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2015年2月24日火曜日

『「殉愛」の真実』を読んだ(ネタバレ注意)

※この記事には作品のネタバレがあるため、これから『「殉愛」の真実』を読もうとする方は本日の記事を読まないほうがいいかもしれません。

百田尚樹の書いた『殉愛』は33万部を超えるベストセラーだが、発表当時から様々な批判を集めていた。「最後を見とった奥さんのさくらを美化し過ぎている」「家族や親戚を貶めている」などなど。

読み通していない私だったが、様々な媒体に引用された内容を知って、批判をされて当然だと感じた。百田によると、たかじんの娘は銭ゲバで父への愛情の欠片もなかったという。その証拠として、本では、父から食道がんと知らされた際の「何や食道がんかいな、自業自得やな」というメールが紹介されている。

これを娘の悪辣さの証拠、としている百田の感性を私は疑った。心置きなく悪口を言い合えるような親子関係が関西では珍しくないのは、百田尚樹ならばよく知っているはず。深刻な病気の告白を軽く受け流しただけかもしれない。なぜこれを娘の非道の証拠として紹介しなきゃならなかったのか?

ところがそのあと、作品がデタラメばかりだという悪評が出てくる出てくる。妻さくらを初婚のように本では紹介しているけれども、実はバツ1ではないのか、とか、いや、バツ2だろうとか。あるいはさくらがたかじんのメモを偽造したんじゃないか、とか。

ネット上の噂には嘘も多いがネットにしかない真実も多い。真実かどうかは読んでいればだいたい分かるが、私はさくらが以前書いていたブログ記事などを読むうちに、こりゃ、さくらという人物、真っ黒だな、と思うようになった。彼女はたかじんの遺産を食いものにするためにたかじんに食い込んだんだろうと。

ところが唯一解せないところがあった。彼女の写真を観ても、何年もかけて著名人を籠絡するような人間に思えない。


優しげで華奢な印象を覚える。

まあ、私という人間は面倒くさがりで、これから関わろうと思わない相手の第一印象に関してはいい加減で当たった試しはないのだけれども、私以外のほとんどの人だって、彼女を「真面目で気さくな女性」としか認識しないのではないか。

とかく、彼女の写真から伺える人柄と、伝え聞く行動にギャップがありすぎる。

そこが唯一の疑問点だが、昨日『「殉愛」の真実』を読んで疑問が氷解した。



この本の凄いところは、ネットでささやかれていた数々の噂の裏づけを丁寧におこなっている点だ。家鋪さくらというたかじんの元妻は、たかじんと結婚するまですでに離婚を3回も経験していた。

それだけではなくアダルトビデオ製作会社の社長の愛人までしていた。それが明確なのは、家鋪さくらがAV会社社長を、「別れた後もストーカー被害を受けている」と告訴したから。その際に元夫に証拠集めの協力を依頼していたという確たる証拠があるから、彼女が愛人契約をしていたというのは100%間違いない。

この本でもっとも重要な証言は、元夫のアメリカ人男性の告白だと思う。家鋪さくらは多重人格で、会話の途中で突然男の声に変わり、元夫を罵倒して、しばらくすると再びいつものさくらに戻り、男の声で罵倒していたときの記憶を一切失っている、という重要な告白がなされている。

多重人格者が著名人を籠絡して周囲と連絡を遮断、ベストセラー作家と組んで著名人の財産をすべて奪おうと画策するなんて、こんなの小説の設定だったら出来すぎだろう。

少し読んだらやめようと思っていたのに、下手なホラー小説を読むよりも面白くて、ページをめくる手が止まらなかった。
「次はいったいどうなるんだ?」
「どんな証拠が出てくるのか?」
とね。

それ以外にも、彼女が詐欺師だということがわかるさまざまな証拠が挙げられている。

なかには筆者の勇み足もある。
「彼だったらこんなことは言わない、だからさくらは嘘つきだ」
という論理構成に、無理があると思われるものも若干ある。しかし、弱点を上回る数々の証拠があるので、家鋪さくらと百田尚樹の悪辣振りは最早明らかだ。

新宿紀伊國屋でこの本を探したのだが、なんと2階に平積みで、5冊しか置かれていなかった。

出版社はこぞってベストセラー作家の百田尚樹を守ろうとしているらしく、出版社の意向を組んでか、書店もこの作品をママコ扱いするつもりなのかもしれない。書店側も「百田尚樹」という売れる作家を失うのは惜しかろう。彼らは積極的に売らないのではないだろうか。この本だけ売れても、未だ売れ続けている百田尚樹の本が売れなくなれば書店にとっては大損害だから。

実はこの本の陳列棚の前でたたずんでいたときも、少し離れた場所に置かれていた百田尚樹の本について、カップルが話しているのを偶然聞いていた。男が女に『永遠の0』がなぜ素晴らしいのか力説して、彼女に本を読むように力説していた。

「角を矯めて牛を殺す」という格言があるが、書店もその愚は犯したくなかろう。

だから、この本は、いつの間にやら新刊の中に埋もれて消え去る運命となるやもしれず、買おうと思っても買えない、ということにもなりかねない。興味のある方は早めに買うべきではないかと思う。










2015年2月3日火曜日

『ブラック企業』は過渡期の存在かもしれない

最近になって『ブラック企業』という本を読んだが、読むのがつらくて何度か本を置くこととなった。

文章が読みにくいということはない。著者は私よりもはるかに年下ではあるけれども、学術的な訓練を受けているせいか私よりも論理的で、なおかつ豊富な実例が「読ませる」。

しかし、その豊富な実例を読むのがつらい。昔の自分の体験を思い出させるからだ。ブラック企業から離れて年月も経ち、ある程度気持ちの整理もついたはずだが、あのときの悔しい気持ち、腹立たしい気持ちとは未だに折り合いをつけるのが難しいようだ。

詳細は上記の本を読んでいただくことにして(幸いなことに、かつてたくさん売れたので中古本が安価で出回っている)、その本に書かれていないことを読みながら考えたので、書いてみたい。それは、現在のブラック企業の発生の理由だ。

なぜ近年、ブラック企業がこれほど話題になるようになったのか?

