は、それを許さない。

自分たちを変えること

近親憎悪という言葉がある。

カトリックがプロテスタントが何を決めようと放っておくが、同じカトリックの中で異端の説を唱える者には容赦しないようなものか。似ているとなると、とことん自分たちと同じようであることを求めようとする彼らのすぐそばにいて、トルコはさぞつらかったろう。

仲間の差異を認めない欧米の人々が、トルコの人々を追い詰め、国内のイスラム教徒たちを追い詰め、彼らをダーイッシュへと追い込んだという側面があるのではないか。

そして、似たようなことは私たち日本人も行いがちだ。昨今中国が、民主主義国家へと大きく変貌を遂げつつある。韓国はほぼ、民主主義国へと変貌した。しかし、逆にその違いに注目して批判を加える、という行為を、ネトウヨにかぎらず、私たちは行いがちだ。

いや、中韓に対するだけではない。私たちの人間関係の中で似たような批判はよくあることである。仲間と思う人々のちょっとした差異を嫌うというこの感情は、人間誰しも持つものなのだろう。

それとどう折り合いをつけていけばいいのか。それは答えのない問題だけれども、それについて考えを深めていけば、それが政治への目となり、欧米人の同調圧力へ抵抗することへとつながり、イスラム的、あるいは共産主義的なものを大切にしながら民主主義国家へと変わろうとする国々を、間接的に応援することにもなるだろう。

そして、世界のシステムは個人では変えられないが、自分たちの考え方は変えられる。それによって影響を受けた世界もまた、変わるかもしれない。

2015年2月3日火曜日

『ブラック企業』は過渡期の存在かもしれない

最近になって『ブラック企業』という本を読んだが、読むのがつらくて何度か本を置くこととなった。

文章が読みにくいということはない。著者は私よりもはるかに年下ではあるけれども、学術的な訓練を受けているせいか私よりも論理的で、なおかつ豊富な実例が「読ませる」。

しかし、その豊富な実例を読むのがつらい。昔の自分の体験を思い出させるからだ。ブラック企業から離れて年月も経ち、ある程度気持ちの整理もついたはずだが、あのときの悔しい気持ち、腹立たしい気持ちとは未だに折り合いをつけるのが難しいようだ。

詳細は上記の本を読んでいただくことにして(幸いなことに、かつてたくさん売れたので中古本が安価で出回っている)、その本に書かれていないことを読みながら考えたので、書いてみたい。それは、現在のブラック企業の発生の理由だ。

なぜ近年、ブラック企業がこれほど話題になるようになったのか?

それは、日本企業が少し方向性を誤ると、ブラック化しやすくなったからだ。なぜ企業がブラック化しやすいのか? もともと日本流、あるいは松下幸之助流の家族主義という土壌へ、アングロ・サクソン流の熾烈な競争原理が持ち込まれて、社員に逃げ場がなくなったからだと思っている。

どういうことか? もともと日本企業は企業が社員の一生を丸抱えすることで、会社が一つの家族のような役割を果たしてきた。それは社員の忠誠心を育てたが、やる気を育てるためには別の燃料も必要だ。アングロ・サクソン流の頻繁な解雇や降格がない中でいかに社員のモチベーションを高めるか? そこで日本企業では様々な方法を用いて、社員のやる気を上げる工夫をこらした。

その一つに、労働と社会貢献、本来は別のものをくっつけてしまい、労働することが社会貢献だ、という価値観を育てたことがある。

リッツ・カールトンという外資企業が「クレド」 なる会社の理念を掲げてかつて話題になったが、あれはもともと日本企業のやり方を外資流にアレンジして取り入れたものであることはよく知られている。日本企業が世界を席巻していたときに、アメリカの企業が日本企業を研究して、朝礼で「社訓」「社是」と呼ばれるものを唱えられていることに着目して、アメリカの企業に紹介をした。それを洗練させたのが、リッツ・カールトンの「クレド」だった。

クレド、その源流となる「社是」「社訓」で訴えられることは、会社で働くことが社会をよくすることにつながる、という主張だ。この主張が使命感を育てる。使命感は、社員に労働に没頭させる。働くことが歓びとなった人間の生産性が高くなることは、容易に想像がつくだろう。また、会社で一生懸命に働かない人間は社会貢献の意思がない、と周囲がみなすようになり、社員にプレッシャーを与えるだろう。こうして人々は仕事に専念する。

こうした洗脳的な手法で日本企業は社員を追い立ててきたわけだが、ただ会社が家族のようなものだったから、社員間でお互いに支えあい、その欠点を補ってきた。
 
ところが今や、会社がリストラを自由に行なう時代が。従業員の生活には責任を持ちません、でも従業員にはこれまでどおり忠誠を誓って欲しい、という都合が良すぎる命令を現代の企業は我々に強いている。

こんな馬鹿げた命令に私たちが従う必要はまったくないし、いずれ社会から淘汰される考え方だろう。しかし今は過渡期だから、その害が明らかにまだなっていない。そこで、日本流の会社勤務=社会貢献という思想と、競争原理が容易に結びついて、人々を追い込む企業を生み出してしまう。ブラック企業の発生と増加の原因がそこにあるように思う。


2015年2月1日日曜日

小保方春子はリケジョじゃない

最近、また小保方晴子の周辺が騒がしくなってきましたね。

★ 小保方晴子さんを思わせるキャラクターをゲームに使用、スクエニが謝罪

★ 窃盗容疑で小保方晴子氏を刑事告発へ
STAP細胞を開発したとする論文で研究不正が認定され、先月に理化学研究所を依願退職した小保方晴子氏(31)が、窃盗容疑で刑事告発されることになった。
★ 小保方氏と理研「暴露本」で密約?
騒動の幕引きを急ぐかのような経緯からは、理研の体質が垣間見える。内部関係者の話。
「あれだけのスキャンダルを起こしておきながら、組織の長である野依良治理事長がそのまま居座っているのが、いい例だ。理研は一日も早く騒動のマイナスイメージを払拭し“何もなかった”状態に戻したいと考えているのです」

昨年あれだけ世間を騒がせ、いったん収束したかとおもいきや、ふたたびニュースとなるのは、それだけ小保方晴子のキャラが魅力的だったからでしょう。

一見清楚、お嬢様。スタイルも容姿も美しい。その上科学の大天才。ハーバード大学で研究員を務めたのち、日本最高峰の研究所「理研」に所属しながら、「万能細胞を簡単に作れる」という画期的な論文を、世界的な科学誌『ネイチャー』に掲載。

しかしその実態は、大勢の科学者たちを手玉にとって国際的な地位を着々と築いた悪女。ある男は死に、ある男は人生を狂わされた。しかし女自身は決してつかまらず、逃げ続ける……。

これ、完全にアニメやライトノベルのキャラ設定ですよね。そしてたぶん、「設定を詰め込み過ぎです」「リアリティーがなさすぎます」と編集者に怒られるパターン。でも、本当にこんな人物が実在しているのですから、いやはや、事実は小説よりも奇なり、です。

昨年私も、彼女についていくつか記事を書きました。

★ 小保方捏造論文捏造疑惑は上質のミステリー
★ 小保方晴子の記者会見を観た
★ 小保方さん側弁護士は、わざと不利な情報を公表しているのではないか

それだけ魅力を感じたからでしたが、さて、再び最近のニュースで彼女についてふと思いついたのが、
「彼女は本当は理系ではなく文系だったのではないか?」
という疑惑です。

彼女は理系女子、通称「リケジョ」と言われ、当初は理系女子の出世株と目されていたのは衆知のとおりです。その株は後で暴落しましたが。

理系の女の子の取扱説明書」によれば、リケジョには三つの特徴があるそうです。
  • プライドが高い
  • 子供の頃にいじめられたことがある
  • 議論が好き 
でも、小保方さん、そのどれにも当てはまりそうにありません。天然ぽくていじめられるタイプではなく、議論も下手でしょう。理系女子にありがちなプライドとは、少々無縁のように思います。

思えば彼女の言葉は、やけに文学的でした。STAP細胞のことを「王子がキスして目覚めるプリンセス細胞」と言ったり、週刊誌の記者が彼女に問い詰めたところ、「私が死んでも、STAPの現象は起こります」と答えたり、STAP細胞の再現実験に参加する際に、「生き別れた息子を早く捜しに行きたい」と答えたり……。

人間を理系と文系に分ける基準は思考のフレームにある、という説を聞いたことがあります。

理系はものごとを論理的に把握して、論理的に説明します。論理とは共通認識の積み重ねの末に、新しい事実を納得させるという技法です。たとえば、彼に浮気をしてはいけないことを説明するのに、
  1. 浮気をされると嫌だよね(←そうだな。俺は嫌だな)
  2. あなたは私を大切にしたい、私の嫌なことはしたくないって誓ったよね(←そうだ。君の嫌がることはしたくない)
  3. 浮気されることは私の嫌なことなの。だから浮気はやめて(←わかった)
と説得するのが論理的な説得方法。

それに対して、文系は、イメージをふくらませて、感情に訴えて説得するのだそうです。
「浮気をされたら、私は多分自分の心臓をえぐりだして死んでしまうかもしれない。大切なあなたに浮気をされたら、何も信じられなくて、自分が惨めになって、この世界にはいられないと思う。それほどつらいと思う……」
とかね。当然、思考もイメージ。頭の中にはさまざまなイメージがフラッシュのようにパッパッと沸き起こり、あるいはポロックの絵画のように、イメージや感情がうねりをともないながら渦巻いています。

その分類方法でいけば、小保方晴子は明らかに文系女子。論理的な積み重ねよりもイメージでものごとを考えるタイプの女性でしょう。

人間は異なるタイプの人間の話を面白がる性癖がありますから、理系の園に迷い込んだ文系女子に、研究者たちが魅力を感じて彼女に惚れ込んだのも、理解できなくもありません。


2015年1月30日金曜日

自衛隊のトップにいた人間が、なぜこうも愚昧なのだろう?

