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2015年2月26日木曜日

正しい判断は公開された議論から生まれる

カール・セーガンといえば、啓蒙科学者として著名な人物だ。「コスモス」という宇宙のドキュメンタリー番組を作り、その作品は世界中で放映されたために、今でも世界的な知名度がある。また、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』という本でも有名で、一時期大量に売れたためか、ブックオフや古書店を回ると、彼の本がよく出回っている。

彼が1996年に亡くなるまで、終世批判を続けたのが「エセ科学」と言われるものだ。科学的な見かけをしているが、再現性が無かったり根拠が無かったりと、様々な理由で科学としては認められないものは世間に多い。水に優しい言葉をかけ続けたら美しい結晶が水の中に出来る、という『水からの伝言』や「ホメオパシー」などにまつわるものが、その典型だろうか。

既知の科学だけではわからないものがある、ということを少しでも信じている人間(私もその一人)は、この手のエセ科学にだまされやすいところがあるから、注意しなければならない。科学的であろう、まともであろう、という姿勢と、形而上のものへの信頼を両立させるためには、慎重である必要がある。

その点で面白いと思ったのが、下記記事で紹介されていた、カール・セーガンがエセ科学を見抜くための基準である。

★ 天体物理学カール・セーガンに学ぶ、物事を正確に見抜くテクニック


カール・セーガンは、上記記事で、「トンデモ話検出キット」というタイトルでエセ科学を診断するための方法を述べている。要約したのを下記に列挙してみた。
  • 提示された事実が本当かどうかをまず疑う。
  • 裏づけとなる証拠をたくさん取る。
  • 証拠は自分だけではなく、様々な人々と議論をして判断する。
  • 「権威はない。専門家がいるだけ」とわりきる。
  • 仮説は一つだけではなく、ありったけ立てる努力をする。
  • 自分の仮説を片っ端から反証してみる。
  • 自説に固執せず、自説を捨てることを考える
これだけできれば確かに間違った判断をすることはなくなりそうだが、人はめんどくさがり屋だから、それがなかなかできない。

事実を様々な立場の人の間で意見してもらうことは大切だ。「三人寄れば文殊の知恵」という。自分だけではわからないことが他人にはすぐに分かることが世の中には多いからだ。

エセ科学のようなものを信奉する人間は批判を嫌うし、詐欺師のたぐいは批判を巧みにかわそうとする。特に意図的な詐欺師は、公開された討論よりも個々のやりとりを好み、相手が詐欺師への批判者と交流することを、あの手この手で邪魔しようとする。

先日とある人物と交流をしていたとき、似たような経験をした。彼は私に、彼が敵対する人と「関わるな」「彼は嘘つきだ」と言い、「このやりとりを公表するな」と言ってとにかく情報の囲い込みを図る人物だった。ところが、後になって彼自身も裏で汚いことをやっていたのが発覚した。

彼からのメールは受信拒否にして今に至るが、このようなことは皆さんも経験したことがあるのではないだろうか。

正しい判断を行なうのは、それを妨げる人々と戦う必要がある。



2015年1月18日日曜日

米田哲也など野球のレジェンドはなぜ老害となるのか?

野球界の伝説の名投手たちがあつまって、座談会が開かれましたが、そのタイトルがなかなか刺激的です。

★ 球界勝利数トップ3「投げすぎで投手の肩は壊れぬ」で意見一致

いずれも投手として一流で、しかも1日300球を平気で投げ、身体を壊すことなく引退したものですから、最近の投手に無理をさせない風潮が、歯がゆくて仕方がないようです。
──故障しなかったのは投げ込んだから?

小山:そう。投げすぎで壊れるわけがない。実際日本で一番投げている我々は壊れてない。そしてそれ以前に大事なのは、カネさんじゃないけど、投げ込める体を作るために走ったから。プロに入ってからはとにかく「走れ走れ」「投げろ投げろ」でしたね。これは財産になったと思う。
不思議な話です。彼らの同時代にも、杉浦忠や稲尾和久、権藤博といった、肩を酷使しして引退していった名投手たちが数多くいました。彼らのことを、金田正一、米田哲也、小山正明のお三方は覚えていないのでしょうか?

ちなみに、上記の座談会で小山氏が、
だから僕は「なんで投げ込ませてコントロールを身に付けさせないんだ」というと、あるバカな指導者は「肩は消耗品ですから」という。野球に9つあるポジションで唯一球を投げることが仕事の投手が、球を投げたらアカンてどうするのと。
と語っているのは、権藤氏が監督として横浜ベイスターズを率いていたときのことでしょう。「肩は消耗品」は権藤氏の持論。小山氏は横浜ベイスターズの元となった大洋ホエールズの出身ですから、OBとして意見を述べた可能性が高いです。

しかし、権藤氏、科学的な理論を取り入れた指導により、投手からの信頼が厚く、監督就任一年目でベイスターズを優勝させていますから、権藤氏から否定されても、小山氏は言い返せなかったはずです。

金田正一、米田哲也、小山正明の三人の肩が壊れなかったのは、たまたまでしょう。

たとえばボクサーでも、パンチドランカーになる人とならない人がいます。パンチドランカーとは、頭を殴られすぎたボクサーに出る症状で、ろれつが回らなくなったり記憶に障害が出たりするというもの。
これも、ならない人はなりません。しかし、頭部打撲の危険性は分かりやすいので、
「殴られすぎで壊れるわけがない。実際日本で一番殴られている我々は壊れてない」
と主張するボクサーはいませんし、いても馬鹿にされるだけでしょう。

150キロもの速度でボールを何度も投げれば、肩や肘に負担をかけないはずがないのです。それを「ない」と言い切る小山氏の神経を疑います。

「老害」という言葉があります。私はこの言葉が嫌いです。なぜ年を取っただけで害だと言われねばならないのか。「女害」「若害」という言葉がないのに、なぜ老人だけが狙い撃ちにされねばならないのか。不条理なものを感じるからです。

しかし、たしかに小山氏らのような存在は老害です。彼らは幾人もの落伍者を見てきたはずです。一生懸命走りこんでも肩を壊した人々のことも、何十年も野球界にいたのですから知っているはずです。ところが、彼らの頭からは、落伍者の記憶はすっぽり抜け落ち、主観的な印象しか残っていません。

記憶の怖いところです。記憶は感動して「こころ」で覚えたものはいつまでも残りますが、データとして「あたま」で覚えたものを忘れていきます。彼らは自分の成功体験を感動とともに記憶したものの、落伍者の失敗体験は冷笑して眺めていたのに違いありません。

落伍者に余計な憐憫の念を抱かないというのは、成功者に必要な素質の一つかもしれません。しかし、年をとるとそれがこのような形で現れ、客観的な判断ができなくなり、結果老害となってしまうのでしょう。それが老いるということなのでしょう。

そうはなりたくないものです。年をとってもいつまでも若々しくいたい。そのためには、客観的なデータをもとにものを考える人間でいたいものです。


2015年1月8日木曜日

アマゾンと植田佳奈 あるいは、魅力あるブラックとどうつきあうか?

昨年末に、元社員が匿名で、Amazonの雇用実態を暴露した記事が話題になりました。

★ 「アマゾンジャパンは血も涙もない会社でした」採用・年俸・評価・PIP…元社員が語る“合理的すぎてブラック”な人事管理

この記事にかぎらず世界中で、Amazonはブラック企業だという声が上がっています。しかしAmazonの業績になんら影響がありません。とにかく便利なので、天下無双状態。

私も本来ならば、同じくらい便利で信頼できる、もっと健全な通販でものを購入したいのです。楽天が思い浮かびますが、ここのレビューは信頼できませんし、その上出店者への締め付け具合ではAmazon以上。さらには野球チームに暴力で有名な監督を採用していることなどを考えますと、Amazonを選ばざるを得ないのです。

しかも、私今月中にAmazonから電子書籍出版しようと目論んでいます。そうなると、ますますAmazonから離れられません。

デモを起こそうにも本社はアメリカ、その上毎月の詳細な売上高を確認することができないので、ネット上の批判が効いているのかどうかも分からない。抗議しようにも、どうしようもありませんな。

最近、とあるブラック企業で働いていた知人とメールをやりとりしていて、これと似た感情を味わいました。ブラック企業の経営者は大変魅力ある人物。ところが部下に無理難題を強いるだけではなく、世間に公表していた姿と実態は、かけ離れたものでした。酷いものです。

それでも、彼に感じる魅力。それと、彼を道義的に許せない気持ちとの間で揺れ動きました。

『Fate/stay night』

似たようなことを、娯楽の世界でも最近、感じています。

私、昔から『Fate/stay night』という作品が大好きです。昨年から放送が始まったリメイク作『Fate/stay night[Unlimited Blade Works]』を楽しみに観ています。

『Fate/stay night』という作品をご存知でしょうか? 古代の英雄の霊を現代に呼び出し使い魔として使役する7人の魔術 師の戦いを描いた作品です。ゲームから人気に火がつき、10年以上、映画になったり漫画になったりしながら今なおファンを増やし続けています。

あまりに人気が高く、昨年10年ぶりにアニメの新バージョンがリリースされました。大人の鑑賞にも耐えられる作品に仕上がり、多くの人に絶賛されています。

(上記はその中でも屈指の名場面を抜粋したものです。最近のアニメ表現をご存じない方は、戦闘シーンがここまで進化していることに驚くはずです)

現在一時中断中、今年四月に再開予定です。ネット上で視聴可能です。

★ Streaming

ところで、本作の準主役「遠坂凛」役の声優に起用された植田佳奈は、性格が悪いことで有名でもあります。

★ 植田佳奈「おっさんを社会的に抹殺」発言に大批判 逆に本人の社会的抹殺が進行中?

電車の床にジュースの紙コップを置いて注意されたことに腹を立て、注意した男を痴漢に仕立てあげてやろうと画策したと告白。当時私も彼女の言動を知り、音声を聴きまして、彼女を嫌いになりました。

作品自体、いい作品です。遠坂凛にも魅力を感じます。しかし内部の声優には嫌悪感しか感じません。このどうしようもない屈折した感情はいかんともしがたく、製作陣には再検討を願いたいところです。

原作者の奈須きのこもアニメ監督も、彼女の言動は知っているでしょうし、それを疎む声も知っているのでしょう。それでも人気のある声優ですし、声にファンが馴染んでいます。変えずに今回も彼女を起用したのでしょう。

どうつきあう?