それは、日本企業が少し方向性を誤ると、ブラック化しやすくなったからだ。なぜ企業がブラック化しやすいのか? もともと日本流、あるいは松下幸之助流の家族主義という土壌へ、アングロ・サクソン流の熾烈な競争原理が持ち込まれて、社員に逃げ場がなくなったからだと思っている。

どういうことか? もともと日本企業は企業が社員の一生を丸抱えすることで、会社が一つの家族のような役割を果たしてきた。それは社員の忠誠心を育てたが、やる気を育てるためには別の燃料も必要だ。アングロ・サクソン流の頻繁な解雇や降格がない中でいかに社員のモチベーションを高めるか? そこで日本企業では様々な方法を用いて、社員のやる気を上げる工夫をこらした。

その一つに、労働と社会貢献、本来は別のものをくっつけてしまい、労働することが社会貢献だ、という価値観を育てたことがある。

リッツ・カールトンという外資企業が「クレド」 なる会社の理念を掲げてかつて話題になったが、あれはもともと日本企業のやり方を外資流にアレンジして取り入れたものであることはよく知られている。日本企業が世界を席巻していたときに、アメリカの企業が日本企業を研究して、朝礼で「社訓」「社是」と呼ばれるものを唱えられていることに着目して、アメリカの企業に紹介をした。それを洗練させたのが、リッツ・カールトンの「クレド」だった。

クレド、その源流となる「社是」「社訓」で訴えられることは、会社で働くことが社会をよくすることにつながる、という主張だ。この主張が使命感を育てる。使命感は、社員に労働に没頭させる。働くことが歓びとなった人間の生産性が高くなることは、容易に想像がつくだろう。また、会社で一生懸命に働かない人間は社会貢献の意思がない、と周囲がみなすようになり、社員にプレッシャーを与えるだろう。こうして人々は仕事に専念する。

こうした洗脳的な手法で日本企業は社員を追い立ててきたわけだが、ただ会社が家族のようなものだったから、社員間でお互いに支えあい、その欠点を補ってきた。
 
ところが今や、会社がリストラを自由に行なう時代が。従業員の生活には責任を持ちません、でも従業員にはこれまでどおり忠誠を誓って欲しい、という都合が良すぎる命令を現代の企業は我々に強いている。

こんな馬鹿げた命令に私たちが従う必要はまったくないし、いずれ社会から淘汰される考え方だろう。しかし今は過渡期だから、その害が明らかにまだなっていない。そこで、日本流の会社勤務=社会貢献という思想と、競争原理が容易に結びついて、人々を追い込む企業を生み出してしまう。ブラック企業の発生と増加の原因がそこにあるように思う。


2015年1月12日月曜日

高倉健の愛読書『男としての人生』の最初の部分の概要と感想 2

一昨日に引き続き、高倉健の愛読書『男としての人生』の概要について、書きます……が、15章まであるので、すべてについて説明するのは長すぎるでしょう。

よって、この本について紹介するのは第4章までとします。本日は2章まで。次回、第3章と第4章について紹介をする予定です。



第2章 男の見切り

章のタイトルに「見切り」とつけられているものの、この章で取り上げられた山本周五郎の作品『虚空遍歴』の主人公は、見切ることの出来なかった人間です。
けれどもおれは、自分の浄瑠璃にみきりをつけたことだけは、一度もなかった。誰に悪口を言われ、けなしつけられ、笑われても、自分の浄瑠璃に絶望したことは決してなかった。
という『虚空遍歴』の中の一文が冒頭で紹介されていまず。主人公である中藤冲也は理想の浄瑠璃の創作のために武士の身分を捨て、芸人として身を立てようとして、夢を果たせずに死んだ人物です。

『男としての人生』の著者の木村は、18ページの章のうち作品説明に8ページを費やしています。作品を読んだことのない者にとってはありがたい構成です。

端唄で江戸を魅了した中藤は、浄瑠璃第一曲を中村座で演じてもらい、大成功をおさめます。ところが後になって、その成功が妻の実家である料亭「岡本」のお陰だったためだと知ります。

中藤は本当の実力を試してくて、妻から離れ、上方へと上ります。ところがことごとく失敗、そして失意の底で死んでしまう、というのが『虚空遍歴』のあらすじです。

「ぼくは、新しい小説に取りかかるとき、いつも遺書をかくつもりで机に向かう」という山本周五郎の口癖を紹介した上で、著者の木村は『虚空遍歴』こそが山本の遺書にもっとも近いと断言します。

昭和36年(1961)から38年に書かれた『虚空遍歴』のあとにも、『さぶ』などの有名な長編小説をいくつも山本は発表しています。しかし木村によれば、それらは完熟度は高いけれども、山本周五郎の味である、ねちっこい(いい意味での)脂っこさが抜けているそうです。

『虚空遍歴』が山本周五郎の遺作にふさわしい理由として木村は、山本の持ち味が生かされていること以外に、彼の人生と作品の主人公の姿が重なっていることも挙げています。偶然でしょうが、山本の逝去の様子は、中藤と同じ冬の雪の降る朝であり、その前後の様子は『虚空遍歴』の主人公である中藤の逝去の姿そのままだったそうです。