元航空幕僚長の田母神俊雄のツイートが話題になっています。

どうしちゃったんでしょうね。田母神さん。保守というよりも、これでは単なるネトウヨとか右翼モドキじゃないですか。私、自分を保守派だと思っていますが、彼と同じ保守としてひとくくりにされたくないと痛切に思う次第です。私自身が馬鹿なのに、さらに馬鹿に見られてはかなわないな、と。

問題となる点

何が問題か? ひとつは、別種の問題を持ち込んでいるという点。在日韓国人、朝鮮人が通名を利用して犯罪の指弾を免れているという問題は確かにありますが、今回のイスラム国による日本人殺害予告事件とはまったくの無関係。それを持ち出す理由が分かりません。

それに、仮に日本人ではなく在日韓国人だから韓国政府がこれを解決すべきだと言いたいのだとしても、それは今言うべきタイミングではありません。後藤健二氏の国籍が日本だとしたら、まったく余計な発言や問題提起で現場を混乱に陥れるだけ。日本政府が彼を日本人だと言っているのです。政府を信じて一意専心、彼の救出を祈るべきときでしょう。そのあと、問題を正していけばよろしい。

また、在日韓国人だから日本政府は救出に努力すべきではない、と言いたいのだとしたら、単なる差別主義者です。

仮に後藤氏が以前在日韓国人だから、帰化した人間だから、日本人らしい行動をしなくておかしい、という指摘だとしたら、今度こそ本当にただの馬鹿でしょう(そして多分、これが田母神さんの本音のように見受けられます)。日本人にも大勢くだらない馬鹿がいます。帰化したラモス瑠偉さんのような、ラテン気質で日本人としては型破りだとしても、日本人以上に日本を愛している方々もいます。多様性を認めず一つの鋳型に押し込もうとする人間は、単なる全体主義者です。

差別主義者でかつ全体主義者となると、ネトウヨというよりも「ナチ公」という称号のほうがふさわしい。

石堂さんの父は韓国軍人じゃない

それに、石堂順子さんが在日韓国人だ、というデマの根拠が著しく薄弱なことは、調べればすぐに分かります。

このデマは、石堂順子さんが1/23に会見の中で、子を思う親の気持ちについて述べるくだりで、
それから、私の父は軍人です。朝鮮とか、そういうところのかなりのトップだったと思います。私はいつも軍用車と、三角形のひらひらする旗のある自動車で送られていました。しかし、今、私どもが、写真を見ますと、私のおじいちゃん、教育者だったんですが、草履履きで私の朝鮮馬山の宿舎へ訪ねてきました。私はつい最近まで、おじいちゃん、なぜそんな格好で朝鮮へ来てくれたの、恥ずかしいという思いをしたことがありました。
と語った言葉がひとり歩きして、
「石堂順子さんの父が韓国軍トップ、ということは、石堂順子さんは在日韓国人だ」
と噂されたのが、そもそもの発端のようです。

★ 【全文】「私はこの3日間、何が起こっているのかわからず悲しく、迷っておりました」ジャーナリスト・後藤健二さんの母・石堂順子さんが会見

ところが、調べるとすぐに答えらしきものが出てきます。

78歳の女性が語る父親の思い出話です。父は韓国軍人ではなく、朝鮮半島に駐在していた日本帝国軍人である可能性もあるでしょう。そして今は便利な時代で、陸軍のトップの人間の名簿までもインターネットで見ることが出来る時代です。

★ 陸軍部隊最終位置
「石堂」というのは珍しい名前です。「石堂」の名で検索すると、朝鮮軍管区直轄馬山重砲兵連隊補充隊に「石堂燦二中佐」という人物が在籍していたことが分かります。

宿舎の場所も朝鮮の馬山で同じです。この石堂中佐と考えて間違いないように思います。

陸軍士官学校33期生なので、石堂中佐は1900年の生まれでしょうか。石堂順子さんは78歳なので、年齢から逆算すると1937年生まれあたり。順子さんは石堂中佐が37歳頃に生まれた子どもだと考えれば、年齢的にも辻褄が合うでしょう。

軍属の暮らす宿舎に、学校の先生をしていた石堂順子さんの祖父が、日本からわざわざ海をわたってやってきたのでしょう。立派な服装で訪れると「上官の父兄がやってきた」と大袈裟な歓待を受けてしまうので、仕事の邪魔にならないよう、敢えて近所の老人の素振りをして、粗末な身なりで宿舎を訪れた、というエピソードのどこにも、批判を受ける要素はありません。

……という情報は、調べればすぐに分かるはず。 その手間も惜しむ理由がわからない。

自衛隊トップにもバカは居る

なぜこんな人間が航空幕僚長という重責に就いていたのだろう? と不思議に思いましたが、案外、この手の卑しい品性の人間が、自衛隊のトップに多く生息しているのかもしれません。

自衛隊のトップレベルの方と会う機会は、あまりないでしょう。私の人生を振り返っても、お会いしたのは数度です。その内の一度は、私が19歳のときでした。

防衛大学を受験して、最終面接まで合格したあと、詫び状を書いて入学辞退をしたときのことです。その地方の自衛隊のトップだった人物の自宅に招かれて、こんこんと説教をされたうえで、執拗に防衛大学に勧誘されたことがあります。

居間に虎の皮が敷かれていて、随分と豪勢な家でした。ところが人物はそれに見合っているとは最後まで思えませんでした。3時間ほど食事をしながら歓談したのに、彼は最初から最後までカネのことしか言わないのです。

「地方だったら30代で、家をローン無しで一軒、建てることができる」
「俺の部下は北海道に、二軒の家を建てた」
「将来は安泰」
「かなりの財産も残せる」

「子どもだからカネのことを言えば納得するだろう」
と見くびっていたとしたら、子どもの気持ちをまったく分かっていないということで、指導者としては失格でしょう。子どもの心を動かしたいならば、カネではなく情熱でしょう。

日本のために尽くして欲しいとか、自分たちはこんなに頑張っているんだ、という具体的な話をしてもらえれば、単純な子供ですから、感動して防衛大学に入学したかもしれません。しかし徹頭徹尾、カネのことしか言われないのにあきれ果て、彼に会ったことすら後悔をしたのを、ふいに思い出しました。

私の乏しい人生経験の中で、ほとんど会うこともない自衛隊トップの人間が、たまたま若者にカネの話しかできない愚昧な人間だった、という可能性よりも、自衛隊トップの人間にはこの手の人間が大勢いる、と考えたほうがいいのかもしれません。

田母神俊雄も、航空幕僚長という経歴からもっと立派な人間を想像していましたが、ずいぶんと卑しい人物のようです。現代では昔と違って、品性に優れていようとも実務能力に劣る人間は出世しません。実務能力やコミュニケーション能力に優れていることと品性や教養とは別です。逆に言えば、出世した人間には随分と卑しい品性の持ち主もいる、ということでしょう。

それにこの方、支持者も右翼モドキやネトウヨばかりのご様子ですから、彼らにだいぶ毒されているという側面もあるのでしょう。また、Twitterなどは本人ではなくスタッフがおこなっているのでしょうから、スタッフに恵まれていないのかもしれませんし。

いずれにしても、彼には保守派を名乗らないでほしいものです。


2015年1月28日水曜日

イスラム国による日本人誘拐事件について

このブログでは一応、日々のニュースについての論評をおこなうと謳っている。

しかし、最近話題のイスラム国による日本人殺害予告事件については、今まで一度も触れてこなかった。

ここまでメディアが連日報道しているから、もちろん私の耳にも届いている。しかし、敢えて記事にしなかったのは、大騒ぎとなっているニュースについての論評は大手メディアにまかせて、自分のところのような個人ブログの一つや二つで扱わなくてもいいだろう、と思ったのと、イスラム国のプロパガンダにみすみす乗るのも癪に障るという、二つの理由からだった。

特に後者の理由が大きい。少し日本のメディアは騒ぎすぎではないだろうか。

我々が大騒ぎしても、彼らが釈放されることはない。我々が大騒ぎしていることは、先方にリアルタイムで伝わっているだろう。そうすると、騒ぐことで彼らに満足感を与えているだろう。

イスラム国という明白なテロ組織を利するような行為はおこなってはならないから、彼らに身代金を払うようなことは言語道断だ。同時に大騒ぎしてパニックになっている様子を相手に見せることもまた、利敵行為の一つだから極力避けるべきかと思う。

それに、今回の騒動で、イスラム国にシンパシーを感じる異常者が増えて、国内にイスラム国の拠点をつくろうという動きが加速するかもしれない。

昨日「人を殺してみたかった」という理由でお婆さんを殺した女子大生が逮捕されたように、犯罪行為や非道徳的な行為が大好きな人間というのはヤンキーに限らず社会の中には必ず発生する。イスラム国の存在や参加方法を彼らに知らしめることは、社会を不安定にする手段を彼らに与えるようなものだろう。 現に欧米諸国では、イスラム国の主張に賛同した大勢の10代の少年少女が刺激を求めてイスラム国へと馳せ参じて問題となっている。

だから騒ぐべきではない、と思うのだが、別の意見もあるのは確かだ。逆に騒がなければ、現在監禁中の後藤氏の利用価値がなくなったとみなしたイスラム国が、今すぐにでも後藤氏を殺すかもしれない。邪魔な人質をいつまでも生かしておくことは移動の妨げにもなり、証拠にもなるのでリスキーだからだ。私達が騒ぐことで、後藤氏の生命を保証するという意味合いがあるかもしれない。

報道しない、騒がないデメリットはまだある。彼らの行為を知らないと、彼らの跳梁跋扈を許して被害を拡大する可能性もある。私は昨年8月頃にこのブログで、彼らの残虐行為を撮影した動画を紹介した。あの場所ではこんなひどいことが行われていると、注意をうながす意味合いだからだが、そのときにはほとんど注目もされなかった。対岸の火事だからだろう。

中東の情勢はそれでも比較的知られているが、中南米も今、ひどい状態になっているのを知らない人が多い。中南米では麻薬が騒動の主原因だ。中東の宗教と中南米の麻薬(どちらも麻薬であると言えないこともないが)、この二つが現在世界で猛威をふるっていることを日本人はあまりに知らない。今回の件をもとに彼らの実態を広くしらしめる必要性は確かにある。


騒ぐメリットとデメリットを秤にかけて、行動することは難しいが、私は現段階では騒ぐ方がデメリットの方が大きいと思うので、これ以上書かない。

嫌がらせや脅迫を行なう組織へ、戦争等の積極的抵抗ができないならば、せめて消極的抵抗をおこなうべきだろう。それには無視をして、平然とした態度を見せ、彼らにおもねらず、あとは専門家にまかせて応援をする、というのが考えうる最善策だと思う。

実際、キルギスで起こった日本人誘拐事件では、その方法でうまくいき、日本人の解放につながっている。

ただ今回の事件では、マスコミは連日大騒ぎをして見せたけれども、ネット上では冷静な言論が飛び交い、これを政府攻撃に利用しようとした人々に対しては大きな反発が巻き起こるなど、日本人は総じてうまく対応しているように思う。

