2014年10月30日木曜日

自衛隊員から暴力をふるわれたときの話

大半の自衛隊員は、自然災害復旧活動などに尽力する素晴らしい方々だろう。だが、中にはどうしようもないクズもいる。部下をイジメ倒して自殺に追い込む事件などもときどき耳にするが、ときには民間人に向かって牙を剥くようだ。

★ 空自幹部 線路に男性投げ落とした疑い
 航空自衛隊の幹部自衛官が29日夜遅く、東京のJR大久保駅で酒を飲んで帰宅途中に肩がぶつかったと声をかけてきた会社員の男性を、ホームから線路に投げ落としたとして、殺人未遂の疑いで警視庁に逮捕されました。
 逮捕されたのは、防衛省航空幕僚監部の3等空佐、鶴田義明容疑者(39)で、(中略)大久保駅のホームですれ違った際に肩がぶつかったと声をかけてきた44歳の会社員の男性に対し、「殺してやる」などと言って胸ぐらをつかみ、線路に投げ落としたとして、殺人未遂の疑いが持たれています。
この話を聞いて、蓋をしていた嫌な記憶を思い出した。昨年末、海上自衛隊の男(自称)にケンカをふっかけられたことが私にはある。

昨年12月の半ば、待ち合わせをしていた彼女と落ちあい、新宿マルイを通りすぎて新宿三丁目の交差点で信号待ちをしていたときのこと。

彼女が私に、
「あの人達、危ないね」
と声をかけた。

たしかに危ない。クルマが通行中の片側2車線の道路の中央寄り車線上に、そのカップルはしっかりと抱き合って夢中になってキスをしている。それに気づいたクルマは徐行しつつ、動こうとしない障害物を避けて、横の車線に移る。クラクションを鳴らさないのは、からまれるのを恐れてか。

(ああ、酒に酔ったバカ外国人だ)

と私は思った。女性は金髪の完全な白人で、男性も190cmほどある。六本木などでよく見るシーンで、酒に酔った外国人が酔って道路に飛び出ることがある。そういうときに私はよく、危なくないように彼らを歩道へと引き寄せる。

そのときも何の気なしに道路に駆け寄り、彼らの手首を掴んで、
「ここ危ないよ。赤になっているよ」
と言いながら歩道へと連れて行った。渋滞しかけていたクルマが動き出す。そのとき私は、男が20代の日本人で、酔っていないことに気づいた。

それからすぐに信号が青になったので、なんとなく不穏な雰囲気を感じながらその場を立ち去ろうとしたところ、男が追いかけてきて私の肩をつかむのである。
「おい、コラ。なに人の女に触ってんだよ」
そして私をつきとばした。

ふいをつかれて少々よろけた。私の彼女が、
「ちょっと、何してんですか!」
と声を上げたので、私は彼女に、
「この場から離れてもらえる?」
とお願いした。彼女にはこういう場合、その場から逃げるよう、日頃からお願いしている。彼女はすぐに走ってその場を去ってくれたので、安心して男に向き合った。

彼はGIカットと言われる髪型で、筋肉質で体格がいい。横にいる女性は白人だが、流暢な日本語で、
「ちょっと、やめようよ」
と彼氏を止めようとしているから、少しはまともなんだろう。完全な金髪だったから北欧人かとおもっていたが、顔を見るとスラブ系のようにも見える。ロシアンパブかどこかで2人は知り合ったのかね。

「危ないから引っ張っただけでしょ」
と言って私はその場を離れようとした。
「てめえ、なに逃げてんの? いかせねぇから」
と言ってその男、私の前にたちふさがり前をふさぐ。なおも進もうとする私の胸ぐらをつかもうとする。その両手首をとりあえず、合気道で言う両手取りの要領で、つかんだ。

つかんでみて分かったのは、この男は格闘技経験がなさそうだ、ということだ。普通、手首をここまで握られたら、なんとかして振り払おうとしたり、ローキックをしようとしたりするだろうが、それをしない。ああ、それならこいつ、いざとなれば投げられるな、と目算を立てて一安心した。

格闘技を習っていた人ならば同意してくれるだろうが、素人と経験者はまったく異なる。ある程度のガタイある相手であろうと、何年間かマジメに格闘技をやっている人間ならば、いなすことはそれほど難しくない。

ただ、こちらから手を出せば、その時点で加害者だ。それよりも、被害者となった方が、文明社会では勝者となる。

今回の場合、最初に交通法規に違反した行動を取っていたのは相手で、それを注意した私を逆恨みしたという構図だ。私が被害者になれば、裁判で完全に勝てると思いながらも、そこから一歩、踏み出す勇気がなかった。

今抑えている手首を離して、こいつに殴らせればいい、と思う。だが、クリーンヒットして私が路上に転倒するかもしれない。その上からこの男に乗られたらヤバイことになる。やっぱり、190cmのガタイは脅威だ。上から乗られたら、容易に返せない。

しかも今は彼女がいる。もしかして近くで見ているかもしれない。倒れた私に驚いて、万が一にでも助けに入られ、彼女が殴られでもしたらと思うと、被害者となってあえて自分を殴らせる作戦に出ることがどうしても出来ない。

お互いににらみあっていると、相手の男が妙なことを言う。
「おい、てめぇ、誰に向かってケンカ売ってんだ? 俺は海上自衛官だぞ」

道理でGIカットか。身体もゴツイから、鍛えているのは分かる。
「公務員なら法律違反するなよバカ」
とは、私は言わなかった。彼女のことを考えて、下手に、下手に出ることにした。

「そうですか。それは凄いですね」
「てめぇ、なめてんじゃねぇよ。国のために働いている俺に対して、何のマネだ? この野郎」
「だったら、警察につかまるようなマネしちゃダメでしょ。俺を殴ったら、警察行きですよ」
「は? 警察なんて地方公務員だろ。俺は国家公務員だぞ、お前バカだろ」

私は、この言葉に一瞬衝撃を受けた。というのも、無知なことに自衛隊が国家公務員で警察が地方公務員という区分となっていることを知らなかったから。この男の言葉を聞いて帰宅してネットで調べて改めて認識した。

バカだと思っていた相手が自分の知らない一般常識を語ったことに、私は少し狼狽してしまった。

また、同じ公務員としてお互いにリスペクトしているんだろうな、となんとなく考えていたので、こうあからさまに、自衛隊員を名乗る男が警察をバカにするセリフを吐くとは考えていなかったのだ。

本来ならば、
「あんた、本当に自衛隊なの? 部隊名は?」
などと聞き出せば、翌日自衛隊に電話をしてこの男の上官にでも文句を言ってやれたのだろうが、そこまで頭が回らない。思いがけない言葉を反芻するので手一杯となった。

(公務員て、地方公務員と国家公務員の2区分だったっけ? キャリアとノンキャリアの区別とはまた違ったっけ?)

