ダーイッシュ(
自称イスラム国)に後藤健二さんが先日殺害された。後藤さんのご冥福をお祈りする。
ご家族、特に奥さんの悲しみを思うと胸が張り裂けそうになる。お子さんが生まれたばかりで夫を失い、子どもの誕生という女性にとってもっとも大きな喜びを味わえないのだ。子どもを見るたびに亡き夫を思い出すのはつらかろう。悲しみは、深く刻まれた傷となり、彼女をこれからも苦しめる。あまりに不憫だ。
同胞が異邦人に殺されるのを観るのは嫌なものだ。彼らダーイッシュを憎らしいと思う気持ちが湧きあがる。
今後の課題
彼らの行為を眺めながら、では、どうするか? 安倍総理が今後同種の事件が起きたときのために、自衛隊派遣も含めて検討をしていきたいと述べた。たしかにそれも大切だろう。
ただ、これまで軍隊を派遣しなかったからこそ日本人が世界で得てきたメリットを失う覚悟が必要だ。私が海外を旅していたときに、日本人という理由で親切にされた経験が数多くあった。同じような経験をしてきた観光客、現地駐在人は数多くいるだろう。
デメリットのほうが大きいのではないのか? アメリカにすらできないことをやろうとして、失うものが大きすぎやしないか? ……ただ、それは失ってみなければ分からない。
それに、軍隊を派遣して武装勢力を殲滅するという方法では原因を取りのぞくことはできないだろう。それは一種の対症療法だ。それよりも、紛争をなくすための原因を取りのぞくことが先決じゃないか?
対症療法以外の方法
……とはいえ、対症療法ではない根本療法を探るとしても、どこまで深く追求するべきか、解決方法を実行することは可能か、という問題が立ち現れるだろう。出来ないことについてあれこれ考えてもしょうがない。
たとえば、あの地域にイスラエルを建国したのが悪いだとか、欧米の国際石油資本(石油メジャー)が中東利権を守るためにあの地域の政治バランスに深く関与しているのが悪いだとかいった議論があるのは知っている。しかし、その議論を深めてもあまり意味はないように思う。
原因はそうかもしれないけれども、イスラエルを今さらなかったことにできないし、国家と同じ力を持つ巨大な石油メジャーの行動を縛ることは、私たちには荷が勝ち過ぎる。同じく考えるのならば、少しは考えた末になんらかの効果がある議論を深める方がいい。
たとえば、多様な民主主義を私たちは我慢するべきかどうか、どこまでを許すべきか、それは可能なのか、といった問題だ。
トルコの我慢の限界
ダーイッシュが隆盛を極めている背景には、アメリカがイラクを崩壊させたことだとか
様々な要因がからんでいるわけだが、他の要因の一つに、トルコのイスラム回帰という問題があるように思う。
欧米で育ったアラブ系の人々が、なんのツテもないのに身一つでダーイッシュに身を投じていることは多くの報道でご存知だろう。彼らのほとんどがトルコ経由でシリアへ向かうのだという。ダーイッシュの支配地域がシリアのトルコ国境付近に迫っていること、シリアとトルコの国境には森林や小道が多いことから、人知れずダーイッシュへ潜り込むには好都合なのだそうだ。
だが、地理的要因だけのはずがない。アラブ系とはいえ、彼らダーイッシュ志願者たちは土地勘がない。全くその土地と無縁の彼らが、GPSがあったとしても、うまくダーイッシュの支配地域へと忍びこむことができようはずがなく、彼らを応援する草の根の人的ネットワークがトルコ国内に間違いなくある。
トルコの人々のイスラムへのシンパシー。それは現在のエルドアン大統領への熱狂的な支持ぶりからもうかがえる。
都市部ではエルドアン大統領の独裁的手法への批判の声が大きいが、地方ではイスラム教を賛美するエルドアン大統領支持者が圧倒的に多い。シリアとの国境付近の人々ならばなおさらだろう。
だがトルコは、イスラム諸国の中で政教分離を早い段階で成し遂げて成功した民主主義国だったはずだ。そのトルコがイスラムへ回帰を始めたのには理由がある。要因の一つには、トルコがヨーロッパの一部になろうとして、常に拒絶され続けたことに、トルコ国民がうんざりしたという背景があるように思う。
トルコはEUへの加盟を幾度と無く拒絶されてきた。アルファベットを導入して、政教分離を成し遂げ、特権階級を認めない民主主義国家を作り上げたトルコに対して、ヨーロッパはアルメニア人虐殺を謝罪しろだとかキプロス島の権益を放棄せよなどと様々な理由をつけて、批判してきた。批判され続けて少しも敬意を払われない者は、ストレスが溜まり、鬱屈した感情を抱くだろう。トルコの人々は、ヨーロッパの傲慢にうんざりし、イスラムへ回帰しようとしている、という一面がある。
リベラルの同調圧力