次に私達にできることは、その周辺諸国に早急に安定をもたらしてイスラム国を日干しにするよう地道な取り組むくらいだろうか。

目の前で苦しんでいる人がいるのに、何も出来ないのはつらい。だが、出来ないことに躍起になれば苦しむだけだ。今は我慢に耐えるべきだと、思う。


2015年1月26日月曜日

岡田斗司夫が異常にもてた理由とは

ここ数年でしょうか。

10代、20代の若者が喫茶店などで話しているのをなんとなく横で聞いていて、
「ずいぶんと、コミュニケーションを取るのが下手な人が増えたな」
とふと感じることが増えました。

仕事では、彼らと接点がありません。日常的に彼らを観察する機会がなく、印象論でしか語れないのが残念ですが、それでもその印象は、実態からそれほどズレていないはずです。

と言いきれますのも、私自身コミュニケーション能力が低く、苦労してきたため、なんといいましょうか、同種の人間を感じとるセンサーが発達しているからです。こう書くとなにやら超能力じみた力でもあるのか、と突っ込まれそうですが、そんなものではありません。

「同病相哀れむ」という言葉を思い浮かべた方がいるかもしれません。似た欠点を持つ人間にシンパシーを感じる力は、誰もが持つものです。それで、コミュニケーション能力に障害のある人――あまりいい言葉ではありませんが、「コミュ障」と呼ばれています――の存在にすぐに気づけるわけですが、若者の集団にコミュ障がいるな、と思う頻度が、ここ数年確実に増えました。

コミュニケーションで苦労している人間に会うと、かつての自分を思い出し、もどかしくなります。
(もう少し知識と経験と別の信念があれば、こんなふるまい方はしないのに)
この胸が苦しくなる感覚は、同じ苦労をしてきた者が共有するものかもしれません。

もちろん、私自身のコミュニケーション能力は今でもさほど高いものではありませんが、それでも年齢を重ね、経験値が蓄積されています。この場合にはこう言ってはいけない、こう言えば自分の言葉がこう曲解される、この場合にはこう行動しなければならない……知識が増えたせいで、随分と楽になりました。余裕があるからこそ、他人のことに気がつける、という側面もあるのでしょう。

コミュ障が増えた理由は、いったい何故だろう? と考えてみました。


若者になぜコミュ障が増えたのか?

私自身がコミュ障となった理由をふりかえってみますと、ちと特殊な経験からです。

父に転勤が多く、数年おきに友人関係を再構築しなければならなかったこと、母の束縛が大変強く、友人と遊ぶよりも家で勉強をするよう強要され、周囲から浮き上がっていたことなど、いくつもの原因が重なりました。それに、母が新興宗教にのめり込んでいたため、休日にそれ系の活動に駆り出されたことの悪影響も大きかったように思います。

つまり、意図せずして周囲の人間と濃密でまともな人間関係を築く機会が少なく、それを補うために読書へと逃げ、さらにコミュニケーションの機会を失うという悪循環からコミュ障となったわけです。

こんな経験をした人間は昔は少数派だったのでしょう。コミュ障はそもそも脳の作りが他人と異なっているという研究もなされていますが、最近はそうではない、という主張をなされる研究者もいるようで、意見はさまざま。私は、環境の影響も大きいと考えています。

20年ほど前から、人間のコミュニケーション能力、特に面と向かって話し合いながらお互いの意思疎通をおこなっていく能力を奪う環境が、増えてきました。

一つ目はゲームの存在です。

マクドナルド、あるいは公園などで小学生の集団を見かけますと、特に男の子はゲームに夢中になっています。お互いの目を見ながら会話するよりも、それぞれのゲーム画面をにらみながら会話してばかり。

たまに一人のゲーム機に面白いシーンが流れると、一斉に同じ画面をのぞきこみますが、そのときもお互いの顔を見て話すことはありません。このようなことを多感な時期に続けていては、相手の表情を読み取る能力は伸びないでしょう。

二つ目が体を動かして遊ぶ場所と機会の激減。

私の小中学生のころはまだ空き地が多く、しかも権利意識に乏しかった時代ですから、私有地であっても空き地ならば、入って缶蹴りをしたり虫捕りをしたりしても怒られることはほとんどありませんでした。ところが土地開発が進み、整備もされ、空き地が減り、減った空き地で遊べなくなりました。特に都市部では、子供たちが駆けまわって遊べる場所が減りました。

それに物騒な事件が多く報道されるようになり、子供たちを人気のないところで遊ばせることに躊躇する親が増えました。そのうえ、球技などの出来る公園は限られています。子どもの声が騒音だと難癖をつける人間も増えました。こうして外で遊ぶ機会は奪われていきました。

コンピューター経由ではない、対人関係を築く環境が激減したのです。


便利が能力を退化させる

そして三つ目、SNSの普及です。


日常的にパソコンやスマフォで文字入力をされていますと、久しぶりに手書きで文章を書こうとすると、漢字が思い出せなくて悩んだ経験がおありのはず。

人間の能力は、使えば伸びる代わりに、使わなければ退化します。便利になることはいいことばかりではなく、人間の能力減退も生み出します。それならば、コミュニケーション能力を補完するSNSというサービスのお陰で、逆に人間のコミュニケーション能力を退化させるのは当然と言えましょう。

Facebook、Instagram、Twitter、mixi……今の20代の若かりし頃は、「前略プロフィール」なんてものもありました。

これらSNSでは、これまでのような自己紹介が不要です。相手がどんな人間か、手探りで調べる必要がありません。日頃何をしているのか、尋ねる必要もありません。
「Facebook見てね」
「Twitterの過去ログを見れば、私が何に興味を持っているかわかると思うよ」
それだけで済んでしまいます。

イイねを押してもらえればつながっている安心感が生まれます。旅先の写真がアップされれば、わざわざ時間を見つけて、会って旅行の話を聞く必要もなくなります。

満足しているうちにコミュニケーション能力の一部は使われず成長させる機会も奪われ、リアルでのコミュ障が増える、というわけです。

……といったことを今つらつらと考えましたが、わざわざ私が書かなくても、誰でも思いつくことでしょう。「SNS コミュニケーション能力を奪う」という検索キーワードでググりますと、同じようなことを訴えている方々が大勢いました。

そのうえで本日の主題。社会評論家の「岡田斗司夫乱交事件」について、考えたのです。なぜ彼はそこまでもてたのだろうか、と。


岡田斗司夫がもてたワケ


彼は愛人遍歴を記した流出リストを「妄想がほとんど」と説明していますが、長年ネットをいじっていれば、彼の女性遍歴が妄想「だけ」なのかどうか分かります。自己顕示欲が肥大化した人間が、匿名のアカウントで他人にばれるかばれないかのギリギリのラインで何百回も投稿をしている内容がすべて嘘でしょうか? 私は彼の匿名告白は、8割型本当だと思っていいと考えています(もっとも、こんな意見もあるにはあるので、どちらを信じるかはあなた次第)。

彼の容姿はご存知のとおりですし、その上デブです。カネがある知識人だからといって、なぜあそこまでもてていたのか?

そこで、先ほどのコミュ障の増加ですよ。

近年、コミュニケーション能力を社会から問われることが多くなりました。それは以前ブログで書いた通り、IT化が進み、それでも人間にしか出来ないことを求めて追求された結果であるのでしょう。

ただ、それともう一つ、コミュニケーション能力に欠けた若者たちが社会に増えたために、入社してトラブルが多くなった、という側面もあるように思うのです。彼らがあまりに周囲とトラブルを起こすので、企業側が自衛策のために、コミュニケーション能力を事前に、入社前に若者たちに要求するようになったのではないでしょうか。

コミュニケーション能力を低下させる環境が増えたのに、社会は逆にコミュニケーション能力を求める。このアンビバレントな環境に挟まれた若者たちは高いストレスにさらされているはずです。

ストレスにはさまれた人々は、そこから逃れるために出口を探します。そこで、
「出口はこちらだよ!」
と指し示していたのがオタクの地位向上を目指していた岡田斗司夫らであり、彼らが異様にもてていた原因ではないでしょうか。

オタクには様々な定義がありまして、岡田斗司夫は、ある趣味に異常なこだわりを持つという面の方にフォーカスすることが多いのですが、若者たちが惹かれたのはそこではなくて、岡田斗司夫が余技的にやっていた社会性欠如フォローの方だったのでしょう。

社会性の欠如、コミュニケーション能力のなさを、
「いいんだよ、それでいいんだよ。これからの時代、それでいいんだよ」
と優しく包み込む彼の言動が、彼の講義を聴く大勢の若者たちの心をとらえたのではないでしょうか。


若者は悩んでいる

本来オタクについての専門家なるものはキワモノでして、日本における軍事評論家のような、
「たまに出てきて非常事態について説明してくれる人」
程度の存在だったはず。ところが若者の中でコミュ障が大きな割合を占めるようになったために、いつの間にか彼らは若者の間で大きく評価されてきてしまったのではないか、と。

だから彼が80人もの女性と同時並行で付き合い続けられるほど、次から次へと20代の(ときには10代の)若者たちが彼に群がったのではないでしょうか。

今は少子高齢化時代でして、数が少なくカネもないために、若年層の嗜好性が市場の中で軽視されがちなきらいがあります。かわいそうに、彼らの存在感は小さく、目立ちません。

しかし彼らの中で、コミュニケーションについて悩んでいる人々は、中高年の人々が考えているよりももっと、もっと多いのではないでしょうか。その悩みを救い取れる専門家は、案外少ないのではないでしょうか。

岡田斗司夫は期せずして、そこにつけこむことができた、ということなのでしょう。


2015年1月24日土曜日

裁判所の前でスピーカーで訴えている人に話しかけてみた

知人が雇用問題でもめています。彼になにか助けになれないかと思いまして、代休のとれた平日に、東京地方裁判所に傍聴に行ってきました。

私が傍聴したのは、527号法廷で行われている裁判。「未払賃金支払請求事件」の証人尋問です。医療法人社団T会とU氏との間で争われている事件のようでした。知人の助けになるような知識は得られませんでしたが、面白く、裁判に抵抗感がなくなりました。これから裁判を考えている方、度胸をつけるためにも傍聴はお勧めですよ。

さて、傍聴を終えて東京地方裁判所の門を出ると、スピーカーで司法制度の不当性を訴えている方がいらっしゃいます。それに興味を持ちました。

手渡しされたビラを見ますと、
「集団ストーカー犯罪にご注意を!」
と題され、個人を組織ぐるみで追い込む手口などが書かれています。

たしかにこういうの、実際にあるんですよね。

★ オリンパス敗訴で明らかになった女弁護士のブラック過ぎる手口
★ オリンパス事件は氷山の一角 現役産業医が語る「リアルでブラックなクビ切り術」
悪質な企業では、会社にとって都合のよくない社員に対して『精神的なケアをする』との名目で、会社お抱えの産業医に診断をさせるんです。この産業医が会社とグルで、その社員を『君は精神分裂症だ』『重度のウツなので治療が必要』などと診断し、精神病院へ措置入院させたり、合法的に解雇してしまい、事実が隠蔽されてしまう。
ひどい話です。