なおも繰り出す男の罵声を聞きながら、そんなことをボンヤリと考えていると、男の力が急にすっと抜けた。
「いいよ、てめぇとケンカしてもつまらないから、手を離せよ」
と言うので、私も恐る恐る手を離す。男は白人の彼女と共に、その場を去る。後ろを振り返ると、警察がやってきたのが見えた。奴はそれを見て逃げることにしたのだろう。警察の横をすり抜けて、そのカップルは新宿一丁目方向へと去っていく。

警察が来たんだからお灸をすえてもらわないと。ここで逃しちゃダメだと思って、男を追いかけてその腕をつかんだ。
「おい、何逃げてんの?」
「は? 手を離せよてめせ!」
そこに警官がやってきて、私たち2人を引き離した。

交差点には交番があった。その近くで言い争っていたから我々にすぐに気づいたのだろうと思ったが、そうではなく彼女が警官を連れてきてくれたのだった。

警官がうまいと思ったのは、争う2人を引き離すために、海上自衛隊の男を、道路を渡らせて、向こう側の歩道へと連れて行ったことだ。離れた場所の2人にそれぞれに尋問をする。こうすれば、お互いの言い分が聞こえずに済む。
「なに嘘言ってんだよ。この野郎!」
などと言い合いになり、ふたたびケンカになることもない。

こちらはケンカをするつもりはなかったので、冷静に話をする。警官は海上自衛隊の男がからんだと認識してくれているようで、私には、
「大変でしたね」
と言い、簡単に事情聴取をした後、すぐに解放してくれた。自衛隊の男も、警官と談笑していたのが遠目で見て取れたので、特にお咎めもなくその場を離れたのだろう。

……ということが、昨年あった。

ブログに書こうと思いつつも、思い出すと腹が立つために書かないまま、いつの間にか忘れてしまっていた。嫌なことで、今さらどうしようもないことは、忘れるしかない。しかし、思い出せば怒りがふつふつと湧き上がる。

今でも腹が立つのは、理不尽なことをしてきた男に対して、何ら社会的制裁を加えられなかったからだろう。あの場で、
「この男を訴えたいから相手の名前と連絡先を教えて欲しい」
と警察官に訴え、強情をはればよかったのだ。名前や所属先が分かれば、あとで職場に怒鳴り込んだり何かができたかもしれない。

それまで自衛隊の悪いうわさを聞いても他人ごとのように思い、むしろ災害時に活躍する彼らを応援してきたのだが、これ以来、自衛隊隊員に対して、やや斜に構えるようになった。

自衛隊隊員が白眼視されていた時代は今や昔、彼らは自衛隊であることにプライドを持つと同時に、やや傲慢となってきているのかもしれない。冒頭の事件も、彼らの心の緩みの現れかもしれないと、今は思う。

2014年10月28日火曜日

システムを見直せば、マナーも環境も心も変わるかもしれない

電車内で足を投げ出している人、邪魔ですよね。

マナー違反を解決しようとしても、人間の心を変えるのは至難のわざです。不特定多数の人々にひたすら訴えて、社会の雰囲気を変え、その中にいる違反者の気持ちを時間をかけて変えていくしかないのでしょうか?

それ以外の解決策を、車両メーカーが提示しています。新しい仕組みの座席を開発して、足を投げ出す行為自体をしにくくさせようという試みです。

1月から順次置き換えている新型車両の座席は、座る面をひざ側に9度上向くようにした。こうすると、座った人は自然にかかとを引く姿勢になるという。狭い車内でも乗客がスムーズに乗り降りできるように、車両をつくる三菱重工業が工夫した。
リンク先には写真が載っていますので、ご覧になるとイメージしやすいでしょう。

他人の心を変えようとするのではなく、仕組みを変えてしまう。そして、マナーを自然と守らざるを得なくさせてしまう。この発想の転換が素晴らしくありませんか?

ここで思い出されたのが、先日読んだ、頭の回転が速い人はなぜ速いのかを分析する記事です。

★ 【頭の回転が速い】と言われる人々の共通点とは...?
頭の回転が速い人は、日常生活に<WHY?>を取り入れて日頃から考えることを習慣化させている傾向にあると思われる。
例えば、渋谷のとある8Fのカフェに行ったとする。閑散とした店内に数人のお客さん。ここで「ナゼこのカフェは人が少ないのだろう?」「数あるカフェの中で、ここに来たお客さんは何を求めているのだろう?」という質問を自分に投げかける。
電車の中で足を投げ出す人を見て、注意することも大切でしょう。

でも、足を投げ出さなくても楽に座れる椅子を開発した方が、確実に問題は解決されます。

間違った現象を嘆き、その場しのぎの対応をするのではなく、原因をつきとめシステムの方を変えれば、現象があっという間に消えてしまう……こうしたことは、なにもマナーの改善に限りません。

たとえば、公園に散乱するゴミ。マナー違反を嘆くのではなく、ゴミ箱を設置しただけで公園がきれいになる例などはいかがでしょうか。公共の場所の環境悪化は、ゴミ箱がないために生じることが多いものです。

数十年前に、美濃部都政ではゴミ箱を無くせば人々はゴミを持ち帰るので、公園がきれいになる、と信じてゴミ箱を撤去したところ、公園にゴミが散乱する結果になったのをご記憶の方もいることでしょう。

あるいは、
「部下が自分の意見を言わない」
と愚痴を言う上司。よくいますね。そして、部下に「意見を出せ、アイデアを出せ」とガミガミ怒鳴る。それで仕事をした気になっているのです。

ところが、なぜ部下が上司に自分の意見を述べないのか? この上司はそれまで部下のアイデアを、
「つまらない」
「くだらないものをもってくるな」
と否定してばかりいたからです。これでは部下は、委縮してしまいます。

アイデアなんて、100あるうちの2つか3つが当たればいいもの。まずはいくつもの数を集めて、思考錯誤しながら良いものをえりすぐるのがアイデアをうまく活用する方法です。そのためにはくだらない意見でも述べやすい雰囲気を組織の中に作ることが大切です。

私の見た例では、部下をガミガミ叱る上司の再教育を会社が行い、部下への暴言をやめさせたことで、社内の雰囲気ががらっと変わり自由闊達な意見が飛び交うようになりました。

世の中、案外システムを変えるだけで解決できる問題がゴロゴロと転がっているのかもしれません。

まずは、世の中を嘆く悲観論に陥るよりも、その理由を考え、解決策を講じる。このポジティブな発想に転換した方が、楽しく人生を過ごせることは間違いありません。

その次に、その際に人の心を変えるのではなく、システムを変えてみようという発想の転換を行うよう努めること。

この二つが大切です。


2014年10月26日日曜日

ときに、一冊の本のある文章が繰り返し役立つことがある

ある本を買おうかどうしようか迷っているときに、アマゾンのレビューを読む。
「私の人生に影響を与えた」
とか、
「私の人生を変えた」
という感想を読むと興味を掻き立てられる。

ただ、それだけでは買わない。レビュー主がそれまでどんなレビューを書いていたかを念の為に確かめる。

その本にしかレビューを書いていなかったり、レビューが数日の間に数十件書かれていたりすると(そしてその本以外のレビューはすべて定型文だったりする)、
「これは業者が書いたのだろう」
と判断して買うのをやめる。最近はあの手この手で広告代理店が暗躍しているので、油断がならない。

そこまでしてレビューを確かめる必要があるかといえば、私にとってはあると言える。くだらない本を買って時間と金銭を浪費したくない。口コミは信頼できる物がまだ多い。レビューで一般人に、「人生が変わった」と書かせるような本は、それなりに面白いものが多く、読んで損をした、と思うことが少ない。

最近では『人間の土地』が面白かった。


本の感想はまた今度書くつもりだ。アニメ映画監督の宮崎駿が本書の解説を書いているという事実だけで、本書を手に取る価値はあるだろう。これもレビューで一生の宝だなどと激賞されていた。

ところで、そこまでではなくとも、小さな影響を与え続ける一節もある。何度も思い出され、人生に少しだけ影響を与え続ける本がある。

一昨年の話だが、雪の降る日の通勤中に、足をすべらせて右足の親指を痛打した。痛みがひかず、二週間以上経過した末にようやく整形外科でレントゲンを撮ってもらった。

ところが異常がみつからない。炎症も起こしていない。完治しているはずだが、突き指をしたときのような鈍い痛みが、長時間歩くと右足の親指付け根を襲い、治らない。

そのまま一年あまりが経過した。強い痛みは時々再発するため、この痛みとは一生付き合わねばならないのだろうと覚悟するようになった。

ところが今年の初めからトレーニングを始めた。走るとやはり右の指の付け根が痛む。そのときに、とある本のとある一節が私の脳裏に思い浮かんだ。

初見良昭という武道家の自伝に書かれていた一節だったと思う。本を仕舞いこんでしまったので取り出すことが面倒なので、うろ覚えのままに書くと、初見氏が武道の師匠について稽古をしていたときのエピソードである。

