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2014年2月12日水曜日

佐村河内守の謝罪文(2/12)を、書きなおしてみた

先日からメディアで話題の佐村河内守が、ようやく謝罪文を公表しました。しかも、謝罪会見を開くそうです。勇気がありますね。

実を言いますと、佐村河内氏のことを、それほど憎めないでいます。世間を欺くためとはいえ、オムツをするは、うなされている姿を撮らせるは、作曲姿は決してみせないは、この大根役者ぶり、厚かましさに、感心してしまって……。

今回公表された佐村河内氏の謝罪文(釈明文?)を、そういう訳で興味津々で読みました。いったい、どう見事な言い訳をするのだろうと。

ところが、一読して不満。

もう少し、工夫できなかったのでしょうか? 間違いなく弁護士の指導のもと、この文章は書かれたはず。それなのに、このつたない文章はなんなのでしょう?

「今回はゴーストライターを使っていません」
ということをアピールするために、わざと下手な文章を書かせた、という可能性もあります。しかし少なくとも51歳の、ベートーヴェンの再来とまで言われた音楽プロデューサーが己の所業を釈明する文章です。もう少し、書きようがあるのではないでしょうか。

釈明会見は、またとない"売り込み"の場でもあるはずです。「災い転じて福となす」という言葉もあります。
「こいつは詐欺師だが、なかなかやるな?!」
ということを世間にアピールできれば、新しい道が開けるかもしれないじゃありませんか!!

今回の謝罪文で、佐村河内氏が訴えたかったポイントをまとめてみました。

  1. 新垣隆の告発後、佐村河内氏側の弁護士が「佐村河内氏は間違いなく障害者だ」と断言してしまった。それと実態との整合性。
  2. 違法行為(障害者年金詐欺)を世間に許してもらうこと
  3. 騙してきたファンへの謝罪
  4. 家族を守ること
  5. ゴーストライターを雇ったのは確かだが、少なくとも曲の概要は間違いなく自分が考えたのであり、当然この曲は自分のものであること
以上を訴えながら、それでいて事務的にならず、感情が込もる謝罪文の試案を、作ってみました。元の文は、下記のリンクを参照してください。



それでは、始めてみましょう。

2014年2月8日土曜日

佐村河内事件には、面白い物語に必要な要素がすべて含まれている


佐村河内守が新垣隆をゴーストライターにして楽曲を発表していた「佐村河内事件」。

興味をそそられ、事件をスクープした週刊文春を探し回りましたが、売り切れ続出。3軒目でようやく手に入れました。それだけ反響が大きいのでしょう。

週刊誌には、詳細な事件の概要が書かれていました。下手な小説を読むよりも面白く、引きこまれました。

なぜこれほどこの事件が興味深いのだろうと考えてみました。そして気づいたのが、
「この事件には、面白い物語に必要な要素すべてが含まれている」
ということです。

抜群のキャラクター

佐村河内守は、サングラスを取れば、ご覧のとおりイケメンです。
普段は黒尽くめの服を着て、杖をついて歩く、群発性頭痛に悩まされる病弱な人物という謎めいたキャラクター。その実態は、詐欺師。キャラが立ちすぎています。

しかし、プロデューサーとしての実力は本物。出資者を募って演者を集め、著名音楽家の推薦もとりつけます。幾度となく作品をヒットさせ、ゲーム、テレビ、果てはスポーツ界までも巻き込んだムーブメントを作り上げることに成功しました。

「食えない」と言われているクラシック業界に一大旋風を巻き起こした異能の人であることは、間違いありません。

これに対峙する、佐村河内氏の欺瞞性を暴露した男は、斜視の冴えない、朴訥な風貌の人物。
しかし大変な音楽的才能に恵まれた天才であり、日本に1000人しかいないという、現代音楽の第一人者でした。

天才同士のせめぎ合いが、この事件の肝となっています。

謎解きの面白さ

佐村河内氏が詐欺師である証拠は、今から振り返ると、記録の中に数多くあります


優れた犯罪小説は、犯人が分かった後に伏線を確認することが読後の楽しみの一つですが、この事件には数多くの伏線が横たわっていました。

たとえば音楽の専門家は、楽曲自体から、佐村河内氏のプロフィールとの乖離を読み取ることができました。

障害者に身近な方ならば、何十年も耳が聞こえない人物があれほど流暢に話せるわけがない、という確信を得られたことでしょう。

佐村河内氏のことを知るほど、嘘が如実に見えるのです。むしろ、それがバレなかった理由がしりたくなるほど。でも、当時はほとんどの人が騙されていたのですから、これは佐村河内氏の嘘がうまかったのでしょう。

複雑な人間関係

この事件には、多くの人々が関わっています。前述の2人の他に、佐村河内氏と5年来の友人で、NHKスペシャルを作った古賀淳也という人物がいます。
1977年、愛媛県今治市生まれ。2002年から7年間、「筑紫哲也NEWS23」や「シリーズ激動の昭和 最後の赤紙配達人」などTBSのニュース番組や報道特別番組を制作。現在はフリーランスのディレクターとして主にNHK「あさイチ」などの情報番組の制作を担当
彼は本当に、佐村河内氏の嘘を見抜けなかったのか。

また、義手のバイオリニストである中学一年の大久保美久さん。彼女の一家は佐村河内氏から、脅迫めいた要求をされていました。

佐村河内氏の妻。彼女は果たして共犯者なのか? 彼女の母の告白によりますと、そうともいいきれません。
「娘に『正直に言って。守は結婚後の7年間でいくら稼いだの』と聞いたら、『20万円です』と。がくぜんとした。娘は過労で点滴を打ちながら働いていたこともあるのに、自分は毎日飲んで、遊びほうけて…」
妻には同氏と同じ年の弟がいた。妻と同団地に住んでいた同氏(佐村河内氏)は高校生時代「○○君(妻の弟の名)の友達です。××さん(妻の名)いらっしゃいますか」と突然妻の家を訪ねてきた。後に弟に同氏について尋ねると「そんなやつ知らない」と答えたという。うそをつき妻に接近した可能性があった。
さまざまなキャラクターの織りなす人間模様が優れた物語には必須ですが、この事件にはそれがあります。

芸術性

物語を彩るために、たとえばヨーロッパの古城だとか、美術館だとか、芸能界などの華やかな舞台が用意されます。私達が憧れる、手の届かない芸術……この事件は、クラシック音楽界という古典的な舞台で生じており、私達の関心をいやが上にもそそります。

そのうえ、彼らの音楽は、たしかに美しいのです。

佐村河内守(新垣隆):交響組曲「ライジング・サン」


Symphony No.1 "HIROSHIMA" (3)


圧倒的な悪役

佐村河内氏のことは、知れば知るほど、ペテンぶりがあらわになります。彼の妻の母によれば、新垣隆に渡した指示書も、佐村河内氏のものではないそうです。
同氏が書き、新垣氏に提示していたという18万枚のヒット曲「交響曲1番 HIROSHIMA」の「指示書」についても「テレビで紙を見てびっくりした。あれは娘の字です」と妻が書いたものと主張した。
また、佐村河内が堂々と「自分の著作」の表紙に使っていた写真。
これは新垣氏が書いた楽譜であることも、関係者の証言で分かっています。
そのうえ、障害者手帳を詐取する、診察でも(たぶん)嘘を言って大量の薬を手に入れる、弱者を脅迫しようとする、支配しようとするという悪辣っぷり。

ここまで圧倒的ですと、感動すら覚えます。

登場人物の根底にある「真摯さ」

ただ、それでも私は佐村河内氏を憎めません。これまでの私のブログをお読みの方は御存知の通り、とことん相手を追い詰めるタイプに私は生理的な嫌悪感を抱くのですが、佐村河内は知能犯ではあっても、粗暴な人間ではないようです。

たしかにとんでもない人間です。しかし、クラシック音楽にこだわり、世間を感動させてやろうという情熱は本物ですし、そのためならばなんでもやる、障害者のフリもするし、感動の場をつくり上げるための努力――たとえば曲を捧げるにふさわしい人物を探し当てるために、津波で被害を受けた人々のリストに片っ端から連絡を取るとか――を惜しまない、その情熱は本物です。

また、若い頃には自腹を切ってでも(とはいえ妻の稼ぎからくすねているのですが)、いい曲をつくるための努力を惜しみません。

もう一人の主要登場人物である新垣氏。彼が告発に至った経緯が次第に明らかになってきて、その苦悩が読み取れるようになりました。

師匠である三善晃を守るため、彼の弟子である"みっくん"を守るため、オリンピックで日本代表となる高橋大輔を守るため、日本の名誉を守るため……彼はゴーストライターとして告発することを決意しました。

名誉への情熱、プライド、真実への渇望が、この事件には同居しているのです。

佐村河内氏の楽譜を管理販売している「東京ハッスルコピー」には、文春がこの件をすっぱ抜く前に、こういうメールが届いたそうです。
「(2月)6日発売の文春に私の記事が出ます。そこに書かれている内容は、嘘偽りのない全て真実です。私は罪と罰を受けます。お許し下さい」
悪あがきをする犯人が多い中で、潔いではありませんか? 嘘が露見したら、速やかに罪を認めるところも、佐村河内氏の"真摯さ"を示しています。

挫折、そこからの復帰

マンガでは、敵に倒されて、そこから再度復活して敵を倒すことでストーリーが盛り上がりますが、この事件にも、佐村河内氏と新垣氏の「挫折と復帰」が語られています。

佐村河内氏と新垣氏が出会ったのは、それぞれ33歳と25歳のときです。佐村河内の方が8歳年上でしたが、この年になっても、不遇をかこっていたそうです。ロッカーを目指して上京したのに少しも目が出ず、毎日飲み歩く日々。そこで知り合った音楽業界の人々に多少のコネはあるものの、何より必要な音楽的才能が欠如していて、成功を望むことも叶いませんでした。