もしもビラを配っているこの人が、このような不当な目に遭っていたというのならば話を聞いてみたいと思いました。

でも、統合失調症を患っている方である可能性もあります。集団ストーカーに襲われている、と思い込んでいる統合失調症の患者さんは案外多く、ネット上に多数の動画がアップされていますが、残念ながらほとんどは、彼らの妄想です。

★ 【集団ストーカー】駅前、車内のつきまとい

(この人が精神障害者だったら、話を聞いても無駄だな……)
と思いながら彼の風体を眺めていました。特に服装にだらしなさはなく、挙動不審な様子もありません。

そこで、思い切って話しかけてみました。少し話せますか? と断ったうえで、単刀直入に、
「失礼ですが、精神病院への通院歴はございますか?」
とね。

もう、面倒臭かったんですよ。たしかに大変失礼な物言いです。話は聞きたいけれども時間の無駄は嫌だ、というワガママな思いが、こんな直截な言い方になってしまいました。

それに、いきなりこんなことを聞いたら怒られたり殴られるたりするかもしれないけれども、裁判所の前だからすぐに警察が飛んできてくれる、命の危険もないだろう、という姑息な計算もありました。

ところが、私の大変失礼な質問に対して、ビラ主は怒らず、淡々と、
「いいえ。通院歴はありませんよ。頭がおかしいと思われること、多いんですけどね。集団ストーカーは事実です」
と答えてくれます。

ああ、これはまともな人だな、と最初は思いました。

そこで、興味がずずっと湧きまして、これまでどんな嫌がらせを受けたのか、うかがってみたのです。

彼が集団ストーカーされたのは、S価学会。その職場にはS価学会の会員が多く、ビラ主が勧誘されたのに入会しないのに腹を立てられて、集団で嫌がらせを始められた、というのです。その一環として、盗聴されたのだ、と。

彼らは盗聴をする、と。そして、それを司法に訴えても、司法がまともに取り合ってくれないと。S価学会は司法と裏で取引をしているせいである、と。だから、ここで訴えているのだ……と。なるほど、なるほど。

彼らが通話記録などを盗み出してたことなどは、裁判でも判決として出ているので事実でしょう。

★ 創価学会幹部(当時)らに賠償命令 東京地裁 ドコモの責任も認定

しかし、この眼前の男性の証言が本当だとは限りません。そこで、突っ込んで尋ねてみました。

「あなたは、盗聴器を発見したのですね? それはいつごろでしょうか?」
私の質問に、彼は答えました。
「いえ、残念ながら盗聴器は見たことがありません」

……えっ?

「盗聴器がみつからないのに、なぜ自分が盗聴されていると確信されたのですか?」
「私しか知らないはずの家庭内の会話を、彼らが知っていたからです」

……私の頭の中のアラームが鳴り始めました。

「それだけですか?」

私の疑問に、いや違います。盗聴しているところを見たことがあります、とビラ主は言います。なんだよ、早く言ってくれよ、と思いながらどんな方法か尋ねると、彼は明快に答えてくれました。

「自衛隊の飛行機が、空から盗聴するのです」
「……空から?」
「私が家のドアを開けると、空の上を自衛隊の飛行機が飛んでいたことがありました。彼らは空から指向性のマイクを向けて、私の会話を盗聴していたのです!」
「……ほう」
「それだけじゃなく、私が床をドンと叩くと、それが隣の人間に聞こえているのです。彼は盗聴していたに違いありません!」




……私は、そっとその場を離れました。




2015年1月20日火曜日

岡田斗司夫が大阪芸大の生徒を餌食にしたとしたら、許されるのか?

岡田斗司夫という社会評論家がいる。

快挙!我らがオタキンング岡田斗司夫氏が報ステのゲストコメンテーターで登場 より
「エヴァンゲリオン」で有名なガイナックスの創業者の一人であり、アニメやマンガと社会との関係性などを、柔軟に解き明かす語り口に人気がある。現在は大阪芸術大学の客員教授を勤めている。

「評価経済社会」なる用語や欲求特性を定量的に4つに分類(王様型、軍人型、職人型、学者型)する手法などでも名高く、独自の社会評論にもファンが多い。それに漫談のような語り口も面白い。

ところが昔から女性関係にだらしなくて、東京に移住してガイナックスを設立したのも、不倫関係が発覚して大阪にいづらくなったためだそうだし(……とWikipediaに書かれています)、妻と離婚したのも新時代の人間関係を模索した結果だそうだが、まあ、いろいろあったのだろう。

で、現在56歳のこの人物と20代女性とのプリクラキス写真が流出して大きな話題となっている。

この話題をまつたけのブログ岡田斗司夫が愛人のニセ写真発言を撤回した件」で知ったのだけれども、まあ、独身だしそれくらいいいやんけ、外聞も悪いから「写真は嘘だ」と慌てるくらい可愛いもんだと思いながら構えていたら、なんとこの男、80股もしていたことを自分から告白しやがった。

★ 岡田斗司夫、流出キス写真は本物 過去の驚愕「80股!」も告白 
「言いにくい話なんですけども、実は現在、Aさん(編注:プリクラの女性)を含めて彼女さんが9人います」と告白し、過去には80人ぐらいの女性と同時に交際していたことも明かした。今後はこういったことをオープンにしていくという。
そして、「家族形態、人間のつながりを考える話だと思っています。就職というのが終わっているように恋愛というのが終わっていて、その代わりに、つながりというのが僕らの間で今後数十年のキーワードになるのではないかと思っています」と持論を展開した。
80股ってどうなんだ? 単に仕事上で知り合った女性をナンパしただけならば、80人とそういう行為をした、というだけになるが、同時並行でつきあっていたとなると、仕事関係だけじゃなかろう。仕事を持っている女性と一緒に過ごす時間を見つけるのは難しいし、自尊心が高くて自立した女性は、少ししか逢えない浮気症の男にそうそうひっかかるまい。どういう仕組だろうと思っていたら、彼が昔Twitterの偽アカウントで告白していたというツイートをまとめた記事が、現れた。

★ https://archive.today/8dHh0
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△東大(30歳)
☆アテナ映像(30歳)
▼南極2号(31歳)大阪
☆マンガ(23歳)
☆アニメ(21歳)
●雌犬(27歳)大阪◎
☆まゆたん(29歳)
☆司法試験(27歳)
☆くびれ(32歳)
☆Hカップ(23歳)大阪
●カレー(26歳)◎
aijin @aijin81  ·  4h 4 hours ago
☆和美(元妻・48歳)
☆ナオミ(同棲・28歳)
○メイド(21歳)
△芸大一号(20歳)大阪
○芸大2号(20歳)大阪
☆ヒサコ(30歳)
○超ファラオ(24歳)
●由布子(27歳)
☆看護婦(29歳)
○おばさん(49歳)
☆薬屋(37歳)◎
問題は、彼が講師を勤める大阪芸大生の女子生徒たちを愛人としているらしき記述があることだ。
 aijin @aijin81  ·  3h 3 hours ago
里奈は彼氏が大阪に来てるので、深夜1時までに帰して、そのまま一人の夜を満喫。翌朝8時に芸大2号・涼子が朝立ち●●●●をしに来てくれます。午後から東京に帰るか、芸大1号・花衣を呼び出して抱くかは考え中です。
(●●●●は私が伏せ字にした)
そこには芸大生をナンバリングして男女行為に及んでいたことなどが記されている。騒動を受けて、現在このアカウントは削除されている。本物じゃないならば、騒動とは無関係であり、アカウントを削除する必要はないと思うのだが、どうだろう?

上のTwitterでは、キム先生という恋愛カンセラーに離婚相談をした女性を紹介してもらったとも書かれているが、ことの詳細は不明。

★ 岡田斗司夫が大阪芸大の生徒を食いまくってることが判明

上記記事では、岡田斗司夫がネット上に挙げていた写真と、愛人リストの突き合わせ作業などが進んでいる。

私が腹をたてているのは、彼が愛人を何人も作っていたことじゃない。ネット上の噂が本物だとしたらの話ではあるけれども、教師と学生という上下関係を利用して男女関係に持ち込んだり、離婚相談をおこなう精神的に落ち込んだ女性を口説いたりする卑怯な手口だ。

大学生はたしかに、大人の部類に入るだろう。だが、まだ社会経験のない弱者だ。講師ならば、多数の女性生徒と日常的に触れ合うことが出来る。何百人という女生徒がいれば、自分に興味を持つ女性を物色することは可能だろうし、上下関係があるから精神的に優位に口説くことも出来るだろう。

責任をとって結婚するならば、まだいいのだ。恋愛関係に陥るのも、大丈夫だろう。だが、責任を取らずに情欲のおもむくままにこうした行為を行なって、それが新しい人間関係だと吹聴する人間を、私は軽蔑する。

それに、大学に生徒を預けている親御さんの身にもなってほしい。学内で守られていると思うから預けているのだろう。生徒間の恋愛ならば、その後の発展性もあるから許せるだろう。だが、責任を取らずに社会人としての悪知恵を働かせる講師に口説かれることまでも許してはいないだろう。

私はこの記事で、事実無根かもしれない怪情報を流す意図はまったくない。

しかし、彼が何十人という女性と同時期に男女関係を告白したことは事実であり、日頃から結婚に縛られない人間関係を吹聴していたことも事実だ。何十人もの女性と同時につきあう行為は、何らかの地位を利用しなければ困難であり、その頃に彼が、大阪芸大の講師であり、生徒とつきあっていた事実が実際に確認できたならば、彼が己の立場を利用してほかの多数の女性を利用して、その上、責任を取っていない可能性が高くなるだろう。

彼にはぜひ、釈明を求めたい。大学もぜひ、彼に釈明を求めるべきだろう。

そもそも新しい人間関係もへったくれもあるか。

動物である人間は技術のように大きく変化はしない。美しいものを見れば感動するし、好きな人といれば楽しい。愛する人がいれば独占したいと思うし、別れれば寂しいと思う。愛しい人を殺したいと思うような精神に異常をきたした人間は、突然変異のようにどうしても現れるけれども、それはあくまで例外だ。

大多数の人間の感情が変わらない以上、時代が変わっても変わらないものがある。カネと社会的地位、そして高い知能を利用して、精神的知識的に劣った、弱い立場の人間を利用しつくして、責任を取らずに捨てる行為を行なう人間はいつの時代もいた。そういう人間は必ず、
「新しい時代がやって来た。これからは新しい人間関係が僕達の間には必要だ」
と説く。これは詐欺師のテクニックだ。

そういう無責任な行為が、いつまでも許されると思うなよ。



※1/21追記
昨日岡田斗司夫のホームページで、上記のhttps://archive.today/8dHh0の愛人リストを載せたTwitterのアカウントを、自分のものだと岡田御大が告白している。

★ お詫び 岡田斗司夫なう
今回インターネットに流出している、私と関係をもったとされる女性のリストですが、ほとんどは私が、仕事で会っただけの女性に対する妄想を書いたものです。
ほとんどは実在の人物を元にした創作であり、そのような事実もないのに、名前を出されてしまった方々に心からお詫びします。
これは予想外だった。妄想だと釈明するのはしょうがないとしても(相手の女性の立場もあるから)、@aijin81のアカウントは他人のなりすましだと言いはると思っていた。それを自分のものだとこんな短期間に認めることなど、完全に予想の範囲外。

おお、そこまで自分をさらけだすか、と少々私の怒りはトーンダウンしている。

2015年1月18日日曜日

米田哲也など野球のレジェンドはなぜ老害となるのか?