当時の武道の稽古というのは荒っぽく、森の中を猛スピードで木剣をふるいながら駆け下りたり、ひたすら立ち木を木剣でぶったたりたりといったものだった。自然の中だから、何が起こるかわからない。突然枝が折れてケガをしたり岩で滑ったり、それが日常茶飯事だったという。

ときには何日も痛みがひかないこともある。ところが、ケガを気にした初見氏に師匠は、
「それを無視しろ」
と命じる。最初は、
「骨でも折れていたらやばいんじゃないか」「腱が切れていいやしないか」
と心配した初見氏だったが、稽古を重ねるうちに、痛みが消えてしまう、という経験を幾度となく繰り返すようになった。激しい鍛錬が傷を癒すのだ。

やがて余程のケガでない限り、無視してトレーニングをするようになった、という。

私はそのエピソードを読んで、人間の身体は随分と丈夫にできているもんだと感心した。

さて、私が今年の初めにトレーニングを始めたときにたびたび傷んだ古傷に、話を戻す。

痛みは間違いなく、ある。でも、現代医学では治しようがないものだ。それならば、この痛みを我慢しよう。我慢して、身体を鍛えることに専念しようと、私は考えた。鋭い激痛が走る。それを無視して運動場を走るのだ。

結果的にその考えは正しかった。今では、トレーニングをしても痛みがさほどなくなった。あれほど一昨年、私をさいなんだ足の付根の痛みが嘘のように弱くなったのだ。

痛みを無視して、トレーニングで解消してしまうことができる、という信念。

現代医学では何を非科学的なことを、と思われるだろう。だが、私の右足指の疼痛が減ったことは間違いない。もしも現代の常識のとおりに、トレーニング自体を取りやめていたら、私の足の痛みはそのままだったことだろう。

そして思い出す。初見氏の本を読んでから、ケガをして身体を痛めたことがそれ以外にも何度かあった。私は、多少の痛みは我慢してトレーニングを続けるのだが、そのたびに心に思い浮かべ、勇気づけられてきたのがこのエピソードだった。そして、痛みはどれも、今は残っていない。こうしたことが何度もあったことを、今思い出した。

痛みがトレーニングで消せるものかは知らぬ。だが、原因が分からない不定愁訴は無視出来ると信じ、痛みを耐えてがんばって来れたのは、初見氏の本のあの一節に出会えたお陰だった。その結果、私の生活がほんの少し楽になったのは、間違いない。

本を読むことで、思いも掛けない一節がのちのちまで人生を良い方向へ切り開くこともあるという一例である。

2014年10月24日金曜日

ディベートは自分を変え、スピーチは世界を変える

学生の頃に、ディベートやディスカッション、スピーチなどをひと通り学びました。

私はディベートが好きでした。相手の様々な主張に有効な反撃を加えて、一つ一つをつぶしていくことが面白かったからです。

その頃、会話の技術の中ではディベートが最も実用的だと思っていました。社会を変えるためには、敵の過ちを指摘することが重要だと思っていたからです。ディベートにはいろいろな技法があります。技法を駆使し、反駁の材料を用意して、ひたすら相手の論点の欠点をえぐりだす。相手が反論できずに困るのを見るのが快感でした。

これに対して、スピーチのことは、少しバカにしていました。観客がいるとはいえ、敵とする相手もいない場所で、話すだけ。単なる自己満足でしょうと、重要視していませんでした。

ところが社会に出ると、議論で相手を打ち負かすのは厄介な事態を引き起こすことが多いことが分かるようになりまして、議論はひかえるようになりました。

議論自体は、楽しいので好きです。質問をなげかけ、回答をもらい、その矛盾点について質問をすることで、お互いの知識が深まります。問題は、相手がこうしたやりとりをするに値しない人物のとき。逆恨みされますし、矛盾のある主張を平気で吐き、指摘されても過ちを認めないので話がまったく前に進まなくなります。こうした人は案外多く、話していても時間が無駄になるだけです。

今ではむしろ、一歩ひいたスタンスです。相手の知識がある程度あり、筋の通った主張をしていて、過ちは過ちと認められるタイプならば議論を続けますが、道理のないことを主張する相手とは、議論自体行わないようにしています。

それに、たとえば昨今の保守と革新の議論を傍観していても分かるように、この手の議論に決着がつくことは、ほぼないと言っていいのです。

学生時代、ディベートは社会を変えるために有効な手段だと思っていましたが、どうやらそれは違うらしいと思うようになりました。

世界を変えるためには、反対勢力の矛盾点を指摘するよりも、傍観者の大多数にスピーチで共感をしてもらうことの方が、より効果的なのですね。反対勢力が自分の意見を変えることはほとんどありませんが、観衆を味方にすることは十分可能です。

では、ディベートにはなんの意味もないのか、という点ではそうではありません。ディベートは、相手が自分の代わりに、自分の主張の矛盾点を探してくれます。第三者の視点で、議論の精度を確かめてくれる……大変有難いことです。自分がいかに分かっていないのかを知ることができるのですから。

学生時代に、議論が世界を変え、演説は自分のためにあると思っていましたが、そうではありませんね。むしろ議論は自分のためにあり、世界を変えるためには演説の技法を学ぶべきでした。学生時代に、演説について、もっと身を入れて学んでいたら、今が楽だろうに、と思ったりします。

2014年10月22日水曜日

夫婦の仲が冷えるきっかけ

「夫婦仲良く死ぬまで暮らしたい」
こう願う夫婦は多いことでしょう。

ところが長年連れ添っていながら、ケンカをせず、仲のいい夫婦はそれほど多くありません。
何が原因なのでしょう?

先日私は、離婚したり夫の愚痴ばかり言っていたりする同僚女性たちに、夫婦仲が冷えきったきっかけを尋ねる機会を得ました。

「子はかすがい」のはずなのに

すると、子供が出来たことが一番のきっかけだと答える人が多いのです。

最初は一緒のベッド、一緒の布団で寝ていることが多いのです。ところが子供が生まれると、子供と妻は同じ布団で寝るようになり、夫と布団が別になります。妻は子どもにべったりかかりっきりとなります。夫の生活リズムと赤ん坊のリズムは異なるため、お互いに邪魔しないように、部屋を変えることすらあります。

この物理的な距離をきっかけに夫婦仲が冷え込んでしまうことが、どうやら多いようです。

もともと男と女は体温が異なるので、一緒の布団で寝るのは、お互いの身体にとって無理があります。新婚当初は苦痛を上回る愛情のお陰で一緒の布団で寝るのでしょう。

でも、子供ができたことをきっかけに距離を取ってみると、別々でいる方が自由で快適であることに気づき、夫婦で一緒にいることがバカバカしく思えるようです。

距離ができないのは

部屋を別にして寝るようになり、そのうちに顔を合わせなくなり、やがて家庭内別居のような状態となって、仲が冷え切ったり別れたりする、というパターンのようです。

でも、そうしますと、子供の出来た夫婦は、時間が経つと、必然的に仲が悪くなるものなのでしょうか? 日本ではそんなケースが多いのかもしれません。私の親やその周辺を観ていますと、愚痴のたれあい罵り合いが多いのは事実です。

でも、アメリカなどでは、年をとっても仲の良い夫婦が多いですよね。彼らと私たちの違いはどこにあるのでしょう?