こうした「魅力あるブラック」にどう我々は向き合うべきか?

人によって、いろいろな対応方法はあるでしょうが、私の方法は、下記のようなものです。
  • まず、事実確認をします(批判が的外れだったり、嘘だったりすることもあるので)。
  •  その上で、関係を断ち切れる相手ならば、関係を持たないようにします。その上で、批判の声を上げて、彼らと戦う弱者を側面から応援します。
  • もしも関係を断つことができないなら(Amazonとか『Fate/stay night』とか)、我慢してそれにつきあいながら、批判の声を節々であげていきます。
人によっては、私の曖昧な態度は我慢できないかも知れません。嫌なものならばスッパリと切ればいいじゃない、とね。

ところが残念なことに、世の中には嫌なものがたくさんあるのです。そのすべてをスッパリと切ろうとすれば、生きていくことはできないでしょう。漱石は『草枕』の冒頭で、
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
と書いています。 どこかで妥協して、彼らとつきあうしかありません。清潔でいるために、汚れたものには触れず、汚れたものに触れなければならないときにはゴム手袋を使ったり、触れた後に手を洗えばいいでしょう。

同時に、おかしいことはおかしいと声を上げ、彼らに虐げられた人々を、何らかの形で援護しなければなりません。それが、少しでも正しく生きようとする人間の矜持というものです。

その結果、相手にスポイルされたとしたら(たとえばAmazonによってアカウントが削除されたりしたら)、それはそれで、しょうがないことです。

2014年10月20日月曜日

「自己万能感」を失うことが怖くて何者にもなれない人

古本屋にふらっと寄りまして、本を物色していたときに、人生論について書かれた本を見つけました。帯に「ショーペンハウエルやニーチェの生き方を支えた……云々かんぬん」という惹起文が書かれているのを見まして、
「バカな」
と思わずつぶやきました。

ショーペンハウエルはともかく、友人を失い生前は社会に認められずに狂人となって死んだニーチェのような人生の失敗者が参考にした本を読んで、どうすると。

……こう皮肉な気持ちで本を手にとったのですが、5分後、私はその本を購入することを決めました。なぜなら、「訳者あとがき」を読んで、肺腑をえぐられるような気持ちとなり、がぜん興味を惹かれたからです。

訳者は著名な心理学者・加藤諦三。彼の書いた文章だけでも、読む価値があると思うので、抜粋してご紹介します。

加藤氏のあとがきの書き出しは、こうです。
現代、現実の社会の中でどう生きていいのか自信のない人が多くなっている。上司の関係をどうするか? からはじまって、ついには恋人とどう付き合ったらよいのかわからないという人までいる。
「自信がない」ことに悩む若者はたしかに多いです。情報が多くなった現代、夜郎自大的に過信できた昔と違って、自分と同じ年の自分以上の才能をすぐに見つけることが出来るようになりました。自分が特別な存在ではないことをつきつけられる時代に、自信は持ちにくいかもしれません。

加藤氏は自分が訳した本には、「どう生きたらいいか」に悩む人にとっての処世術が具体的に述べられていると指摘します。
一時モラトリアム人間ということがしきりにいわれた時代があった。要するに青年たちが職業的修養を怠っていつになっても学生気分を抜け切らないで、自己限定できないということである。自己限定とは「私は銀行員である」とか「私は画家である」とか「私は先生である」とか自分を限定していくことである。
青年には無限の可能性があるけれども、そこから自分に適した職業を選択するべきだと加藤氏は考えますが、決断できず、いつまでも自己限定しない者がいることも認めます。それは「方向感覚」を失っているからだ、精神分析医の説を紹介し、その原因は自己疎外にあると述べます。
あるモラトリアム人間である。卒業することができない。職業を選択すると「自分が小さくなっちゃう」と感じている。自己万能感に執着しているのである。卒業できないどころか、定年退職してからもまだ自分を決められないでいる年寄りがいる。

このような人は社会的役割を担うことをずーっと拒否してきたひとである。社会的役割を担うと責任がついて回るからである。そこで責任を逃れるために現実から逃避するのである。

あるいは社会的役割を受け入れてしまうと、その点から自分を評価されるのが怖いから社会的役割を拒否するのである。自分が望むほど重要な役割を担えないので職業を重要と認めることを拒否する。
このように職業選択をして社会の中で生きることを、自分の可能性を小さくしたという人は、現実の自分の人生を具体的にかつ真剣に考えていない。ただ夢見ている人なのである。
なかなかきつい言葉でしょ?

今の自分がやっていることではなく、もっと別のことをやりたいと考える人は世の中に多いと思いますが、そうした人を全否定する加藤氏の冴えた舌鋒に絶望感を感じました。

ただ、すでに何者かになったと自信を持って言える人は、世の中にそうそういません。私の年ですと、役職を得てそれなりに活躍している友人もいるのですが、それでも彼らが、
「自分は◯◯である」
と自信を持って言い切る人間ばかりかと言うと、そんなことはないのです。

転職を考えている友人もいますし、自分の生き方に悩んでいる友人もいます。私自身も大いに迷う者の1人。そうした人々を加藤氏は「甘い」と叱咤します。的を射ているだけにつらいですな。


もともと加藤氏の本には、大学時代に親しみまして、いろいろと影響を受けました。当時、私も自信がなくて悩んでいたのですが、加藤氏は、それは自分の人生ではなく親の望む人生を生きているからだと述べるのです。

おっしゃるとおり、親の期待通りの人生を送ろうとしていたのが自分でして、それに気づいた瞬間大変な嫌悪感を世の中すべてに抱いたのを今でも覚えています。今なら「そういう考えもあるよね」と距離を取って読める彼の本は、青年期に読むには毒があり過ぎるかもしれません。

昨日少々気が滅入ることがありまして、今日のこの加藤氏の言葉は、たいへんこたえました。だからこそ、読む価値があるのかもしれない。そう思いまして買った本が、下記の本です。

まだ読んでいないので、海の物とも山の物ともつかないのですが、ご興味のある方は、どうぞ。アマゾンではもう、古本しか売っていないので、手に入りにくい類のものと思われます。


2014年9月14日日曜日

信号を守る東京人の心意気

上京して驚いたのが、東京の人々が、クルマが来なくても赤信号の横断歩道を渡らないことだった。

私の地元では、片側二車線程度ならば、車が来なければ渡る。信号よりも自分の目を信じるのだ。

片側一車線ならば、クルマが来ないのに横断歩道を渡らないと、
「ぼーっとするな」
と言われて仲間から引っ張られるのがオチだろう。

ところが東京の人間は、驚くほど交通法規を守る。他人の目が無くとも、深夜の2時であろうとも、赤信号では道路を渡らない。

これに私は、いたく感動した。

「法は最低限の道徳」

という言葉がある。あるいは、「法は倫理の最小限」とも。

道徳で求められる要求は膨だ。「時間を守る」「嘘をつかない」「浮気はしない」「他人を傷つけない」「愚痴をこぼさない」……道徳的に正しいとされることをすべて守ることは難しい。が、法律くらいは守りましょう、というのが私たちの社会のルールである。

それを踏まえた上で考える。横断歩道を渡る余程の理由(人の生死に関わるような)が無いならば、クルマのこない横断歩道で、決してクルマを渡らないと決意することは、法や道徳を順守するという決意でもあり、生き方の選択である、ということだ。

それは法への尊敬を表し、秩序を守ることを身体に刻みつける行為なのではないか、と思う。

法を積極的に守ろうとする東京の人間を、だから私は尊敬している。



2014年9月4日木曜日

そういえば、復讐心は性格をゆがませる

性格は、日ごろ何を考えているかによって形作られる。

日頃から敵意を持って他人に相対していると、怒りっぽい人間になるだろう。他人に親切にすることを心がけていれば、やがて優しい性格になる。

一昨日「ステージが変わると、復讐の機会は失われる」という記事を書いた。

復讐心を少しずつ抑えていくことができたことに今では安堵感を持っている。なぜなら私が憎んだ彼らこそ、相手を許すことが出来ないタイプの人種だったからだ。彼らを憎むことで、彼らと同じ人種となる……この教訓めいた法則は真実だ。

「ミイラ取りがミイラとなる」という格言を思い出すべきだろうか。あるいはニーチェの「深淵を覗き込むものは、深淵からも覗かれていることを忘れてはならない」という箴言を思い出すべきだろうか。

加害者たち……嫌な人間に共通する蛇のような執念深さは、猜疑心と結びついていて、周囲を巻き込んでいく。彼らは誰かを貶める瞬間は、とても幸福そうだ。しかしそれ以外は、
(誰かにいつか陥れられるのではないか)
とビクビクしている。独裁者が「実は小心者」と揶揄される所以である。

彼ら同士はつるみ、お互いに傷を舐めて自分たちは幸せだよというアピールをする。人生を謳歌しているように見えるものの、間近で観察する機会があれば、よく見るがいい。こんなみじめな人生を送りたくはないとしみじみと感じるだろう。私は彼らを観てきた。

騙されてはならない。健全な人間は彼らと縁を持たないように心がけなければならない。「君子危うきに近寄らず」という格言は真実である。

ゴキブリやネズミが周囲を不潔にしながらコロニーを作り出していくようなもので、その中に紛れ込んだら病気になる。デング熱に罹患するのが分かっていながら代々木公園に敢えて行く必要があるだろうか。

目指すところは、彼らを許さないでいられる"健全な"価値観を持ち続けること、同じような境遇に再度陥っても、抗うための知恵を蓄えること、はねのけるための力を鍛えること、同じ志を持つ仲間を作ることなどだろう。

2014年9月2日火曜日

ステージが変わると、復讐する機会は失われる 下

昨日はひどい風邪をひいた。デング熱ではないようなので一安心だが、季節の変わり目である。みなさま、ご用心を。

さて、二日前の記事の続きです。

社会人となって会社で経験した精神的な苦痛――ブラック企業では肉体的な暴力もあったが――を受け、その場所から逃れた後に私は彼らにどうやったら復讐できるだろうかと、数年の間考え続けたのだが、やがてそれがどれも実行不可能であることに気がついていく。

いや、最初から気づいていたのだが、それを納得して、あきらめるのに数年間かかったと言ったほうがいいかもしれない。

  1. 暴力による復讐
  2. 法律による復讐
  3. 将来の復讐

上記3点について、それぞれ書いてみよう。

1.暴力による復讐

時々、ストーカーによって女性が危害を加えられたという記事が話題となる。そのニュースを観るたびに思うのは、
「世の中、暇とカネがある人間がいるものだな」
ということだ。

ターゲットをしぼりこみ、獲物が人気のない場所を歩くのを執念深く待ち、襲いかかる。その間、彼らはどうやって生活費を稼いでいるのだろうと、不思議に思う。

結局、彼らがああした犯行に及ぶのは、それをバックアップしてくれる家族や財産の存在があるからだろう。とてもじゃないが、私にはそんな余裕がなかった。

それに私には、やりたいことが多すぎた。本を読みたい、本を書きたい、デートもしたい、映画も見たい、旅行もしたい……こうしたことをすべて諦めて復讐のために彼らの後をつけ回す……考えただけでぞっとした。

そもそも、犯行を終えた後、どうするか。捕まってしまえばおしまいだ。かといって人知れず犯行を終えて、その後一生、犯行を告白せずにいられるか?