『虚空遍歴』の主人公の死因は、持病(肺疾患)の悪化です。作曲に行き詰まり吐血しながら、
「真っ暗だ。どっちを向いても真っ暗だ。なに一つ見えない、どこかで道に迷ったんだな」
と呟いて死んでいきます。

愛人・おけいに看取られながら亡くなった後、江戸から三日後にやってきた妻は枕頭で、おけいの唄う中藤最後の端唄を聞きながら、
「いい唄だわ――でもこうなってみると、しょせんうちの人は端唄作者だったのね」
と言い、それに対しておけいは、妻からも理解されない中藤をいたみ、自分だけが中藤の理解者だったと悟って、この作品は終わるのです。

『虚空遍歴』のモデルは、アメリカの作曲家・フォスターの生涯だそうです。山本は『青べか物語』で「わたくしのフォスター伝」と名づけた章を設けてフォスターを描くつもりだったそうです。その計画を変更して、本格的な長編小説として再構成したのが、この『虚空遍歴』でした。

中藤が新婚後に妻を残して上方に向かったのは、フォスターが妻子と別れてニューヨークへ向かったことを下敷きにしています。いずれにしても、自分勝手な個人主義ではありますが、、
だが、自分が好ましいと感じたひとつの仕事に生命を賭けてまで忠実であろうとすれば、あくまで仕事が第一であって、妻子などは二の次三の次の小さな問題にしかすぎないのである。
と木村は自論を展開します。仕事も家庭も両立する人生を「二股膏薬的な処世」と木村は断罪するのです(この辺りから私は、『男としての人生』の著者木村の考え方にも、彼が賞賛する山本周五郎の価値観にも同意できなくなってきました)。

山本周五郎の仕事観は、『虚空遍歴』の主人公らと同様の厳しいものだったようです。
山本周五郎自身も、きよ以前夫人(昭和20年死去)と結婚したときから、起居する家と仕事場を別にするという生活様式をとり、昭和23年からは自宅から2キロ余りはなれた旅館で原稿を書き継いだ。晩年には眼と鼻のさきの本宅にさえ帰るのもまれという独居の生活に入った。

山本は短編小説の名手だったけれども、読切り連載などの制約を一切とらない本格長編小説を描きたいという希望を抱き続け、その結晶が『虚空遍歴』だったそうです。端唄で実力を認められながら浄瑠璃作曲で世に認められたいと願った中藤と、似通っているではありませんか。最期まで自分の才能に見切りをつけずに可能性を模索しようとした気魄に感動してやまないと、木村は中藤や山本を賞賛します。

第二章では、もう二つの作品が紹介されます。『栄花物語』と『正雪記』です。このに作品もまた、己の才能を死ぬ間際まで見限らなかった主人公を描いています。

彼らは門地・門閥を持たなかったために、若いころに屈辱を味わいます。
とくに印象的なのは、紀州侯のまえで講義を行う(由比)正雪の面体をにらみすえた家老の安藤帯刀が、正雪をニセモノだと決めつけ、下郎下がれ! と大喝する場面である。

山本には学歴詐称の癖があったらしいので、似たような屈辱を若いころに味わったのでしょう。

いずれにしても、人生の土壇場まで粘り抜いた人々を山本は愛しており、こうした存念をもって彼の作品を読みなおして欲しい、というのが木村の主張です。

雑感

『男としての人生』は高倉健の愛読書でしたが、その主人公である山本周五郎の座右の書となったのは、ストリンドベリーの『青巻』でした。

どこかで「ストリンドベリー」という名前を聞いたことがあるなと思って調べてみたら、私のブログで以前触れたことのある人物でした。興味のある方は、お読みください。

★ 夫婦が仲良く過ごすために ②

ストロンベリーが『青巻』で最後に述べた
苦しみつつなお働け、安住を求めるな、人生は巡礼である
という言葉に山本は最も感銘を受けたそうです。そして小説家として成功をおさめたのちに、ひたすら小説をかくことに打ち込んだ結果、山本周五郎は最晩年にしんみりと、
「ぼくが書きたいことは、ぜんぶ小説のなかに書いた。頭の中がガラン洞になってしまった」
と木村に語ったそうです。山本周五郎は『虚空遍歴』の主人公と異なり、小説家として大成し、長編小説も短編小説に劣らず評価を受けることができました。

しかし、彼もまた、その最後に虚脱感に悩まされていたとしたら、それは彼の生き方が間違っていたように思うのです。『虚空遍歴』の主人公は、仕事のために人生を賭けたものの、成功せずして悔やみながら死にました。ところが、同じく仕事に人生を賭けた山本周五郎は、成功をおさめたにも関わらず、晩年を虚しいまま死んだのです。

つまり、家庭を犠牲にして仕事に人生を賭けたこと自体が間違っていたのではないか、木村が罵倒した「二股膏薬的な処世法」こそが、悔やまない人生となったのではないかと思えてならないのです。

2015年1月10日土曜日

高倉健の愛読書『男としての人生』の最初の部分の概要と感想

昨年11月10日に亡くなった高倉健が生涯愛読した本があります。グラフ社発行、木村久邇典著『男としての人生』です。副題は「山本周五郎のヒーローたち」となっています。

一度絶版となったのちに、若干の手直しをされて『山本周五郎が描いた男たち』というタイトルで平成22年(2010)再発行されたようですが、こちらも今は絶版、両者ともに読むのが大変困難な状況です。

