2013年11月23日土曜日

現代に通じる輪廻転生/登山家の松濤明の死生観

権威におもねりたくないから、「誰が言うか」よりも「何を言うか」を大切にしたいと、普段は思うようにしている。自分の頭で考えるのではなく、他人の権威にもたれかかるような「あの人が言ったから正しい」と考える行為はかっこ悪いと思う。稚拙であろうとも、自分の中で論理を組み立てて、「こうこうこういう理由だから正しい」と考えていきたいと思っている。

ただ、簡素な言葉の場合は、事情が異なってくる。

「世界は美しい」と言ったのが、パチンコに大勝ちした35歳のフリーターが言ったのか、世界の破局を止めたばかりの政治家が言ったことなのかで、意味も受ける印象も全く異なるだろう。

その人の置かれた立場、状況、過去の遍歴を知ることで、他の誰がが同じことを語るよりもはるかに深い感動を、言葉から受けることがあるのは間違いない。それは仕方のないことだ。特に、死の前に綴られた遺書にのこされた魂の叫びとも言うべき言葉には、他にない迫力を感じてしまうことがある。

26歳で遭難して命を絶った松濤 明(まつなみ あきら)という登山家がいる。その遺書を読み、言い知れぬ感動を覚えた。

その概要は『冬雪のビヴァーク』に詳しい。



亡くなったのは昭和24年だから、随分と昔のことだ。まだ登山家が珍しかった時代。未踏のルートを征服して名を馳せたい、という野心があったのかもしれない。飛騨山脈を冬に縦断中に遭難、一緒に登った友人が先に亡くなる。そのあと自身の死を悟った松濤は、友人の遺体とともに、冬山にとどまって死を待つことに決めた。
 全身硬って悲し。
 何とか湯俣(ふもとの地名)迄と思うも
 有元(友人の名前)を捨てるにしのびず、死を決す
 お母さん あなたの優しさに ただかんしゃ。
 さいごまで たたかうも命
 友の辺に 捨つるも命
 共にゆく 
という言葉は簡潔ながら、涙を誘う。

彼は手帳に、覚書や死の前に浮かんだことなどを綴っていく。
 西糸屋(注:彼が登山前に泊まった山荘)に米代借り、三升分
というメモ書きなどもある中で、私が一番感動したのは次の言葉だった。
 我々が死んで
 死骸は水に溶け、やがて海に入り、
 魚を肥やし、また人の身体を作る、
 個人は仮の姿 ぐるぐる回る
彼の考察は、輪廻転生を科学的にとらえなおしたものだ。

私という個体を構成する物質は、松濤のように自然の中で死亡するのでなければ、遠い先に死に、いずれ焼かれ、骨となった以外はあらかた空気中へと散じてしまうのだろう。その光景が……自然に帰った物質が、また生命に宿り、動物となって再生するという壮大な光景が、目の前に浮かんでは消えていった。

私は輪廻転生という考え方が好きではない。貧しい者が貧しいのは、弱者が強者に虐げられるのは、前世で悪いことをしたせいだとあきらめをうながす思想だ。この社会の矛盾を変革するのではなく肯定するために使われた思想だ。アジア的停滞の源泉がそこにある。自分がアジア人だという誇りがあるから、仏教を心の支柱としているが、輪廻転生については好きではなく、信じてもいなかった。

しかし、この考え方なら受け入れられる。自分を形作る物質の循環という考え方なら、素直に納得できる。それを意識することで、自分が大宇宙の一部であることを改めて認識できるし、自然への崇敬の念が湧いてくる。

だが、精神はどうなるのだろうか? 精神は循環しないのだろうか。脳が焼かれておしまいなのだろうか。

いや、そうではない。精神もまた物質が循環しているように、精神を共有している人々の間で循環している。

私の話す言葉、そして、私の行動が、家族、恋人や友人、知人、あるいはすれ違っただけの人にまで、ほんの少しずつでも何らかの影響を与え、伝播し、それが別の影響を他人に及ぼしていく。それは水に落ちたいくつもの石の波紋がお互いに影響を与え合っていくようなものだ。

自分の波紋がやがて消えようとも、それに影響された人の精神が、やがて他の人に影響を与え、世界が終わるまで、途絶えることがなく続いていくのだろう。形を変え、世代を重ね、他人の頭へ「私」の存在の影響が続いていく。私の肉体を構成する物質の循環と、精神の影響の伝播。それは形を変えた輪廻転生なのだろう。

自分は広大な大地の一部、永遠の人間の営為の一部であり、終わりはないのだと自覚したとき、なんとも言えない無限の力が体の奥から湧き出してくるのを感じないだろうか?

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