対する新垣氏もまた、かつては早熟の天才ともてはやされたものの、その後は鳴かず飛ばず。音大作曲科を卒業後に得た栄誉といえば、音楽祭で自曲が演奏され、大家である武満徹に「自分の信じる道で頑張りなさい」と声をかけてもらった程度。

非常勤講師として月収数万円に耐えながら、町のピアノ教室やヴァイオリン教室の発表会の伴奏をして、ようやく糊口をしのいでいた状態でした。

この2人がタッグを組んで、いまだに名作として名高い『鬼武者』のゲーム音楽を作り上げて世間をあっと言わせることに成功しました。まさに、挫折からの復帰です。

もちろん、それで得た報酬は、微々たるものでしょう。新垣氏に支払われた収入は雀の涙程度と言われていますが、佐村河内氏が得た収入だって、たかだか数百万円程度のはず。一年の生活費で、あっという間に失われる額です。

そもそも音楽で食っていくことは、今の時代では至難の業です。それでも、彼らは音楽によって、栄誉を勝ち取ることに成功したのですから、彼らの軌跡は「挫折からの成功」と呼んでしかるべきではないでしょうか。

そして、再度彼らは失墜してしまうのですが。

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佐村河内氏の名前や売れるまでの経歴(被爆二世、弟の夭逝など)は本当だそうです。
★ 佐村河内さん、名前と広島出身は本当だった
佐村河内さんは著書の中で、実弟を交通事故で亡くした、と明かしているが、住人によると事実だという。また、横浜市内の佐村河内さんの自宅は、この日も返答はなかった。
本当であることがニュースになるのは、この問題の面白いところです。

ネット上には同級生との交歓の様子も載っていますが、同級生の前で、よくぞバレなかったものです。細心の注意を払って、キャラクターを作り続けてきたことが分かります。

これからも、佐村河内氏や新垣氏、虚像を作り上げた人々の実像が、明らかになっていくでしょう。これほど面白い事件はそうそうないので、それが楽しみです。

ただ、明日が都知事選であることは返す返すも悔やまれます。都知事選後のテレビはそれ一色になるため、事件の深堀りがストップしていまいますからね……。

2013年12月19日木曜日

大きく変化するためにこそ、小さくしか変化してはならない

ある友人から「ポジティブな逸脱」という概念を教えてもらった。皆さんは、ご存知だろうか?

★ ポジティブな逸脱がもたらすパワー
  • 「ポジティブな逸脱者」とは、社会規範に例外をもたらす人間を指す 
  • 問題を抱えているコミュニティーは自分達のポジティブな逸脱者(自主的に問題を回避したことのある人間で、解決策のヒントを持っている人)を見つけなければならない
  • 貧しいベトナムの村で健康な子どもを持つ、ポジティブな逸脱を実践している家族からの情報により、何千人もの子どもを栄養失調から救うことが出来た
面白いと思った。長期的均衡を保っている悲惨な環境の中に潜む、改善の糸口となる「逸脱」を発見し、それを周囲へと広げていくという作業。これは、環境を一気に変えるという逆転指向ではなく、少しの改善による複利効果をねらったものと言える。

昨日取り上げた「「綺麗ごと」を真に受けるな!」という記事を書いた筆者なら、このような最小限の改革についても批判をするのではないか。
 「1%のことを変えるだけで成功する」
→ ほんの小さなコツだけで成功してしまうというキャッチフレーズ。「ザ・射幸心」と呼んでもいい「キラキラワード」です。現在のポテンシャルが「100」だとして、 毎日たった1%ずつでも成長していけば、1年後にはそのポテンシャルが「3,778」になるという話が多いので、「騙された!」と思う方も多いでしょう。
だが、私は思うのだ。
「大きく変化するためにこそ、小さくしか変化してはならない」
というのは、汎用性のある考え方ではないだろうか?

小さな変化だから長続きする

先日、ブロガーが多数集まる東京ミートアップに参加してきた時に聞いたうろ覚えの話だが、ある食べ物についての記事を5年近くひたすら書き続けた人がいた。

アクセスも最初はほとんどなかったのに、ここ数年のブームでアクセス数が爆発。ついにはブログだけでも生活できるレベルで稼げるようになったらしい。

似たような話を聞いた覚えがある。

数ヶ月前に、株で儲けた友人の話。大儲けをするよりも、株式の売買の場から退場をくらわないように、ひたすら堅実な売り買いをここ数年努めていたところ、先日のアベノミクスにより株価が爆上げして、大幅な利益を今年は得た、という。

2つ目の話を聞いて、さもあらんと思った。勝とうとするよりも負けないようにしようとすることで、大勝はしなくとも退場しない方法を身につけることができたのだろう。その方法を見つけるまでが難しい。

だが、もしもその方法が身についたならば、コツコツと投資を続け、たとえば10年に一度は起こる株式市場の活況によって、大儲けすることはさほど難しいことはない。

長期的に大きく変わろうと思うのならば、息切れしないようにしなくてはならない。また、退歩しないようにしなくてはならない。ほんの少しずつ、必ず成長し続けることができたならば、必ずどこかで、大ブレイクを果たす。

大きく変化するためにこそ、日々の生活では息切れしないことが必要だ。また、小さな変化ならば、リバウンドを体験しなくてもいい。今を大きく変えようとすると、後で大きな反動が来る。周囲からの抵抗も大きいだろう。少しずつ進むならば、自分も周囲も、変化を自然に受け入れることが出来るのだ。

ビギナーズラック

このようなことを考えたのは、数日前。それから、不思議なことが起きた。

突然私のブログのPV(ページビュー。このサイトを閲覧している数)が、爆発的に増えたのだ。
きっかけは、胎児が子宮内で亡くなってしまい、石灰化して無害化した「石児」が再び現れ、話題になったことが原因だった。

★ 【コロンビア】妊娠40年目…82歳女性の体内に石化した赤ちゃん見つかる。「石児」という非常に稀な症例
実はこんな記事を書いたことを覚えていなかった。話題になるとは知らず、文章の校正もメチャクチャだったから、後にこの現象に気がついて冷や汗をかき、それからすぐに、いくつかの部分を修正した。

その後もあれよという間にPVが増え、念願だった10,000PV/日も突破した。これには驚いた。

今まで月に45,000PVくらいだったけれども、このままの調子が続けば、今月は月間100,000PVに届く可能性すらある。お陰で、このところGoogle AdSenseでも収入がうなぎのぼりだ。

こういうのも、「ビギナーズラック」というのだろうか。

正しい道へと進む人間を宇宙は全力で応援する

私はこの言葉を、『アルケミスト』のあるシーンを思い出しながら書いている。

 『アルケミスト』では、王・メルキゼデクが、少年に旅するよう促すというシーンがある。その言にしたがって羊を売ろうとしたところ、予想外にトントン拍子に事が進む。その理由をメルキゼデクは、正しい道へ進もうとした人を、宇宙が必ず応援するのだと説明する。

初心者にはその手のことがよく起こる、とメルキゼデクは言うが、これが、今回私が挙げた「ビギナーズラック」だ。

ポジティブな逸脱……決して一発逆転を狙うのではなく、絶え間ざるミニマムな改善をしていくことに共感した直後に、それを応援するような大幅なPVアップがあった。この方向は間違っていないよと、何かが応援してくれているのかもしれない。



……なんてね。


※写真:http://www.pakutaso.com/より

2013年12月18日水曜日

自己啓発にも周期がある

『綺麗ごと』を真に受けるな!」という記事が話題になっていたので読む。
小さな労力で大きな成果を手に入れたい、楽してお金儲けしたいという「射幸心」を煽るコピーが多すぎて、人を迷わせます。
と指摘し、泥臭く、ガツガツと目標達成のために努力をしていけと読者を叱咤する内容だ。 筆者である横山氏が指摘する「綺麗ごと」とは、
  • 「無理しないほうがいい」
  •  「頑張らなくてもうまくいく」
  • 「楽しいと思える仕事を見つけろ」
  • 「心の底からやりたいと思えることだけやればいい」
  • 「1%のことを変えるだけで成功する」
などで、それぞれに筆者から「そんな甘いことを言っていては成功しないよ」というツッコミが入っている。

Facebookのコメントなどを読むと、筆者の指摘に目からウロコが落ちた思いになった人々が、多いらしい。

自己啓発にも周期がある

最近、この手の自己啓発的なものにも周期があることが分かってきた。
①考え方を変えることで、超自然的な何かが、あなたを手助けしてくれる(宗教的)
 ↓
②非科学的なことはウソっぽい。それよりも心理学などを応用した成功法則だ!(科学的)
 ↓
③宗教だとか科学だとか大げさ。ほんの少しの改善でいいんじゃないの?(日常的)
 ↓
④甘いことを言うな。歯を食いしばって頑張れ。努力は実る(スパルタ的)
 ↓
⑤やっぱり世の中カネだろ。努力するよりもオレのやり方をマネてカネ稼げよ(即物的)
 ↓
①'いろいろやって頑張って努力しても、うまくいかないよね。でも大丈夫。
考え方を変えることで……(以下ループ)
上記の記事は、④に当たるのだろう。

努力しないとうまくいかないが、努力したからといってうまくいくものでもない。逆に努力しなくても運だけでうまくいく人もいる。ある人にとってはうまくいった方法が、他人にはうまくいかない場合もある。世の中の不条理に悩み、誰もが模索する。

