最近になって『ブラック企業』という本を読んだが、読むのがつらくて何度か本を置くこととなった。
文章が読みにくいということはない。著者は私よりもはるかに年下ではあるけれども、学術的な訓練を受けているせいか私よりも論理的で、なおかつ豊富な実例が「読ませる」。
しかし、その豊富な実例を読むのがつらい。昔の自分の体験を思い出させるからだ。ブラック企業から離れて年月も経ち、ある程度気持ちの整理もついたはずだが、あのときの悔しい気持ち、腹立たしい気持ちとは未だに折り合いをつけるのが難しいようだ。
詳細は上記の本を読んでいただくことにして(幸いなことに、かつてたくさん売れたので中古本が安価で出回っている)、その本に書かれていないことを読みながら考えたので、書いてみたい。それは、現在のブラック企業の発生の理由だ。
なぜ近年、ブラック企業がこれほど話題になるようになったのか?
それは、日本企業が少し方向性を誤ると、ブラック化しやすくなったからだ。なぜ企業がブラック化しやすいのか? もともと日本流、あるいは松下幸之助流の家族主義という土壌へ、アングロ・サクソン流の熾烈な競争原理が持ち込まれて、社員に逃げ場がなくなったからだと思っている。
どういうことか? もともと日本企業は企業が社員の一生を丸抱えすることで、会社が一つの家族のような役割を果たしてきた。それは社員の忠誠心を育てたが、やる気を育てるためには別の燃料も必要だ。アングロ・サクソン流の頻繁な解雇や降格がない中でいかに社員のモチベーションを高めるか? そこで日本企業では様々な方法を用いて、社員のやる気を上げる工夫をこらした。
その一つに、労働と社会貢献、本来は別のものをくっつけてしまい、労働することが社会貢献だ、という価値観を育てたことがある。
リッツ・カールトンという外資企業が「クレド」 なる会社の理念を掲げてかつて話題になったが、あれはもともと日本企業のやり方を外資流にアレンジして取り入れたものであることはよく知られている。日本企業が世界を席巻していたときに、アメリカの企業が日本企業を研究して、朝礼で「社訓」「社是」と呼ばれるものを唱えられていることに着目して、アメリカの企業に紹介をした。それを洗練させたのが、リッツ・カールトンの「クレド」だった。
クレド、その源流となる「社是」「社訓」で訴えられることは、会社で働くことが社会をよくすることにつながる、という主張だ。この主張が使命感を育てる。使命感は、社員に労働に没頭させる。働くことが歓びとなった人間の生産性が高くなることは、容易に想像がつくだろう。また、会社で一生懸命に働かない人間は社会貢献の意思がない、と周囲がみなすようになり、社員にプレッシャーを与えるだろう。こうして人々は仕事に専念する。
こうした洗脳的な手法で日本企業は社員を追い立ててきたわけだが、ただ会社が家族のようなものだったから、社員間でお互いに支えあい、その欠点を補ってきた。
ところが今や、会社がリストラを自由に行なう時代が。従業員の生活には責任を持ちません、でも従業員にはこれまでどおり忠誠を誓って欲しい、という都合が良すぎる命令を現代の企業は我々に強いている。
こんな馬鹿げた命令に私たちが従う必要はまったくないし、いずれ社会から淘汰される考え方だろう。しかし今は過渡期だから、その害が明らかにまだなっていない。そこで、日本流の会社勤務=社会貢献という思想と、競争原理が容易に結びついて、人々を追い込む企業を生み出してしまう。ブラック企業の発生と増加の原因がそこにあるように思う。
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