野球界の伝説の名投手たちがあつまって、座談会が開かれましたが、そのタイトルがなかなか刺激的です。

★ 球界勝利数トップ3「投げすぎで投手の肩は壊れぬ」で意見一致

いずれも投手として一流で、しかも1日300球を平気で投げ、身体を壊すことなく引退したものですから、最近の投手に無理をさせない風潮が、歯がゆくて仕方がないようです。
──故障しなかったのは投げ込んだから?

小山:そう。投げすぎで壊れるわけがない。実際日本で一番投げている我々は壊れてない。そしてそれ以前に大事なのは、カネさんじゃないけど、投げ込める体を作るために走ったから。プロに入ってからはとにかく「走れ走れ」「投げろ投げろ」でしたね。これは財産になったと思う。
不思議な話です。彼らの同時代にも、杉浦忠や稲尾和久、権藤博といった、肩を酷使しして引退していった名投手たちが数多くいました。彼らのことを、金田正一、米田哲也、小山正明のお三方は覚えていないのでしょうか?

ちなみに、上記の座談会で小山氏が、
だから僕は「なんで投げ込ませてコントロールを身に付けさせないんだ」というと、あるバカな指導者は「肩は消耗品ですから」という。野球に9つあるポジションで唯一球を投げることが仕事の投手が、球を投げたらアカンてどうするのと。
と語っているのは、権藤氏が監督として横浜ベイスターズを率いていたときのことでしょう。「肩は消耗品」は権藤氏の持論。小山氏は横浜ベイスターズの元となった大洋ホエールズの出身ですから、OBとして意見を述べた可能性が高いです。

しかし、権藤氏、科学的な理論を取り入れた指導により、投手からの信頼が厚く、監督就任一年目でベイスターズを優勝させていますから、権藤氏から否定されても、小山氏は言い返せなかったはずです。

金田正一、米田哲也、小山正明の三人の肩が壊れなかったのは、たまたまでしょう。

たとえばボクサーでも、パンチドランカーになる人とならない人がいます。パンチドランカーとは、頭を殴られすぎたボクサーに出る症状で、ろれつが回らなくなったり記憶に障害が出たりするというもの。
これも、ならない人はなりません。しかし、頭部打撲の危険性は分かりやすいので、
「殴られすぎで壊れるわけがない。実際日本で一番殴られている我々は壊れてない」
と主張するボクサーはいませんし、いても馬鹿にされるだけでしょう。

150キロもの速度でボールを何度も投げれば、肩や肘に負担をかけないはずがないのです。それを「ない」と言い切る小山氏の神経を疑います。

「老害」という言葉があります。私はこの言葉が嫌いです。なぜ年を取っただけで害だと言われねばならないのか。「女害」「若害」という言葉がないのに、なぜ老人だけが狙い撃ちにされねばならないのか。不条理なものを感じるからです。

しかし、たしかに小山氏らのような存在は老害です。彼らは幾人もの落伍者を見てきたはずです。一生懸命走りこんでも肩を壊した人々のことも、何十年も野球界にいたのですから知っているはずです。ところが、彼らの頭からは、落伍者の記憶はすっぽり抜け落ち、主観的な印象しか残っていません。

記憶の怖いところです。記憶は感動して「こころ」で覚えたものはいつまでも残りますが、データとして「あたま」で覚えたものを忘れていきます。彼らは自分の成功体験を感動とともに記憶したものの、落伍者の失敗体験は冷笑して眺めていたのに違いありません。

落伍者に余計な憐憫の念を抱かないというのは、成功者に必要な素質の一つかもしれません。しかし、年をとるとそれがこのような形で現れ、客観的な判断ができなくなり、結果老害となってしまうのでしょう。それが老いるということなのでしょう。

そうはなりたくないものです。年をとってもいつまでも若々しくいたい。そのためには、客観的なデータをもとにものを考える人間でいたいものです。


2015年1月16日金曜日

西野カナは欲求不満かも

平安時代に詠まれた和歌では、「あう」という言葉がよく出てきます。
あふことの たえてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし ……中納言朝忠
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あうこともがな ……和泉式部 
これを小学校や中学校の国語の時間では、
「会って話せない寂しい気持ちを詠んでいます」
としか習っていないはずですが、実は平安時代の「あう」(=逢う)とは、男女間の性行為を指す隠語だったって、知っていましたか?

夜に会ってすることは決まっていた

もちろん、古語にも性行為をあらわす言葉があります。「まぐわう」というものがそれです。しかし、これはとても直接的な言葉。上品な歌を詠むという行為に際して、こんな下品な言葉を使うわけにはいきません。

そこで「逢う」という言葉が隠語として選ばれました。
「逢いたい」
という言葉を聞けば、夜の営みを想像するのが、あの時代の大人の常識となっていたわけです。そう知って和歌を眺めると、いろいろな妄想が湧き出してきそうですね。

日本の歌は昔から会いたがっている

そこで思い出したのが、以下の有名なあのコピペ。
会いたいく会いたくて震えるのが西野カナ
会えないから会いたいのが沢田知可子
会いたいくて会えないから私だけを見てほしいのが加藤ミリヤ
会いたくて会えなくて長すぎる夜に光を探してるのがGLAY
会いたいから会えない夜にはあなたを思うほど Uh UhするのもGLAY
会いたくて会えなくて揺れまどうけれど目覚めた翼は消せないのがラルク
会いたくて会えなくて唇噛み締めるのがEXILE
会いたくて会いたくて涙が止まらない夜なのが岡本真夜
会いたくて会いたくて素直な自分でいつもいられないのがLINDBERG
会いたくて会いたくて眠れぬ夜にあなたのぬくもりを思い出すのが松田聖子
会いたくて会いたくて言葉にできないのが小田和正
別に会う必要なんてないのが宇多田
日本の歌はとにかく、会いたい会いたい、と歌う歌が多すぎる、ということを揶揄するコピペです。

ただ、宇多田はその点サバサバしていて、「会う必要なんてないよ」とバッサリと甘い気持ちを断ち切ってしまうところがさすが、ですね。うまいオチになっています。

さて……もちろん、字面だけ眺めればただ、「会いたい」と言っているだけ。でも、恋する男女が夜に会ってすることなんて古今東西同じ。政治について語り合いたくて「会いたい」わけではないはずです!! そうしますと、彼ら歌い手の情念が、見えて来る気がしませんでしょうか。

それに、彼らも歌詠み。日本語を洗練させるために、陰で努力をしていらっしゃる方が多くて、意外に和歌について一生懸命勉強している方がシンガーソングライターには多いんですよ。

彼らのほとんどが、歌に込められた「会う」の隠された意味を知って、使っているとしたら?

……彼らへの見方が、変わりそうですね。

西野カナの会いたい率は異常

その中でもダントツに会いたがっているのが、西野カナ。
『君に会いたくなるから』   ♪会いたかった~君に会いたくなるから~いつか会おう
『遠くても』           ♪会いたくて会えなくて~会いたいの私だけなの?
『会いたくて 会いたくて』  ♪会いたくて 会いたくて 震える~
『love & smile』        ♪君の笑顔に会いたいから~会えない日も見守って
『もっと…』          ♪今すぐ会いたい~今日も会えないの?いつ会えるの?
『celtic』            ♪週末会いに行くね~会えない時会いたいよ~
『September 1st』      ♪またバイトなの?いつ会えるの?
『ONE WAY LOVE』     ♪やっと会える
『Yami Yami Day』      ♪『ゴメン今日やっぱ会えない』
『Dear…』           ♪すぐに会いたくて~会えない時間にも愛しすぎて
『LOVE IS BLIND』     ♪考えてたらもう会いたいよ やっと会えたのはいいけど
早く会いに行けよ、と彼女の歌詞にはよく突っ込みが入ります。

失礼ですが、彼女に和歌の教養があるようには見えませんが……もしかしたら無意識のうちに日本の伝統にのっとっているのかも?

そして、「会いたい」が男女の営みのことだと彼女は直感で理解しながら歌詞に多用しているとしたら?

会いたいのにいつまでも会えない西野カナさんは、そうとうの欲求不満……なのかも知れません!?




