2013年6月6日木曜日

瞑想の方法と私の失敗

以前『スタンフォード大学の自分を変える教室』をたびたびこのブログで紹介しました。その中で著者が意志力強化法として、幾度となく勧めていたのが"瞑想"という技術でした。

日本では宗教アレルギーが強いためか、もともと宗教の中の一つの行法として知られている瞑想という行為について、あまりおおっぴらに語りにくい雰囲気があります。

「私週末にはテニスしている」
と言うことはできるでしょうし、
「ヨガに通っている」
とも気軽に言えるでしょうが、
「毎晩瞑想しています」
と告白するのには勇気が要ります。時には気味悪がられることだって、あるでしょう。

とはいえ、瞑想という行為が大変精神に良い影響を与えることは間違いありません。私も以前から、時間を見つけては日常の中に、瞑想を取り入れるようにしています。これは、確かにリラックスに効果があります。

失敗を繰り返しつつ、実践しながら学んだ瞑想について、わかっていることを簡単に述べてみます。

1.瞑想は睡眠ではない
瞑想も睡眠も、目をつぶって身動きしないという点で似ているため、
「瞑想なんて意味あるの? 寝ればいいじゃない」
と考える人は、多いはずです。かつては私もそうでした。でも、全然違います。

同じように身体を動かしながら水に浮いていても、泳いでいるのと溺れているのとがぜんぜん異なるのと同じくらい、違います。

睡眠中は、意識の全活動がほぼ停止します。ところが、瞑想中には意識は覚醒していなければなりません。言語や、自我、エゴといったものの活動を抑制することで、普段の思考ではアクセス出来ないような、より潜在意識の深い部分と意志を司る理性がつながり、深い智慧を獲得できるところに、瞑想の醍醐味はあります。

はっきりと意識を覚醒させながら、言語による思考活動を抑制する……言うは易く、行うは難し。大変むずかしい行為です。普段、慣れていないからです。それが難しいからこそ、
・呼吸の数を数える
・心臓の鼓動に耳を傾ける
・両手で手を叩くのではなく、片手で手を叩いた時の音を想像する
・種が芽吹き、成長して大木になるまでを想像する
といった、様々な方法が試みられてきました。

瞑想は睡眠ではありません。睡眠とは別の時間を取って、改めて行うことが必要です。

2.瞑想中は身動きしてはいけない
瞑想してみると、いろいろなことが気になってくるものです。たとえば、身体のどこかがむず痒くなることは、よくあります。というのも、人間は実は常に、身体のあちこちに、痒みが生じているものなのです。それを無意識の内に掻いているか、他のことをしているうちに忘れてしまうのに、厄介なことに瞑想中にはできません。そうしますと、余計に気になって、掻きたくてたまらなくなります。

あるいは、身体の凝り。これもまた、普段意識していない部位の凝りが気になって、少しだけ、身動きをしたくなります。

「ほんの少し、掻いたり身体を動かしたりすれば、再び瞑想に集中できるのだから、雑念を生じるものが現れたら、それを解消したっていいじゃない」
と思って、そんな時には一度瞑想を中断して、体を掻いたり、ストレッチをしたりして、それから再び瞑想を始めていた時期も、ありました。

でも、これは間違いですね。むしろ、日常生活において感じないものが身体に現れて、瞑想を邪魔しようとするのならば、それは悟る前の釈迦の前に現れた悪魔のような存在なのです。それに気を取られず、瞑想の姿勢を崩さないこと。これもまた、集中力を養うために必要な行為であり、散漫となりがちな意識を乗り越えることで、よりより瞑想ライフを行えることが、分かって来ました。

瞑想を始めたら、他のことに気を取られてはダメなのです。特に日本では、生命を脅かすウイルスを運ぶような蚊はほとんどいません。痒くても、蚊に刺されても、身動きしてはいけません。ましてや、やらなければならないことを思い出してメモをとる、なんてことは言語道断です。

3.疲れているとき、眠い時に瞑想してはいけない
瞑想するとリラックスすることは確かです。半分ウトウト、半分覚醒。この状態がまた、気持ちがいいのです。朝起きたばかり、あるいは疲れきったときに瞑想することは、疲労回復や睡眠不足解消にちょうどいい、と思っていた時期もありました。

でも、これって、二度寝と同じなんですよね。先述の通り、瞑想は睡眠とは異なります。疲れているのならば、30分ほど仮眠をとればいいし、朝瞑想するならば、一度目を完全に覚ましてから瞑想する必要があります。そうでないと、時間だけが無為に過ぎます。瞑想がもたらす効果も半減してしまいます。

4.一つの方法にこだわらなくてもいい
最近私が瞑想しながら思い浮かべる質問が、
「自分のこの、今の考えは、どのようにして浮かんだのか?」
というものです。

以前は「呼吸を数える」方法を取っていましたが、どうしても雑念が多く生じて、呼吸を数えているつもりが、心のなかで別のことを考え始め、すぐに精神集中が途切れてしまう、という失敗を繰り返していました。

ところが、
「自分の今の考えは、どのようにして浮かんだのか?」
という、言わば公案のようなものに取り組むと、他の雑念が生じなくなりました。

考えてみれば、小さな日本の中ですら、公案という、言葉では語り尽くせない質問に取り組む一派である臨済宗と、ひたすら何も考えずに座り続ける曹洞宗という二大宗派に分かれていたのです。がっしりした体格とひょろ長い体格の人間には、それぞれ向いたスポーツがあるのと同じように、人間の精神活動のあり方もまた、千差万別です。

自分にあった瞑想法を取捨選択しなければ、その効用を知ることができません。

雑念のような、脳のムダなおしゃべりをいかに抑制できるか……テーマは同じでも、人それぞれ、合う方法合わない方法、様々であることを認める必要があります。そして、自分に一番合った方法を、選べばいいのです。何か一つの方法にこだわって、
「ああ、おれは精神統一ができない。ダメな人間だ」
などと悩むことほど、ムダなことはありません。


ほんの少しの時間でかまいません。毎日、必ず瞑想するようになれば、私たちは、より精神的に余裕を持って生活できるようになります。ほんの少しの進歩は、ほんの少しの実践で成し遂げられるの。ぜひ、日常生活の中に瞑想を取り入れてください。

気軽に座り、心を落ち着けて座れば、いずれ効用を実感できるようになるでしょう。

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