先ほど確認したところ、『男としての人生』はヤフオクにすら出品されていません。『山本周五郎が描いた男たち』はヤフオクで99,700円の高値をつけていました。

グラフ社も緊急出版すればいいと思うのですが、難しいのでしょうか……。

先日たまたま本を読む機会がありました。内容を知りたいという人は多いことでしょう。せっかくですから、最初の方の内容を、簡単にご紹介しようと思います。

まずは筆者の紹介から。木村久邇典氏は大正12年(1923)生まれ。刊行当時別府大学教授。山本周五郎研究の第一人者でしたが、惜しくも平成12年(2000)に亡くなっています。

刊行は昭和58年(1983)。山本周五郎が亡くなって16年後に書かれたものです。

まずは、序章にあたる「はじめに」の概要です。

はじめに

木村氏は、批評家達の通念となっている、「山本周五郎は女性を描くのが得意な作家」という認識に対して、少し違うのではないか、と疑義を呈することから、筆を起こしています。

山本周五郎は女性の間で人気がある作家でした。また、女性造形に抜群の技量も持っていることでも定評がありました。それに異を唱えるつもりはない、しかし、彼は女性を造形することで男を描きだした作家だったことも指摘したい、と言うのが前書きの本旨です。この主張がタイトルにつながっていきます。

山本周五郎が描く男性群像は、「こうありたい」と彼が望む理想像だったのだろう、とも。これが、「はじめに」の概略です。

つづいて、「第1章 男の忍耐」の概要に移ります。


第1章 男の忍耐

その前に、若干のお断りを先に行います。文中の人物の呼び方についてです。

時代物の登場人物の呼び名は、今と違って苗字か官位で呼ばれるのが普通です。この第一章で出てくる伊達兵部少輔宗勝(ひょうぶしょうゆうむねかつ)を、下の名前・諱(いみな)「宗勝」で呼ぶ人は、彼の存命当時にはいません。友人などの第三者が彼を呼ぶとしたら、「兵部」、あるいは「伊達どの」といったところでしょう。今の日本で苗字ではなく「課長」などの役職で人を呼ぶ会社が多いのは、その名残です。

『男としての人生』でも、人物を官名で呼んだりしていますが、逆に今は分かりにくい。そこでこの記事では基本的に苗字で、同姓の登場人物がその章に多ければ、混同を避けるために諱(いみな)で呼ぶことにします。


さて、第1章です。

まず取り上げられたのは、山本周五郎の最高傑作と言われる『樅ノ木は残った』。伊達騒動を描く作品で、NHKの大河ドラマの原作となったこともありました。

主人公は、国家老の地位にあった原田宗輔(むねすけ)。

舞台は東北の名門、伊達家家中。伊達政宗の末子・伊達宗勝は、徳川幕府の老中・酒井忠清(ただきよ)と組んで、伊達家62万石を分断、30万石を自分のものにしようと画策します。幕府にとってみれば、力のある大藩の力を削げるのですから、他藩の内部紛争は願ったり叶ったりです。

原田は宗勝と酒井が密かに裏で手を握ったことを知り、酒井らが仕掛ける伊達藩中のさまざまな騒動の種を、すべてもみ消していきます。最終的ににっちもさっちもいかなくなり、幕臣としての面目も潰された酒井は、自邸に原田ら伊達藩の4人の重役を呼びつけ、殺してしまい、これまでの口封じを図ろうとしました。

そこに到着した将軍側職の久世に対し、原田は死にかけながら、
「自分が乱心して仲間を殺したことにして欲しい」
と頼みながら死んでいきました。

江戸時代の刑罰は、一方だけが悪くとも「喧嘩両成敗」が基本。自分らを酒井が殺したことがばれれば、もちろん酒井は罰せられるでしょう。しかし、同時に伊達藩も相当のダメージを得ることは必至。伊達家のお家騒動がそもそもの発端で、酒井は巻き込まれた側。場合によってはそれを口実に伊達藩は取り潰されるでしょう。

結果的に原田一人が罪をかぶり、伊達62万石はそのまま存続しました。しかし伊達藩は、原田の所領を没収し、家族一同皆殺し、家名も断絶させました。

ここまで『樅の木は残った』の内容について詳細にこの記事に記せるのは、第1章15ページのうち、『樅の木は残った』の解説に8ページも割かれているからです。

次に、木村氏が書いた、『樅の木は残った』のあらすじ以外の部分について。第一章の冒頭で著者の木村氏は、あらすじを紹介する前に、山本周五郎の次の言葉を紹介しています。
日本人という国民はよろずにつけて辛抱が足りない、粘り強さに欠けている、諦めが早い。熱しやすく冷めやすい。これではいけないね、と山本周五郎が云った。
また、山本はこうも語ったそうです。
三十年戦争、百年戦争をはじめ、第一次、第二次世界大戦のように、血みどろになってトコトンまで闘う。戦ったのちのちも遺恨は決して消えない。ヨーロッパの闘争にはそういうねちっこいところがある。僕は戦争の賛美者ではないが、西欧人のあの執念深さは学ばなければなるまい、と信じている。なぜなら執念がなければ文化は生まれないからだ。
山本周五郎は日本人に対して随分批判的だったようです。終戦後まもない当時の文壇の風潮でもあります。山本は、日本人の軽薄な国民性からはロクな文学が生まれないから、自分が頑張り通す人間を描いてやると意気込んで数々の作品を発表し続けたのだとか。かなりの自信家です。

その彼の自信作が、この『樅の木は残った』でした。

「伊達騒動」は、江戸時代の歴史に関心のある人にとってはよく知られた事件です。ただし史実によれば、主人公の原田の乱心が真実として伝えられています。ですから、藩の存続を願ったために原田が汚名を着たのだ、という山本流の解釈は社会に大きな驚きをもたらしました。