だから、このようなライフハック系の記事はいつの世の中でも需要があるし、一冊の決定版が出ることによって、他の本は一切不要となる、ということもないのだ。

ブームになる本が時代をつくる

こうして、ある本……①『ザ・シークレット』だとか、


②『スタンフォードの自分を変える教室』だとか、


③『キッパリ!―たった5分間で自分を変える方法』だとか、

④上記記事だとか、⑤『金持ち父さん貧乏父さん』だとか

がブームになり、一時期似たような本が本屋の一角を占めるが、やがて次のブームに移っていく。

私は、だからどれも信用出来ない、とは思わない。どれがその人に役立つか分からないので、取り敢えず、やってみればいいんじゃないの? と思う。

①辺りを拒否する人が多いと思うけれども、不幸のどん底にいて誰も助けてくれないという閉塞感の中にいる人にとって、"神の存在"や"死後の幸福"のお陰で、はじめて希望を持てるということは十分考えられるし、それによって大転換を迎え、人生が好転していくような事例は、世の中にはたくさんある。

ただ、自分に合わない方法を選んで信仰のレベルにまでいくと、どれか一つを信頼しきったまま時間がダラダラとたってしまう、ということにもなりかねない。

『綺麗ごと』を真に受けるな!」という記事を読んで、
「ここにこそ真実が書いている」
なんてことを考えずに、、
「これもまた、一つの方法ではあるよね」
と思って、悠然と構えていればいいと思うのだ。

2013年11月5日火曜日

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に関する動画の詰め合わせ

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といえば1985年に公開されて大ヒットしたハリウッド映画である。今でもファンがたくさんいる。

そのNG集が昨年公開されていた。見逃していましたね。
★ http://www.youtube.com/watch?v=DZLAlD1rtUU

ドアに服の一部が挟まれたり、スタッフが小道具の酒瓶に本物の酒を入れたためにマイケルが吹き出したり、いろいろなNGシーンが満載。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ファンなら垂涎ものだろう。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が今でも愛されている証拠に、最近は映画のシーンを詰め込んだこんな動画も作られている。
★ http://www.youtube.com/watch?v=Ad6b1-wuM3w

落雷のために止まった時計台の保存を訴える女性、突然現れるドク、同じ格好の自分に出会って驚くマーティンたち、それにデロリアンがたった二分間の間に現れるから、言葉が分からなくても爆笑必至だ。

お次は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の名シーンを手作りで再現したこの動画をご紹介。
★ http://www.youtube.com/watch?v=DCjCRXwOqhw

作りはちゃちだけど、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』への愛が伝わってくる。

お次は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を線画で全て紹介したアニメ。
★ http://www.youtube.com/watch?v=yJZx99-lSnc

ちょっと端折り過ぎな気もするけれど、大体合ってる(笑)。

なお、上記作品はファンが趣味で作ったアニメのようだが、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は本格的なアニメにもなっている。人気作品がメディアミックスとして多分野に作りなおされるのはアメリカも同じのようだ。

★ http://www.youtube.com/watch?v=SwoyckmxDTM


最後に紹介するのは、アルゼンチンの家電量販店の面白CM動画。ドクがデロリアンに乗って、2011年にタイムスリップしてくるという設定で、本物のドクが演じている。
★ http://www.youtube.com/watch?v=SNB5mfDSo3Q



いやぁ、映画って本当にいいもんですね。それでは、今週も頑張ってまいりましょう!

2013年10月31日木曜日

愛読書から推測する、その人物 ~オバマ大統領の場合~

その人が何を考えているのか? どのような信念に基づいて、その決断を行うのか?

それを明らかにすることは難しい。その人がどのように生きてきて、どのような人と出会い、どのように認識をしたのか……さまざまなことを知らなければ、その人の思想を垣間見ることは困難だ。

だが、
「友達を見れば、その人の品性が分かる」
などと言われているように、その人の交友関係や嗜好によって、その人の中身をある程度、予測することが出来る。同じように、愛読書に注目することで、その人の思考、哲学を推測できるのではないか、と思うのだ。

先日Yahoo!の新しい新CEOであるマリッサ・メイヤーについて書いたが、そのネタ元となったのは、各界の著名人の愛読書を紹介した記事"Books Extremely Successful People Read"である。同じように、この記事で紹介されている人々の愛読書を紹介がてら、その人となりを時々、推測してみようと思う。

一回目として、まずはオバマ大統領を取り上げたい。
★ Obama's Favorite Books

『ソロモンの歌』


赤ん坊でなくなっても母の乳を飲んでいた黒人の少年は、ミルクマンと渾名された。鳥のように空を飛ぶことは叶わぬと知っては絶望し、家族とさえ馴染めない内気な少年だった。だが、親友ギターの導きで、叔母で密造酒の売人パイロットの家を訪れたとき、彼は自らの家族をめぐる奇怪な物語を知り、そのルーツに興味を持つようになる―オバマ大統領が人生最高の書に挙げる、ノーベル賞作家の出世作。全米批評家協会賞受賞。(Amazonによる本書紹介)
 あらすじはAmazonよりも、下記のブログ記事の方がわかりやすかったので引用する。
ある事情でミルクマンというあだ名をつけられた黒人の少年が、成長の過程で自分を取り巻く人々の秘密を知ってゆく。両親の激しい対立。父と叔母の間にある深い確執。祖父の死をめぐる謎。そして気の置けない親友が、実は白人憎悪に凝り固まって無差別殺人に手を染めているという恐ろしい事実。
 やがて彼の人生を支配しようとする両親や、彼を憎悪する姉、彼を殺そうと付け狙う恋人など、様々な人間関係が嫌になったミルクマンは、町を出て自分の家系のルーツを探し求める一人旅を始める。だが、そんな彼を裏切り者と見なした親友が、彼を抹殺すべくあとを追ってくることを、ミルクマンは知るよしもなかった・・・。
 思わず息をのむような劇的なストーリー展開、暴力的な挿話、迫力ある生々しい描写。それでいて全体を豊かに包みこむ神話的な象徴性。今そこで起きている出来事でさえ昔話のようにあっさりと語っていたこれまでの作品と違って、はるかに直接的でくっきりとした語り口の小説です。
サイト『ソロモンの歌』(トニ・モリスン) [読書(小説・詩)]より

『白鯨』


アメリカの著名人の愛読書を調べると、『白鯨』を選ぶ人がやたらと多い。日本でいう『竜馬がゆく』のようなものなのか? 国民的な人気をこの本は誇っているようだ。

私は子供の頃に読んだ。白いマッコウクジラであるモービィ・ディックを追う、片足の船長の狂気が印象的だったが、所詮少年向けの名作劇場シリーズのものであり、たぶん多くが割愛されていたのだろう、誰かの愛読書となるほど、面白いとは思えなかった。

ところが、
「モービィ・ディック」と呼ばれる巨大な白い鯨をめぐって繰り広げられる、メルヴィル(一八一九‐一八九一)の最高傑作。海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない法外なスケールと独自のスタイルを誇る、象徴性に満ちた「知的ごった煮」。新訳。
(Amazonによる本書紹介)
という紹介文を読んでみると、興味が改めて湧く。

『Parting the Waters: America in the King Years 1954-63』


未翻訳、らしい。『水を分かつ』という名前で紹介されることが多いようだ。

著者はテイラー・ブランチ。内容は、1954年の「人種差別は違憲」というブラウン判決から、1963年のキング牧師のワシントン大行進までの9年間を描いた作品だという。黒人ならば、避けては通れない作品なのだろう。

『Gilead』


これも未翻訳。著者はマリリン・ロビンソンという白人女性。
美しい散文で、死を前にした老牧師の回想と、まだ幼い子供と妻への思いが綴られて行く。神を信じつつも、妻子に殆ど財産らしいものを残さないことへの不安を持ちながら、長い牧師生活を振り返っていく。
しかし多くの日本の読者には、この本を理解することは難しいだろう。キリスト教の家庭に育ち、牧師の生活をある程度分かっている私でも、殆ど筋らしいものがなく、淡々と進む回想を読むのがしんどく思えたことが何度かあった。
稀なほど、美しく繊細な本であるが、日本ではごく小数の人にのみ愛されるのではないだろうか。
(Amazon書評による本書紹介)
淡々とした牧師の述懐のようだ。世俗的な欲望を捨て、信仰に生きることを決意することは、資本主義の総本山であるアメリカではしんどいことだろう。その中の不安と、それでも誇りを持って死ぬ充実感を描いた作品のようだ。

『自己信頼』


語りかけてくるようなやさしい文体で、
オバマ大統領の座右の書のエッセンスに触れることができます。
疲れていてもすっと心に入ってくる本でした。
自分の道を見出したいと願う人へオススメです。
エマソンを読んだことのない人への入門書としてもオススメです。
様々な人や自己啓発本からのアドバイスが波となって押し寄せ、
そのうねりが胸元までに迫るが、まだ道は見えず焦りに歯噛みするような時、
この本は自分自身を信じよと言い、
その言葉に気づくところがあります。(Amazon書評による本書紹介)
自己啓発書の一種ではあるけれども、何よりも「自分を信頼すること」に重点を絞った内容のようだ。オバマ大統領が、困難な状況にもかかわらず、決して「ブレない」のは、この本に勇気づけられる事が大きいからかもしれない。


さて。

彼の愛読書を並べてみると、まず明らかなのは、オバマという人物は、自分が黒人である、という意識を常に持っているということ。

これはまあ、当たり前といえば当たり前。黒人はアメリカの歴史では、差別される側だった。オバマ大統領は、その中から世界最高の地位にまで這い上がった立志伝中の人物だ。常に自分の出自を意識するのは当たり前といえばいえる。

だが、彼が好むのは「差別」という歴史を学び、恨みを新たにすることではない。その体験を自分構築のために役立て、さらにはそこで立ち止まらず、困難にもめげず、この世界を冒険していこう、という姿勢。それが彼の愛読書から見て取れる。

また、少々宗教的な人物なのかもしれない。聖書も彼の愛読者の一つであるし、牧師の生涯をたどる散文詩を、彼は愛している。生きるのが困難な世の中で、それでも人を愛するとは何かを常に意識しているのだろう。

先日、揉めに揉めた連邦議会はようやく協調に転じ、オバマ米大統領は米政府の債務上限を来年2月初旬までの間、引き上げることに成功した。債務不履行の恐れがしばらくの間はなくなり、閉鎖されていた政府機関も再開した。今は盗聴問題やオバマケアシステムの不調で揉めているが、これもうまく収束させるだろう。

幾多の混乱にもかかわらず、ブレない彼の精神は強い。その強い精神を形作る一端を、愛読書がになったのは間違いない。

とりあえず『白鯨』を今度読まなくては。

2013年10月29日火曜日

共感力欠如は脳の構造変化? だったらホリエモンは?