私には無理だ。そもそもブログを書く人間という輩は、自己表現欲求が人一倍強いものだ。そんな人間が、一生秘密を抱えて生きていく、という生き方は難しかろう。

それに、犯罪を犯した後、良心の呵責に苦しめられずに生きていく将来が、どうしても思い浮かばなかった。憎しみで相手を恨む気持ちは、相手を痛めつけることで晴れるだろう。だがその後はどうなる? 苦しむ相手への後悔の念を抱えながら残りの一生を送るのも、ゴメンだった。

2.法律による復讐

税務署に務める友人に、経費のごまかしについても相談したが、その罪を立証するのには手間暇かかる割に、敵に被害を与えるまでにはいたらないだろう、とアドバイスされた。

違法残業について、労働基準監督署や法テラスで相談したことがある。結果分かったのは、日本では労基法に違反した経営者に懲罰的な罰則を与えられることはないということだ。

また、弁護士に相談したところ、PTSDで傷ついたことなどを訴えようとしても、それを認められるまでに相当の時間とカネがかかるし、労力の割には得る対価は少ないということだった。

先日、下記のニュースが報道された。

 牛丼チェーン最大手「すき家」の労働環境改善に関する第三者委員会の調査報告書は、過酷な労働実態を浮き彫りにしました。
 違法残業や休憩なしなど、労働基準監督署から受けた是正勧告は、12年度から約2年間で64件にのぼります。
労働基準監督署は、すき家ほどの悪質な企業に対しても、せいぜい是正勧告をする程度なのだ。ましてや、私一人が訴えても、個人事務所にとってはへでもあるまい。

3.将来の復讐

「盲亀の浮木」
という言葉がある。

海底には、百年に一度海上に浮上して呼吸をするという盲目の亀が住んでいると言われている。それが、たまたま海に浮かんでいた浮木の穴に、すっぽりと頭がはまってしまう、という偶然を指す。

ほとんどあり得ない僥倖を夢見ることは、不幸だ。成果を得られることはほとんど無く、成果を得られるまでに夢見た時間は全て無駄に終わり、人生をあたら無駄にしてしまうだろう。

もっとも、世の中というものは狭いもので、縁のある人間とは、いずれどこかで必ず出会う。復讐の機会が訪れないとは言えない。その時に向けて、牙を研ぐことはムダではあるまい。

それにだ。もしも功成り名遂げた後には、失うものが多すぎる。復讐のために成功した後に実際に復讐する人が少ないのは、地位も名誉も得た今、昔自分に害を与えた人間に関わってその地位を失うことがバカバカしく思えるからだろう。

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こうして、一つ一つの方法を吟味してみると、そこで受けた屈辱を、その場所を逃れた後に晴らすことは、ほとんど不可能であることに気がつく。

「やられたらやり返す」
ことは、現実の社会の中ではあまりに難しい。だからそれに憧れて人は『半沢直樹』を応援するが、半沢は架空のヒーローであって現実にはいない。

苦痛を与えられたことを許す必要はない。けれども、受けた屈辱を晴らす機会を探し求めるには、人生はあまりに短い。もちろん、屈辱を晴らす機会はいつか訪れるかもしれない。それならなおのこと、その時のために力を蓄える時間が必要だろう。

結局のところ、ゲームのステージを上がれば、次の敵を倒すことに集中しなくてはならない。前のステージでやり残していたことがあっても、そのステージにいながら前の敵を倒すことはできない。そのステージにその敵はいないからだ。あきらめることが肝要なのだろう。

だが、
「あきらめる」
ことは悪いことではない。それは、一度挑戦した勇気を持っていたという証であり、挑戦した後、できることとできないことを見極めて、撤退する決断力を持っているという証でもあるのだから。


2014年7月7日月曜日

計画を立てずに目標に近づくという生き方

目標を達成するために、がっちりと計画を立てた上で実行しようと、多くの人がするはず。

目標、計画、実行……こう聞いて、「PDCAサイクル」のことが頭に浮かんだ人も、多いかもしれません。

Plan(計画):計画を作成する
Do(実行):計画に沿って実行する
Check(点検):実行した結果を確認する
Act(改善):計画を見直す

上記の4つの段階を繰り返すことで、目標を達成できる、というのが「PDCAサイクル」です。


計画の実行が苦手

ところが私、お恥ずかしながら計画を実行することが大の苦手です。

計画に、実行できるような分量を計算して詰め込むのですが……。

ところが計画通りにいかないことが多くて、結局尻すぼみになってしまいます。今までうまくいったのは、むしろ計画をたてずに始めたことばかり。

そんな自分がはがゆくて、罪悪感を抱いていました。

宮部みゆきはプロットを作らない

目標達成のために計画を立てないということは、プロット(構成)を作らないまま小説を書き始めるようなもの。短編小説ならばともかく、長編小説でそれがうまくいくはずもありません。

人生は一冊の小説のようなものだ、と考えていた時期にそう考えていたこともありました。でも、次の記事を読むと、どうやらそうとも言えないようです。

★ 宮部みゆきはプロットを作れない
たいていの作家は、最初にプロットを作り、それが出来てから小説を書き始める。
では宮部みゆきは何も考えてないのかというと、もちろんそうではない。
宮部みゆきは小説を書く前に言葉にしてしまうと「(アイデアが)逃げてしまう」という感じがするそうだ。
だから、言葉にはせず、イメージで考えているようである。
書く前に、どういう話にするかというのは、ある程度決まっていて、資料なども読んでいる。
言葉を超えたところで話を考えて、そのイメージを書き起こしていくのだろう。
だが、それがゆえに、連載小説だと、後から書き直すことが多いそうだ。

宮部みゆきといえば、長編ミステリーの女王と言われている人物です。彼女の著書『火車』を夢中で読みました。


クレジットカードや借金で身を持ち崩した女性が犯した犯罪を、休職中の刑事が少しずつ解明していくこの長大な物語は、読み始めたら止まりません。

「こんな素晴らしい小説を書く女性がいるのか」

小説を読み終わった後、興奮がしばらく収まらなかったことを覚えています。

これ以外にもたくさんの傑作をものしている宮部みゆきが、プロットを作らない、いや、作れない。それに私は、天啓に似たものを感じました。

「計画なんて、実は立てなくてもいいんじゃないのか?」

計画を実行するだけの人生はつまらない

上記記事にも書かれていますが、宮部みゆきがプロットを作らない理由は、
「プロットを作ると小説を書くのがつまらない」
からだそうです。

分かります。私が計画を実行できないのは、計画をコツコツと実行する過程が、つまらなくて、嫌でたまらないからです。味気ないし、楽しくないのです。

目標を立てて計画を作成して実行する……この一連の流れを楽しんでやれる人も、いるのでしょう。でも、それができるのは才能です。とすると、逆にいえば、その才能がない人もいる、ということでしょう。その影には、計画を実行できても、目標達成だけが目的となり過程を楽しめなくなった人は、その数倍、いるということになるでしょう。

要は、自分がどちらのタイプなのかを自覚して、自分にあった方法を取ることが大切なのではないでしょうか。計画を実行できるタイプは、しっかり計画を立てればいいのですし、逆に、計画を実行するうちにやる気が削がれてクソつまらない気分に毎回おちいる人間は、それ以外の方法を考えればいいのです。

人間、いろいろなタイプがある

目標を達成することは、誰にとっても叶えたいことの恥ず。でもそのための方法は、計画を立てて実行するだけではありません。宮部みゆきのように、プロットを立てずに長編小説をかくことが可能ならば、計画を立てずに目標を達成することも可能でしょう。

え? 上記記事によれば、宮部みゆきは結局、書き直すハメにおちいっているじゃないかって?
だが、それがゆえに、連載小説だと、後から書き直すことが多いそうだ。
プロットがかっちりと決まってないため、いざ書いてみると整合性がとれないことがあるようである。
三人称で書いたものを一人称に直すこともあるそうだ。
連載して単行本にならずお蔵入りした作品もたくさんあるようである。
非効率的だという自覚があるようである。
おっしゃるとおり。

では、人生はやり直せないものなのか? そんなことはありません。何度もチャレンジして、花開けばいいのです。

計画を立てて実行できる人間は、何度も目標を達成できることでしょう。でも、それは短編小説をいくつもものにするのと同じです。その積み重なりを重厚な群像劇としてつくり上げることができるのはバルザックのような力量ある作家にのみ許された行為。失敗しながら楽しみながら、ある目標に向かって進んでいく長編小説をものにするほうが、もしかしますと簡単かもしれません。

毎日何をすれば続けられるのか、自分にとって何が楽しいことなのか、じっくりと検討することをお勧めします。

計画を立てなくても、毎日やることで、目標に近づくという方法もあります。

禅宗では、悟りを目標として計画を立てて座ることはありません。

「ただ、座れ(只管打坐)」

それが禅で求められることです。「悟る」という目標は大切だけれども、坐禅中には「悟りたい」という気持ちを捨てなければなりません。計画を立てるのではなく、毎日繰り返しひたすら座る。その果てに、悟りが得られます。