2015年1月14日水曜日

高倉健の愛読書『男としての人生』の最初の部分の概要と感想 3

一昨日に引き続き、木村久邇典著『男としての人生』の内容の紹介と感想です。このネタは今日でおしまいです。

「第3章 男の賭け」の概要

この章で取り上げられた「男」は、『赤ひげ診療譚』の語り手である保本登(やすもとのぼる)と、彼の目を通して語られる赤ひげ・新出 去定(にいで きょじょう)です。例によって章の10ページのうち『赤ひげ診療譚』のあらすじで4ページが費やされています。

『赤ひげ診療譚』 は有名な作品ですので、ご存じの方も多いでしょう。江戸時代、エリート医師の卵が、貧民街で地道に活動する医師のもとで修行を積むうちに、真実の医師道に目覚める物語です。

山本周五郎は反権力志向が強い作家で、宮本武蔵などの歴史上の英雄・豪傑を否定すべきもの・唾棄すべきものとして描きました。そんな山本が、英雄・豪傑を裏返して描いた巷のスーパーマンが新出去定です。『男としての人生』の著者木村は、赤ひげをいつの世にも実在する隣人だと述べています。
『赤ひげ診療譚』の主題――貧困と病苦とに立ち向かうという事業は、人間にとってしょせんは"徒労"に属することなのかもしれない。しかも去定は、その徒労に己を賭けて生きる。徒労の積み重ねの中から希望の萌芽を捜し出そうとする。

また木村は、山本周五郎は、徒労に賭けた男の生き様を称揚し、不条理と闘う市井の人々を賛美していると説きます。

なぜ山本が、徒労だと分かっていてもそれに専念する人々を賛美するのか? それは、世の中では成功する人よりも無駄な人生を歩む人々が圧倒的に多く、それでも真面目に誇りをもって仕事をする大多数の無名の人々によって、この社会は支えられている、という諦観が山本にあったからのようです。



「第4章 男の宥(ゆる)し」の概要


この章では、『藪の陰』と、『ちくしょう谷』という作品の2編が取り上げられます。14ページの章のうち、作品のあらすじに10ページが費やされていました。

まずは『藪の陰』から。

婚礼の日に、藩の財産管理を任されていた安倍休之助は腹部に大怪我を負わされますが、誰に襲われたのか、なぜ襲われたのか、決して語ろうとしません。

どうやらその背景に、藩の公金横領があったらしい、という噂が流れます。

安倍の妻になったばかりの由紀は、実家から離縁を勧められますが、由紀は、
「一度嫁いだ身だから実家には戻りません」
と言いはり、結婚生活を続けることを選択しました。

由紀は勝ち気な性格であり、実家に頼らず、また嫁ぎ先に心配をかけないために、琴の師匠として出稽古に赴いて家計を支えながら、姑にもそのことを内緒にします。そのために姑から疎まれたりします。

報われない苦労を思い、由紀は悲しくて涙をながすのですが、偶然、婚礼の日の夫の重症の真相を知りました。夫と犯人の瀬沼が、夫の部屋で密談をしているのを偶然聞いてしまったからです。

米の投機に手を出して公金を横領した瀬沼が、安倍に罪がバレたことを知り、安倍に闇討ちを仕掛けたのです。安倍はすべてを知りながら、 黙って損失の埋め合わせを行い、ひたすら瀬沼が立ち直ることを願いました。やがて瀬沼は改悛し、懺悔のために安倍のもとを訪れたのでした。安倍は瀬沼のために酒をふるまいたいと、妻に声をかけるのです。

由紀は酒を買いに出かけながら、「人はこんなにも深い心で生きられるものだろうか」と思い、かつて人生を悔やんだ自分を恥ずかしく思う……こういう話です。

次に『ちくしょう谷』。人間が人間をどこまで許せるのかを描いた作品です。

朝田織部は、公金横領が露見することを恐れた西沢半四郎と決闘して殺されました。

織部の弟である朝田隼人は、数日前に兄から、西沢を破滅させずに済む方法を相談する手紙をもらっていました。兄が西沢の罪を許していたように西沢を許そうと考えた隼人は、同時に貧しい人々の教化に尽くすことを決意して「畜生谷」と呼ばれる流人村へと赴任します。

昔、藩の犯罪人である「流人(るにん)」を閉じ込めていた陸の孤島である畜生谷は、今は犯罪者の留置所ではなくなったものの、その子孫が暮らす治安の悪い場所でした。血縁の濃い婚姻を繰り返したせいで障害者が多く、藩に反抗的。

隼人はその中で、人々の教化にいそしみます。ところが同じくこの地方の役人となっていた西沢から命をつけ狙われます。それどころか西沢は、障害者の娘を犯して殺すなどといった狼藉を働きます。

そんな折、村の桟道が崩れたために修理に向かった隼人は、西沢から何度目かの襲撃を受けました。ところが西沢は、はずみで逆に命を落としそうになり、隼人に救われました。ようやく罪を悔やんだ西沢は、隼人に忠誠を誓う、という物語です。

山本周五郎の持論によれば、人間が人間をいったんゆるしたならば、際限なくゆるすべきであり、適度なところで一線を画すという許し方は偽善にすぎない、というものでした。それを具体化したのが『ちくしょう谷』で、原稿用紙百数十枚の中編であるにも関わらず、脱稿までに4ヶ月を要したそうです。

私の感想

『男としての人生』全体を通しての感想です。

私、高倉健をカッコイイと思っていたものですから、彼の愛読書があるときいて勇んで探し求め、ようやくこの本を読んだわけですが、感動するどころか、逆に高倉健に対する評価が下がることとなりました。ああ、これが彼の目指していた境地なのか、と。

もともと、山本周五郎の作品に一時期はまっていたのに、私はあるときを境に、彼の作品から離れました。山本の主張に共感できなくなったからです。

山本の描く人々の姿は確かに美しく思えます。見事だと思えます。しかし、なにか受動的な身勝手さを感じるのです。

たとえば、『ちくしょう谷』では、兄を殺した男を徹底的に許す朝田隼人の姿を描いていますが、結果的に朝田が西沢の罪を見逃したせいで、障害者の娘は惨殺されています。他人を間接的に殺したのと同然です。

西沢は朝田を殺そうとして偶然足をすべらせて危険に陥り、それを朝田に救われて改心しましたが、こんな偶然がなければ決して西沢は悔い改めずに罪を重ねたことでしょう。

『藪の陰』では、偶然夫と瀬沼の会話を聞かなければ、夫の善行を妻は知ることはありませんでした。

善行を誰にも告げずに黙って行ない、ときにそのまま死ぬことすらある人々の良さを、誰かに発見される、というのが山本周五郎の描く人物たちのパターンです。また、悪人の罪を暴き立てるのではなく、自分が悪者となって彼の罪をかばいながら改悛を待つ行為を山本は賞賛します。しかし、それって運任せですよね。

主体的な悪に対して、受動的な善。時間をかけて、善が悪を包み込む。それは一見美しくはありますが、植物的で弱々しい。それに、システムを変えるのではなく、システムの悪いところを温存したまま、自分が頑張ればいつか悪人も立ち直るだろうし、そんな自分を誰かが分かってくれるだろう、という態度は無責任で、必ず結果を出そう、という意思も感じられません。社会を良くしようと動くのではなく、自分が我慢すればいいとあきらめる人々を賞賛しているのでしょうか。

こういう主張が嫌いで、私、山本周五郎の本を読まなくなったんですよね。それを今、思い出しました。

価値観の問題なので、美しい男の生き方をお前は理解していない、と私をお叱りになる方もいらっしゃることでしょう。

また、山本周五郎の良さがお前にはわからないだけだ、とおっしゃる方もいるでしょう。そうかもしれません(いずれ私も考えが変わるかもしれません)。 でも、今はそのときじゃありません。
戦後になってからだが、山本周五郎が『樅の木は残った』で、原田甲斐を"忠臣"として描いたことについて、封建社会で、藩家のために一身を犠牲にする忠義が賛美されている、と論難した"進歩的"批評者がいた。
山本周五郎は直接かれに、それではあなたは、日本に封建社会があったこと、封建社会に生きていた人々の思考態度や、生活態度を、すべて時代おくれのものとして笑殺されるのか――と反論したのを覚えている。
日本に封建時代という時期があったのは、なんびとも否定できぬ歴史的事実なのである。そうした事実を踏まえたうえで、当時の武士や農民や商人が、どのように 人間として誠実に生きようとしたかを、山本周五郎は小説世界のなかで追求しつづけた。(第9章 男の宮仕え『男としての人生』より)
たしかに、封建社会は日本の歴史の一部です。それを否定するつもりはありません。しかし、現代社会に生きる我々は、前時代で評価されてきた生き方をそのまま称揚するよりも、その時代であっても現代に通じる価値観で生きてきた人々を称揚するべきです。それは人類に普遍的な価値観を手にしたと信じる私達の務めのように思います。

そうしますと、悪役となって不満分子を粛清することで、伊達藩存続を勝ち得た原田を賞賛する気持ちに、どうしてもなれないんですよね。

2015年1月12日月曜日

高倉健の愛読書『男としての人生』の最初の部分の概要と感想 2

一昨日に引き続き、高倉健の愛読書『男としての人生』の概要について、書きます……が、15章まであるので、すべてについて説明するのは長すぎるでしょう。

よって、この本について紹介するのは第4章までとします。本日は2章まで。次回、第3章と第4章について紹介をする予定です。



第2章 男の見切り

章のタイトルに「見切り」とつけられているものの、この章で取り上げられた山本周五郎の作品『虚空遍歴』の主人公は、見切ることの出来なかった人間です。
けれどもおれは、自分の浄瑠璃にみきりをつけたことだけは、一度もなかった。誰に悪口を言われ、けなしつけられ、笑われても、自分の浄瑠璃に絶望したことは決してなかった。
という『虚空遍歴』の中の一文が冒頭で紹介されていまず。主人公である中藤冲也は理想の浄瑠璃の創作のために武士の身分を捨て、芸人として身を立てようとして、夢を果たせずに死んだ人物です。

『男としての人生』の著者の木村は、18ページの章のうち作品説明に8ページを費やしています。作品を読んだことのない者にとってはありがたい構成です。

端唄で江戸を魅了した中藤は、浄瑠璃第一曲を中村座で演じてもらい、大成功をおさめます。ところが後になって、その成功が妻の実家である料亭「岡本」のお陰だったためだと知ります。

中藤は本当の実力を試してくて、妻から離れ、上方へと上ります。ところがことごとく失敗、そして失意の底で死んでしまう、というのが『虚空遍歴』のあらすじです。

「ぼくは、新しい小説に取りかかるとき、いつも遺書をかくつもりで机に向かう」という山本周五郎の口癖を紹介した上で、著者の木村は『虚空遍歴』こそが山本の遺書にもっとも近いと断言します。

昭和36年(1961)から38年に書かれた『虚空遍歴』のあとにも、『さぶ』などの有名な長編小説をいくつも山本は発表しています。しかし木村によれば、それらは完熟度は高いけれども、山本周五郎の味である、ねちっこい(いい意味での)脂っこさが抜けているそうです。

『虚空遍歴』が山本周五郎の遺作にふさわしい理由として木村は、山本の持ち味が生かされていること以外に、彼の人生と作品の主人公の姿が重なっていることも挙げています。偶然でしょうが、山本の逝去の様子は、中藤と同じ冬の雪の降る朝であり、その前後の様子は『虚空遍歴』の主人公である中藤の逝去の姿そのままだったそうです。

『虚空遍歴』の主人公の死因は、持病(肺疾患)の悪化です。作曲に行き詰まり吐血しながら、
「真っ暗だ。どっちを向いても真っ暗だ。なに一つ見えない、どこかで道に迷ったんだな」
と呟いて死んでいきます。