権力者が傲慢になるのは、権力者自身の考え方の問題ではなくて、脳の構造変化が原因だという研究結果がカナダの大学から発表された。

★ 「権力者の傲慢」は脳の仕組みに起因? カナダ研究
しかし今回の研究で、人が権力を持つと、脳が本来的に持っているメカニズムによってこの共感の仕組みが機能しなくなることが判明したという。
"共感"する力とはいったいなんだろうか? 上記の記事によれば、他者の感覚を共有する、脳に備わった能力のことだという。
過去の研究では、サルや人には、自分が物をつかもうとしている時と、他者が物をつかもうとしているのを見ている時とで脳が同じような反応をする共感の仕組みがあることが分かっている。

孟子の惻隠の情
この研究結果を知って考えたのは、今から2300年前の中国の哲学者・孟子が唱えた性善説のことだ。孟子は、人間には必ず「惻隠の情」というものが備わっている、だから人間の心の本質は「善」である、と考えて「性善説」を唱えた。
人皆な人に忍びざるの心有りと謂ふは、今人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕たる惻隠の心有るが所以なり。
(人間に「忍びざるの心」が有ると言えるのは、幼児が井戸に入らんとするのを見れば、心配して気遣い、惻隠の心が自然と生じるからである)
見た対象の危険を自分のものとしてとらえ、そこから「助けなければいけない」と思う人間の気持ちが、善の発端であると孟子は説いたわけである。子供が井戸に落ちそうになる時にハッとなる心の動きは、親の気持ちに共感するというよりも、落ちようとする子供の気持ちに共感するものだろう。よって、共感力が善性を生み出す、とも言えるように思う。


『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』
「共感」が人間を人間たらしめるものと説いた小説もある。

著者のフィリップ・K・ディックは、人間と区別できないほどに進化したアンドロイドと人間を区別する唯一の手段が「共感力」の有無だと定義した。この考え方は多くの人に支持された。この小説は『ブレードランナー』という映画となり、日本のアニメにも多大な影響を与えている。

では、なぜこれほどまで必要な「共感力」を、権力を握った人は失ってしまうのだろうか?


堀江貴文は共感力がない
このことを考える際に参考となるのは、堀江貴文の存在だ。

★ 人生を変える劇薬 「アドラー心理学」がいまの日本に必要なワケ
 柿内 たしかにそれはありますが、連載を読んでもらえれば、その弱点はすべて解消されていることがおわかり頂けると思いますよ。そういえば、いま僕は堀江貴文さんの単行本(『ゼロ』)の編集をしているんですが、堀江貴文さんって、アドラー的な考え方を地でいっている人だと思っていて。たとえば、彼は東大時代に先輩とケンカして、「おまえは他人の気持ちがわからないのか!」と怒鳴られたそうなんですね。そこで堀江さんが言ったひと言が最高で。

 吉田 へえ、なんなんですか?

 柿内 「他人の気持ちなんて、わかるはずがないじゃないですか!!」ですよ。これはシンプルですが、世界の本質を見事に突いたひと言です。そして、とてもアドラー的。
堀江氏は「他人の気持ちを推し量ることはできない」という強い信念を持っている。本来だったら人間は必ず持っているはずの共感力が彼にはない。そんな彼には多くの崇拝者がいる。有料メルマガを発行しているが、購入者は10万人に上る。

女性にとっては、自分の言うことを聞かずに暴力をふるうような、いわゆる「オラオラ系」が昔から人気だ。あれも共感力を持たない人間の魅力だろう。


脳は進化の過程で変化した
共感力のない人間に、人々が魅力を感じ、時に指導者として崇め奉るのはなぜだろう? 

答えは簡単だ。人類の脳が進化の過程で、この仕組を取り入れたからだ。人間の脳の仕組みがそうなっているということは、人類が数百万年かけて、脳がそのように機能するように進化してきたからだ。

人類は、数百万年の間、共同体の構成員には共感力を必要とし、共感力のない人間をリーダーとして求めてきたのだ。

このことは、猿の群れがてんでバラバラに活動するよりも、協同する方が何事もうまくいくのを想像すればわかりやすいだろう。共感力が高い群れは、同調もたやすい。その結果、群れの結束力は高くなる。団結力の有る群れの生存率が高くなるだろう。

ところが、ボス猿は群れの猿と同じことをしていてはいけない。群れを安全な場所に連れて行ったり、群れを逃して自分は敵と戦ったり、新天地を目指して群れを率いたり……他の猿とは違うことを考える必要がある。そのためには、共感力を封印する必要がある。

つまり、脳が共感力を持っているのも、権力者がそれを失うのも、人類が生き残るために必要だったということだ。共感力が善悪を判断するための源泉だとしたら、共感力を失うことにより、善悪の基準を自ら創りだす能力を獲得する、とも言えるかもしれない。

低い能力の人間が共感力すらなければ、群れから追い出されてしまうが、高い能力の人間にはリーダーとなってもらい、さらには共感力を封印して、群れとは別個の視点で状況判断してもらった方がいい。


時代は変化した
だが、残念ながら、今では時代が違う。原始時代だったらともかく、現代社会は高度に発達している。人類全体で、善悪の基準がある程度共有化されている。もはやその基準から逸脱することは許されない。

ところが、数百万年かけて獲得した脳の機能のお陰で、共感力を失った指導者たちは、それゆえに多くの支持者には恵まれるものの、社会のルールから逸脱する道を安易に選び、その結果あっという間に没落してしまう。

先日取り上げた徳洲会のケースもこれに当たるかもしれない。何より先述の堀江貴文の一連の騒動が記憶に新しい。

進化の過程で、人間の脳は多くの機能を有するに至ったが、その中には現代社会にとってはそぐわないものも多い。その一つが権力者の脳から共感力が失われる、という仕組みではないか。

それを避けるために、権力者となった本人が自覚をして、理性によって脳をコントロールしていく必要があるのだろう。

2013年10月28日月曜日

スマフォもいいが、メモ帳も見直そう

スマートフォンを持つ人が増え、多くの人が、手帳やメモ帳を持ち歩かなくなったのではないか。

スケジュールをアラームで知らせてくれたり、友人の誕生日がすでに入力されていたりという点で、手書き手帳よりもガラケーと呼ばれる携帯が優れている点は、これまでも多かった。

その上スマフォになって画面が見やすく、入力もしやすくなり、記憶容量が増えたためにいくらでも入力できるようになった。手帳やメモ帳にできることは、スマフォでほぼできる。

電源を入れないと見ることができないとか、わずかに入力に時間がかかるとかの点では、まだ手書きのメモ帳に軍配が上がるかもしれない。でも、そのためだけでノートや手帳をわざわざカバンに忍ばせるのはムダではないか?

スマフォは連絡のための必需品として、カバンに常に入れる。だったらスマフォ一台あれば、ことたりると考える人は、多いだろう。

ところが私、最近になって、自由にメモできるメモ帳を一冊、カバンに忍ばせるようになった。「考えをまとめる」という点では、手書きメモ帳はスマフォと同じどころか、はるかにまさることが段々とわかってきたからだ。

1.ネットにつながっていない
ネットがあると、ネットですべて調べてしまいそうになり、自分の脳を使わなくなる。私のように、毎日ブログを書いていると、ネタに困ることがある。その時に、パソコンやスマフォをじっとにらみ、ネットでネタを調べることが多かったが、あるときに、その時間を記録すると、思った以上に時間を取られていることが分かった。

そうなのだ。ネットには時間を取られるのだ。ふと気づくと、丸一日経っていた、ということすらある。それでいながら、ネットに転がっている以上の発想はほとんど生まれない。

だから、アイデアを頭からしぼりだそうとするときには、ネットから距離を置こうとおもった。すぐにネットができる環境にいてはいけない。ネットから物理的に離れる必要がある。その目的のためにも、手書きメモ帳は有効なのである。

2.目に優しい
モニター画面の光量を少なくなるように設定している。それでも、自ら発光する画面を見つめることは、目にとっては負担だ。メモ帳にはその負担がない。

3.書くことで、アイデアが湧く
漢字を久々にメモ帳に書こうとして、思い出せなくて唖然としたことはないだろうか? 漢字をどう書けば良かったか、忘れてしまうのだ。人間の脳からは、使わない機能はだんだんと失われてしまう。

だが、アイデアというのは、「(正⇔反)→合」という、既存の記憶同士のブレイクスルー、あるいは新しい組み合わせから生み出されるもの。よほどの天才でない限り、記憶の蓄積がなければ新しいアイデアは湧いてこないもの。その記憶が曖昧だと、発想も鈍るのではないか?

手で書くことで、さまざまな記憶が引き出される。その引き出され方は、スマフォを操作しているときよりも大きく感じる。

なにより、大きく手を動かしていると、親指のみで入力しているときよりもはるかにアイデアが湧きやすい。

4.脳を自由にする
スマフォの機能は、案外細分化されている。メモ帳はここ、スケジュール表はここ、お絵かきアプリはこれ、連絡帳はここ……などというように。

そのような道具としてはスマフォは便利だ。けれども、いちいちそれを認識するのはやや面倒なのだ。スケジュールもメモも、ToDoリストも何もかもが、一つにまとまっていて、それを見れば万事OKというごった煮の安心感が、メモ帳にはある。メモ帳を使うようになって、それがしみじみと分かる。

私の言っていることが分かりにくい?