禅宗は、日本人の感性にたいへん近い宗教だと言われています。日本人には、最後の審判に向けて計画を立てて日々の生活を送り、救済の時を待つ、というキリスト教型の生き方が合わない可能性すらあります。

計画立てなくても、幸せになれる

計画を実行できなくて、自己嫌悪に陥っている人。

心配ありません。計画を実行することよりも、目標に向かって毎日を楽しむこと、楽しみながら努力することに、注力してみてください。

それは、目標達成の一瞬の喜びのために過程を犠牲にする生き方ではなく、過程を楽しみ、毎日を喜びとし、目標達成を忘れてしまううちに、いつのまにやら目標を達成してしまう生き方です。


2014年6月16日月曜日

行動せよ、意識せよ

ムカデに歩き方を尋ねたら、ムカデが歩けなくなったという小話がある。出典はマザーグース。イギリスに古くから伝わる童謡だ。
A centipede was happy – quite!
Until a toad in fun
Said, "Pray, which leg moves after which?"
This raised her doubts to such a pitch,
She fell exhausted in the ditch
Not knowing how to run.
ムカデは幸せ。ヒキガエルがからかって尋ねるまでは。
「教えてください。どの足がどの足の次に動くのか?」
どう動かせばいいのか、ムカデは悩み、
身動き取れずに溝にはまって衰えた。
歩き方がわからなくなって(拙訳)。
百足のジレンマ」として名高い話なので、聞いたことがある人が多いかもしれない。

上述のエピソードから、様々な寓意を得られるだろう。全体としてうまくいっていたけれども、部分部分を意識してしまうとうまくいかないという教訓を得る人もいるだろうし、考え過ぎると身動きがとれなくなる時は、考えずに動け、という話だと捉える人もいるに違いない。

いずれにしても、ムカデが歩き方を意識したことが過ちの基である、という認識の点では共通しているが、もしも、ムカデが「意識して」歩くことができたら、どうなっただろうか?

……彼女は悟りを得たかもしれない。

「瞑想」が欧米で注目を集めている

これまで宗教……主に仏教の範疇だった"瞑想"の科学的な効用が、脳科学の発達によって、明らかになり、欧米では空前の瞑想ブームだという。

無論、数十年前から瞑想の効用を科学的に証明しようという動きは日本でもあったのだが、脳機能改善の根拠が脳波しかなく、訴求力は弱かった。

「瞑想をしたらα波という脳波が現れるようになりました。これはリラックスしたときによく出てくる脳波なんですよ」
と説明されても、今ひとつピンと来ないし、それがどう役立つのか、分かりにくい。

ところが今は、MRIによって、脳の活性部位がミリ単位で分かるようになった。瞑想したグループとしないグループを比較する統計手法も開発された。こうして、科学的に瞑想をとらえ、効果を明確に論じられるようになったのだ。

その結果、瞑想が脳に驚くほど良いことが明らかになり、Googleの社員教育プログラムに利用されている。Googleの見事な世界展開――あれだけの規模を誇りながら、この数年システム障害をほとんど起こさず、ミスらしいミスがほとんどない――を支えているエンジニアたちの質は、瞑想によって担保されている。

日本ではオウム真理教、中国では法輪功が邪教と認定されたこともあり、東洋では現代的な仏教理解に批判的な人の割合が多く、ために瞑想の実践という点で、東洋が西洋に遅れを取る時代となった。

しかし上記の通り、瞑想の効用は科学的に認められており、精神の改善にも大きく役立つ手段の一つなのである。

瞑想手法の一つ

そして、瞑想の方法の一つには、歩く瞑想というものがあるのを、ご存じない方が多い。

座禅に慣れ親しんだ人は、瞑想は座ってするものだ、という固定観念で縛られている。
だが、瞑想の本質は、自分の心をみつめ、無意識と理性を強力にコネクトすること。
座ることにこだわる必要はない。

中沢新一の『チベットのモーツァルト』の中に、チベットでは荒野をひたすら歩いて瞑想をする僧がいて、非常に優れた悟りを得るという挿話が出てくる。

歩く、あるいは走っている間、修行僧は無駄なことを一切考えない。歩く、あるいは走るという行為にひたすら意識を集中するという。普段無意識にしている、関節を曲げ、筋肉に力を込め、足を持ち上げ……といった一つひとつの動作すべてを、意識して行うのだという。

2つを合わせる

無意識の行為を意識して行うことで、精神のレベルアップを図ることができるというのならば、百足のジレンマと、歩く瞑想の話の2つを合わせることで、どのような示唆を得られるだろうか?

考えすぎると身動きが取れなくなる。まずは考えずに動くことが大切だ。動きながら、動いていること意識する。「認識する」と言い換えてもいいかもしれない。

考えて身動きが取れなくなるなら、まず行動。行動を客観的に認識しながら、突き進む。考えずに、感じるのだ。その果てに、大きなブレイクスルーが待っているということだろう。

2014年2月5日水曜日

大切なのは、自分を尊敬する価値体系の中で生きること

株式のトレーダーとして数千万円を超える年収を稼いでいるにも関わらず、自分の人生を、
「失敗だ」
と語る人のインタビューを読んだことがあります。

「私は医者の家系です。医者になる素質がなかったために若いころにその道をあきらめて、経済学部へと進み、今の道へ入りました。しかし、いくら儲けても、心は満たされないままです。医者になれなかった人生が、悔やまれてなりません」

傍目からは、とても幸せな人物です。美しい妻がいて、可愛い子供がいて、大きな家に住み、貯蓄も多く、車はたしかポルシェ。充分な成功者なのに、彼は満足できません。夜になると医師向けの専門誌を読みながら、医者になった自分をついつい想像してしまうのだそうです。

口下手なのに口が達者な人に憧れる人。
昔悪いことをして、今更生したのに、ピュアであることを求める宗教を信じている人。
英語ができないのに、世界で活躍することがカッコイイと考える人。
身体が弱いのに、健康であることが何よりも素晴らしいと信じ込んでいる人。

似たような人は大勢います。学歴だとか、収入だとか、コミュニケーション能力だとか、社会的地位だとか……自分の地位が低い価値体系なのに、なぜかそれを後生大事に抱えている人たちです。

でも、改めて考えてください。
「それって、幸せですか?」

他人を評価することはできる

不思議なことに、自分を低く見積もる人でも、他人の能力は正当に評価出来ることが多いのです。たとえば容姿コンプレックスを抱えている人でも、他人ならば、他に才能があれば、容姿が劣っていようが、賞賛を惜しみません。

ところが、自分に関しては別。何かの才能を持っていたとしても、そこに価値を感じずに、欠点に意識を向けてしまうのです。

価値体系の創造

自分を否定する価値観を持ちながら、幸せになれることはありません。そしてこの種の価値観は、どれが絶対的に正しいというものはありません。それぞれが根拠を持ち、それぞれに欠点があるものです。

幸せになるコツは、かけがえのない自分自身を肯定する価値体系を持つことです。

それなのに、逆の人があまりに多いのです。

その遠因は、小学生の頃の教育にさかのぼる必要があるかもしれません。子供は叱咤しないと努力しませんから、欠点に目を向けさせて、
「あなたにはこんなに欠点があるから努力しなくちゃいけませんよ」
と説くわけです。

そうしますと子供は、自分の力不足の分野に目を向けることが大切だ……と思うようになるのです。逆境に立ち向かうことが正義だと考えるのです。これが、自分の劣ったところに注意力が向かってしまう原因なのでしょう。

そろそろ、それをやめませんか。

話すことで考え方を変える

まず、自分の人生を振り返ってみてください。
たとえば、
「私は身長180cm、体重が55kgの痩せ型」
という人がいたとします。

それならば、痩せ型の体型、高身長を、
「とても素晴らしいことだ」
と思わねばなりません。

ところが、自分を低く見積もる人はそれができません。こういう思想や感情、価値観を変えるのは、とても難しいことですが、方法はあります。

まずは他人に話すことを、変えること。これまでガッシリとした体型を評価する発言が多かったとしたら、それを封印してください。それを改めて、自分自身の体型である、
「痩せた体型の方が、カッコイイ」
と力説してみるのです(そう思っていないとしても)。

繰り返す

自己評価の低い人の特徴は、自己否定の発言が多いことです。それがフィードバックして、自分の価値観にいつの間にか潜り込むという悪循環に陥っています。そこを、断ち切る。

逆のことをしなければなりません。価値観を変えるのは難しくても、自分を褒める言葉をほんの少し、他人に話すことは、やや簡単ではありませんか?  自分自身を肯定することを、常に言い続ける……初めての人にとっては大変ですが、思想を変えるには一番効果的です。そのうちに、自分で自分が洗脳されていきます。

変えられない過去、そして今の自分を評価する価値体系を作り上げ、それを他人に話し続けてください。

いつの間にか、自信に満ち溢れ、幸せになっていることに気づくことでしょう。

考えれば当然のことです。自信とは、自分に対する信頼であり、信頼され、褒められることは幸福なのです。それが自分からのものであったとしても。




2014年1月16日木曜日

尊故不囚~ふるきをたっとべどもとらわれず

最近、「尊故不囚(そんこふしゅう)」という言葉を作りました。時代考証的にこの漢字の組み合わせが正しいのかどうか、自信のないところではありますが、概念としては、少々自信を持っています。

「温故知新(おんこちしん」という言葉があります。「故き(ふるき)を温ねて(たずねて)新しきを知る」とよみます。古い時代を学ぶことによって、これからの世の中をどのように作っていくべきかを学ぶという意味の言葉です。歴史をなぜ学ぶのか、その理由を説明するためによく使われる熟語です。

尊故の「故」の字は、ここからとりました。よって「尊故不囚」は、「ふるきをたっとべどもとらわれず」とよんで欲しいところです。

昨今は伝統的なものが顧みられない世の中ですが、私は神社仏閣だとか、伝統的な価値観だとか、武士道だとか武術などの日本に古くから伝わるものを、大切にしていきたいです。昔から武道が好きで、剣術や体術などを学んできました。