考えれば、ハリウッドの映画に答えが隠されていました。夫婦の寝室のとなりに赤ん坊の個室があり、赤ん坊をベビーベッドに一人で寝かせるというシーンを何度も観たことがあります。Googleで調べると、欧米では一般的のようです。

欧米スタイルを学ぼう

私は以前、それを映画などで観るたびに、赤ん坊がかわいそうだと思っていました。母の体温を感じないまま赤ん坊が寝なくてはならないなんて!

ところが、赤ん坊に母親がつきっきりで面倒を見る日本のスタイルがきっかけとなって夫婦仲が冷えるのだとしたら、たとえかわいそうに思えても、個室に子供を寝かせることできっかけ自体をつくらないアメリカ方式が、俄然魅力的に思えます。

どうせ幼児時代のことなんて、子供は覚えてなどいやしませんよ。

私たち日本人の伝統では、夫婦が長年に渡って愛しあう姿を理想としてきませんでした。男尊女卑の封建的な日本では、出世した男は愛人を抱えるのが甲斐性です。「夫婦でユニット」という考え方がないから、公職にある人物の妻が表に出すぎることを嫌います。

ところが欧米では、夫人が夫の仕事をおおっぴらに手伝うことを良しとしますし、そのことをメディアが好意的に取り上げますよね。とてもうらやましい話です。

男女が仲良く愛しあうという、日本の伝統にないあり方を理想とするのならば、私たちは欧米の伝統に、今以上にいろいろと学ぶべきなのかもしれません。


2014年10月20日月曜日

「自己万能感」を失うことが怖くて何者にもなれない人

古本屋にふらっと寄りまして、本を物色していたときに、人生論について書かれた本を見つけました。帯に「ショーペンハウエルやニーチェの生き方を支えた……云々かんぬん」という惹起文が書かれているのを見まして、
「バカな」
と思わずつぶやきました。

ショーペンハウエルはともかく、友人を失い生前は社会に認められずに狂人となって死んだニーチェのような人生の失敗者が参考にした本を読んで、どうすると。

……こう皮肉な気持ちで本を手にとったのですが、5分後、私はその本を購入することを決めました。なぜなら、「訳者あとがき」を読んで、肺腑をえぐられるような気持ちとなり、がぜん興味を惹かれたからです。

訳者は著名な心理学者・加藤諦三。彼の書いた文章だけでも、読む価値があると思うので、抜粋してご紹介します。

加藤氏のあとがきの書き出しは、こうです。
現代、現実の社会の中でどう生きていいのか自信のない人が多くなっている。上司の関係をどうするか? からはじまって、ついには恋人とどう付き合ったらよいのかわからないという人までいる。
「自信がない」ことに悩む若者はたしかに多いです。情報が多くなった現代、夜郎自大的に過信できた昔と違って、自分と同じ年の自分以上の才能をすぐに見つけることが出来るようになりました。自分が特別な存在ではないことをつきつけられる時代に、自信は持ちにくいかもしれません。

加藤氏は自分が訳した本には、「どう生きたらいいか」に悩む人にとっての処世術が具体的に述べられていると指摘します。
一時モラトリアム人間ということがしきりにいわれた時代があった。要するに青年たちが職業的修養を怠っていつになっても学生気分を抜け切らないで、自己限定できないということである。自己限定とは「私は銀行員である」とか「私は画家である」とか「私は先生である」とか自分を限定していくことである。
青年には無限の可能性があるけれども、そこから自分に適した職業を選択するべきだと加藤氏は考えますが、決断できず、いつまでも自己限定しない者がいることも認めます。それは「方向感覚」を失っているからだ、精神分析医の説を紹介し、その原因は自己疎外にあると述べます。
あるモラトリアム人間である。卒業することができない。職業を選択すると「自分が小さくなっちゃう」と感じている。自己万能感に執着しているのである。卒業できないどころか、定年退職してからもまだ自分を決められないでいる年寄りがいる。

このような人は社会的役割を担うことをずーっと拒否してきたひとである。社会的役割を担うと責任がついて回るからである。そこで責任を逃れるために現実から逃避するのである。

あるいは社会的役割を受け入れてしまうと、その点から自分を評価されるのが怖いから社会的役割を拒否するのである。自分が望むほど重要な役割を担えないので職業を重要と認めることを拒否する。
このように職業選択をして社会の中で生きることを、自分の可能性を小さくしたという人は、現実の自分の人生を具体的にかつ真剣に考えていない。ただ夢見ている人なのである。
なかなかきつい言葉でしょ?

今の自分がやっていることではなく、もっと別のことをやりたいと考える人は世の中に多いと思いますが、そうした人を全否定する加藤氏の冴えた舌鋒に絶望感を感じました。

ただ、すでに何者かになったと自信を持って言える人は、世の中にそうそういません。私の年ですと、役職を得てそれなりに活躍している友人もいるのですが、それでも彼らが、
「自分は◯◯である」
と自信を持って言い切る人間ばかりかと言うと、そんなことはないのです。

転職を考えている友人もいますし、自分の生き方に悩んでいる友人もいます。私自身も大いに迷う者の1人。そうした人々を加藤氏は「甘い」と叱咤します。的を射ているだけにつらいですな。


もともと加藤氏の本には、大学時代に親しみまして、いろいろと影響を受けました。当時、私も自信がなくて悩んでいたのですが、加藤氏は、それは自分の人生ではなく親の望む人生を生きているからだと述べるのです。

おっしゃるとおり、親の期待通りの人生を送ろうとしていたのが自分でして、それに気づいた瞬間大変な嫌悪感を世の中すべてに抱いたのを今でも覚えています。今なら「そういう考えもあるよね」と距離を取って読める彼の本は、青年期に読むには毒があり過ぎるかもしれません。

昨日少々気が滅入ることがありまして、今日のこの加藤氏の言葉は、たいへんこたえました。だからこそ、読む価値があるのかもしれない。そう思いまして買った本が、下記の本です。

まだ読んでいないので、海の物とも山の物ともつかないのですが、ご興味のある方は、どうぞ。アマゾンではもう、古本しか売っていないので、手に入りにくい類のものと思われます。


2014年10月18日土曜日

カゴメの野菜ジュースはやっぱりすごかった

ほう、と思わずため息が出ました。

★ 野菜ジュースの真実、伊藤園・カゴメに聞いた

この記事の前に書かれた「『野菜ジュース』の成分は“満足感”だけ!」では、野菜ジュースに対して大変否定的でした。それを先日読んで、
「まあ、必要な野菜をジュース一本で取れれば世話ないよね」
と野菜ジュースに否定的なイメージを持ったけれども、今回の記事を読んで、若干メーカーを見直すことになったのです。

野菜ジュース否定派の記事はときどき紙面を賑わせますけれども、メーカー側の反論を、批判記事と同じ分量で載せる媒体はあまりありません。バランスの取れた「東洋経済」に好感を持ちました。

今から10年以上前の週刊誌の記事だったと思いますけれども、野菜ジュースに本当に栄養成分が表示通りに含まれているのか、民間の調査機関で調べた結果が円グラフで表示されたものを見た覚えがあります。

その当時は野菜ジュースが登場したばかり、随分といい加減なジュースが売られていたようで、どのメーカーも惨憺たる結果でした。

ところがその中で気を吐いていたのが、カゴメでした。カゴメの野菜ジュースの栄養価は、他のメーカーを圧倒していたんですね。

当時、コンビニではカゴメの野菜ジュースはあまり売られていませんでして、500mlの農協の野菜ジュースか伊藤園の薄いもの、あるいはキリンとかの飲料系のメーカーのものばかりでした。評価が高いものほど、力はないのね……と悲しくなったものですが、記事が出てからでしょうか、カゴメの野菜ジュースがコンビニに置かれることが多くなったのです。

