2013年6月15日土曜日

31歳差で結婚して生涯処女だった小倉遊亀

「経(こみち)」(小倉遊亀・1966)
小倉遊亀(おぐらゆき)という画家がいる。この人の絵を知ったのは最近なのだが、なんとも言えない柔らかいタッチで、不思議な印象を受ける。日本画家でありながら、題材とするのは日常のありふれた風景。そうと知らなければ、絵本の一部と言われてもおかしくない、愛らしい絵だ。いわさきちひろに一脈通じるものがあるが、いわさきちひろとはまた異なる、ユニークなタッチだ。

どんな人なのだろうといろいろ探ってみると、遊亀自身がどうやら、大変ユニークな存在であることを知った。

まずは、その驚くほどの長寿である。明治28年(1895)に生まれ、平成12年(2000)年、105歳で亡くなった。

一概に画家は長寿を全うすることが多い。ゴッホのような精神的な問題を抱えていた人物はともかく、例えばピカソは91歳まで生きた。

高齢でも健康でいられるためには、身体のみならず精神をいたわる必要がある。精神が満たされるのは生き甲斐があるときで、働けることが何よりの生き甲斐となる。その点で言えば、画家はいい。たとえば音楽家なら、年をとるとまず耳が遠くなるので仕事を続けられない。画家にとって必要な目は、年をとってもぼんやりとなら、ある程度まで機能する。

同じく目を使う作家の場合、細かな字は読めなくなるから年をとると執筆を断念することも多いという。その点、画家は高齢でも続けられるため、有利なのかもしれない。

さて、小倉遊亀。長寿を誇った彼女は遅咲きの天才でもあった。芸術の世界では若くして成功する者が多いのだが、その点でも遊亀はユニークだった。

横浜の女学校で講師をしながら独学で絵を描き始めたものの、限界を悟り25歳の時に安田靫彦の門下に入る。
「佐久良」 (安田靫彦・1941年)
頭角を現すまで10年かかった。彼女の絵がようやく院展で入選したのは35歳の時だ。冒頭に掲げたように、日本画の技術を用いて日常の風景をモチーフにした絵精力的に描き、女流画家として一時代を画した。

ニーチェは、
若くして成功すると、成熟することの意味がわからなくなる
と『漂泊者とその影』で述べている。彼女の画風には、下積みの長かった人間特有の、他者への優しさがにじみ出ているようにも思える。成熟することの意味を知った人間の醸しだす、魅力がある。

彼女がユニークである理由の三点目。遊亀は結婚したのも遅かった。42歳の時に73歳の小倉鉄樹という老人と結婚。老人にとっては二度目、遊亀にとっては初婚である。

この老人、禅を明治維新の立役者・山岡鉄舟に学んだ後、日本中をふらふらと旅して回った後に、埼玉県にある平林寺に落ち着いて、ひたすら禅の修行をしていたという人物。平林寺で修行三昧の日常を送っているものの、僧ではなく、禅寺の好意で寄宿していたらしい。大変な学識を持ち、人格者で、大勢の弟子に囲まれていた。

ところが財産というものを、何一つもっていなかった。

現代日本の拝金主義一辺倒と異なり、当時はカネがなくとも、智慧のある人物を尊敬する風潮があったようだ。江戸時代末期にから昭和初期にかけて、日本にやってきた欧米人が一様に驚いたのが、
「日本人は貧しくとも恥ずかしがらない。カネを持っているからといって尊敬されない」
ということ。小倉鉄樹の存在は、彼らの述懐が真実である証明でもある。

この結婚生活は、7年間しか続かなかったようだ。亡くなる時に鉄樹は妻・遊亀に、
「かあちゃんや、とうとうお前さんを一度も抱いてやることが出来なかったね」
と言ったという話が伝わっている。この言葉が、小倉遊亀生涯処女説の根拠である。

二人の間は完全なプラトニックな関係だったということだ。

遊亀にとってみれば、結婚した時にはもう、子供を産める年でもなかったろうし(昭和初期においては、高齢出産は現代と異なって医学的にも難しかった)、ただ一緒にいるだけで良かったのだろう。

だが、切ない話である。

ところが亡夫が亡くなって5年後に、寂しさに耐えかねたのだろうか、彼女は54歳で養子をとった。養子となった男性は21歳で、文筆業を目指していた西川典春(にしかわつねはる)である。歌集「あゆみ」などの編集者として活動していたようだが、今ひとつぱっとしなかったようだ。典春は結婚後も遊亀のもとにとどまり、後年は画家・遊亀のマネージメントに徹していたようである。
遊亀は経済的に成功する男とは、あまり縁がなかったようだ。ただ、この典春という人物は、金銭的に成功はしないものの、人格的に立派な人物だったようだ。47年間、遊亀を実の母として慕い続け、彼女の身の世話を死ぬまで続けた。しかし遊亀が101歳の時、典春の方が先によりも早く、64歳で亡くなる。その後、典春の娘・寛子が遊亀の手厚い介護を引き継ぎ、遊亀が死ぬのを看取った。

典春を養子にしたのは遊亀にとって幸せな選択だった。

ちなみに寛子氏の看護は大変献身的なもので、遊亀のおしめを換え、尿やウンコの目方を量りながら、A5判ノート70冊に克明に介護日誌をつけ続けるというものだった。元『暮しの手帖』の編集者だけあって、大変緻密な介護だったという。

寛子氏は今は鎌倉にある有限会社「鉄樹」の役員として、小倉遊亀の絵画の管理を行なっている(講演会も行なっているようだ。リンク先で寛子氏のご尊顔が拝める)。

さて、小倉遊亀。
彼女の人生を振り返ると、様々な人生が世の中にはあるものだと、改めて思う。

メディアは不特定多数を相手にしなければならないから、◯◯歳で結婚しなければ人生駄目になるだとか、顔が良くなければダメだとか、仕事は◯◯でないとだめだとか、年収◯◯◯万円以下だったら結婚する価値なしだとか、学歴がないとダメだとか、とにかく人を鋳型に押し込めて、恐怖心を煽ろうと様々な脅迫じみたメッセージを日夜送り続けている。

しかし、遊亀のユニークな人生と偉大な業績を目の当たりにすると、窮屈に生きることがバカバカしくなるのではないだろうか。彼女の絵も生き方も、大変魅力的だ。

ちなみに、冒頭に掲げた彼女の絵が展示されているのが、東京芸術大学の大学美術館。

★ 東京藝術大学大学美術館

上野駅を出てすぐの国立西洋美術館に比べて奥まったところにあるため、あまり知られていないが、教科書で出てくるような著名な絵もたくさん展示されている。
お暇な人は行ってみたらいいだろう。

参考
★ 『小倉遊亀・天地の恵みを生きる―百四歳の介護日誌』書評
★ 小倉鉄樹と遊亀夫人

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