そうかもしれない。その良さは、使ってみないと分からないたぐいのものだからだ。ただ言えること、それは、スケジュールなのか、メモなのか、リストなのかアイデアなのか、頭にある段階ではまだ明確ではないアイデアが無数にあり、それをそのままノートに書き出すことで、まとまっていくアイデアというものが私にはあるし、これを読んでいるあなたにもあるのではないか? ということだ。

何も考えずにノートを開き、最初から順番に記載するだけでいい、という気軽なメモ帳を一冊持つ安心感は、計り知れないものがある。

「それを開けば、大切なことがすぐそこに書かれている」
「それを開いて、書けばいい」

この良さは、手帳からスマフォへと全て切り替えた後に、メモ帳へと回帰したときに、改めて理解できたものだった。

5.スマフォよりも融通がきく
メモ帳には文字を大きく書いたり、小さく書いたり、先ほど書いたアイデアに新たに別のアイデアを付け加えたりすることが、自由にできる。

スマフォにしかできない自由さも無論あって、大量に書いた文章を、切り取って別の箇所に挿入するコピペ作業はスマフォの方がはるかに便利だが、逆に思いついたアイデアをその場でいろいろなページに書き留める手軽さは、メモ帳がまさるのではないか?

ノートといえば、学校で習った書き方に縛られて窮屈にとらえる人が多いと思う。だが、もう学校を卒業して何年もたつのだ。考えをまとめるために、紙のノートはもっと自由に柔軟に使っていい。付箋をはり、やぶき、ページを折り、さまざまな内容のものを脈絡もなく、順番も気にせずに書き留めればいい。そのようなノートの使い方をするうちに、さまざまなアイデアが湧くようになる。

こうして、気づいてみるとメモ帳は、携帯と同じように、日常の必需品となった。

ちなみに以下のメモ帳は、私が最近進めている電子書籍のアイデアをまとめたもの。
どうせスマフォのお陰で、電話帳もメモ帳も、ウォークマンも本も、すべてコンパクトにまとまり、カバンには十分な余裕があるはず。ノートやメモ帳一冊くらい、入るだけの余裕はあるはずなのだ。どうでしょう? 思い切って、メモ帳を一冊、カバンに忍ばせてみては?

ちなみに、私が以前使って便利だったのは、モレスキンの無地のノート。

いいのは分かっているけれども少々値が張るので、今は無印の無地ノートで我慢している。でも、多少高くてもいい、という方にはモレスキンがお勧めだ。

2013年10月24日木曜日

愛読書から推測する、マリッサ・メイヤーという人物

2012年7月16日に、アメリカのYahoo!社がGoogle社の副社長だったマリッサ・メイヤーを最高経営者として引き入れて、1年と4ヶ月。先々月には、Yahoo!が大きく変わりつつある記事が紹介されている。

★ “ガリ勉マリッサ”がヤフーにもたらしたもの

この女性、Googleの創業者であるラリー・ペイジの元彼女だそうだ。
Googleの20人目のメンバーであるけれども、コネ入社というわけではなく、元々の資質が高い女性のようだ。やり手で、その上美貌の持ち主。興味を持って、彼女について少しずつ調べてみた。高評価は上記記事に書いているが、悪評としては下記記事に詳しい。

★ マリッサ・メイヤーの裏の顔
これは、メイヤーと働いた経験のある元Googleエグゼキュティブに昨日電話で長々と取材して聞き出した、彼女と、彼女のような立場の人たちの評価だという。
その彼女曰く、メイヤーは「誰よりも人一倍働き者」で、「世の中の人の99%よりは頭もいい」が、「身の程をわきまえず」、「管理のことは何も知らず、脅迫・侮辱で押さえ込むぐらいしか能がない」のだという。
一癖も二癖もある大勢のGoogle社の社員を若いながらひとまとめにするのだ。脅しもすればすかしもするだろう。それに、暴力は決して使っていまい。この悪評を読んでも、彼女に悪い印象をさほど、もたなかった。むしろ、さらに興味を抱く。

私が何よりも関心をもったのは、こういった人物の信念は、どのようなものなのだろう? というもの。

それを調べていく内に、彼女の愛読書について書かれた記事を見つけた。

★ Marissa Mayer: Google’s Chic Geek

上記記事によれば、愛読書は、『The Design of Everyday Things』だという。

和訳が『誰のためのデザイン?』という邦題で出ていた。

「…私は引いて開けるドアを押してしまったり、押して開けるドアを引いてしまったり、横に滑って開くドアに正面から突っ込んでいってしまったりする…」
   これは、本書の冒頭で語られる著者の失敗のひとつである。こうした失敗を、普通の人間なら単なる自分の「ついうっかり」として見逃してしまうところなのだが、著者は見逃さなかった。それは彼が認知科学者として数多くの産業事故の研究を行い、多くの事故が人間による操作ミスの一言でくくられてしまうことに疑問を持っていたからである。
   著者ドナルド・A・ノーマンは、認知心理学者であり、ヒューマンインタフェース研究の草分け的存在だ。そして本書は、電話機、パソコン、蛇口、コンロなど、私たちの身の周りにある道具と人間の関係を真剣に考える、道具の心理学の本である。
という内容のものだそうだ。Googleは、直感的に利用できるインターフェースという概念をとても大切にしている。誰でも見ただけで分かるシンプルなデザイン。彼女はこの本を読み込むことで、いつもその原点に立ち返るのだろう。
ある道具をうまく使えなかったら、それはあなたのせいではなくて道具のデザインが悪いせいである。
この本の主張はこの1文に集約できる、と私は敢えて断定します。日常の道具である電灯のスイッチやドアのデザインを具体例に、使いやすくデザインするための原則が丁寧に説明されています。
とアマゾンの書評で述べられている。

なるほどね。エレベーターの開閉ボタン
のような、間違えやすいデザイン(私は左側の「開く」ボタンを見ると、いつも両側から手のひらで押さえつけているイメージが頭に浮かんで「閉じる」だと認識してしまう)に腹を立てている身としては、この本の著者の考えに全面的に賛成だ。

彼女はこの本を読みながら、Googleを使いやすいものとすることに全力を傾けた。認知心理学をデザインに応用するという姿勢を常に持ってくれたおかげで、世界最高の検索エンジンが誰にとっても使いやすいものとなったことに、感謝しなくてはなるまい(そういえば、ブログサービスであるBloggerも随分、使いやすくなった)。どこに検索エンジンがあるのか、一瞬迷うようなサイトも多い中で、余白をそのままに、中央にデーンと検索窓を設置するシンプルなデザインには、多分彼女の意向が働いている。

上記記事には、最初は医者を目指していた彼女が、記号学に出会い、その奥深さに興味を持ち、次第にデータの表示がどのように人々の認識に影響を与えるのか、といった方面へと関心が移ったことが述べられていた。

彼女は、本質的にデザイナーであり、科学者なのだろう。推測するに、彼女は、ブラックボックスそのものの仕組みを解き明かすことや、新しいものを作り上げることよりも、実験をくりかえしてブラックボックスの中の法則を解き明かすことに興味を持つタイプなのではないか。

まずはやってみること。データを多く集めること。試行錯誤。ベストはベターの積み重ねにある。結果を重視。人間の認識は脳の習性ととらえる。主観よりも「大勢の人々が、どう認識するのか」に関心が向くタイプ……彼女の愛読書を知り、そんなイメージを持った。

Googleの素晴らしさは、デザインを科学的に分析できる、彼女のような人物を早期のうちに雇い入れて、管理者としてサイトの設計を任せたことにあるのだろうね。

2013年10月7日月曜日

劣った地域で育った思想が、優れた地域へ侵食していく

イスラム教徒が世界各国で増加しているという話は、このブログでも何度かしたことがあったと思う。

★ ヨーロッパでイスラム教徒が増加、各国では対立も
★ アメリカに増え続けるイスラム教徒。アメリカは「寛大さ」を持ち続けられるのか?
★ 日本ムスリム協会、「日本の若者がイスラムに傾倒」

イスラム教というのは、男尊女卑を教是としている。自由や民主主義といった近代国家の価値観に公然と叛旗を翻す思想だ。9.11後にはその後進性が批判の的となったけれども、その後も勢力拡大は続いている。

昨日、渡邉美樹のラジオ対談の模様を紹介したが、その中で彼が八百万の神は素晴らしい、ってなことを言っていたので、ふと、同じように素晴らしかったローマ神話が支えてきたローマ帝国が、キリスト教によって変質していったことを思い出した。

ローマ帝国では、民主主義と自由をもとに繁栄していたのに、キリスト教が広がり、ローマ帝国を飲み込み、中世という圧政と狂信がはびこる暗黒時代をヨーロッパは送ることになった。

もしもヨーロッパでキリスト教が広まらなければ、今の文明レベルには10世紀には到達していたと言われている。ローマの民主主義、自由、合理的精神などが、キリスト教によって大きく歪められ、文明レベルは大きく後退したという説が、ヨーロッパでは有力になりつつある。新大陸でキリスト教徒らが行った蛮行も、今のムスリムのような連中がおこなったと考えれば理解もしやすい。

最近では、ロシアという遅れた地域で育まれた社会主義が、世界の半分を覆ったこともあった。社会主義という文明の皮をかぶったファシズムは、東側の国の発展レベルを半世紀も遅らせることに成功した。