このおかげで山本周五郎の周りには、歴史の常識に敢えて意を唱えた勇気を讃えたり根拠を正したりする人々が増えたようですが、彼はそれに警鐘を鳴らします。講演で、歴史の常識に異説を唱えることが目的ではなく、平凡人が大事件に巻き込まれながら、一個の人間として誠実に生きようとした人間態度を描きたかっただけのだと説明しているそうです。

また、主人公・原田と、ヒロイン・畑宇乃(はたけうの)との間のプラトニックな恋愛が本当のテーマだ、などとも主張しているそうです。

これに対して『男としての人生』の著者・木村は山本の主張を肯定しつつ、山本周五郎の履歴を振り返りながら、原田が山本の理想の一つなのだ、と説きます。原田は挫折したけれども、執念と忍耐で悲劇的な人生を生き切った、このような人物に、山本は憧れていたに違いない、と結論づけるのです。

ここまでが第1章の内容です。

【私の雑感】

山本周五郎は、下克上だとか理想に国作りだとか、大上段な理想の実現に奔走した人々を書くのを好みません。むしろ、大きな理想の実現のために無理難題を持ち込まれた人々が、それに対抗して、お家存続だとか家庭の平穏だとか、小さな理想を守るために努力する姿を好んで描く作家でした。

それが当時人気となったのは、第二次世界大戦に翻弄され、逃れられない大きな宿命の中で、それでも自分なりの信念を守り通そうとした悲哀を多くの人が共有していたからでしょう。

ところが今は違います。国家の意思に人々が翻弄されることは少なくなりました。それよりも大きな影響を与えるのは時代の風潮です。また、平穏な日常の繰り返しに嫌悪感を感じる若い人々も大勢います。

彼らからも山本周五郎は支持されるのでしょうか。『男としての人生』が絶版になった理由が、段々と見えてきたような気持ちに、第1章を読んだ後になりました。




 こんな調子で、あと一章ほどを後日紹介してみようと思います。

2014年10月12日日曜日

『サーチ! 富と幸福を高める自己探索メソッド』 感想


元々はエンジニアでしたが、彼の瞑想を主体にした精神安定のためのプログラムがGoogleのエンジニアから好評を博したため、今では人材担当部門へ移り、瞑想の講師としてGoogleで研修をおこなっています。

彼の科学的な瞑想へのアプローチはアメリカでとても信頼されているそうです。

彼の著書『サーチ!  富と幸福を高める自己探索メソッド』が二年前に出版されました。このところの「瞑想」への高い関心から、いろいろなところでこの書籍が取り上げられているので、興味を持ちまして先日読み終わりました。


まずは目次のご紹介です。
序章 サーチ・インサイド・ユアセルフ
第1章 エンジニアでさえEQで成功できる
第2章 命がかかっているかのように呼吸をする
第3章 座らないでやるマインドフルネス・エクササイズ
第4章 100パーセント自然でオーガニックな自信
第5章 情動を馬のように乗りこなす
第6章 利益をあげ、海を漕ぎ渡り、世界を変える
第7章 脳は情動のタンゴ
第8章 有能であってしかも人に愛される
第9章 世界平和への三つの簡単なステップ
エピローグ 空き時間に世界を救おう
瞑想は間違いなく精神によい行為ですが、行うことは単純。ただ座って呼吸を数えることくらい。それをこの著者は、どうすればこんな分厚い本(厚さ3cmあります)に仕上げることができるのか? まずはそれが一番の謎でした。

なるほど。

瞑想自体の効果を述べると同時に、その理論的背景をダニエル・ゴールマンの『EQ―心の知能指数』をもとにして述べ、効果を述べ、Googleでどのように実践していたかの具体例を述べることで、内容をふくらませているのですね。

瞑想にある程度親しんだ方ならば、それほど真新しことが書いているわけではありません。ただ、これから瞑想を続けていこうか、どうしようかと迷っている人ならば、この本を読むことで、いいきっかけになるのではないでしょうか。

2014年8月9日土曜日

『ドアの向こうのカルト』を読むのが止められない

今読んでいる『ドアの向こうのカルト』がめっぽうおもしろくて、ページを繰る手が止まりません。


私の実家も以前、家族全体で新興宗教に入信していたことがあります。だから、他人事として読むことができませんでした。

思い込んだら理性を失い盲信するタイプの割合は、男性よりも女性に多いようです。

我が家も母が宗教活動に最も熱心でした。主人公の家庭も同じで、彼の母が熱心なエホバの証人となり、家庭を地獄へと引きずり込む様子がいきいきと描写されています。

うちの場合といろいろな点が似ており、逆に異なる点もあり、そのどれもが興味深いのです。

新興宗教に縁遠かった方にとってはどうでもいいことでしょうが、生涯に一度でも宗教に関わったせいで大やけどを負った人にとっては、熱狂的な組織とどう対峙し、どう自己アイデンティティを保つかが、一生の課題となるでしょう。

しかし、宗教から脱出した後の人々が連帯する場所や組織は少ないのが現状。課題には1人で取り組むしかありません。その道具として、この『ドアの向こうのカルト』はとても役立つことでしょう。

それにしても、エホバの証人のことを、輸血を拒んだり格闘技を毛嫌いするという点で変わっているけれども、周囲に害を与えませんし、聖書の勉強に熱心な、比較的良好な宗教団体だと思っていた私の不明を、今は恥じています。

聖書に書いているからという理由で、子供をムチで叩くことが奨励されていたり、音楽や映画を観ることが禁止されていたり、宗教団体以外の人間関係を会員が結ぶことを極力排除するという排他性があったりと、中の人々の自由を縛り、不幸にするには十分な規則が事細かに定められているのを初めて知りました。