今ではどのコンビニにもカゴメの野菜ジュースが置かれるようになりました。意識していませんでしたが、あの週刊誌の記事が影響したのかもしれません。

今回の記事では、野菜ジュースの2強となったカゴメと伊藤園が、真摯に記者の疑問に答えていて、好感を持ちました。

カゴメの回答を読みますと、彼らがどれほど一生懸命に野菜ジュースの開発に取り組んでいるのかがよく分かりますね。カゴメの野菜ジュースへの信頼感は、以前にもまして大きくなりました。

ただ、今回意外だったのは伊藤園の健闘です。十年以上前の週刊誌記事ではあまり良い評価ではなかったと記憶している伊藤園の野菜ジュースは、消費者の意見を取り入れバージョンアップがなされていること、中国産野菜を一切使っていないことなどを知りました。マクドナルドの中国産チキン問題の予熱冷めやらぬ今、伊藤園の方針に安心を覚えます。

10年以上、伊藤園の野菜ジュースからとんとご無沙汰していましたが、今度コンビニでみかけたら買ってみるつもりです。

普段の生活ではどうしても不足がちになる野菜を、手軽の取ることができる野菜ジュース。とても便利な存在であることに間違いありません。

ちなみに下に紹介するのは、私がネットで探してみた、濃縮還元ではないストレートの生搾りトマトジュース。

[数量限定] カゴメ トマトジュースプレミアム 食塩無添加 200ml×24本

健康に良さそうです。どうです、一本?

2014年10月16日木曜日

崇高なものを抱えて戦場におもむくわけじゃない

言葉も文化も違う人々の行動は、理解しがたいものだ。人は、理解できないものの行間を想像で補う。想像は自由に羽ばたく。結果、行動する当人が考えてもいないような崇高な理想を彼らに仮託することとなる。

「イスラム国」という武装勢力のもとに参加する欧米出身の若者が増えているという。

両親や片親がアラブ系の移民の子供たちが多いという。自分の出自を問い直す中で、イスラムの理想を追求する最も過激な集団に身を投じるのだと説明される。だが、最近はイスラム文化と無縁だった白人の若者の参加者も、増えているという。

彼らの行動に対する、識者の分析、論評、Twitterなどの市井の人々の感想を眺めてみた。ほとんどの人が理解できないものととらえているけれども、中には参加者たちの心情を褒め称えるものがある。戦争に参加することを、なにか特別なもののように思いなす人がいる。日本の若者と比べ、彼らの世の中を改革しようとする理想に共鳴するものもあった。

しかし、先日北大生の日本人が、自分探しの延長のような動機でイスラム国に合流しようとした事実を人々が知るところとなった。彼にとどまらない。戦争に参加する人々の考えていることは、案外バカバカしいものだ。

『きけわだつみのこえ』だとか知覧特攻平和館の少年たちの手紙を読んだことがある。とても哀しく、崇高なものをその中に感じる。だがそれは多分に美化されたものだ。

編纂は老人によって行われた。老人には若者たちの心理は理解できないから、想像で埋め合わせる。その結果、事実が覆い隠された。

そもそも、当時も現代も、戦場に向かおうとする志願兵の若者のほとんどは、死を覚悟しているというよりも、自分だけは死なないという根拠の無い自信に支えられているだけではなかろうか。それが若さだ。彼らが身近な人の死を、すでに経験していたとしても。

本当に人が死を理解して、自分のものとするのは、何年も何十年も、死ぬということを折にふれて考え続けてからではないかと思う。

私も、親友の病死や部活の後輩や叔父の自殺、祖父母の死などを経験してきたが、それを知ったばかりの当時の感情と、今の心情とは随分異なっている。今よりも年若い頃の私は、彼らの死に臨みながら、それを自分の死と結ぶことができず、無鉄砲なことを気軽に出来た。それが今は、難しい。

ある事柄を「理解する」ということは、表面的なものだけではなく、その中に潜むさまざまな情報を把握しているということである。決してよみがえることはなく、多くの人を悲しませ、将来がなくなることなどが瞬時に想像することが、今より若いころには出来なかった。

戦場におもむく、というと、なにやら崇高でロマンチシズムただようものを想像するけれども、無知なるが故の案外バカバカしい理由で参加しているバカな人々がほとんどだ、と割りきって考えることの方が、事実として近く、正しく状況を理解できるのかもしれない。



2014年10月14日火曜日

「ラグビーは紳士のスポーツ」という言葉の、本当の意味

よく、
「ラグビーは紳士のスポーツ」
と言われます。その割にはラグビー出身者にはガラが悪い人が多くありませんか? さらに、不祥事もよく耳にしませんか?

私、不信感を持っていたんですよ。どうして彼らが紳士なんだろう、と。

私の高校にもラグビー部がありまして、かなりの強豪でした。しかし、その中に1人いけすかない野郎がいましてね。しかもモテている。

私も体育会系でしたが、女っ気がさらさらなく、恋愛関係では悲惨でした。それに比べると、彼らは高校の中心的な存在。やっかみ半分、ラグビー部のこと、あまり好きじゃありませんでした(もっとも嫌いなのは応○部でしたけど)。

ところが、先日「なるほど」と思う説明を聞いて、目からウロコが落ちました。

イギリスが、階級社会であるということを、多くの人は聞いたことがあると思います。大きく分けますと、地主・貴族が中心となった上流階級、資本家や弁護士などの専門家が中心の中流階級、労働者階級の3つ。

今では緩和されていますが、昔は上流階級と労働者階級の差はもっと露骨で、なにより経済格差が天と地ほどもありました。

だから昔は、上流階級と労働者階級は、見た目が違ったそうです。上流階級の子弟は栄養価の高い食事を取っているため、背も高く、スポーツで体を鍛える時間もあったために頑健な肉体を誇っていました。

それに比べて労働者階級の子供たちは満足に食事を取れず、いつも腹をすかしていたため、成長しても背が低く、痩せていたそうです。

彼らの間には、歴然とした肉体の差があったため、自ずから、人間には上下があることを悟ったのだといいます。ケンカをしても、一対一なら、必ず上流階級の人々が勝つのですから。

さて、こうした支配者側の人々のことを「紳士」とイギリスでは呼び習わしていました(ジェントリには、もっと深い歴史があるのですが、詳しい経緯はご自分でお調べください)。

ラグビーは御存知の通り、背の高いゴツい人間にとって有利なスポーツです。つまり、
「ラグビーは紳士のスポーツ」
というのは、肉体的に頑強でたくましい上層階級の人々=紳士のためのスポーツがラグビーである、という意味であり、ラグビーをすればフェアになるとか、そういう意味では無いのです。

では、労働者のためのスポーツとは? それがサッカーです。

ラグビーもサッカーも、イギリスが発祥です(ゴルフやラクロスなど、イギリスが発祥のスポーツは多いです。イギリスではイヌが昔から大切にされており、イヌは御存知の通りボール遊びが大好きです。そこからボールを使ったスポーツが多く生まれたのではないかと私は考えていますが、それはまた別の話)。しかしやってる人が違います。

今でこそサッカーも選手の大型化が進みましたが、昔はそれほどでもありませんでした。往年の名選手・マラドーナは166cmですし、現在の最高のサッカー選手と言われるメッシは169cmです。それでも2m近い選手と互角に戦えるのがサッカーというスポーツです。

ボールは地表近くを移動しますから、背の高さが意味をなさないのです。足で球を移動させることが体格差を消し、平等をもたらすのですね。

だからこそ、体格の劣る労働者階級のスポーツなのです。体格の優れた親からの遺伝や、子供時代の栄養状態よりも、その後の努力やセンスがものを言う世界です。労働者が夢を持て、自分を投影できるスポーツなんですね。

ワールドカップが盛り上がる理由もそこにあります。国同士の対抗戦になると、経済格差以上に人種による体格差が問題となります。身体の大きい者が有利なチームスポーツ――バスケットとかラグビーとか――は、特定の国がどうしても有利になります。それに比べてサッカーは体格の差が大きなアドバンテージとならず、特定の人種が有利とは言えないからこそ、平等で面白いのです。