日本よりも後進国だった韓国発祥の宗教である「統一教会」や「摂理」という宗教団体が、日本で勢力を拡大した事例もある。

渡邉氏は、素晴らしい思想を世界に広げていかなければならないと意気込むが、劣った地域で育った思想が、優れた地域へ侵食していくことの方が多いのだ。

その理由として色々挙げられるだろうが、高度な文明では、自己責任の風潮が強くなり、強制が疎まれるようになることも理由の一つなのかもしれないとおもったのは、あるテレビ番組を観た時だ。

その番組では、底辺生活をする人々が、
「風俗とパチンコが唯一の楽しみ」
と告白していた。

例え理由があってカネがなかろうとも、例えば図書館で本を読んで知識を増やすとか、パチンコ以外の役立つ趣味があるだろうに、と思ったものだ。ところが彼らはそのような知的欲求はない。

自由な社会では、豊かになる自由と共に堕落する自由もある。堕落することは気持ちがいい。自由気ままに生きて、段々と将来の選択肢が消えていく閉塞感を感じながらの、この瞬間の快楽。

かつてフロイトは、
「人間には破滅したいという衝動がある」
と説いた。これをギリシャ神話の死神からとって、タナトスとフロイトは呼んだ。人間には、堕落していきたい、このまま死にたい、瞬間の快楽のためならば将来を失ってもいい、という抑えがたい快楽がある。この手の快楽は、味わえば味わうほどさらに強くなる。だから貧しい人間はさらに貧しくなる。

貧しい人間は自分でその運命を選んだのだ。同情するべきではないのかもしれない。しかし放置すれば、格差が広がり、豊かな者と貧しい者との温度差はますます広がる一方となる。

では、下層階級に沈んだ人々を救う方法はないのか?

ある。それが、貧しい地域で生まれた、支え合いの精神、単純な価値観、厳しい規則による自律心を培う思想だ。かつてのキリスト教もそうだし、共産主義もそうだったし、イスラム教もそうなのだろう。

初期のキリスト教の場合、信者は、様々な価値観を認め合う複雑なローマ的価値観を否定した。キリストの教えに基づいた単純な信仰を核として、コミュニティーの中で支えあう、一種の互助会だった。貧しいのに他人を助けることができたのは、禁欲的な規律のために、誰もが貧しい中でも多少の蓄えがあったから。お互いが余ったものを、仲間のために融通し合い、その姿に豊かなものも共感して、キリスト教はローマ帝国へ浸透していった。

「自己責任」
「他人がどう考えようが関係ない」
と語って悦に入り、貧しい人々の苦痛を「努力不足」の一言で肯定する人々がいくら多様な文化の素晴らしさを訴えたところで、貧しい人々の心には決して届くことはこれからもないだろう。そして、イスラム教のような貧乏人のための思想が、人々の間へ侵食していく。

ではどうすればいいのか? その方法については、天草の乱の後、キリスト教という一神教が広まった土地で「破切支丹」という書物を書いて民衆を強化した鈴木正三が参考になると思うが、それを書くと長くなるので、いずれ機会をみつけて書くことにしたい。

2013年10月2日水曜日

クラブが風営法で規制された遠因は、1933年の「ダンスホール事件」

昨年あたりから、クラブの取り締まりが厳しくなった。

知らない人がまだ多いようだが、ダンスができるクラブは、スナックなどと同じ風俗営業と法律ではみなされており、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」(=風営法)の取り締まりの対象となっている。

風営法の規定では、18歳以下の人間が立ち入ることは不可。深夜1時までしか営業できない(場所によっては0時のところもあり)。しかし、クラブではオールナイトで朝まで騒ぐのが普通である。そこで取り締まられないようにクラブのオーナーは風営法で必要な届け出を行わなかった。つまりは違法状態が野放しになっていたのだ。

今まではそれを警察が黙認していたのだが、それがこの一年、急にしめつけがきびしくなった。風営法の届け出をしないクラブは閉鎖。届け出たところは、深夜1時までしか営業ができない。
「面白くない」
と言われ、東京の六本木や大阪のキタのクラブでは、どこも閑古鳥が鳴いている。

数年前に、酒井法子や押井守が相次いでつかまり、市川海老蔵がチンピラから暴行を受けるなどの事件が起こった。登場人物の交遊場所が六本木のクラブだったため、メディアから注目を浴びた。そのうち、クラブが違法薬物の売買の温床となっている、と糾弾されるようになった。それがきっかけとなり、今回のクラブ取り締まりへいたったのだろう。

クラブがどうして風営法の対象なのか

ところが、クラブで踊る客の大半は、まともな人間だ。今では高校生からクラブ通いするのも珍しくない。大学生がサークルの二次会をクラブで行うことも多いだろう。

踊っている人々も、特に女性たちの多くは、自分たちが通っている場所が風俗営業店舗だとは知るまい。

だからこの区分けが時代遅れだと思っている人は大勢いる。ミュージシャンの坂本龍一などが中心となって、クラブ営業を風営法の対象から外すように、呼びかけを続けている。

先日風営法違反で逮捕された大阪のクラブ「NOON」の元経営者の金光氏もまた、クラブが風営法の対称となるのはおかしい、と主張する一人。

★ 元クラブ経営者「ダンス規制は憲法違反」 初公判で無罪を主張

彼は、
「法律に違反する風俗営業はしていない」と無罪を主張、弁護側も「ダンス営業を規制する風営法の規定は表現の自由を侵害し、憲法に違反する」と争う姿勢を示した
そうだ。


よくよく考えてみれば、ダンスをするというだけで風営法の取り締まりの対象となるのもおかしな話だ。男女が踊ることが性的だろうか? それが1時までしか営業できないなんて法律が、なぜできたのか?

その理由として、風営法について書かれたネット記事を読むと、
「第二次世界大戦後の、欧米化の流れによって乱れた風紀を正すため」
という説明が一般的なようだ。

だが、理由はそれだけではない。

日本では、
「ダンスをする場所はいかがわしい場所である」
という共通認識が、第二次世界大戦以前からあったのだ。ある事件があり、そのために戦前からダンスホールは、警察による厳しい監視下にあった。

当時は警察の力が強かったのでいつでも規制できたが、戦後はそうもいかぬ。そこで制定されたのが、風営法、というわけだ。

その事件とはなにか。

1933年(昭和8年)に起こった「ダンスホール事件」である。

ダンスホール事件とは

舞台となったのは東京の赤坂溜池町(現在の赤坂2-2-17 ニッセイ溜池山王ビルのある場所)にある、ダンスホール「フロリダ」。

大きな地図で見る

ここのダンス教師に惚れぬいた34歳の既婚女性・吉井徳子が、彼の愛情をつなぎとめるために、友人の既婚女性を夜の相手として次々に斡旋。それがばれて、警察沙汰となった。当時は不倫は犯罪だった。

その上、吉井徳子はただの女性ではなかった。先祖を藤原道長におく、藤原四家の末流である柳原家の出身。夫は、元薩摩藩士を祖父に持つ、伯爵・吉井勇。華族の中の華族が引き起こした性的なスキャンダルだったから大変だ。世間は大騒ぎとなった。

もちろん吉井夫婦は離婚。徳子がダンス教師に紹介した既婚女性たちもまた、華族が多かったものだから、華族社会は大混乱に陥った。

それ以降、ダンスは警察の目の敵とされた。先述の通り、ダンスホールは警察の厳しい監視下に入り、1940年(昭和15年)には、戦局の悪化を理由に、すべてのダンスホールが閉鎖されてしまった。

これ以降、ダンスする人間はモラルに欠けている、という共通認識が人々の間にはびこるようになる。逆に、ワルを自称する人間はダンスホール、戦後はディスコやクラブに喜んで出入りするようになる。

よって、いまでもクラブはワルのたまり場だ。だから現在でも、クラブでは他の場所よりも違法行為が行われやすく、風営法は改正されぬまま、今にいたっている。

欧米なんぞでは、ダンスをするのは当たり前だ。高校生は「プラム」と呼ばれる高校3年生最後のダンスパーティーでいかにモテるかに、勝負を掛けているほど。クラブをアンダーグランドな場所として認識しているのは、日本くらいだろう。

今ではその記憶も薄れているが、ダンスをなんとなく「いかがわしいもの」と考える認識が残っているのは、ダンスホール事件の残滓が遠因なのではないだろうか。

2013年9月29日日曜日

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と述べたのは、ドイツの名宰相であるオットー・ビスマルクということになっている。
だが彼が本当に語った言葉は微妙に異なる。正確には、
愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。
Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.
というものだという(出典:Wikipedia)。

しかし、上記の言葉そのものより「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉のほうが人々によく知られている。格言というものが時間によって取捨選択された人々の智慧なのだとしたら、冒頭の言葉の方が、格言としてふさわしい。

確かに、個々人のせまい経験から導き出された判断よりも、多くの人々の経験を広く集め、比較検討し、客観的な事実として定着した歴史を元にして判断した方が、間違いがない。「三人寄れば文殊の知恵」とも言う。集合知による判断は個人の偏狭な判断力を大きく上回る。

経験に学ぶ愚は、歴史を見ても明らかだ。

イギリスは歴史に学んだ


イギリスが世界中を植民地にして回ることに成功したのは、この国が「判例」を重視することで名を馳せた国で、歴史を重んじることを国是とした国であったからだ。彼らは、植民地経営に乗り出すまでに、膨大な知識を記録、整理し、歴史としてまとめる作業を数百年かけて行い、智慧をひたすら蓄え続けてきた。

彼らに侵略されたアフリカや南アジア、北米大陸やオセアニアの土着の人々が、自分たちの狭い経験をもとにイギリス人に対抗したのに対して、イギリス人はローマ史からの歴史を学び、マキャベリなどの天才たちの知識を学び、それを自国に生じた事件に当てはめ、自家郎中(じかろうちゅう)のものとした歴史上の知識をもとにして、原住民を効果的に分断統治し、世界の半分を支配することに成功した。

