2013年2月4日月曜日

体罰には即効性がある

大阪の桜宮高校のバスケ部主将が顧問によるシゴキによって、自殺に追い込まれました。
度を越えた指導を行われていた女子柔道の強化選手達が集団で体罰禁止をJOCに訴えました。
体罰に関する問題が連日マスコミで大きく報道されています。

なぜ体罰は根絶できないのでしょうか?

簡単な話で、それが組織や人間の力を短期間で伸ばすのに大変効果的だからです。

かつて大日本帝国軍の兵隊といえば、世界最強と言われたことがありました。第二次世界大戦で負けるまではほぼ無敗、極寒の平原で、海で、空で、そしてジャングルで、数多くの武功を立ててきました。

貧弱な兵装、少ない物資、劣った体格というハンデかありながら日本軍の軍人たちが最強たり得たのは、兵士一人一人のレベル、特に精神の耐久性が大変高かったからです。

日本人の遺伝子が優秀だから?

馬鹿馬鹿しい。人間一人一人の遺伝子が及ぼす精神力に何ほどの違いがあるでしょうか。フランスの片田舎で麦を育てながら収穫祭を祝っていた南プロヴァンス地方の一青年と、大分の九重山の麓で米を育てていた村の青年団団員の精神力の間に、どれほどの差があるというのでしょう?

それよりも、大日本帝国軍の初年兵育成システムが、短期間で人間を「組織の目的を第一優先で動く」ように作り変えるためものとして、大変「優れていた」と考える方が合理的です。

そもそも人間には様々なタイプがいます。資質には優劣があり、性格には違いがあります。

規律に従う遵法意識の高い者もいれば、犯罪性向が高いものもいます。

こういった雑多な人間を、数ヶ月から一年の間に戦場という極限状態でミスをせず、同様しない兵士へとつくり上げる必要があります。下のレベルの人間を、平均値へ底上げすることが何よりも優先されます。本来ならば、不可能な話です。

しかし大日本帝国軍はそれを成し遂げます。どうしたらそんなことが可能でしょうか? その答えが、軍隊内の日常の居住単位である「内務班」で行われていた体罰でした。
初年兵掛上等兵や古年兵が初年兵全員を班内に整列させて、その日の些細な落度を咎め立てしてはビンタをとる事は日常的に行われた。古年兵の威を知らしめ絶対服従状態に置くためとも、また日常起居動作の緊張を促すためにとも云うのであるが、このような緊張状態に常に置くことで、戦場での困難な状況に対処できる強い精神力をつけさせると云う教育的効果があり、更に戦場に於ける上級者の命令を反射的に実行できるようにするための訓練であるとも云えよう。――「内務班
日常的に理不尽な暴力を振るわれるうちに、人間は緊張状態の中で的確な判断ができるようになります。殺されるような修羅場でも精神が動揺しなくなります(精神が鈍麻するのでしょう)。
死ぬことに対する恐怖が払拭され、
「死ね」
と命じられたら進んで敵地に向かい、
「残置諜者となれ」
と命じられたら戦争が終わって数十年経とうとも現地でゲリラ戦を行うような優秀な兵士へと生まれ変わります。このような効果が実際にあったから、帝国軍からシゴキやイジメを根絶することができなかったのです。

日本ほどひどくはありませんが、アメリカだって海兵隊訓練キャンプで、新兵の人格を体罰や暴言で破壊することが行われています。『フルメタルジャケット』を観れば一目瞭然です。
ただ、こんなのはまだまだ甘い。日本軍の体罰は、もっと執拗で、陰惨で、ひどいものでした。ロシア軍のこの新兵イジメの動画が、在りし日の日本軍のそれに近いものだといえましょう。
似たようなことはヤクザの世界に今でも残っていて、ヤクザ組織に入った若衆は、事あるごとに親分に理不尽なことで殴られたり竹刀で叩き回されたりするそうです。それに耐えることで、一種の糞度胸がつくのです。そして、犯罪を犯したり鉄砲玉として敵組織にカチコミに行くような理不尽な命令でも平気でやれる人間になります。

谷亮子や山下泰裕が、
「自分は殴られなかった」
と言っていたそうです。そもそも体罰やシゴキは優秀な人間には必要ありません。しごかれなくても戦場で全く動じない人間がいるように、殴られなくても一心不乱に努力し続ける事ができる努力の天才たちだからです。

だが、弱い人間、能力が劣った人間、メンタル面が脆弱な人間には忍耐力が欠如していることが多いもの。柔道の強化選手になるような人間を弱いと言ってしまっては大変失礼ですが、山下や谷、野村忠宏、あるいはそれと互角に戦える選手に比べて、体格や筋力が著しく劣っているわけでもないのに今ひとつ劣る当落戦上のラインにいる人々は、なにかしらメンタルの弱さがある可能性があります。それを短期間で矯正し、人格改造を行うために、暴力は大変効果的なのでしょう。

……でもね、結局、日本はアメリカに負けました。

弱点は精神力でカバーできるという信念で凝り固まった日本軍に比べて、アメリカ軍は精神論ではなく、システマティックにものごとを思考します。質の向上ではなく量を揃えることに全力を注ぎ、大量物資で相手を圧倒することにしました。組織全体を眺め、兵士それぞれの長所を把握して適材適所に配置していくことを選びます。

石垣を積む際に、全ての石材を同じ形に削るのが日本流ならば、石材の形を生かしてパズルのように組み上げるのがアメリカ流です。

こんな話があります。南の島に飛行場を急ぎ建設しようとした時のことです。ノウハウを上官たちはもっていませんでした。部隊にノウハウを持っている建設会社の社長がいたが、彼は一兵卒でしかありませんでした。

軍隊は命令系統がかっちりしていて、ある程度の階級の者でないと多方面に指示を出すことができません。そこでアメリカ軍ではどうしたでしょうか? 

戦闘経験のない彼を抜擢して軍曹にし、彼の指示に従い、あっという間に飛行場を作り上げたそうです。

日本軍では「無理が通れば道理引っ込む」、無茶を強いることで合理性は現場から失われていき、精神力万能論に陥り、合理的に物事を判断することができずに、アメリカに負けました。あの戦争では、今は勝てない強い相手と戦うためにはひたすら時間を稼いで国力を蓄えるとか、いろいろな方法があったはずなのに、それを選択できなくなるのが精神万能主義の怖いところです。

それに、体罰やイジメを受けた人々は、精神に深い傷を負います。大多数の人間を幸福にしないシステムが、今だに幅をきかせています。

精神力でなんとかなるのはある程度の段階まで。日本人がもう一つ上のレベルに上るためには、徹底的に合理的に物事を考える必要があります。

そのためには体罰を絶対にやめる、という敢然とした決意を国民全体が共有しないといけません。過去の成功体験にすがりつき、自己改革を遂げないと、いつまでたっても欧米の後塵を拝するような、情けないことになるでしょう。

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