と同時に、こうしたものにとらわれてはいけない、という思いを強く持ちます。

一昨日の記事で、風俗に身をやつす人について述べましたが、もしも、親の借金を返すため、あるいは病気の親のために大金が必要なためという理由ならば、働くことを許すべきだろうか、という疑問を、持たれた方も多いのではないでしょうか。

当然の疑問です。

私の考えでは、こうです。そんな親は見捨てればいい。死ぬのは寿命だと思えばいい。

たとえ親が借金で苦しもうと、病気で死のうと、それを救うために子供が苦しむ義理はない、と考えるのです。

でも、そこまで思い切れない人が多いものですが。

文化、伝統は親のようなものです。この私を育ててくれた、ありがたい存在です。それを尊ぶべきだとは思うものの、もしもそれが自分の自由を縛り、そして害を為すものであるならば、それは破壊するべきです。それが無理なら急いでそこから逃げるべきなのです。

こういう考え方が「尊故不囚」という言葉には込められています。

先日、王貞治が、体罰を外部の人間がとやかく言うべきではない、と発言して話題になりました。

★ 体罰問題の根底「古き良き日本が失われたから」と王貞治氏
 確かに余所から見ている第三者からすれば、暴力に変わりはないのかもしれません。でも当事者の間には、意思の疎通というか、血の通ったところがあった。日頃の人間関係があるから受け入れられたし、周りの人も好意的だった時代でした。(中略)それが今は、何の関係もない外部から騒がれたりして、心の繋がりを作ろうにも全部、ブツブツと切られてしまうでしょう。とても難しい時代になっています。
 僕なんかは、当事者同士に任せておけばいいじゃないかと思うんです。起きた現象だけで、関係ない人にまで色々いわれることで、昔から日本にあった“良さ”みたいなものが切れるようになってしまった。
王貞治は国民栄誉賞をもらった偉人です。台湾人でありながら、日本のことを思い、活躍してきた彼のことを、私は尊敬しています。でも、この考え方だけには賛同できません。

彼が一流となった陰には、涙をのんで舞台から去った何百人という人々がいることが、彼には理解できないのではないでしょうか。去っていった彼らの中には、体罰が「そこまでされたのに成果を挙げられなかった」刻印としてトラウマとなっている人が果たしていないのでしょうか。その憤りを、今度は家族に向けて、より弱い子供に暴力を振るってしまう負の連鎖を産んでしまったということはないでしょうか。それは少数派でしょうか。そうではありません。王氏のような成功者ならば、苦労はすべて報われ、暴力にさえ感謝することができるでしょうが、それこそ少数の者の特権です。

★ 「もう人類に体罰の実験は必要ない」
 「体罰について人類はすでに1000年単位の試行錯誤を重ねてきた。だからもうこれ以上実験をする必要はない……」。待望の新刊「昨日までの世界 文明の源流と人類の未来」(上下巻、日本経済新聞出版社)を執筆したピュリツァー賞受賞者、ジャレド・ダイアモンドさん(75)が来日、インタビューに応じた。
 「牧畜社会は狩猟社会に比べ、子供をたたく文化が多い。その理由は、守るべき財産があるからだ。もし、子供が家畜のいる小屋のフェンスを開けっ放しにするミスをしたとしよう。その子供の小さなミスで、全ての家畜が逃げ、全財産を失ってしまう場合がある。そのため、子供がミスをしないよう、体罰でしつけをするのだ。狩猟社会では、特に守るべき財産がないため、体罰を与えてまで子供をしつける必要に乏しい」
「歴史から学ぶべきだ。もうどこかの社会で実験済みのことを、わざわざ繰り返してミスを重ねる必要はない」

体罰と似たようなおかしなことが、伝統と言われるものの中に多数あります。その一つ一つを否定したい。と同時に、間違ったものを多く含むものであっても、総じて良いものだとして、まずは尊んでいきたい。こうした考え方が、私の中にはあります。

最近、新しいブログを作ろうとしています。そのブログでは、テーマを決めて、何かそのブログを読むことで、役に立ったと思えるものにしたいと考えています。

そのために、できれば自分の価値観がぶれないものにしたいと考えているのですが、どうも、伝統を重んじたい、権威を尊びたい、という強い感情を抱く一方で、伝統に縛られたくない、おかしなものはおかしいと声を上げたい、権威の威圧にはとことん反発していきたい、という感情にも掻き立てられることが多く、この二つをどう統合するべきか、ということをこのところ、考えていました。

その中で生まれたのが「尊故不囚」という言葉です。これをしばらく、意識していこうと思います。


2014年1月15日水曜日

属性で判断すると、特別な存在を見落としてしまう

年齢を重ねることは悪いことではない、と最近、よく思うのです。

目の前の人間を、個別具体的に見て、自分の頭で判断しようとすのは、若い人間の特権ですね。

昨日、「年齢を重ねる内に、風俗経験者と結婚を考えられなくなった」という記事を書きました。風俗経験者に限らず、伝統的価値観では、つきあって損をする可能性が高い属性を持った人々が他にも大勢います。たとえば、それは元暴力団関係者であったり、ギャンブル好きな人物であったり、遊び人であったり。

2014年1月14日火曜日

年齢を重ねる内に、風俗経験者と結婚を考えられなくなった

学生時代、バカバカしいことで議論をよくしました。大学生の頃のホットな議論の一つが、
「風俗嬢だった女性と結婚できるのか?」
という問題について。

当時の私は、
「もちろんだ。当たり前だろ」
と答えていました。


たかだか数年の間、軽蔑される場所で働いただけで、全人格を否定する人間はおかしい。

(馬鹿じゃないのか。一時の過ちを許せないような人間は、どのような家庭をもったところで、家族を幸せには出来ないだろう。人間は過ちを犯すものだ。それを許せない人間の家庭は余裕がなく、ストレスに満ちた空間となるだろう。そこで過ごす家族が幸せである訳がない)

「やっぱり、愛だろ。愛」

……そう思っていた時期が、私にもありました。

多くの人と実際に出会う
ところがそれから数十年、考えは大きく変わりました。
先日ネット上のどこかで上記の問題について議論されていたのを読んだ時、元風俗嬢との結婚を、
「……無理だな」
と反射的に答えていたのですから。

そのことに気づいて愕然としながら、何故だろう、と考えこみました。

経験を積んだことが、どうやら一番の原因。

社会に出ますと、学生時代より付き合いの範囲がひろがりました。合コンもよく出かけましたし、合コンには風俗嬢が来ることもたまにありますから、彼女たちにいろいろな話を聞いたものです。

いろいろなところで働いていたので、中には風俗や水商売経験者が同僚にいる職場もありました。

彼らは若いせいもあってか、アッケラカンと風俗で働いていた経験などを話してくれます。
「後悔はしていない」
と、彼らのほとんどが胸を張って答えていましたし、それを聞く私達も、
「いい経験出来たんじゃないの?」
などと相槌を打ったものです。

ところが、実際の彼らと接していますと、共通の傾向があることが、長年の経験で分かってきました。

まず、総じてだらしがないのです。

偏見は現実
短絡的に物事を考える。風俗に身を堕とすことは最終手段ではなく、選択肢の一つとして軽く考えている。借金をしていることが多い。ギャンブルに興じる者が多い。性に奔放。浮気をする者が多く、それを彼氏に平然と隠そうとする。思慮に乏しい。意思力が弱く他人の勧めを断れない者が多い……このような特徴を持つ者があまりにも多いのです。

こんなこと、よく言われていることですが、学生時代の私は、
「そんなことないだろ。ステレオタイプで人を判断しすぎ」
と、偏見を笑い飛ばしていました。

でも、彼らに接すると、偏見と思っていたものが、実は統計学にも正しいことが分かるようになります。

よく考えれば、現代日本では、
「絶対に風俗で働かなければならない」
という理由はほとんどありません。

風俗で働く主な原因の一つに借金があります。でも、借金をしたとしても自己破産をするとか、あるいは弁護士などに相談して返済できる範囲で少しずつ返済するなどの方法を取ることで、最後の一線を越えずに済むのに、彼らはそれをしません。そのことを知らないとか(情報収拾能力が低い)、他人のアドバイスを聞こうとしない(頑固で素直ではない)とか、いろいろな理由がありましたが……。

こうして、数十年の間、多くの人と出会い、経験を積み重ねていくうちに、他人を個別の人間としてではなく、統計的に見るようになるのですね。私だけではなく、ある程度の年齢に達した人のほとんどが、そうでしょう。

「大数の法則」の発動です。

大数の法則」というのは、十分な標本数の集団を調べれば、その集団内での傾向がその標本が属する母集団の傾向と同じになることをいいます。

つまり、数多くのケースに触れるうちに、個人の経験的な認識は、大多数の人々が長い年月を経て持つに至った共通認識・伝統的価値観に、次第に一致・集約していくものなのです。

失敗をしなくなる
その結果、
「元風俗嬢と結婚しても、不幸になることが多いから、やめといた方がいいんじゃないの?」
と考えてしまうに至ったのでしょう。

今よりも若い時には軽蔑していた偏見を、年令を重ねる内に身につけるというのは、悲しいことかもしれませんが、仕方がないことかもしれません。なぜなら、現実がそうだから。

それを身につけて、人間は過ちを犯さなくなっていくのでしょう。

思えば、世の中には星の数ほど異性はいるけれども、良き人と出会うまでは失敗の連続、という人が多いはずです。失敗を重ねる内に、残された時間はどんどん減っていきます。試行錯誤を経る過程で、ある程度の見切りをしていくことは大切なことです。人生は短いのですし、特に「結婚」という一大イベントで失敗するわけにはいきません。

「あまり若いうちに結婚しない方がいい」
と言われるのは、常識を身につけてから判断した方がいい結果を生むことが多いからでしょう。

やがて、パートナー選びに限らず、様々なことで失敗をしなくなります。それはいいことですが、誤算もあります。

そのことに関しては、また日を改めて。

2014年1月10日金曜日

やる気がでないからとガッカリしないで(´・ω・`)

先日仕事をしていたら、同僚同士が会話していました。
「家に帰ると疲れて何もやる気がでないよね」
「うんうん、分かるよ~」

その人は私の方に向き直って、
「amakanataさんもそうでしょ?」
と尋ねてきたので、
「そんなことないですよ」
と思いつつも考えを表に出さず、、
「そうですよね~」
と言って笑顔で共感してみせたのです。

(昔の私だったら『自分はそうじゃないですよ』などと答えて反感買っていたよな~)
と思いながら仕事を続けたのですが、帰り道に思い直しました。

昔の私だったら、逆に、彼女たちに同意していたでしょう。
「そうなんですよ! 仕事から帰るとなにもする気、起きませんよね!」

なにしろ、私の20代の頃の課題の一つが、
「どうすればやる気を維持できるか」
でしたから。

問題解決のために、本屋においてあったモチベーションに関する本はいろいろとあさりました。
でも、うまくいきません。

睡眠時間を変えたり、好きなことだけを集中して一ヵ月やってみたり、ふらっと旅に出てみたり……
いろいろなことを試してみても、やる気がなかなか湧かないのです。

それが今では、これもやりたい、あれもやりたいと思いつつ(それは前と同じです)、
前と違うのは、実行に移せていることです。

では、どこが違うのか?