確かに、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は正しい。

経験に学ぶことは無駄なのか


だが、この言葉はときに、個人の体験をないがしろにするためにも使われる。
「自分の体験だけでものごとを判断してはダメだろ。もっと歴史を知らないと。『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』というではないか」
などとね。

果たして、個人の経験を省みることは、歴史を学ぶことよりも意味のないことなのだろうか。

否。

「愚者は経験に学ぶけれども、聖人は経験から悟ることができる」
とも言えるのではなかろうか、と、ふと考えた。

中国の明代の思想家に、王陽明(おうようめい)という人物がいる。
若い頃に、武芸を学び全てに秀でると同時に、多くの書物を読み、広い知識を得たものの、確固たる判断力を得るまでにいたらず、長く迷い続けた。科挙という、今の司法試験以上に難しい試験にも受かるほどの知識も得たのに、心から納得することができなかった。

ところがあるとき、辺境の地に左遷されたのをきっかけに瞑想三昧の生活を送り、ついに「龍場の大悟(りゅうじょうのたいご)」と呼ばれる悟りを得た。それから何千人もの若者を指導し、政治家としても軍人としても一流の業績を挙げるという、八面六臂の大活躍をする。

彼は、
「書物が無くとも、思索を深めることで、人は聖人になることが出来る」
と説いている。

聖人は賢者を超える

王陽明に限るまい。釈迦も、キリストも、ムハンマドも、そして彼らから学んだ多くの聖人たちも、深い瞑想、思索の果てに悟り、多くの人々を導いている。瞑想は個人の経験をもとに思索にふけるものであり、書物を読みながら歴史的考察を深めるものではない。

イギリスはたしかに、世界中に植民地を得た。だが、その繁栄の源泉でもあるインドを、たった一人の「聖人」によって奪還されたではないか。
マハトマ・ガンジーは、南インドで弁護士を開業していた時に、インド人差別の実体を知る。生涯をイギリスの圧政との戦いに捧げることを誓い、創設した農園で、禁欲、断食、清貧、純潔を実践する瞑想生活を送ることで、あの高い精神性を得た。

彼の不服従の思想は国境を越え、世界中に感銘を与え、インドを独立させ、そしてイギリスの世界支配を終焉させた。

確かに、経験に固執する愚者は、歴史を学んだ賢者から支配される。だが、己の経験を「悟り」にまで深く掘り下げた聖人は、賢者を凌駕して、愚者を支配の鎖から解き放つことができるのだ。

2013年9月26日木曜日

女性の描く男の友情はなぜホモ臭いのか

先日いくつかのウェブ漫画を紹介したが、その際に、読んでなかなかおもしろいと思いながら『古御神の人』は紹介しなかった。

ストーリーは面白い。古御神という主人公の一族が降魔の力を持ち、日本の政財界に大きな力を有しているという設定は、ライトノベルなどの黄金パターンだ。

死後の世界を司る伊佐那海(イザナミ)を、彼らは古代から鎮めてきており、一族の総長である総一郎は、ある年齢になるとイザナミのために生贄とならなければならない。その運命に抗おうと、古御神家の人々が悪戦苦闘する……そんな話だ。

アクションも面白く、ストーリーも練られている。バトルシーンは面白いし、女性作家特有の人間関係のきめ細やかな描写も素晴らしい。そこは良いのだけれども……付帯条項がつく。

とにかく男性陣の友情が、みなホモ臭いのだ。男はあのような友情を望まないし、あんな感情表現をしないし、あんなことで悩んだりしない。女性同士の友情がそのまま男性に当てはめられていて、居心地が悪かった。

描写は抑制されていて、腐女子向けの過激なサービスはないものの、どうにも感情移入しにくい。

これを読みながら、
「男性が描く女性同士の友情なども、女性からみたら共感しづらいのかもしれない」
などということを考えた。

これは、『古御神家の人』を描いた"らいま"さんの力量不足のせいではない。ミステリー界の大御所である宮部みゆきの本を読んだ時などにもよく感じる。宮部氏はホモ的な小説は書いていないものの、彼女が描く少年が友人に示す友情は、たいていホモ的で嫌になる。

女性の描く男性同士の友情はどうしてこう、男性にとって気持ち悪いことが多いのだろう。
女性はなぜ、男性同士の恋愛を描きたがるのだろう。
女性と男性の恋愛は、なぜこうも違うのだろうか。

以前、
「邦画では男性監督が多かったために、女性視点の映画が少なかった。『桜の園』は、女性の友情を女性視点で描くことに成功した数少ない成功例だ」
といったようなことを書かれた映画評を読んだことがある。


この映画を観た時に感じたのは、女性同士が好き、嫌いで仲違いをしたり認め合ったり尊敬しあったりする、その繊細な人間関係への驚きであった。女性は男性と感性が異なる……このことをはっきりと意識したのはこの映画を観てからである。

どのように異なるのか。

女性同士の友情においては、異性への愛情と似た「好き」「嫌い」という感情を同性に抱く。

逆に男性の友情は、「好き」「嫌い」という感情に基づいたものとは少々異なる。「楽しい」とか「信頼出来る」といった感情が基になっている。

女性同士の友情の基調には"愛(=恋愛、性愛)"があり、男性同士の友情の基底には"義(博愛)"がある、と定義してみてはどうだろうか。

そういえば、男性はセクハラを好むけれども、女性はセクハラを大変嫌う。「セクハラ」とは、要は性愛を茶化したものだ。女性は性愛や恋愛を、大変神聖なものと考えている。だからこそ、それを茶化されることを許さない。

逆に、女性は男性が家族よりも仕事に熱意を傾けることや、正義心などをよく揶揄する。
「どれが正しいとか、そんなバカバカしいことにムキになるなんてさいてー」
「そんなのどっちでもいいじゃない」
けれども、男性はそれを大変嫌う。男性は正義を大変大切に思っているから、それをバカにされることを許さない。

同じ人間だから同じような感情を持つものと、私たちはアプリオリに考える。そして、同じ「友情」という名前がついているから、同じような感情を持つものと思い込んでしまう。そこで、女性は自分たちの恋愛めいた友情の延長として、男性同士の友情をとらえるるから、男性同士の生死を超えた友情に、「至高の恋愛の形」を見て取ってしまう。

このような構図があるように思われる。

2013年9月25日水曜日

哲学・思想的要素のあるアニメ(覚書) 下

さて、それでは昨日の記事の続き。
7.Ergo Proxy
Ergo Proxy Blu-ray BOX [初回限定版]
世界観も判るのはかなり後(メガゾーン23・ザブングル・ガリアン等が近いかもしれませんが、語る視点が残されて再生させる側)、その核心は驚きのクイズ回で語られる上に、どんでん返しは最終話でと、綺麗に纏まっています(最終話をみて、また1話を見ると新たな発見があるのはスルメのような感じで、最近ですとシュタインズゲートや魔法少女まどか☆マギカ等でしょうか)。

8.パプリカ
パプリカ [DVD]
基本中の基本なのにまだ観ていない(泣)。今敏監督の作品で、多分ハリウッドの「インセプション」に大きな影響を与えている。インセプションがこれまた面白かったので(これを観て私はコマを買った。詳しくは以前の私の記事"回転(中) 女性を口説く、知られていない方法"を参考のこと)、元ネタを観なければ。
内容は原作とはまるで別モノです。ですが、筒井康隆さんの独特のケレン味や五七調の台詞など、あの文章から滲み出す世界観がきっちりと息づいています。同年公開された『時をかける少女』も大傑作だと思いますが、筒井康隆さんらしい作品、という意味ではこちらが上かと思います。

9.ノエイン もうひとりの君へ
ノエイン もうひとりの君へ DVD-BOX
最新の量子論をもとにして創られたタイムパラドックスを扱った作品らしい。タイムパラドックスをネタにした作品にハズレ無し、とよく言われる。実際、タイムトラベラーが登場する作品をいくつか思い浮かべても、どれも秀作だった。

……ということは、この作品も面白いのであろう。
SFアニメの傑作です。いや、アニメに限らなくても第一級のSF作品でしょう。
量子力学の「不確定性」と「未来の選択」を結びつけたテーマが、みごとに全ストーリーに構成されています。それでいて、そんなことを考えなくても存分に楽しめる作品でもあります。ストーリーも、作画も、音声も。

10.RD潜脳調査室
RD 潜脳調査室 コレクターズBOX 1(3枚組) [DVD]
題名から想像するに、人間の脳に入り込む作品なのだろう。夢枕獏の「サイコダイバー・シリーズ」だとか、先述の「パプリカ」や「インセプション」などいろいろな作品があり、どれも面白いので、これもまた面白いのであろう(タイムパラドックス者と同じ連想だ)。
 この物語は活発なアナログ少女ミナモと、心は30歳の浦島太郎の老人が、毎回起こる様々な事件を解決するアニメです。
 子供であるミナモと大人である波留の年齢から来る物の見方の違いが物語を深い物にしていて絶妙です。

11.UN-GO
UN-GO 第1巻 初回限定生産版Blu-ray
感想を読むと、綺麗に最後がまとまった完璧な作品、などと高い評価が多い。設定がしっかりしていてブレない、とも評価されているので、質もいいのだろう。
UN-GOはいいぞぉ
「人の心の『真実』」というテーマについて様々な例を提示して視聴者に考える取っ掛かりを示してる
とまとめサイトで評価されているから、これは一度観てみたい。
本作は文豪、坂口安吾が手がけた「明治開化 安吾捕物帳」を原案に、大胆なアレンジと解釈を施したアニメ作品です。ジャンルは探偵モノ、という事になります。
敗戦探偵 結城新十郎が、謎の美少年アシスタント 因果と共に巻き起こる事件に立ち向かいます。
とあるから、探偵が主人公のミステリーらしい。とすると、「PSYCHO-PASS」が好きな人なら面白いと思えるのかも。