愛人・おけいに看取られながら亡くなった後、江戸から三日後にやってきた妻は枕頭で、おけいの唄う中藤最後の端唄を聞きながら、
「いい唄だわ――でもこうなってみると、しょせんうちの人は端唄作者だったのね」
と言い、それに対しておけいは、妻からも理解されない中藤をいたみ、自分だけが中藤の理解者だったと悟って、この作品は終わるのです。

『虚空遍歴』のモデルは、アメリカの作曲家・フォスターの生涯だそうです。山本は『青べか物語』で「わたくしのフォスター伝」と名づけた章を設けてフォスターを描くつもりだったそうです。その計画を変更して、本格的な長編小説として再構成したのが、この『虚空遍歴』でした。

中藤が新婚後に妻を残して上方に向かったのは、フォスターが妻子と別れてニューヨークへ向かったことを下敷きにしています。いずれにしても、自分勝手な個人主義ではありますが、、
だが、自分が好ましいと感じたひとつの仕事に生命を賭けてまで忠実であろうとすれば、あくまで仕事が第一であって、妻子などは二の次三の次の小さな問題にしかすぎないのである。
と木村は自論を展開します。仕事も家庭も両立する人生を「二股膏薬的な処世」と木村は断罪するのです(この辺りから私は、『男としての人生』の著者木村の考え方にも、彼が賞賛する山本周五郎の価値観にも同意できなくなってきました)。

山本周五郎の仕事観は、『虚空遍歴』の主人公らと同様の厳しいものだったようです。
山本周五郎自身も、きよ以前夫人(昭和20年死去)と結婚したときから、起居する家と仕事場を別にするという生活様式をとり、昭和23年からは自宅から2キロ余りはなれた旅館で原稿を書き継いだ。晩年には眼と鼻のさきの本宅にさえ帰るのもまれという独居の生活に入った。

山本は短編小説の名手だったけれども、読切り連載などの制約を一切とらない本格長編小説を描きたいという希望を抱き続け、その結晶が『虚空遍歴』だったそうです。端唄で実力を認められながら浄瑠璃作曲で世に認められたいと願った中藤と、似通っているではありませんか。最期まで自分の才能に見切りをつけずに可能性を模索しようとした気魄に感動してやまないと、木村は中藤や山本を賞賛します。

第二章では、もう二つの作品が紹介されます。『栄花物語』と『正雪記』です。このに作品もまた、己の才能を死ぬ間際まで見限らなかった主人公を描いています。

彼らは門地・門閥を持たなかったために、若いころに屈辱を味わいます。
とくに印象的なのは、紀州侯のまえで講義を行う(由比)正雪の面体をにらみすえた家老の安藤帯刀が、正雪をニセモノだと決めつけ、下郎下がれ! と大喝する場面である。

山本には学歴詐称の癖があったらしいので、似たような屈辱を若いころに味わったのでしょう。

いずれにしても、人生の土壇場まで粘り抜いた人々を山本は愛しており、こうした存念をもって彼の作品を読みなおして欲しい、というのが木村の主張です。

雑感

『男としての人生』は高倉健の愛読書でしたが、その主人公である山本周五郎の座右の書となったのは、ストリンドベリーの『青巻』でした。

どこかで「ストリンドベリー」という名前を聞いたことがあるなと思って調べてみたら、私のブログで以前触れたことのある人物でした。興味のある方は、お読みください。

★ 夫婦が仲良く過ごすために ②

ストロンベリーが『青巻』で最後に述べた
苦しみつつなお働け、安住を求めるな、人生は巡礼である
という言葉に山本は最も感銘を受けたそうです。そして小説家として成功をおさめたのちに、ひたすら小説をかくことに打ち込んだ結果、山本周五郎は最晩年にしんみりと、
「ぼくが書きたいことは、ぜんぶ小説のなかに書いた。頭の中がガラン洞になってしまった」
と木村に語ったそうです。山本周五郎は『虚空遍歴』の主人公と異なり、小説家として大成し、長編小説も短編小説に劣らず評価を受けることができました。

しかし、彼もまた、その最後に虚脱感に悩まされていたとしたら、それは彼の生き方が間違っていたように思うのです。『虚空遍歴』の主人公は、仕事のために人生を賭けたものの、成功せずして悔やみながら死にました。ところが、同じく仕事に人生を賭けた山本周五郎は、成功をおさめたにも関わらず、晩年を虚しいまま死んだのです。

つまり、家庭を犠牲にして仕事に人生を賭けたこと自体が間違っていたのではないか、木村が罵倒した「二股膏薬的な処世法」こそが、悔やまない人生となったのではないかと思えてならないのです。

2015年1月10日土曜日

高倉健の愛読書『男としての人生』の最初の部分の概要と感想

昨年11月10日に亡くなった高倉健が生涯愛読した本があります。グラフ社発行、木村久邇典著『男としての人生』です。副題は「山本周五郎のヒーローたち」となっています。

一度絶版となったのちに、若干の手直しをされて『山本周五郎が描いた男たち』というタイトルで平成22年(2010)再発行されたようですが、こちらも今は絶版、両者ともに読むのが大変困難な状況です。

先ほど確認したところ、『男としての人生』はヤフオクにすら出品されていません。『山本周五郎が描いた男たち』はヤフオクで99,700円の高値をつけていました。

グラフ社も緊急出版すればいいと思うのですが、難しいのでしょうか……。

先日たまたま本を読む機会がありました。内容を知りたいという人は多いことでしょう。せっかくですから、最初の方の内容を、簡単にご紹介しようと思います。

まずは筆者の紹介から。木村久邇典氏は大正12年(1923)生まれ。刊行当時別府大学教授。山本周五郎研究の第一人者でしたが、惜しくも平成12年(2000)に亡くなっています。

刊行は昭和58年(1983)。山本周五郎が亡くなって16年後に書かれたものです。

まずは、序章にあたる「はじめに」の概要です。

はじめに

木村氏は、批評家達の通念となっている、「山本周五郎は女性を描くのが得意な作家」という認識に対して、少し違うのではないか、と疑義を呈することから、筆を起こしています。

山本周五郎は女性の間で人気がある作家でした。また、女性造形に抜群の技量も持っていることでも定評がありました。それに異を唱えるつもりはない、しかし、彼は女性を造形することで男を描きだした作家だったことも指摘したい、と言うのが前書きの本旨です。この主張がタイトルにつながっていきます。

山本周五郎が描く男性群像は、「こうありたい」と彼が望む理想像だったのだろう、とも。これが、「はじめに」の概略です。

つづいて、「第1章 男の忍耐」の概要に移ります。


第1章 男の忍耐

その前に、若干のお断りを先に行います。文中の人物の呼び方についてです。

時代物の登場人物の呼び名は、今と違って苗字か官位で呼ばれるのが普通です。この第一章で出てくる伊達兵部少輔宗勝(ひょうぶしょうゆうむねかつ)を、下の名前・諱(いみな)「宗勝」で呼ぶ人は、彼の存命当時にはいません。友人などの第三者が彼を呼ぶとしたら、「兵部」、あるいは「伊達どの」といったところでしょう。今の日本で苗字ではなく「課長」などの役職で人を呼ぶ会社が多いのは、その名残です。

『男としての人生』でも、人物を官名で呼んだりしていますが、逆に今は分かりにくい。そこでこの記事では基本的に苗字で、同姓の登場人物がその章に多ければ、混同を避けるために諱(いみな)で呼ぶことにします。


さて、第1章です。

まず取り上げられたのは、山本周五郎の最高傑作と言われる『樅ノ木は残った』。伊達騒動を描く作品で、NHKの大河ドラマの原作となったこともありました。

主人公は、国家老の地位にあった原田宗輔(むねすけ)。

舞台は東北の名門、伊達家家中。伊達政宗の末子・伊達宗勝は、徳川幕府の老中・酒井忠清(ただきよ)と組んで、伊達家62万石を分断、30万石を自分のものにしようと画策します。幕府にとってみれば、力のある大藩の力を削げるのですから、他藩の内部紛争は願ったり叶ったりです。

原田は宗勝と酒井が密かに裏で手を握ったことを知り、酒井らが仕掛ける伊達藩中のさまざまな騒動の種を、すべてもみ消していきます。最終的ににっちもさっちもいかなくなり、幕臣としての面目も潰された酒井は、自邸に原田ら伊達藩の4人の重役を呼びつけ、殺してしまい、これまでの口封じを図ろうとしました。

そこに到着した将軍側職の久世に対し、原田は死にかけながら、
「自分が乱心して仲間を殺したことにして欲しい」
と頼みながら死んでいきました。

江戸時代の刑罰は、一方だけが悪くとも「喧嘩両成敗」が基本。自分らを酒井が殺したことがばれれば、もちろん酒井は罰せられるでしょう。しかし、同時に伊達藩も相当のダメージを得ることは必至。伊達家のお家騒動がそもそもの発端で、酒井は巻き込まれた側。場合によってはそれを口実に伊達藩は取り潰されるでしょう。

結果的に原田一人が罪をかぶり、伊達62万石はそのまま存続しました。しかし伊達藩は、原田の所領を没収し、家族一同皆殺し、家名も断絶させました。

ここまで『樅の木は残った』の内容について詳細にこの記事に記せるのは、第1章15ページのうち、『樅の木は残った』の解説に8ページも割かれているからです。

次に、木村氏が書いた、『樅の木は残った』のあらすじ以外の部分について。第一章の冒頭で著者の木村氏は、あらすじを紹介する前に、山本周五郎の次の言葉を紹介しています。
日本人という国民はよろずにつけて辛抱が足りない、粘り強さに欠けている、諦めが早い。熱しやすく冷めやすい。これではいけないね、と山本周五郎が云った。
また、山本はこうも語ったそうです。
三十年戦争、百年戦争をはじめ、第一次、第二次世界大戦のように、血みどろになってトコトンまで闘う。戦ったのちのちも遺恨は決して消えない。ヨーロッパの闘争にはそういうねちっこいところがある。僕は戦争の賛美者ではないが、西欧人のあの執念深さは学ばなければなるまい、と信じている。なぜなら執念がなければ文化は生まれないからだ。
山本周五郎は日本人に対して随分批判的だったようです。終戦後まもない当時の文壇の風潮でもあります。山本は、日本人の軽薄な国民性からはロクな文学が生まれないから、自分が頑張り通す人間を描いてやると意気込んで数々の作品を発表し続けたのだとか。かなりの自信家です。

その彼の自信作が、この『樅の木は残った』でした。

「伊達騒動」は、江戸時代の歴史に関心のある人にとってはよく知られた事件です。ただし史実によれば、主人公の原田の乱心が真実として伝えられています。ですから、藩の存続を願ったために原田が汚名を着たのだ、という山本流の解釈は社会に大きな驚きをもたらしました。