毎週末、2人組で布教活動をする彼らの情熱がどこから湧いてくるのか疑問でしたが、会員を追い込んで、布教活動以外に楽しみを見いだせなくするための仕組みが巧妙に作られていたのです。こういった背景を批判的に知ることが出来ます。

2014年8月4日月曜日

子供に読ませたい児童文学

子供の頃に夢中になった本のことを思い出すことはこの年になるとほとんどありませんでしたが、「子どもを読書好きにするおすすめ本!大人も楽しめる厳選11冊ご紹介!」という記事を読みまして、久々に、昔夢中になった児童書のことを思い返しています。

記憶は年々薄れていきます。今のうちに、私が昔ワクワクしながら読んだことがあり、将来いずれ生まれるであろう子供に読ませたい本をリストアップしてみることにしました。

1.『二分間の冒険』

まずご紹介したいのが、私が読んで今までで一番感動した、最高の児童書です。

小学生中学年の頃にこの本をたまたま本屋で買ってもらい、その幸運にどれほど感謝したことか。

主人公の悟(さとる)は、ダレカと自称する黒猫によって、異次元の世界へと連れて行かれます。そこは竜が世の中を支配する世界であり、悟は恋愛、別れ、戦い、冒険を経験します。

大人でも読めば感動するでしょう。そして、子供の頃に読めば良かったと、悔しがるはずです。

あまりに好きすぎて、社会人になってから、作者の講演会を聞くために、電車を乗り継いで往路2時間の会場へ出向いたことがあります。

地方都市で図工教師をするかたわら、ファンタジー作家としても活躍する岡田淳さんは、関西弁の気さくな人物でした。この人には、もう一冊『扉のむこうの物語 (名作の森) 』という素晴らしい作品があります。


2.『西遊記』

知らない人はいませんよね。

抜群に面白い作品で、とある日本の文豪が、西洋人と対談した時に、
「西洋には『西遊記』がない。あんなにおもしろい作品を味わえないあなた方は不幸だ」
と言い放った、という話をどこかで読んだことがあります。

私が読んだのは上記で紹介している君島久子訳のもの。

当時、彼女の翻訳は言葉が難しかったのですが、あまりに面白くてそこを読み飛ばして読み進めました。そして、何度も読むうちに、難しい言葉をすべて覚えてしまいました。

お子さんに言葉を教えたいのならば、ぜひ君島久子訳のものをオススメします。


3.『だれも知らない小さな国』

コロボックルシリーズ。これも大好きでした。

作者である佐藤さとるの分身と思える「せいたかさん」が、人間から隠れながら生活しているコロボックルの人間側の協力者として、彼らの生活を守る様子にハラハラします。

私、小学校高学年までは、コロボックルが本当にいると思いまして、いずれ佐藤氏に会って、コロボックルに会わせてもらおうと本気で思っていました。

現実と虚構をうまくミックスさせるところがとてもうまく、読み飽きない作品となっています。

この記事を書くにあたって、彼について書かれたサイトをいろいろと散策したところ、なんと『図書館戦争』でお馴染みの有川浩が、佐藤さとるのあとを引き継いで、コロボックルシリーズを再開させるのだそうです。

有川浩は、私の中高時代のバイブルである『妖精作戦』のオマージュも書いていますし、趣味が共通しているのが嬉しいですね。


4.『十二歳の合い言葉』

子供の頃に読んで、引きこまれた少女向けの児童文学です。何よりも美しい表紙に心惹かれます。

そして、中に描かれる少女同志の友情がまた、とても美しいのです。


5.『少年釣り師・近藤たけし』(日比茂樹著)

この本を知っている人は少ないでしょう。

逆さから読むと「しけたうどんこ」となることにコンプレックスを感じている主人公は、趣味である釣りを通して、様々な人々と交流を深めながら大人になっていきます。

軽妙な文章がおもしろくて、これも何度も読み直しました。


6.『ぼくらは海へ』

那須正幹さんといえば、『ズッコケ三人組シリーズ』で有名ですが、それだと有名すぎて面白くないので、彼の作品であまり知られていないものを紹介します。

記憶を頼りに書くので間違っているかもしれませんが、大きな木材をたまたま手に入れた少年たちが、ヨットを作ることを計画したのがこのストーリーの発端でした。

ところが素人なものですから、すぐに壊れますし、作ってみても進みません。

船の仕組みを学びながら、ヨットを作り上げていきます。しかし、抜けるもの、再び挑戦するもの。たしか、1人事故にあうんじゃなかったかな。彼ら一人一人は家庭にいびつな歪みがあり、それぞれ陰を背負いながら、それぞれの思いをヨットに託す、という話です。

何度も読んだはずなのに、覚えていないところがありますが、当時読んでいる間は幸福だった子を覚えています。

スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる話なので、あの雰囲気が好きな人にとってはたまらない作品でしょう。


7.『日本宝島』

これも知らない人が多いでしょう。

小学校の図書館に、かなり分厚いこの本が、ででんととても目立つ場所に置かれていました。たぶん、司書にこの本のファンがいて、子供たちに読んで欲しいとおもって老いていたとおもうんです。

でも、表紙がやたらとポップで下品(と、子供には思えました)で、表紙からは何も読み取れません。
上記で紹介した表紙よりも、もっと単純なイラストだったような気がします。

だから、長い間食わず嫌いで読まなかったのです。あと、スティーブンソンの『宝島』が面白かったので、
(どうせそのパクリだろ)
と子供ながら思い、反感を覚えていました。