ちなみにラグビーでは、他のスポーツとは違い、3年その国に居住していれば、国籍が異なっていてもナショナルチームに加われるという特別ルールがあります。体格の違いが露骨に出てしまうスポーツなので、そうでもしないとワールドカップでは一部の国しか勝てないために取れれた措置なのでしょう。

日本でも、早慶だとか明治だとか、私立大学がラグビー強豪校として名を馳せたのも同じような理由ではないでしょうか。金のある家の体格のいいボンボンにとって有利なスポーツだから、彼らが歴史的に強かったのでしょう。

「ラグビーは紳士のスポーツ」
と言いますと、なにやらラグビーが高尚なもののように思えますが、何のことはありません。金持ちのためのスポーツである、という意味だとしましたら、それほど評価するキャッチフレーズではないでしょう。

2014年10月12日日曜日

『サーチ! 富と幸福を高める自己探索メソッド』 感想


元々はエンジニアでしたが、彼の瞑想を主体にした精神安定のためのプログラムがGoogleのエンジニアから好評を博したため、今では人材担当部門へ移り、瞑想の講師としてGoogleで研修をおこなっています。

彼の科学的な瞑想へのアプローチはアメリカでとても信頼されているそうです。

彼の著書『サーチ!  富と幸福を高める自己探索メソッド』が二年前に出版されました。このところの「瞑想」への高い関心から、いろいろなところでこの書籍が取り上げられているので、興味を持ちまして先日読み終わりました。


まずは目次のご紹介です。
序章 サーチ・インサイド・ユアセルフ
第1章 エンジニアでさえEQで成功できる
第2章 命がかかっているかのように呼吸をする
第3章 座らないでやるマインドフルネス・エクササイズ
第4章 100パーセント自然でオーガニックな自信
第5章 情動を馬のように乗りこなす
第6章 利益をあげ、海を漕ぎ渡り、世界を変える
第7章 脳は情動のタンゴ
第8章 有能であってしかも人に愛される
第9章 世界平和への三つの簡単なステップ
エピローグ 空き時間に世界を救おう
瞑想は間違いなく精神によい行為ですが、行うことは単純。ただ座って呼吸を数えることくらい。それをこの著者は、どうすればこんな分厚い本(厚さ3cmあります)に仕上げることができるのか? まずはそれが一番の謎でした。

なるほど。

瞑想自体の効果を述べると同時に、その理論的背景をダニエル・ゴールマンの『EQ―心の知能指数』をもとにして述べ、効果を述べ、Googleでどのように実践していたかの具体例を述べることで、内容をふくらませているのですね。

瞑想にある程度親しんだ方ならば、それほど真新しことが書いているわけではありません。ただ、これから瞑想を続けていこうか、どうしようかと迷っている人ならば、この本を読むことで、いいきっかけになるのではないでしょうか。

2014年10月10日金曜日

ゲーム理論についての簡単な覚え書き

以前、ゲーム理論を題材にした本を出そうと思っていた、という記事を書きました。

その後に、ゲーム理論について触れた記事を書いてアップするのを忘れていたのを修正して載せてみます。

……………………
「ゲーム理論」について語る前に、そもそもゲーム理論を知らない人のために少々、解説をすることをお許し下さい。
ゲーム理論とは、「相互作用を及ぼしあう複数、又は単独の主体の振る舞い」に関して研究する応用数学の一分野である。(中略)ゲーム理論の分析は、基本的にこのような戦略的な状況における未来の行動を予測したり、過去の行動を客観的に評価することを目的としている。つまりゲーム理論とは、あるルールのもとで各プレイヤーがとると考えられる最適な行動の組合せの解を求めることである。(Wikipediaより)
上記の方法を読んでもわかりにくいので、こう言い換えてみました。

複数のプレイヤーが競い合いながら、お互いにとってのベストな状態を模索する「試行錯誤」を科学的に分析する方法論。

――上述の説明より、少し、噛み砕いてみました。

私達の行動は、すべて「選択の積み重ね」とも言えます。指を動かすか、動かさないか、パソコンを開くか、開かないか、などなど。

選択を積み重ねることで、どのような結果を得られるのか。これを数学的に研究できる理論が「ゲーム理論」であり、経済学や生物進化の研究に、大きな影響を与えているそうです。

創始者は、ジョン・フォン・ノイマンという天才。

歴史上最も頭のいい人物とは誰か? という問いが、ときどきネットを賑わせます。レオナルド・ダ・ヴィンチだとかアインシュタインだとか、様々な人物の名前が挙がりますが、そのリストの中に必ず現れるのがノイマンです。

子供の頃に44巻の歴史書を丸暗記したり、8歳までに微積をマスターしたりという神童伝説を持っていました。中年になっても記憶力、暗算力について、他者の追随を許しませんでした。

天才が考えた人間の行動を科学するための理論……一端を知りたいものだと思いつつ、学ぶ機会を先送りにしていた私でしたが、たまたま手にしたゲーム理論の本が、なかなか面白かったのでついつい読み進めてしまいました。

まず興味を惹かれたのが、
「囚人のジレンマコンテスト」
について書かれた話です。

二人の共犯者が、自白をして自分だけ助かろうとするか(裏切り)、沈黙して相手の罪を隠してやるか(協調)、それぞれによって実刑の年数が変わるというルールを作ります。そして、この二人は意思の疎通の手段がありません。

さて、囚人はどのような選択をすればいいのか? それを考えるのが、「囚人のジレンマ」という命題。

「そんなの、場合によって異なるじゃない。人それぞれでしょ」

と言ってしまえば、それでおしまい。たしかにそうです。

でも、似たようなシチュエーションは生きている限り、人生の中にたくさん現れています。相手の気持を知ることができないまま、裏切るべきか協力するべきか、という選択です。

その時々で応対を変え、臨機応変に振る舞う、という方法もあるでしょうが、それでは偶然に支配される要素が強すぎます。それよりも、
「他人と接する際は、こういう原則で行動すれば高い確率で利益を得られる」
という原理原則を知って、迷うときは、常に同じ行動を取る、という戦略はどうでしょうか? 他の人を、ほんの少し、出し抜けるかもしれません。

1980年、政治学者のロバート・アクセルロッドは、この「囚人のジレンマ」について、コンテストを開催することにしました。無数の選択の果てに生き残るのは、どのような原則を己に課した場合でしょうか? 原理原則をコンピュータにプログラミングして、それをお互いに戦わせれば、もっとも強い原則を開発した人が生き残るはずです。

その結局、優勝した原則は、アナトール・ラポポートという心理学者の開発した「しっぺ返し戦略」というものでした。

この戦略は、まずはかならず「協調」という選択肢を選び、もしも相手が「裏切り」を選んだら、すかさず自分も裏切り返す。相手が「協調」してきたら、再び「協調」をする、という単純な戦略です。

ところが、これが強いのです。ときに敗れることはあっても、何千回とかけて調べていくと、この簡単な戦略のみが、並み居るライバルを押しのけて生き残る率が高いことが証明されました。見事コンテストでは優勝しています。

(簡単に説明しようと試みた私の説明が逆に分かりにくければ、下記サイトを御覧ください)
★ 賭博と国家と男と女 ~囚人のジレンマ

まさに、
「やられたらやり返す。倍返しだ!」
という半沢直樹の決心ですね。

実はこのことが多く世界中に知られるようになり、国家戦略にも影響を及ぼしています。もっとも影響を受けたのが、イスラエルだと言われています。つまり、相手が協調してくれば、こちらも協調するが、裏切られた瞬間、やり返すのです。それも徹底的に。

果たして、その結果は良かったのか、悪かったのか。

イスラエルがこれまで生き残ってきた、という一点でみれば、その方法は間違っていないでしょう。でも、常に戦果が絶えないという点では、誤っているように思えます。

「サバイバル」という目的に特化して戦略を組み立てていった結果、その他の目的をすべて捨てていかねばならない羽目に陥るというのは、この理論の欠陥を表しているようにも思えるのでしょうが、いかがでしょう?