トルコがヨーロッパから拒絶されてきた歴史に踏み込むと長くなるので、これ以上書かず、そもそもなぜヨーロッパがトルコをそこまで毛嫌いするのかについて述べたい。要は、民主主義の先進地域という意識が強いヨーロッパは、自分たちに似ているのに自分たちとは異なる存在を許せないのだ。
特に、リベラル勢力にその風潮が強い。彼らは多様性を唱えながら、実のところ同調圧力が大変強い人々だ。自分たちと全く異なる政治体制の国家(中国だとか)や開発の遅れた国々の独裁体制には妙に寛容なくせに、彼らに近い政治体制を取りながら、国情にあった民主主義の発展を目指す国には、自分たちの基準を押し付けようと必死になる。
自分たちを正統と考える人々は、異教徒には寛容でも異端を許せない。トルコの人々はイスラム教を精神的基盤に置きつつも、民主主義国家となることは可能だと考えている。ところがヨーロッパの人々は、キリスト教のベースがない民主主義には懐疑的で、だから何かしら、いちゃもんをつけようとする。彼らのように考えない国を批判したがる。
同じようなことは、日本に対しても行われる。彼らは日本もまた、「真の民主主義国家とはいえない」だとか「民主主義がまだまだ遅れている」などと批判してきた。今回の件でも、後藤健二氏がダーイッシュに拘束されたときに日本で「自己責任論」が現れたことに対して、ロイターのPeter Van Burenという記者が、
日本政府の反応とその支持者たちの態度は、欧米の反応の基準とは基本的に異なっていることを暴露する。(the response of their government and the attitudes of their fellow citizens expose key differences from the standard Western response. )
と
批判した。紛争地域で危険にあった同胞への対応が異なれば、すぐに民主主義ではない、日本のものはまがい物だ、という批判が彼らから出る。今までもよくあったことだ。
日本は相当、民主主義が根付いた国家だと思うが、それでも彼らは「まだここが違う」「あれが違う」と言って日本の民主主義を認めようとしない。欧米人のように行動して、彼らのように考えることを望む。口では多様性を唱えながら、その国の伝統に沿った民主主義の発展を決して認めない。
たとえば、同性婚を認めるのがここ10年ほどの欧米の風潮だが、それが主流になると、もうそれ以外を認めなくなる。10年前には同性婚を認めない人々が欧米でも多数で、それでいながら民主主義が成立していたのにもかかわらず、だ。今はそれを認めない人間や国は基本的人権を尊重する仲間にあらず、という見方をする。
本来、基本的人権の考え方とは合わない伝統をそれぞれの国が持っているものだから(たとえば君主制だとか宗教に関するものだとか)、進んだ部分、遅れた部分はどこにでもあるのだ。それぞれが国家の実情に沿ったスピードで、変えるものは変え、変えられないものは変えずに、少しずつよりよいものへと変えていけばいいはずなのだ。特にイスラム教の影響の強いトルコでは同性婚を人々が認めにくかろう。しかし欧米人は、それを許さない。
自分たちを変えること
近親憎悪という言葉がある。
カトリックがプロテスタントが何を決めようと放っておくが、同じカトリックの中で異端の説を唱える者には容赦しないようなものか。似ているとなると、とことん自分たちと同じようであることを求めようとする彼らのすぐそばにいて、トルコはさぞつらかったろう。
仲間の差異を認めない欧米の人々が、トルコの人々を追い詰め、国内のイスラム教徒たちを追い詰め、彼らをダーイッシュへと追い込んだという側面があるのではないか。
そして、似たようなことは私たち日本人も行いがちだ。昨今中国が、民主主義国家へと大きく変貌を遂げつつある。韓国はほぼ、民主主義国へと変貌した。しかし、逆にその違いに注目して批判を加える、という行為を、ネトウヨにかぎらず、私たちは行いがちだ。
いや、中韓に対するだけではない。私たちの人間関係の中で似たような批判はよくあることである。仲間と思う人々のちょっとした差異を嫌うというこの感情は、人間誰しも持つものなのだろう。
それとどう折り合いをつけていけばいいのか。それは答えのない問題だけれども、それについて考えを深めていけば、それが政治への目となり、欧米人の同調圧力へ抵抗することへとつながり、イスラム的、あるいは共産主義的なものを大切にしながら民主主義国家へと変わろうとする国々を、間接的に応援することにもなるだろう。
そして、世界のシステムは個人では変えられないが、自分たちの考え方は変えられる。それによって影響を受けた世界もまた、変わるかもしれない。