このおかげで山本周五郎の周りには、歴史の常識に敢えて意を唱えた勇気を讃えたり根拠を正したりする人々が増えたようですが、彼はそれに警鐘を鳴らします。講演で、歴史の常識に異説を唱えることが目的ではなく、平凡人が大事件に巻き込まれながら、一個の人間として誠実に生きようとした人間態度を描きたかっただけのだと説明しているそうです。

また、主人公・原田と、ヒロイン・畑宇乃(はたけうの)との間のプラトニックな恋愛が本当のテーマだ、などとも主張しているそうです。

これに対して『男としての人生』の著者・木村は山本の主張を肯定しつつ、山本周五郎の履歴を振り返りながら、原田が山本の理想の一つなのだ、と説きます。原田は挫折したけれども、執念と忍耐で悲劇的な人生を生き切った、このような人物に、山本は憧れていたに違いない、と結論づけるのです。

ここまでが第1章の内容です。

【私の雑感】

山本周五郎は、下克上だとか理想に国作りだとか、大上段な理想の実現に奔走した人々を書くのを好みません。むしろ、大きな理想の実現のために無理難題を持ち込まれた人々が、それに対抗して、お家存続だとか家庭の平穏だとか、小さな理想を守るために努力する姿を好んで描く作家でした。

それが当時人気となったのは、第二次世界大戦に翻弄され、逃れられない大きな宿命の中で、それでも自分なりの信念を守り通そうとした悲哀を多くの人が共有していたからでしょう。

ところが今は違います。国家の意思に人々が翻弄されることは少なくなりました。それよりも大きな影響を与えるのは時代の風潮です。また、平穏な日常の繰り返しに嫌悪感を感じる若い人々も大勢います。

彼らからも山本周五郎は支持されるのでしょうか。『男としての人生』が絶版になった理由が、段々と見えてきたような気持ちに、第1章を読んだ後になりました。




 こんな調子で、あと一章ほどを後日紹介してみようと思います。

2015年1月8日木曜日

アマゾンと植田佳奈 あるいは、魅力あるブラックとどうつきあうか?

昨年末に、元社員が匿名で、Amazonの雇用実態を暴露した記事が話題になりました。

★ 「アマゾンジャパンは血も涙もない会社でした」採用・年俸・評価・PIP…元社員が語る“合理的すぎてブラック”な人事管理

この記事にかぎらず世界中で、Amazonはブラック企業だという声が上がっています。しかしAmazonの業績になんら影響がありません。とにかく便利なので、天下無双状態。

私も本来ならば、同じくらい便利で信頼できる、もっと健全な通販でものを購入したいのです。楽天が思い浮かびますが、ここのレビューは信頼できませんし、その上出店者への締め付け具合ではAmazon以上。さらには野球チームに暴力で有名な監督を採用していることなどを考えますと、Amazonを選ばざるを得ないのです。

しかも、私今月中にAmazonから電子書籍出版しようと目論んでいます。そうなると、ますますAmazonから離れられません。

デモを起こそうにも本社はアメリカ、その上毎月の詳細な売上高を確認することができないので、ネット上の批判が効いているのかどうかも分からない。抗議しようにも、どうしようもありませんな。

最近、とあるブラック企業で働いていた知人とメールをやりとりしていて、これと似た感情を味わいました。ブラック企業の経営者は大変魅力ある人物。ところが部下に無理難題を強いるだけではなく、世間に公表していた姿と実態は、かけ離れたものでした。酷いものです。

それでも、彼に感じる魅力。それと、彼を道義的に許せない気持ちとの間で揺れ動きました。

『Fate/stay night』

似たようなことを、娯楽の世界でも最近、感じています。

私、昔から『Fate/stay night』という作品が大好きです。昨年から放送が始まったリメイク作『Fate/stay night[Unlimited Blade Works]』を楽しみに観ています。

『Fate/stay night』という作品をご存知でしょうか? 古代の英雄の霊を現代に呼び出し使い魔として使役する7人の魔術 師の戦いを描いた作品です。ゲームから人気に火がつき、10年以上、映画になったり漫画になったりしながら今なおファンを増やし続けています。

あまりに人気が高く、昨年10年ぶりにアニメの新バージョンがリリースされました。大人の鑑賞にも耐えられる作品に仕上がり、多くの人に絶賛されています。

(上記はその中でも屈指の名場面を抜粋したものです。最近のアニメ表現をご存じない方は、戦闘シーンがここまで進化していることに驚くはずです)

現在一時中断中、今年四月に再開予定です。ネット上で視聴可能です。

★ Streaming

ところで、本作の準主役「遠坂凛」役の声優に起用された植田佳奈は、性格が悪いことで有名でもあります。

★ 植田佳奈「おっさんを社会的に抹殺」発言に大批判 逆に本人の社会的抹殺が進行中?

電車の床にジュースの紙コップを置いて注意されたことに腹を立て、注意した男を痴漢に仕立てあげてやろうと画策したと告白。当時私も彼女の言動を知り、音声を聴きまして、彼女を嫌いになりました。

作品自体、いい作品です。遠坂凛にも魅力を感じます。しかし内部の声優には嫌悪感しか感じません。このどうしようもない屈折した感情はいかんともしがたく、製作陣には再検討を願いたいところです。

原作者の奈須きのこもアニメ監督も、彼女の言動は知っているでしょうし、それを疎む声も知っているのでしょう。それでも人気のある声優ですし、声にファンが馴染んでいます。変えずに今回も彼女を起用したのでしょう。

どうつきあう?

こうした「魅力あるブラック」にどう我々は向き合うべきか?

人によって、いろいろな対応方法はあるでしょうが、私の方法は、下記のようなものです。
  • まず、事実確認をします(批判が的外れだったり、嘘だったりすることもあるので)。
  •  その上で、関係を断ち切れる相手ならば、関係を持たないようにします。その上で、批判の声を上げて、彼らと戦う弱者を側面から応援します。
  • もしも関係を断つことができないなら(Amazonとか『Fate/stay night』とか)、我慢してそれにつきあいながら、批判の声を節々であげていきます。
人によっては、私の曖昧な態度は我慢できないかも知れません。嫌なものならばスッパリと切ればいいじゃない、とね。

ところが残念なことに、世の中には嫌なものがたくさんあるのです。そのすべてをスッパリと切ろうとすれば、生きていくことはできないでしょう。漱石は『草枕』の冒頭で、
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
と書いています。 どこかで妥協して、彼らとつきあうしかありません。清潔でいるために、汚れたものには触れず、汚れたものに触れなければならないときにはゴム手袋を使ったり、触れた後に手を洗えばいいでしょう。

同時に、おかしいことはおかしいと声を上げ、彼らに虐げられた人々を、何らかの形で援護しなければなりません。それが、少しでも正しく生きようとする人間の矜持というものです。

その結果、相手にスポイルされたとしたら(たとえばAmazonによってアカウントが削除されたりしたら)、それはそれで、しょうがないことです。

2015年1月5日月曜日

目の疲れを軽減するため、年始にパソコン設定を変えよう

年初に私は、家でパソコンを長時間使いました。1日平均、10時間ほどになるでしょうか。これだけ多用すると、目の疲れが出るのはいかんともしがたいものがあります。

一番多く使用しているのがWordです。そこで、「ページレイアウト」などの設定をいじり、黒背景に緑文字という、目にやさしい組み合わせに変えました。
★ ページ背景に色を設定する


まずはディスプレイの設定

しかし、根本的な解決のためにはディスプレイ自体の設定をいじることが必要です。

一番簡単な方法が、輝度を下げるというやり方。ディスプレイを暗くすれば、光が網膜を強く刺激することを避ける効果があります。デスクトップ型パソコンのディスプレイなら、右下辺りにあるボタンを押せば輝度(明るさ)を調節できます。ノート型パソコンをお使いの方は、下記サイトを参考に調節されればいいでしょう。
★ 格段に見やすくなる ディスプレイの設定方法

下記はみつけにくい、WindowsVistaの輝度の下げ方 。
★ 疲れ目の人はモニタの輝度を調整しましょう!

上記二つのサイトには、他に文字を大きくする方法なども紹介されています。それを試すのもいいかもしれません。


画面のほとんどを黒背景に緑文字

その次の方法として、コンピューターの視覚効果を変更して、テーマをハイコントラストにしてしまう、という荒業もあります。つまり、パソコンの画面の一切合財を黒字に緑文字で統一してしまうのです。
★ Windows7の画面デザインを変更して見やすくする

ただ、これはオススメしません。インターネットのサイトによっては、文字や絵が潰れてしまい、一部の画像がまったく見えなくなることがあるからです。

インターネットで調べ物をしていても、ページの中に見えない画像ちょこちょこ存在するので、毎回見落としはないだろうかと疑心暗鬼になります。

どのページも強制的に「目にやさしく」してくれるので最初は重宝していました。結局私にとっては使いづらく、この方法はやめました。 これはよほど目に負担がかかって困っている方向けですね。


ブルーライトのみをカット

ここまではよく知られている方法ですが、今日はもう一つ、別の方法を知りましたのでご紹介します。本日の記事はこれがメインです。それはディスプレイのブルーライトのみを大幅にカットする、という方法です。

網膜に一番悪影響を与えるのが、ディスプレイの中の青い光です。
★ ブルーライトとは

この青の部分をカットしてしまえば、眼球への負担が下がる、と、こういう理屈です。

★ ブルーライトカットを無料で実現!パソコンの設定を少し変えるだけ

上記のサイトを参考にして、青光を削減しました。その結果、私の目の負担がかなり軽減され、楽になりました。画面がややくすんで見えるのが難点ですが、目を大切にするに如くは無し、です。

今年一年、これからもみなさんはパソコンを多用されるはず。今はスマホ利用者が多くなりましたが、職場や学校ではパソコンを多く利用することでしょう。できるだけ自分の身体と長くうまくつきあうためにも、年初のうちにパソコンの設定を変えてみてはいかがでしょうか?

2015年1月1日木曜日

新年あけましておめでとうございます



平成27年を迎えました。

私にとって昨年は、いろいろなことがありましたが、全体的に見ればとても素晴らしい年でした。みなさんにとっても、よい年だったでしょうか。
これから一年、よい年としていきたいですね。

今年も一年、よろしくお願いいたします。


アマカナタ管理人







追記(16:20)
なお、年始は電子書籍執筆に力を注ぎたいので、しばらく更新をお休みする予定です。









イラストは「2015年賀状無料テンプレート素材」よりダウンロード