卒業間近でしたか、小学校の図書館にあった面白そうな本は、江戸川乱歩から坪田譲治までほとんど読み終えたので、最後に残っていたこの本をしかたなしに読み始めました。

いやあ、そしたらページをめくるのが止まらない、止まらない。

もっと早く読めばよかった、そうすれば何度も読めるのにと思いながら悲嘆に暮れたのを覚えています。

8.『カムイの剣』

これを児童文学に入れていいのかどうか迷うところでしたが、とにかく面白いので、子供のころに夢中で読んだ作品です。

あの星新一が、この本を激賞して、日本人が書いた冒険小説のベスト・ファイブだと言ったそうです。それほど優れている本ですが、あまり知られていませんな。

涙あり、恋愛あり、冒険あり。男の子なら誰もが夢中になる本だと思います。

なんといいますか、とにかくスケールが大きいです。


9.『星虫』


これも、児童文学に入れるべきかどうか迷いましたが、今のライトノベルに比べると、恋愛も可愛く幼いので、お子さんにも安心して薦められるのではないかと思いまして、ランクインさせました。

子供に本を進めるときには、人が大勢死んだりしないもののほうがいいですよね。

もちろん、お子さんによって異なると思いますが、私の知り合いに、子供の頃にノストラダムスの大予言を教師から教えられて、それ以来うつ病になったというのがいましたので、感受性の強い子供にあまり残虐なものは見せない方がいいのかもしれません。

その点、この星虫は、高校生が主人公でありながら、健全で清潔な美しい関係を保っており、なおかつアクションとしても最高の作品となっています。





以上となります。とりあえず、ご参考まで。

2013年11月24日日曜日

マイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室講義録』を読んだ

騒がれるだけの価値はあった。確かに本書で語られる内容により、考える力が養われる。


「正義」をテーマに、日常の中で生じる選択についてさまざまな観点から議論を進め、カントとアリストテレスに発する倫理観の対立に収束させ、そして私達を答えのない世界へと導く手腕が見事だった。

サンデル教授自身はコミュタリニズムの信奉者のようで、文化、歴史といった物語の中で私達人間を位置づけるという立場のようだが、それを他人に強制することはない。
そして、このような回答のない問題について考え続けることの重要性を訴え、考え方の異なる人の言葉に耳を傾けようと呼びかけ、彼らの意見を受け入れることで自分もまた変わることを受け入れようと述べる。

世の中には回答のない問題があふれている。それでいながら考え続ける意味はあるのか? と良く問われるのだが、そこに意味があることを明らかにした良書だった。
歴史上にはさまざまな問題があり、人類はさまざまな仮定を使って問題解決に勤しんできた。問題というものは、解決すると別の問題が生じるもの。社会問題は永遠に存在し続けるし、全てが解決されることはない。
しかし、その繰り返しの果てに世界は快適になり、よりよい世界へと変わっていく。教授の信念はそこにある。彼の信念に勇気づけられた人も多いのだろう。

環境によって培われた価値観を変えるのはお互いに難しいが、少なくとも話し合いを続けることで、誤った偏見は打ち砕かれていく。
そのためだけにでも、議論を重ねることには価値がある。

※11/25追記
上記記事を昨日アップしたはずなのだが、うまくアップ出来ていなかったので二日越しになってしまった。大変しつれいいたしました。

2013年11月19日火曜日

シュタインズ・ゲートを観た感想

卓上 シュタインズ・ゲート カレンダー 2014年
数年前に話題になった『STEINS;GATE(シュタインズ・ゲート)』という作品を最近、観た。
未だ人気を維持している物語。作品放送時には秋葉原のラジオ館とコラボしてこんな大掛かりな企画も行われた。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1110/28/news045.htmlより
この作品の感想を書こうと思う。
(以下、ネタバレあり)







↓  ↓  ↓

2013年7月2日火曜日

有吉のタレント本「お前なんかもう死んでいる」が思ったよりもよかった

お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」 (双葉文庫)
お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」 (双葉文庫)

以前「猿岩石」として一世を風靡したものの、そこから鳴かず飛ばずの時期が7、8年続いた後、再ブレイクした有吉弘行がそれまでの間に考えてきたことを綴った『お前なんかもう死んでいる』。


単なるタレント本と思って手に取ることもなかったが、どこのサイトだったか忘れたけれども激賞していた記事を読んで、思わずアマゾンをポチッと押してしまった。

読んでよかった。大抵のことはすでに彼がテレビでも発言していることなので、それほど目新しいことが書かれているわけではないものの、押しつけがましい自己啓発本が多い中で、ネガティブに物事をとらえ、斜に構えながら、二度目のブームを作り上げた彼からは、学ぶことが多い。何より、肩の力が抜ける。

たとえば彼は、潰れた時のショックが大きいので、夢や希望を持つな、と言う。
パチンコだって、開店前から並んで気合い入れて行くから負けたときショックなんですよ。時間空いたからってちょこっと2時間ぐらい空いたときに行った方が勝てたりするんですよね。みんなが口にする夢とか希望なんて、しょせんその程度のもんなんですよ。

成功者の中には、有吉のようなスタンスの経営者が案外、多いのかもしれない。有吉はたまたま売れっ子のタレントだから、売れることが分かっているため、本を書くことにした。だが、普通はこういうネガティブな本は売れないから、ネガティブ型の成功者は本を書こうとはしない。そして巷には、ポジティブ型の成功者の言のみが氾濫することとなる。

「寂しい」から後輩を誘って酒を飲みに行くのは金の無駄遣い、という指摘もよかった。
そのときに思ったのが、「”寂しい、寂しい”って言っているけど、そんなに寂しいのかな?」ってこと。ゲームしてりゃ寂しくなかったりするし、マンガ読んでりゃ全然寂しくないし。よく考えてみると、実際はそんなに寂しいんじゃないかなって思ったんですよ。金遣って誰か誘うぐらいなら、「寂しい」と思わなきゃいいんじゃないかって。
そうそう。社会からプレッシャーを与えられることが多い。
「コミュニケーションを取らなくちゃいけない」
なんてね。