2014年10月8日水曜日

ノーベル賞を受賞した中村修二教授と、日亜化学工業の対立

ノーベル物理学賞を、名城大学教授の赤崎勇氏と名古屋大学大学院教授の天野浩氏、カリフォルニア大学教授の中村修二氏が受賞した。おめでとうございます。

なかでも中村教授の受賞は嬉しかった。強烈な個性の持ち主が栄誉ある賞を受け取ったことで、大企業が個人を圧迫する日本の現状に風穴を開けるきっかけになればいい。

中村氏のインタビューを観た。
 

国籍はすでにアメリカだという。徳島弁訛りだった日本語はやや英語化しており、寝ぼけて聞けば英語に聞こえなくもない。英語ばかりで生活しているせいだろう。

ところで、通称「青色LED訴訟」当時、中村氏側の主張に触れることが多かったのに比べ、日亜化学工業側の主張を知る機会は少なかった。今回のノーベル賞受賞を機に検索してみると、日亜化学工業自身が発表した記事がまとめられていたので読むと面白い。

★ 随想 青色発光ダイオード訴訟の帰結  (念の為に、魚拓をとっておいた)

ドメインからして、間違いなく日亜化学が発表したもの。一企業の名前で「随想」を発表するというのは異例だ。しかも個人攻撃にほとんどが費やされていて、とても興味深い。

まず、企業が発表するものとしてはお粗末。校正くらいして欲しかった。7ページ目の第一段落の「日亜主張」の3行目で、「フロリダ大学えに中村氏を……」と助詞が間違っている。それが何年もほって置かれたままなのはいい加減だな、というのが一つ。

ひと通り読んだが、中村氏の功績を否定するための論法の一つが、
「青色発光ダイオードが発明されるまでにはたくさんの先行研究があったお陰。彼の功績はほんの一握り」
というものであるのには笑った。すべての科学的成果は先行研究があってこそ成り立つ。それを言い始めたら、一科学者を称えることは誰もできなくなってしまう。素人が読んでも、日亜化学の主張に説得力が感じられないのだ。なにより科学者へのリスペクトが感じられない。

たしかに、東京地裁が示した604億円、という対価は過大だったと思う。だが、スポーツ選手が何十億という報酬を受け取れるのならば、社会の繁栄に直接つながる発明をした科学者は、もっと報われてしかるべきだ。

ところが日亜は、裁判に勝つために中村氏の功績を不当に貶めようとする。「随想 青色発光ダイオード訴訟の帰結」7ページでは、日亜の主張には根拠を示しているくせに、中村氏の主張にはいっさい根拠を載せないなど、アンフェアな態度で一貫している。

それでいながら8ページには、現社長の「小川英治氏の社長就任」という記載が年表に潜り込ませてある。言外に、小川社長の旗振りで、青色発光ダイオードの量産化を進めたのだと主張しているのだろう。それは逆に、この記事の信憑性を失わせている。社長の機嫌を取るために、この文章は書かれたのか、とかね。

産業の発展は日進月歩、中村氏の最初の功績はすぐに陳腐化してしまったのは間違いないようだが、彼のきらめきがあったからこそ、発光ダイオード研究の爆発的な進化がおこったのは事実だ(ノーベル物理学賞を同時受賞した赤崎氏が、そう述べている)。それを無視して、中村氏を一方的におとしめようとするから、結果的に嘘になり、説得力がなくなってしまう。

それに、日亜化学はそれ以外でもかなりデタラメな企業だ。2006年に偽装請負事件を告発した従業員に「直接雇用する」と約束しながら、その職場を閉鎖して、告発した従業員全員を解雇している。

小川英治社長の指示で、上記のような処遇をしているのは間違いない。卑劣な行動を取る問題経営者の常として、同じ方法を踏襲するというものがある。嫌がらせなどの汚い手段で気に食わない人間を辞めさせようとするのが小川社長の方法だとしたら、中村氏にも同様の圧力があったのではないか、という疑いが容易に湧く。

社長から青色発光ダイオードの「開発中止」のメモが回ってきたと中村氏は主張している。これは、中村氏の権力が強くなるのを恐れた経営陣による、中村外しだったのではないか? あとは、中村氏の研究成果をすべて、後任の研究者のものにしてしまえばいい。
開発中止命令があったとされる期間も、設備申請が認められ、原材料となるサファイアの購入実績等があり、開発中止命令があったはずがない。
と日亜は主張するが、それは中村氏以外の従業員に成果を横取りさせるためのものだということと、何の矛盾もない。

もっとも、中村氏にも、自身が日亜から年収2,000万円近くを受け取っていたことなどはいっさい言わずに、「発明の対価は2万円だけだ」とばかり繰り返すように、フェアではないところもある。こうした、自分に不利になることはいっさい言わずに自分の功績だけを語る人間を私はあまり信用していない。この人にも問題はあるのだろう。

それでも、偽装請負をして、直接雇用の約束を反故にする社長の言うことを信用するよりも、中村氏を信用する方が結果的に正しかろう。

中村氏のノーベル賞受賞によって、日亜化学の社長の面子はつぶれた。汚名返上のために背伸びした企業は、たいてい数年以内になんらかの問題を起こすものだ。また何かやらかすんじゃないかな。

2014年10月6日月曜日

身内意識と憎しみと

大久保博元が楽天の監督になる、という報道を聞いてから、身内意識についてつらつらと考えている。

私たちは他人へは、敬称をつけて呼ぶ。
「◯◯さん」「◯◯くん」
など。

ところが、親しい人間には、
「◯◯!」
と敬称を外して呼ぶ。軽蔑の感情とは、まったく無関係の感情だ。大切な相手、抱きしめたい相手、好きな相手。彼らへの親しみが増すほど、敬称をつけて呼びたくない、という気持ちが湧いてくる。

ところが、目下の人間、軽蔑する人間、嫌な人間にも、同じく敬称をつけたくない、という感情がはたらく。

この感情は、何なのだろう? まったくベクトルの異なる感情だ。片や、愛情を向ける相手、片や、軽蔑を覚える相手。そのどちらにも、
「敬称をつけたくない」
という感情がはたらく。

「愛情の反対は憎しみではなく、無関心」
という言葉がある。たしか、マザー・テレサの言葉だったはずだ。この辺りに真相があるのかもしれない。

いや、もう一つのベクトルがある。身内であっても尊敬する相手の場合。その場合は、敬称をつけたい、という気分にさせられる。上司や親にはどれだけ親しくなっても、敬称なしで呼びたい、という気分にはならない。

この気分の出処はどこにあるのだろう?

能動的に関わる相手か、受動的に関わる相手かの違い?

あるいは、コントロールしたい相手とそうではない相手との違い?