……実は、これ、といった決め手はないんですね。
せっかくここまで読んでいただいた方には悪いのですが、逆にそれが答えなのかもしれません。

もし、ある一つの方法だけを実行すればうまくいく、という魔法の方法があれば、
誰だって成功しますからね。

やる気を上げるいろいろな方法が本やネットには氾濫しているわけですが、
それを全部実行すればいいと思うんですよ。
実は、そこに書いていることは全部大切なことです。
でも、性格的に、体質的に、年齢的に、身につくこととつかないことがたくさん出てきます。

今までの習慣のせいかもしれないし、過去のトラウマのせいかもしれない。
何が原因でうまくいっていないのか、原因を調べようとしても、無理でしょう。
だって、悲しいかな、私は専門家じゃありませんから。

いや、専門家ですら、複雑に入り組んだ心理的なコンプレックスを解くのは難しいのです。
患者と何年も向き合い、初めて解決出来るものだといいます。

20代までの20年間に積み上げた垢のせいで、今の自分が思うとおりに動かないのは当たり前。
それが時間の怖さです。習慣の重みです。
どうしても出来ないことは、今までの積み重ねのせい。
だったら、時間をかけて解くしかないと、どんと構えていればいいんじゃないでしょうか。

どうにかしようと足掻いても、まったく前に進まないように見えるかもしれません。
でも、そこでいろいろと試したことが、多分後々になって効いてくるのです。
それも時間の積み重ね。
私がいま、モチベーションに悩んでいないのは、20代から30代にかけて、
散々あがいたことが理由なのかも。

解決しなくてもいいんです。今、あがいてみてください。


2013年12月19日木曜日

大きく変化するためにこそ、小さくしか変化してはならない

ある友人から「ポジティブな逸脱」という概念を教えてもらった。皆さんは、ご存知だろうか?

★ ポジティブな逸脱がもたらすパワー
  • 「ポジティブな逸脱者」とは、社会規範に例外をもたらす人間を指す 
  • 問題を抱えているコミュニティーは自分達のポジティブな逸脱者(自主的に問題を回避したことのある人間で、解決策のヒントを持っている人)を見つけなければならない
  • 貧しいベトナムの村で健康な子どもを持つ、ポジティブな逸脱を実践している家族からの情報により、何千人もの子どもを栄養失調から救うことが出来た
面白いと思った。長期的均衡を保っている悲惨な環境の中に潜む、改善の糸口となる「逸脱」を発見し、それを周囲へと広げていくという作業。これは、環境を一気に変えるという逆転指向ではなく、少しの改善による複利効果をねらったものと言える。

昨日取り上げた「「綺麗ごと」を真に受けるな!」という記事を書いた筆者なら、このような最小限の改革についても批判をするのではないか。
 「1%のことを変えるだけで成功する」
→ ほんの小さなコツだけで成功してしまうというキャッチフレーズ。「ザ・射幸心」と呼んでもいい「キラキラワード」です。現在のポテンシャルが「100」だとして、 毎日たった1%ずつでも成長していけば、1年後にはそのポテンシャルが「3,778」になるという話が多いので、「騙された!」と思う方も多いでしょう。
だが、私は思うのだ。
「大きく変化するためにこそ、小さくしか変化してはならない」
というのは、汎用性のある考え方ではないだろうか?

小さな変化だから長続きする

先日、ブロガーが多数集まる東京ミートアップに参加してきた時に聞いたうろ覚えの話だが、ある食べ物についての記事を5年近くひたすら書き続けた人がいた。

アクセスも最初はほとんどなかったのに、ここ数年のブームでアクセス数が爆発。ついにはブログだけでも生活できるレベルで稼げるようになったらしい。

似たような話を聞いた覚えがある。

数ヶ月前に、株で儲けた友人の話。大儲けをするよりも、株式の売買の場から退場をくらわないように、ひたすら堅実な売り買いをここ数年努めていたところ、先日のアベノミクスにより株価が爆上げして、大幅な利益を今年は得た、という。

2つ目の話を聞いて、さもあらんと思った。勝とうとするよりも負けないようにしようとすることで、大勝はしなくとも退場しない方法を身につけることができたのだろう。その方法を見つけるまでが難しい。

だが、もしもその方法が身についたならば、コツコツと投資を続け、たとえば10年に一度は起こる株式市場の活況によって、大儲けすることはさほど難しいことはない。

長期的に大きく変わろうと思うのならば、息切れしないようにしなくてはならない。また、退歩しないようにしなくてはならない。ほんの少しずつ、必ず成長し続けることができたならば、必ずどこかで、大ブレイクを果たす。

大きく変化するためにこそ、日々の生活では息切れしないことが必要だ。また、小さな変化ならば、リバウンドを体験しなくてもいい。今を大きく変えようとすると、後で大きな反動が来る。周囲からの抵抗も大きいだろう。少しずつ進むならば、自分も周囲も、変化を自然に受け入れることが出来るのだ。

ビギナーズラック

このようなことを考えたのは、数日前。それから、不思議なことが起きた。

突然私のブログのPV(ページビュー。このサイトを閲覧している数)が、爆発的に増えたのだ。
きっかけは、胎児が子宮内で亡くなってしまい、石灰化して無害化した「石児」が再び現れ、話題になったことが原因だった。

★ 【コロンビア】妊娠40年目…82歳女性の体内に石化した赤ちゃん見つかる。「石児」という非常に稀な症例
実はこんな記事を書いたことを覚えていなかった。話題になるとは知らず、文章の校正もメチャクチャだったから、後にこの現象に気がついて冷や汗をかき、それからすぐに、いくつかの部分を修正した。

その後もあれよという間にPVが増え、念願だった10,000PV/日も突破した。これには驚いた。

今まで月に45,000PVくらいだったけれども、このままの調子が続けば、今月は月間100,000PVに届く可能性すらある。お陰で、このところGoogle AdSenseでも収入がうなぎのぼりだ。

こういうのも、「ビギナーズラック」というのだろうか。

正しい道へと進む人間を宇宙は全力で応援する

私はこの言葉を、『アルケミスト』のあるシーンを思い出しながら書いている。

 『アルケミスト』では、王・メルキゼデクが、少年に旅するよう促すというシーンがある。その言にしたがって羊を売ろうとしたところ、予想外にトントン拍子に事が進む。その理由をメルキゼデクは、正しい道へ進もうとした人を、宇宙が必ず応援するのだと説明する。

初心者にはその手のことがよく起こる、とメルキゼデクは言うが、これが、今回私が挙げた「ビギナーズラック」だ。

ポジティブな逸脱……決して一発逆転を狙うのではなく、絶え間ざるミニマムな改善をしていくことに共感した直後に、それを応援するような大幅なPVアップがあった。この方向は間違っていないよと、何かが応援してくれているのかもしれない。



……なんてね。


※写真:http://www.pakutaso.com/より

2013年12月18日水曜日

自己啓発にも周期がある

『綺麗ごと』を真に受けるな!」という記事が話題になっていたので読む。
小さな労力で大きな成果を手に入れたい、楽してお金儲けしたいという「射幸心」を煽るコピーが多すぎて、人を迷わせます。
と指摘し、泥臭く、ガツガツと目標達成のために努力をしていけと読者を叱咤する内容だ。 筆者である横山氏が指摘する「綺麗ごと」とは、
  • 「無理しないほうがいい」
  •  「頑張らなくてもうまくいく」
  • 「楽しいと思える仕事を見つけろ」
  • 「心の底からやりたいと思えることだけやればいい」
  • 「1%のことを変えるだけで成功する」
などで、それぞれに筆者から「そんな甘いことを言っていては成功しないよ」というツッコミが入っている。

Facebookのコメントなどを読むと、筆者の指摘に目からウロコが落ちた思いになった人々が、多いらしい。

自己啓発にも周期がある

最近、この手の自己啓発的なものにも周期があることが分かってきた。
①考え方を変えることで、超自然的な何かが、あなたを手助けしてくれる(宗教的)
 ↓
②非科学的なことはウソっぽい。それよりも心理学などを応用した成功法則だ!(科学的)
 ↓
③宗教だとか科学だとか大げさ。ほんの少しの改善でいいんじゃないの?(日常的)
 ↓
④甘いことを言うな。歯を食いしばって頑張れ。努力は実る(スパルタ的)
 ↓
⑤やっぱり世の中カネだろ。努力するよりもオレのやり方をマネてカネ稼げよ(即物的)
 ↓
①'いろいろやって頑張って努力しても、うまくいかないよね。でも大丈夫。
考え方を変えることで……(以下ループ)
上記の記事は、④に当たるのだろう。

努力しないとうまくいかないが、努力したからといってうまくいくものでもない。逆に努力しなくても運だけでうまくいく人もいる。ある人にとってはうまくいった方法が、他人にはうまくいかない場合もある。世の中の不条理に悩み、誰もが模索する。