12.風の名はアムネジア
風の名はアムネジア [DVD]
原作は中学生の頃に読んだ。菊地秀行の作品にしては珍しく、いやらしい描写が少なかったので、当時潔癖少年だった私にはとっつやすく、何度も読み返した。素敵な余韻を残す作品だったと記憶している。

菊地秀行は作品間で共通する登場人物がよく出てくることで知られているけれども(魔界医師メフィストとかね)、『風の名はアムネジア』では珍しく、他作品とのクロスオーバーがない。

これ、アニメになっていたのか。今度観てみねば。
菊池秀行原作のSFを映像化。
足腰のしっかりした絵作りは流行りすたりを越えて魅力を放つ。
印象に残る美しい画面多数。
せつないけど透明度の高いきれいな印象、後味。
小説のそれをきちんと再現している。

2013年9月24日火曜日

哲学・思想的要素のあるアニメ(覚書) 上

2ちゃんねるのまとめサイトで、
★ 哲学・思想的要素のあるアニメでお勧めを教えてください
と題した2chのやりとりがまとめられている。

そこで最初に挙げられていたアニメが、
攻殻機動隊
妄想代理人
PSYCHO-PASS
灰羽連盟
輪るピングドラム
だったので、「お、これはできるスレ主」と思った。私のアニメ好きの友人がイチオシのものが2つ、私の好きなアニメが1つ、入っていたからだ。

哲学・思想的要素のあるものは大好物。そこで紹介されていたものに魅力的なものが多かったので(萌えアニメとロボットアニメを除く)、備忘録的な意味もこめてここに紹介。順番は見たい順。引用はAmazonの感想欄より。

1.灰羽連盟
灰羽連盟 DVD_SET
これは実は、一度観ている。人間関係で悩んでいた時に観て、形而上的なことに思いを馳せて、気が楽になった覚えがある。もう一度見直したい。
 天使の出来損ないのような灰羽という少女少年達のふれあいと社会とのつながりを温かいまなざしで描いています。(中略)主に物語の世界観、登場人物を説明する前半は、あたたかくのんびりと幸せな様子で、やや平坦で眠くなるかも知れない。
 時計塔の鐘の音が効果的な後半は一転、ある出来事をきっかけに憂鬱なまでに息が詰まるような展開を見せる。一見のどかで平和な物語の不思議な世界の謎、闇の部分が出てきます。それまで静かに語られてきた物語の最終話は、これはもう圧巻です。

2.シリアルエクスペリメンツ・レイン(Serial experiments lain)
シリアルエクスペリメンツ・レイン コンプリート DVD-BOX (全13話, 325分) serial experiments lain アニメ [DVD] [Import] [PAL, 再生環境をご確認ください]
第一話だけDVDを借りてみたものの、途中で挫折した思い出が……。
その後いろいろなところでこの作品について語られているのを読んで、
「あの時に見通していれば……」
と悔やんだ作品。今度暇な時に観ねば。
テレビ東京の深夜枠、しかも1クール13本の小編でありながら、未だに各方面に多大な影響を与える、90年代アニメの最高峰の一つです。
まずはオープニングを見てください。
なお、貼られているアフィリンク、大きい画像から飛ぶDVDはパソコンでないと再生できないので、ご注意。


3.四畳半神話体系
四畳半神話大系オフィシャルガイド
この四畳半神話大系のキャラクター原案を描いた中村佑介さんとは、実は仕事で一度、ほんの少し関わったことがある。クリエイターには気難しい人が多い中、大変気さくで親切な良い方だったので、地獄で仏を見た覚えがした(ちょっと大げさかな)。

そんな中村さんがスタッフとして参加している作品だから、一度観なければいけないと思いつつ、まだ果たせていない。
基本、主人公の一人語りで延々と進むワケですが 退屈することなく最後までテンション高く見ていられます。
練られた台詞まわし、大胆にして繊細な演出。回を重ねることで、無意味に見えた些細な事柄が意味を持ち始める。
一話の無駄も無くすべてがそろって完成する作品。

4.神霊狩
神霊狩/GHOST HOUND 1 [DVD]
山田正紀の作品『神狩り』という有名な作品があって、評価が高い。題名を見た瞬間に思い出したけれども、この話とは無関係のようだ(笑)。超常現象と人間関係をからませた作品らしい。
 普段、通っている道に普段見かけない「物」が落ちていたら、「あれ、これ、何?」と思うかとは考えていますが、普通のアニメ展開でありがちな感じで進むストーリー上に「普段見かけない物」がこの作品には多数感じられます。
 それが興味深くさせている最大の物であり、画面に引き込ませる最良の物であろうと・・・ 個人的には考えています。

5.少女革命ウテナ
少女革命ウテナDVD-BOX 上巻 (初回限定生産)
これは一度通して観ないといけないと思いつつも、全39話という話数に恐れをなして、手を出すのがためらわれたままになっている。友人のイチオシなので、今度暇になったときに一気に観よう。
このウテナという作品だけど、青春の悩みが全て放り込まれているのではないだろうか。
勘違い、片思い、憧れ、同性愛、傲慢、嫉妬
小学生じゃ分からないわけだ。深すぎる(笑)

6.忘念のザムド
亡念のザムド 1 【DVD】
大きなカタルシスとか爽快感みたいなものはなかったですが、ゆっくりとした余韻を残す、終わりのない世界での一つのお話の終わりを描くにはとても良い最終回だったのではないかなと思います。("終わりか、終わりなのか 亡念のザムド最終回26話感想"より)
作画、演出、脚本と、あらゆる要素がすべて高い次元で融合していた。またドラマの作り方においても、難解な作品テーマを彩るカタチで、友情と恋とが織りなす大変魅力的な人間ドラマや、興奮必至のアクションシーンを盛り込んだ政治・戦争ドラマが描かれていて、難しいことは脇に置いておいて、純粋に「最高に面白い」と言いきれるだけの作品に仕上がっている、素晴らしいエンターテイメントだった。("亡念のザムド 第26話(最終回)「大きな石と少女」&シリーズ感想"より)
などと、最終回を観た人がべた褒めなので、多分面白い作品なのだろう。
監督がジブリ出身の方とあってそれっぽく見えますが、最近のジブリなんかよりも深くて面白い作品だと思います。
絵も音楽(BGM、OP、ED全て)もいいですが、恋や友情や家族愛、戦争、信仰、信念、色んな要素が詰め込まれたストーリーで、何回も見られる作品だと感じます。

2013年9月23日月曜日

アシナシイモリという生物、アワビのような生き物

このTwitterで紹介された写真が最近話題になっている。
こんな生き物の存在を教えてくれて、どうもありがとうございました。
変わった生き物が好きなので、いったいこの生物はなんだろうと調べてみた。元ネタとなった記事をまず発見。

★ Scientists discover new species of 'blind snake' in Brazilian river that looks remarkably like a piece of the human anatomy (and stop sniggering)

記事によれば、アシナシイモリの新種だという。アシナシイモリとは無足両生類の総称らしく、いまだ多くの生態が分かっていない。これからも続々と新種が発見されるのだろう。

粘膜に覆われた長いものだと、だいたい似たものを喚起させる。その代表格ではミルクイと呼ばれる貝や、
ユムシと呼ばれるナマコの仲間などがある。

では、逆バージョン(何の?)の生物はどうだろうか?


それは言わずと知れた"アワビ"だろう。
日本ではアワビの殻を家の入口に吊るす風習があった。
元ネタの方に、
「魔を払う力がある」
という言い伝えが古くからあり、そこから連想された風習のようだ。

その他に、ムール貝もまた、あれに似ている。
ムール貝は西洋ではあれ象徴として名高く、画家のヒエロニムス・ボス(1450-1516)の絵画「快楽の園」でも、ムール貝が描かれている。下記は「快楽の園」の一部を拡大したもの。
自然の中にはいろいろな生物がいる。こういうのを観ていると、自然に頭の中がピンク色になりそうだから、ご注意を。

★ Caracol Vagina en pleno orgasmo - MIREN EL OTRO VIDEO


2013年9月12日木曜日

生命は螺旋を描き、宇宙もまた螺旋を描く

地球や火星のような惑星は、太陽という恒星の周りを回っていると学校では教えられている。

だが、それは本当だろうか?

本当の姿は、別にあるということを示したのがこの動画。観た時は鳥肌が立った。


惑星は確かに太陽の周囲を円軌道を描いて回っている。
だが、太陽は同時に、銀河の中心から外側に向かって猛スピードで遠ざかっている。

そのスピード、時速約83,700kmである。

地球が太陽の周りを回る速度が、時速約100,000kmであるから、地球が太陽を回るよりもほんの少しだけ遅い(しかし猛スピードと表現するのに十分な)スピードで、太陽自体が銀河の中心から離れている。

だから、地球や、同じく太陽の周りを回る惑星が描く軌道は、円ではなく、螺旋(らせん)なのだ。

そして、DNA構造を例に挙げるまでもなく、

命あるものは螺旋を描きながら成長する。
その構造は螺旋である。
車輪は移動手段として効率のよいものだが、かように多様な生物界に、車輪を移動手段とするものはただの一つも存在しない。

生命の本質は円ではなく、螺旋なのだ。

だから、螺旋を描きながら動く太陽系もまた、生命の一部であるとこの動画の作成者は主張する。

生きること、成長すること、日々変化するものは、決して同じ軌道を描くことはない。同じところを回っているように見えても、螺旋を描きながら前へ、前へと進む。

私たちも、同じことの繰り返しのような毎日ではあっても、少しだけでも、進むべき方向へ向かおう。螺旋を描くように生きよう。

それが宇宙の法則だ。