だから、不安がじくじくと湧き出す。他人とつながらないと不安に感じる。けれども、今の都会じゃ一人でも楽しめる娯楽がたくさんあるので、社会のプレッシャーに押しつぶされなければ、友達がいなくても苦痛ではないのだ。

この本を読んでいると、一生懸命努力していくのがばかばかしくなり、
「身の丈でいいから幸せな生活を送れればいいや」
という当たり前のことを改めて感じるようになる。

人生に迷っている人は、こういうダメ人間の勧め的な本を読めば、鬱病にならなくて済むかもしれない。ネガティブな者は、ネガティブに考えてホッと安心しよう。

2013年5月12日日曜日

『社員もパートもみずから動き出すこころの報酬の与え方』を読む

社員もパートもみずから動き出す「心の報酬」の与え方
時給760円の主婦パートから3年で店長昇格、売上を3倍にした中昌子さんの本『社員もパートもみずから動き出すこころの報酬の与え方』を読みました。

この本のコンセプトを知った時に興味を持ったのは、パートから始まり今では経営コンサルタントとして日本中を飛び回るという女性の改革法とはどのようなものなのかということ。

主婦と何千万円も稼ぐ経営コンサルタントの間はあまりにかけ離れています。経歴を持っているのではないだろうか、と疑いながら本を読み始めましたが、書かれていることは極めてまっとうでした。

正直言いますと、ここに書かれていることは、私がすでに知っていることでして、敢えて買わなくても良かったかもしれません。

でも、よくまとまっています。おカネもなく、人材にも恵まれない中小企業の経営者、とても小さな組織のマネージャーができること、こういったことが極めてコンパクトに、必要最低限のことが書かれているのです。小さな組織にできることはたかが知れていまして、著者が勧めるこの方法くらいしか、実行できることはないと思うのですね。逆に言えば、この方法だけに行動を絞ればいいため、考えずに実行出来ます。その点で、1冊の虎の巻と言えそうです。

彼女が推奨する「わくわくリーダー」について、紹介しましょう。
  1. 笑顔が素敵で目力があり、生き生きとしてパワフル
  2. 熱い思いがあり、軸がぶれない
  3. 自分の仕事に誇りを持ち、天職と思っている
  4. 自分の会社、自分の上司・部下に誇りを持っている
  5. 部下に対する愛がある
  6. 自分大好き
  7. 思いを伝える&思いを形にする力がある
  8. 行動が早い
  9. 巻き込み力を持っている&のりが良い
  10. 人を大切にする。おもてなし力がある
  11. 謙虚で「ありがとう」をたくさん言う
  12. 自己管理ができている
  13. 言行一致、約束を守る
  14. ユーモア感覚や遊びココロがある
  15. オシャレで清潔感がある
  16. 学び続けている
  17. 常に問題意識を持っている
  18. 何事も「自分原因論」で。自分を客観視できる
  19. 自分の可能性を追求し続けている
  20. 世のため人のためにという夢を持っている
こんな共通点を持っているのが、小さな組織の中で部下のモチベーションを上げることができるリーダー。軍隊で言えば、小隊長クラスに求められる人物像といったところでしょうか。
小隊は、概ね2個から4個の分隊で編成され、30人から50人程度の兵員を有する。
大手の組織となるとまた別ですが、中小企業のリーダーにとって役だつのは、元官僚やMBAホルダーの語る高度な理論よりも、こういう愚直なリーダー論ではないでしょうか。


2012年11月20日火曜日

『スタンフォードの自分を変える教室』がめっぽう良かった

意思力が弱いことに悩む人は、世の中にたくさんいるようです。

かくいう私もその1人。
自分で決めたことを、なかなか守り通すことができません。

「朝5時に起きよう」 → 「出勤時間ギリギリまで寝ていたい」
「夜12時前には寝よう」 → 「ネットサーフィンにはまり、終身は深夜2時に」
「時間を守ろう」 → 「ついつい他のことに気を取られ、時間を守れず」
「毎日勉強しよう」 → 「いつの間にやらウヤムヤに……」
「携帯をいじるのをやめよう」 → 「あれ? なんで俺は携帯をいじっているんだ?」

目標を立て、計画を作成し、実行しようとして挫折する……嗚呼、書いているだけで泣けてきます。

そんな私が、最近意志力を強くするための方法論が満載だ、と評判の高い『スタンフォードの自分を変える教室』を読みまして、愕然としました。

これを学生の頃に読んでいたら、人生が変わったかもしれない。
そう思えるほどの衝撃でした。

昔読んでいたら(or 知っていたら)自分の人生が違っていたかも……云々という物言いは、私は嫌いです。
そんなにいい方法だったら、今やればいいじゃない!! 後悔している暇なんてナイヨ!!
You、やっちゃいな!!
……というのが私のスタイルですから。

ところが、この意志力を強くする方法だけは、どうすればいいのか分からなくて、中学生の頃から、何十年も抱え続けてきた悩みでした。
それが解決できそうだ、という確かな手応えがあると、昔の自分に教えてやりたかった、と慨嘆せざるを得ませんでした。

人生に成功する上で、もっとも基本的な力、能力、それが意志力です。
目標を定めてやり遂げようとする力、車でいえばエンジンのようなもの。
それが調子が悪くて、しょっちゅうエンストを起こすようでは、車は目的地になかなか到達できません。

その長年の苦悩を、一気に解決しようとしているのが、この『スタンフォードの自分を変える教室』でした。

具体的にどのような箇所が良かったのか、明日書きます。