だから、このようなライフハック系の記事はいつの世の中でも需要があるし、一冊の決定版が出ることによって、他の本は一切不要となる、ということもないのだ。

ブームになる本が時代をつくる

こうして、ある本……①『ザ・シークレット』だとか、


②『スタンフォードの自分を変える教室』だとか、


③『キッパリ!―たった5分間で自分を変える方法』だとか、

④上記記事だとか、⑤『金持ち父さん貧乏父さん』だとか

がブームになり、一時期似たような本が本屋の一角を占めるが、やがて次のブームに移っていく。

私は、だからどれも信用出来ない、とは思わない。どれがその人に役立つか分からないので、取り敢えず、やってみればいいんじゃないの? と思う。

①辺りを拒否する人が多いと思うけれども、不幸のどん底にいて誰も助けてくれないという閉塞感の中にいる人にとって、"神の存在"や"死後の幸福"のお陰で、はじめて希望を持てるということは十分考えられるし、それによって大転換を迎え、人生が好転していくような事例は、世の中にはたくさんある。

ただ、自分に合わない方法を選んで信仰のレベルにまでいくと、どれか一つを信頼しきったまま時間がダラダラとたってしまう、ということにもなりかねない。

『綺麗ごと』を真に受けるな!」という記事を読んで、
「ここにこそ真実が書いている」
なんてことを考えずに、、
「これもまた、一つの方法ではあるよね」
と思って、悠然と構えていればいいと思うのだ。

2013年11月29日金曜日

渇望を叶えようと努力することが大切

「……経験的なことを言うなら、人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人が何かを賢明に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる。もちろんこれは一般論に過ぎないわけだけれどね」(村上春樹著『海辺のカフカ』)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

……望めば望むほど、目標から遠ざかってしまう。
切ない思いに苛まれる。
人は何故、求不得苦、すなわち得られないものを求め、苦しむのだろうか?

いや、発想が逆だ。
得られないからこそ、より強く渇望するのだ。

目の見えなくなった盲人が、満開の桜の花の散る景色を再び見たいという望みは、大変強いものだろう。耳の聞こえなくなった聾者が、愛しい恋人の声を聞きたいと望む強さは、想像を絶するだろう。

恋愛も仕事も名誉も、手に入れられないから、余計に執着する。
強く求めるものが得られないのではなく、得られないからこそ強く求めるようになるのだ。

進化の過程で人間の本能へと刻みつけられた習性なのだろう。得られないものを得ようと努力する個体だけが、生き延びてきた。
だから、求められないものこそ強く得たいと思う気持ちは、遺伝子に刻まれた人間の業である。

望むものは叶わないとあきらめるか、望むことは叶わず、叶えば望まなくなるというしょうもない人間の本性を知った上で、努力を重ねるか。私達には、選択肢が二つある。

これまで私は、前者を選んできたように思う。これまで読んできた仏典や東洋哲学の影響が大きかったからだろう。だが、若い内に老境にいることが尊いならば、早く死ねばいい。達観に早すぎることを、30代になって気がついた。

考えれば分かることだ。
東洋的な停滞は平和を生むかもしれないが、現状を改革できない。
絶望的なインドの差別制度を、4000年間、インドのグル達が放置してきたのを見れば一目瞭然だ(儒教文化圏では孔子は常に自己改革を唱え続けていたけれども、儒教文化圏では儒教よりもむしろ、民衆の中には道教の影響の方が強い)。
若い内に老いてなんになろう?
あきらめることを学ぶよりも、あきらめられずに悲嘆の涙を流す方がいい。感動は渇望の中に生まれる。

2013年11月23日土曜日

現代に通じる輪廻転生/登山家の松濤明の死生観

権威におもねりたくないから、「誰が言うか」よりも「何を言うか」を大切にしたいと、普段は思うようにしている。自分の頭で考えるのではなく、他人の権威にもたれかかるような「あの人が言ったから正しい」と考える行為はかっこ悪いと思う。稚拙であろうとも、自分の中で論理を組み立てて、「こうこうこういう理由だから正しい」と考えていきたいと思っている。

ただ、簡素な言葉の場合は、事情が異なってくる。

「世界は美しい」と言ったのが、パチンコに大勝ちした35歳のフリーターが言ったのか、世界の破局を止めたばかりの政治家が言ったことなのかで、意味も受ける印象も全く異なるだろう。

その人の置かれた立場、状況、過去の遍歴を知ることで、他の誰がが同じことを語るよりもはるかに深い感動を、言葉から受けることがあるのは間違いない。それは仕方のないことだ。特に、死の前に綴られた遺書にのこされた魂の叫びとも言うべき言葉には、他にない迫力を感じてしまうことがある。

26歳で遭難して命を絶った松濤 明(まつなみ あきら)という登山家がいる。その遺書を読み、言い知れぬ感動を覚えた。

その概要は『冬雪のビヴァーク』に詳しい。



亡くなったのは昭和24年だから、随分と昔のことだ。まだ登山家が珍しかった時代。未踏のルートを征服して名を馳せたい、という野心があったのかもしれない。飛騨山脈を冬に縦断中に遭難、一緒に登った友人が先に亡くなる。そのあと自身の死を悟った松濤は、友人の遺体とともに、冬山にとどまって死を待つことに決めた。
 全身硬って悲し。
 何とか湯俣(ふもとの地名)迄と思うも
 有元(友人の名前)を捨てるにしのびず、死を決す
 お母さん あなたの優しさに ただかんしゃ。
 さいごまで たたかうも命
 友の辺に 捨つるも命
 共にゆく 
という言葉は簡潔ながら、涙を誘う。

彼は手帳に、覚書や死の前に浮かんだことなどを綴っていく。
 西糸屋(注:彼が登山前に泊まった山荘)に米代借り、三升分
というメモ書きなどもある中で、私が一番感動したのは次の言葉だった。
 我々が死んで
 死骸は水に溶け、やがて海に入り、
 魚を肥やし、また人の身体を作る、
 個人は仮の姿 ぐるぐる回る
彼の考察は、輪廻転生を科学的にとらえなおしたものだ。

私という個体を構成する物質は、松濤のように自然の中で死亡するのでなければ、遠い先に死に、いずれ焼かれ、骨となった以外はあらかた空気中へと散じてしまうのだろう。その光景が……自然に帰った物質が、また生命に宿り、動物となって再生するという壮大な光景が、目の前に浮かんでは消えていった。

私は輪廻転生という考え方が好きではない。貧しい者が貧しいのは、弱者が強者に虐げられるのは、前世で悪いことをしたせいだとあきらめをうながす思想だ。この社会の矛盾を変革するのではなく肯定するために使われた思想だ。アジア的停滞の源泉がそこにある。自分がアジア人だという誇りがあるから、仏教を心の支柱としているが、輪廻転生については好きではなく、信じてもいなかった。

しかし、この考え方なら受け入れられる。自分を形作る物質の循環という考え方なら、素直に納得できる。それを意識することで、自分が大宇宙の一部であることを改めて認識できるし、自然への崇敬の念が湧いてくる。

だが、精神はどうなるのだろうか? 精神は循環しないのだろうか。脳が焼かれておしまいなのだろうか。

いや、そうではない。精神もまた物質が循環しているように、精神を共有している人々の間で循環している。

私の話す言葉、そして、私の行動が、家族、恋人や友人、知人、あるいはすれ違っただけの人にまで、ほんの少しずつでも何らかの影響を与え、伝播し、それが別の影響を他人に及ぼしていく。それは水に落ちたいくつもの石の波紋がお互いに影響を与え合っていくようなものだ。

自分の波紋がやがて消えようとも、それに影響された人の精神が、やがて他の人に影響を与え、世界が終わるまで、途絶えることがなく続いていくのだろう。形を変え、世代を重ね、他人の頭へ「私」の存在の影響が続いていく。私の肉体を構成する物質の循環と、精神の影響の伝播。それは形を変えた輪廻転生なのだろう。

自分は広大な大地の一部、永遠の人間の営為の一部であり、終わりはないのだと自覚したとき、なんとも言えない無限の力が体の奥から湧き出してくるのを感じないだろうか?

2013年10月31日木曜日

愛読書から推測する、その人物 ~オバマ大統領の場合~

その人が何を考えているのか? どのような信念に基づいて、その決断を行うのか?

それを明らかにすることは難しい。その人がどのように生きてきて、どのような人と出会い、どのように認識をしたのか……さまざまなことを知らなければ、その人の思想を垣間見ることは困難だ。

だが、
「友達を見れば、その人の品性が分かる」
などと言われているように、その人の交友関係や嗜好によって、その人の中身をある程度、予測することが出来る。同じように、愛読書に注目することで、その人の思考、哲学を推測できるのではないか、と思うのだ。

先日Yahoo!の新しい新CEOであるマリッサ・メイヤーについて書いたが、そのネタ元となったのは、各界の著名人の愛読書を紹介した記事"Books Extremely Successful People Read"である。同じように、この記事で紹介されている人々の愛読書を紹介がてら、その人となりを時々、推測してみようと思う。

一回目として、まずはオバマ大統領を取り上げたい。
★ Obama's Favorite Books

『ソロモンの歌』


赤ん坊でなくなっても母の乳を飲んでいた黒人の少年は、ミルクマンと渾名された。鳥のように空を飛ぶことは叶わぬと知っては絶望し、家族とさえ馴染めない内気な少年だった。だが、親友ギターの導きで、叔母で密造酒の売人パイロットの家を訪れたとき、彼は自らの家族をめぐる奇怪な物語を知り、そのルーツに興味を持つようになる―オバマ大統領が人生最高の書に挙げる、ノーベル賞作家の出世作。全米批評家協会賞受賞。(Amazonによる本書紹介)
 あらすじはAmazonよりも、下記のブログ記事の方がわかりやすかったので引用する。
ある事情でミルクマンというあだ名をつけられた黒人の少年が、成長の過程で自分を取り巻く人々の秘密を知ってゆく。両親の激しい対立。父と叔母の間にある深い確執。祖父の死をめぐる謎。そして気の置けない親友が、実は白人憎悪に凝り固まって無差別殺人に手を染めているという恐ろしい事実。
 やがて彼の人生を支配しようとする両親や、彼を憎悪する姉、彼を殺そうと付け狙う恋人など、様々な人間関係が嫌になったミルクマンは、町を出て自分の家系のルーツを探し求める一人旅を始める。だが、そんな彼を裏切り者と見なした親友が、彼を抹殺すべくあとを追ってくることを、ミルクマンは知るよしもなかった・・・。
 思わず息をのむような劇的なストーリー展開、暴力的な挿話、迫力ある生々しい描写。それでいて全体を豊かに包みこむ神話的な象徴性。今そこで起きている出来事でさえ昔話のようにあっさりと語っていたこれまでの作品と違って、はるかに直接的でくっきりとした語り口の小説です。
サイト『ソロモンの歌』(トニ・モリスン) [読書(小説・詩)]より