身内への人間、愛情、憎しみの対象となる人間には敬称をつけたくなくなる、というのならば、尊敬する相手へ敬称をつけようとする気分と矛盾する。

どうなんでしょうね。

2014年10月4日土曜日

楽天監督にデーブ大久保がなる構造的な問題

大久保博元が楽天の新監督に決まるという。報道を読んでゾッとした。

大久保博元、愛称・デーブ大久保がどういう人物か。強者への服従&弱者への暴力を体現化した男じゃないか。

たとえば2008年、彼は不倫していた女性を殴って騒動になったのをご存知か。

大久保は妻ある身ながら、不倫。ところが相手の女性が、別の男性とキスしている写真を発見してケンカして殴って警察沙汰になった。彼女に隠し子を産ませていることも報道でバレた。
大久保コーチについて特集を組んだのは、「週刊新潮」と「週刊文春」。両誌の記事はいずれも、けがをした女性が大久保コーチの不倫相手で、今年2月に大久保コーチの“隠し子”(男児)を出産したとしている点で共通している。
彼は検察に容疑を認め、20万円の罰金刑を受けている

2010年には西武で、菊池雄星に暴行。。

2014年には楽天の柿澤貴裕外野手に水をとらせないままノックの訓練をおこない、柿澤に意識を失わせて昏倒させる、という事件を起こした

現役時代も彼の行動は周囲の目に余るものだったという。弱い者への暴力をふるい、そして、嘘はバレなければいいとばかりに、ごねる。

こんな人物が楽天の監督だというのだから冗談じゃない。

もっとも、嫌だ、おぞましい、と感想を述べているだけでは何も変わらない。なぜこのようなおぞましい人事が怒るのか、冷静に考えてみたい。


上司にイヌのように従う

彼が抜擢されてきたのは、大久保が実力者にとりいるのがうまいからだ。大久保について、どの報道も一貫して、
「彼は実力者にかわいがらている」
「彼は上司に取り入るのがうまい」
と報じている。

長島、星野といったスーパースター、三木谷という楽天の創設者に、彼はイヌのように従う。

彼は尽くす。禁じられていても花束を病床の長島に届けようとしたり、食事にこまめにつきあったり、冠婚葬祭に出席したり。

ところが彼は、気に食わない上司には平然とくってかかる。文句を言う。暴言を吐く。

大久保に気に入られた上司にとってはたまらないのだろう。自分にしか尻尾を触らない猛犬のようなものだ。他の人間と険悪だから、裏切られて乗り換えられる心配がない。可愛いから、彼が失敗しても許してしまう。馬鹿な子ほど可愛いのだ。


力がある

ドラフト時代には西武から一位指名を受けているし、1987年には2軍のオールスターゲームでMVPに輝いている。西武には優秀な捕手がいたため長い間2軍でくすぶることになった苦労人だが、1992年に巨人に移籍後は大活躍した。

前半戦を打率3割、大久保が打ったときは巨人は必ず優勝していたから、1992年の1年間、彼の映像が必ずテレビでは使われ、一躍人気者となる。

1993年には4番打者として出場したこともある。巨人の4番を打ったことがある、というのは野球人としての実力を保証する。長い引退後の生活で、これが生きた。

西武コーチ時代には、長かった2軍時代の経験を踏まえ、2軍と1軍のコーチの連携に着手。2軍で指導されたことが1軍昇格時に否定される、という悪癖を是正したという。コーチとして様々な改革を行い、成績をあげている。


人間、誰しも身内に甘い

大久保の行為は、普通許されないことだ。暴力に厳しい欧米ならば許されないだろう、とも思ったが、アメリカでもアメフトのスター選手には、DVの噂が流れても余程の証拠がない限り、チームを解雇しないらしいから、そうとも言えない。たぶん、実力のある身内には、全世界、どこでも甘い。

不倫をして隠し子を作ったとか、暴力を振るったとか聞くと、誰もが、
「とんでもない奴だ」
と怒るだろう。でも、それが自分の弟や子供だったら?
「どうしようもないやつだ」
と思いつつも、代わりに自分が謝ってやらないといけない、とか、かばってやりたい、と思うのが人情というものだろう。

「家族」「身内」という絶対的に信頼できる存在。贔屓(ひいき)してしまうのは、どうしようもない人の性(さが)だ。

逆に言えば、他人に、
「こいつは身内だ」
「彼は家族だ」
と思わせれば、相当いい加減なことをしていても、許される。


身内と認められるためには

どうすれば家族として認められるのか。他人との約束はすべてことわり、身内との約束をすべてに優先する。そして、組織、身内の改革のために全力を尽くす。ヤフー知恵袋に、大久保の知り合いだという人物の投稿がある(匿名なので信用出来ないが)。

「ゴルフ中に彼に会ったが、大変義理堅い人で、無関係の他人にも、先輩にも礼儀正しく、決して無作法な態度を取らない」
というようなことが書かれていた。想像できるシーンだ。

この手の人物の特徴として、まったく無関係の人間には愛想よくふるまい、身内の人間には服従する。上司にとっては使える手駒となる。

その上、悪評をすべて引き受けてくれる。組織のために泥をかぶってくれる人間は身内と認められる。

リーダーは孤独だ。その負担を肩代わりしてくれる人材は少ない。大久保が監督となったら三木谷オーナーを批判する声は少なくなり、世間の批判はほとんど大久保がかぶってくれるのだろう。実力者側の汚い打算も、大久保の出世を後押しする。


DV許容の土壌の排除は困難

大久保が野球界で活躍しているのは、長島の後押しがあるからだという。

長島茂雄という人物は、聖人のように思われている。私も長島さんは、大好きだ。明るく、ひょうきんで、それでいて偉ぶらず、しかも天才だ。

しかし彼には、自分以外の人間に横暴を重ねる人間を許す、といういやらしさがある。実力があってもくすぶっている人間は多い中、長島が長い間スポーツ界で活躍し続けられた理由の一つは、彼が読売新聞の独裁者である渡辺恒雄の盟友だったから。

ナベツネは御存知の通り、読売新聞の良心とも呼ばれた黒田清を追放するなど、ライバルを人事で次々に粛清して今の地位にのしあがった男だ。このナベツネの個人的なパーティーに、長島はたびたび駆けつけてナベツネの威光を後押ししてきた。

思えば、ナベツネが様々な横暴を重ねても、長島はナベツネを一切批判することがなかった。長島にとって「巨人軍は永遠に不滅」の存在だ。

独裁者の身内となり、彼の横暴を看過していた人間が大久保をかわいがるものも当然か。長島にとっての正義は組織の繁栄であり、組織の繁栄のための横暴は、許容範囲なのだろう。


できることは少ない

上の者の人間の威光をバックにして、コミュニケーション力に弱い者をターゲットとして、いびり、横暴を重ねる。それが悪いとまったく思わない人間が、旧日本帝国軍で活躍し、現在のブラック企業で暗躍する。イジメの土壌そのものだ。

醜悪だが、それが人間だ。近代社会はこうした人間の感情をできるだけ抑制することを要求してきたが、なかなかに難しい。

それがダメだと、一族の外から見れば分かる。でも、一族の中では許され、やがて彼は独裁者となり、組織を牛耳り、自滅させてしまう。だがそれには時間がかかる。

この手の人間が組織にもぐりこみ、組織の長がそれを黙認し始めたのならば、どうしようもないのかもしれない。外部の人間にできることは、その組織に協力しないくらいだろう。楽天で物を買わないとか。

個々人の幸福と、組織の繁栄との矛盾に私たちはしばしば遭遇する。

2014年10月2日木曜日

高須クリニックの頬フェイスリフトの整形手術がすさまじい

高須クリニックの高須幹弥院長といえば、高須クリニックの創立者であり歯に衣着せぬ言動で有名な高須克弥院長の三男にして、父の若返り手術をおこなったことで有名な医師である。父が自らの手術をまかせたのだから、子供の中でもっとも信頼できる技術の持ち主なのだろう。

この人の手術映像がYouTubeにあげられている。まだ再生数は少ない(私が観た時点で300程度)のが信じられないような、興味深い映像だった。

ただ、手術の動画なので、皮膚を切り、剥ぎ取るシーンがはっきりと映っているから、苦手な人にとっては『閲覧注意』な動画。
「こんな映像、YouTubeで観せてもいいの?」
ととまどうほど、克明な手術の映像を観ることができる。

グロい描写が苦手な人は、この記事のここから以降は、読まない(観ない)ほうがいいと思う。