『白鯨』


アメリカの著名人の愛読書を調べると、『白鯨』を選ぶ人がやたらと多い。日本でいう『竜馬がゆく』のようなものなのか? 国民的な人気をこの本は誇っているようだ。

私は子供の頃に読んだ。白いマッコウクジラであるモービィ・ディックを追う、片足の船長の狂気が印象的だったが、所詮少年向けの名作劇場シリーズのものであり、たぶん多くが割愛されていたのだろう、誰かの愛読書となるほど、面白いとは思えなかった。

ところが、
「モービィ・ディック」と呼ばれる巨大な白い鯨をめぐって繰り広げられる、メルヴィル(一八一九‐一八九一)の最高傑作。海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない法外なスケールと独自のスタイルを誇る、象徴性に満ちた「知的ごった煮」。新訳。
(Amazonによる本書紹介)
という紹介文を読んでみると、興味が改めて湧く。

『Parting the Waters: America in the King Years 1954-63』


未翻訳、らしい。『水を分かつ』という名前で紹介されることが多いようだ。

著者はテイラー・ブランチ。内容は、1954年の「人種差別は違憲」というブラウン判決から、1963年のキング牧師のワシントン大行進までの9年間を描いた作品だという。黒人ならば、避けては通れない作品なのだろう。

『Gilead』


これも未翻訳。著者はマリリン・ロビンソンという白人女性。
美しい散文で、死を前にした老牧師の回想と、まだ幼い子供と妻への思いが綴られて行く。神を信じつつも、妻子に殆ど財産らしいものを残さないことへの不安を持ちながら、長い牧師生活を振り返っていく。
しかし多くの日本の読者には、この本を理解することは難しいだろう。キリスト教の家庭に育ち、牧師の生活をある程度分かっている私でも、殆ど筋らしいものがなく、淡々と進む回想を読むのがしんどく思えたことが何度かあった。
稀なほど、美しく繊細な本であるが、日本ではごく小数の人にのみ愛されるのではないだろうか。
(Amazon書評による本書紹介)
淡々とした牧師の述懐のようだ。世俗的な欲望を捨て、信仰に生きることを決意することは、資本主義の総本山であるアメリカではしんどいことだろう。その中の不安と、それでも誇りを持って死ぬ充実感を描いた作品のようだ。

『自己信頼』


語りかけてくるようなやさしい文体で、
オバマ大統領の座右の書のエッセンスに触れることができます。
疲れていてもすっと心に入ってくる本でした。
自分の道を見出したいと願う人へオススメです。
エマソンを読んだことのない人への入門書としてもオススメです。
様々な人や自己啓発本からのアドバイスが波となって押し寄せ、
そのうねりが胸元までに迫るが、まだ道は見えず焦りに歯噛みするような時、
この本は自分自身を信じよと言い、
その言葉に気づくところがあります。(Amazon書評による本書紹介)
自己啓発書の一種ではあるけれども、何よりも「自分を信頼すること」に重点を絞った内容のようだ。オバマ大統領が、困難な状況にもかかわらず、決して「ブレない」のは、この本に勇気づけられる事が大きいからかもしれない。


さて。

彼の愛読書を並べてみると、まず明らかなのは、オバマという人物は、自分が黒人である、という意識を常に持っているということ。

これはまあ、当たり前といえば当たり前。黒人はアメリカの歴史では、差別される側だった。オバマ大統領は、その中から世界最高の地位にまで這い上がった立志伝中の人物だ。常に自分の出自を意識するのは当たり前といえばいえる。

だが、彼が好むのは「差別」という歴史を学び、恨みを新たにすることではない。その体験を自分構築のために役立て、さらにはそこで立ち止まらず、困難にもめげず、この世界を冒険していこう、という姿勢。それが彼の愛読書から見て取れる。

また、少々宗教的な人物なのかもしれない。聖書も彼の愛読者の一つであるし、牧師の生涯をたどる散文詩を、彼は愛している。生きるのが困難な世の中で、それでも人を愛するとは何かを常に意識しているのだろう。

先日、揉めに揉めた連邦議会はようやく協調に転じ、オバマ米大統領は米政府の債務上限を来年2月初旬までの間、引き上げることに成功した。債務不履行の恐れがしばらくの間はなくなり、閉鎖されていた政府機関も再開した。今は盗聴問題やオバマケアシステムの不調で揉めているが、これもうまく収束させるだろう。

幾多の混乱にもかかわらず、ブレない彼の精神は強い。その強い精神を形作る一端を、愛読書がになったのは間違いない。

とりあえず『白鯨』を今度読まなくては。

2013年10月24日木曜日

愛読書から推測する、マリッサ・メイヤーという人物

2012年7月16日に、アメリカのYahoo!社がGoogle社の副社長だったマリッサ・メイヤーを最高経営者として引き入れて、1年と4ヶ月。先々月には、Yahoo!が大きく変わりつつある記事が紹介されている。

★ “ガリ勉マリッサ”がヤフーにもたらしたもの

この女性、Googleの創業者であるラリー・ペイジの元彼女だそうだ。
Googleの20人目のメンバーであるけれども、コネ入社というわけではなく、元々の資質が高い女性のようだ。やり手で、その上美貌の持ち主。興味を持って、彼女について少しずつ調べてみた。高評価は上記記事に書いているが、悪評としては下記記事に詳しい。

★ マリッサ・メイヤーの裏の顔
これは、メイヤーと働いた経験のある元Googleエグゼキュティブに昨日電話で長々と取材して聞き出した、彼女と、彼女のような立場の人たちの評価だという。
その彼女曰く、メイヤーは「誰よりも人一倍働き者」で、「世の中の人の99%よりは頭もいい」が、「身の程をわきまえず」、「管理のことは何も知らず、脅迫・侮辱で押さえ込むぐらいしか能がない」のだという。
一癖も二癖もある大勢のGoogle社の社員を若いながらひとまとめにするのだ。脅しもすればすかしもするだろう。それに、暴力は決して使っていまい。この悪評を読んでも、彼女に悪い印象をさほど、もたなかった。むしろ、さらに興味を抱く。

私が何よりも関心をもったのは、こういった人物の信念は、どのようなものなのだろう? というもの。

それを調べていく内に、彼女の愛読書について書かれた記事を見つけた。

★ Marissa Mayer: Google’s Chic Geek

上記記事によれば、愛読書は、『The Design of Everyday Things』だという。

和訳が『誰のためのデザイン?』という邦題で出ていた。

「…私は引いて開けるドアを押してしまったり、押して開けるドアを引いてしまったり、横に滑って開くドアに正面から突っ込んでいってしまったりする…」
   これは、本書の冒頭で語られる著者の失敗のひとつである。こうした失敗を、普通の人間なら単なる自分の「ついうっかり」として見逃してしまうところなのだが、著者は見逃さなかった。それは彼が認知科学者として数多くの産業事故の研究を行い、多くの事故が人間による操作ミスの一言でくくられてしまうことに疑問を持っていたからである。
   著者ドナルド・A・ノーマンは、認知心理学者であり、ヒューマンインタフェース研究の草分け的存在だ。そして本書は、電話機、パソコン、蛇口、コンロなど、私たちの身の周りにある道具と人間の関係を真剣に考える、道具の心理学の本である。
という内容のものだそうだ。Googleは、直感的に利用できるインターフェースという概念をとても大切にしている。誰でも見ただけで分かるシンプルなデザイン。彼女はこの本を読み込むことで、いつもその原点に立ち返るのだろう。
ある道具をうまく使えなかったら、それはあなたのせいではなくて道具のデザインが悪いせいである。
この本の主張はこの1文に集約できる、と私は敢えて断定します。日常の道具である電灯のスイッチやドアのデザインを具体例に、使いやすくデザインするための原則が丁寧に説明されています。
とアマゾンの書評で述べられている。

なるほどね。エレベーターの開閉ボタン
のような、間違えやすいデザイン(私は左側の「開く」ボタンを見ると、いつも両側から手のひらで押さえつけているイメージが頭に浮かんで「閉じる」だと認識してしまう)に腹を立てている身としては、この本の著者の考えに全面的に賛成だ。

彼女はこの本を読みながら、Googleを使いやすいものとすることに全力を傾けた。認知心理学をデザインに応用するという姿勢を常に持ってくれたおかげで、世界最高の検索エンジンが誰にとっても使いやすいものとなったことに、感謝しなくてはなるまい(そういえば、ブログサービスであるBloggerも随分、使いやすくなった)。どこに検索エンジンがあるのか、一瞬迷うようなサイトも多い中で、余白をそのままに、中央にデーンと検索窓を設置するシンプルなデザインには、多分彼女の意向が働いている。

上記記事には、最初は医者を目指していた彼女が、記号学に出会い、その奥深さに興味を持ち、次第にデータの表示がどのように人々の認識に影響を与えるのか、といった方面へと関心が移ったことが述べられていた。

彼女は、本質的にデザイナーであり、科学者なのだろう。推測するに、彼女は、ブラックボックスそのものの仕組みを解き明かすことや、新しいものを作り上げることよりも、実験をくりかえしてブラックボックスの中の法則を解き明かすことに興味を持つタイプなのではないか。

まずはやってみること。データを多く集めること。試行錯誤。ベストはベターの積み重ねにある。結果を重視。人間の認識は脳の習性ととらえる。主観よりも「大勢の人々が、どう認識するのか」に関心が向くタイプ……彼女の愛読書を知り、そんなイメージを持った。

Googleの素晴らしさは、デザインを科学的に分析できる、彼女のような人物を早期のうちに雇い入れて、管理者としてサイトの設計を任せたことにあるのだろうね。