2015年1月30日金曜日

自衛隊のトップにいた人間が、なぜこうも愚昧なのだろう?

元航空幕僚長の田母神俊雄のツイートが話題になっています。

どうしちゃったんでしょうね。田母神さん。保守というよりも、これでは単なるネトウヨとか右翼モドキじゃないですか。私、自分を保守派だと思っていますが、彼と同じ保守としてひとくくりにされたくないと痛切に思う次第です。私自身が馬鹿なのに、さらに馬鹿に見られてはかなわないな、と。

問題となる点

何が問題か? ひとつは、別種の問題を持ち込んでいるという点。在日韓国人、朝鮮人が通名を利用して犯罪の指弾を免れているという問題は確かにありますが、今回のイスラム国による日本人殺害予告事件とはまったくの無関係。それを持ち出す理由が分かりません。

それに、仮に日本人ではなく在日韓国人だから韓国政府がこれを解決すべきだと言いたいのだとしても、それは今言うべきタイミングではありません。後藤健二氏の国籍が日本だとしたら、まったく余計な発言や問題提起で現場を混乱に陥れるだけ。日本政府が彼を日本人だと言っているのです。政府を信じて一意専心、彼の救出を祈るべきときでしょう。そのあと、問題を正していけばよろしい。

また、在日韓国人だから日本政府は救出に努力すべきではない、と言いたいのだとしたら、単なる差別主義者です。

仮に後藤氏が以前在日韓国人だから、帰化した人間だから、日本人らしい行動をしなくておかしい、という指摘だとしたら、今度こそ本当にただの馬鹿でしょう(そして多分、これが田母神さんの本音のように見受けられます)。日本人にも大勢くだらない馬鹿がいます。帰化したラモス瑠偉さんのような、ラテン気質で日本人としては型破りだとしても、日本人以上に日本を愛している方々もいます。多様性を認めず一つの鋳型に押し込もうとする人間は、単なる全体主義者です。

差別主義者でかつ全体主義者となると、ネトウヨというよりも「ナチ公」という称号のほうがふさわしい。

石堂さんの父は韓国軍人じゃない

それに、石堂順子さんが在日韓国人だ、というデマの根拠が著しく薄弱なことは、調べればすぐに分かります。

このデマは、石堂順子さんが1/23に会見の中で、子を思う親の気持ちについて述べるくだりで、
それから、私の父は軍人です。朝鮮とか、そういうところのかなりのトップだったと思います。私はいつも軍用車と、三角形のひらひらする旗のある自動車で送られていました。しかし、今、私どもが、写真を見ますと、私のおじいちゃん、教育者だったんですが、草履履きで私の朝鮮馬山の宿舎へ訪ねてきました。私はつい最近まで、おじいちゃん、なぜそんな格好で朝鮮へ来てくれたの、恥ずかしいという思いをしたことがありました。
と語った言葉がひとり歩きして、
「石堂順子さんの父が韓国軍トップ、ということは、石堂順子さんは在日韓国人だ」
と噂されたのが、そもそもの発端のようです。

★ 【全文】「私はこの3日間、何が起こっているのかわからず悲しく、迷っておりました」ジャーナリスト・後藤健二さんの母・石堂順子さんが会見

ところが、調べるとすぐに答えらしきものが出てきます。

78歳の女性が語る父親の思い出話です。父は韓国軍人ではなく、朝鮮半島に駐在していた日本帝国軍人である可能性もあるでしょう。そして今は便利な時代で、陸軍のトップの人間の名簿までもインターネットで見ることが出来る時代です。

★ 陸軍部隊最終位置
「石堂」というのは珍しい名前です。「石堂」の名で検索すると、朝鮮軍管区直轄馬山重砲兵連隊補充隊に「石堂燦二中佐」という人物が在籍していたことが分かります。

宿舎の場所も朝鮮の馬山で同じです。この石堂中佐と考えて間違いないように思います。

陸軍士官学校33期生なので、石堂中佐は1900年の生まれでしょうか。石堂順子さんは78歳なので、年齢から逆算すると1937年生まれあたり。順子さんは石堂中佐が37歳頃に生まれた子どもだと考えれば、年齢的にも辻褄が合うでしょう。

軍属の暮らす宿舎に、学校の先生をしていた石堂順子さんの祖父が、日本からわざわざ海をわたってやってきたのでしょう。立派な服装で訪れると「上官の父兄がやってきた」と大袈裟な歓待を受けてしまうので、仕事の邪魔にならないよう、敢えて近所の老人の素振りをして、粗末な身なりで宿舎を訪れた、というエピソードのどこにも、批判を受ける要素はありません。

……という情報は、調べればすぐに分かるはず。 その手間も惜しむ理由がわからない。

自衛隊トップにもバカは居る

なぜこんな人間が航空幕僚長という重責に就いていたのだろう? と不思議に思いましたが、案外、この手の卑しい品性の人間が、自衛隊のトップに多く生息しているのかもしれません。

自衛隊のトップレベルの方と会う機会は、あまりないでしょう。私の人生を振り返っても、お会いしたのは数度です。その内の一度は、私が19歳のときでした。

防衛大学を受験して、最終面接まで合格したあと、詫び状を書いて入学辞退をしたときのことです。その地方の自衛隊のトップだった人物の自宅に招かれて、こんこんと説教をされたうえで、執拗に防衛大学に勧誘されたことがあります。

居間に虎の皮が敷かれていて、随分と豪勢な家でした。ところが人物はそれに見合っているとは最後まで思えませんでした。3時間ほど食事をしながら歓談したのに、彼は最初から最後までカネのことしか言わないのです。

「地方だったら30代で、家をローン無しで一軒、建てることができる」
「俺の部下は北海道に、二軒の家を建てた」
「将来は安泰」
「かなりの財産も残せる」

「子どもだからカネのことを言えば納得するだろう」
と見くびっていたとしたら、子どもの気持ちをまったく分かっていないということで、指導者としては失格でしょう。子どもの心を動かしたいならば、カネではなく情熱でしょう。

日本のために尽くして欲しいとか、自分たちはこんなに頑張っているんだ、という具体的な話をしてもらえれば、単純な子供ですから、感動して防衛大学に入学したかもしれません。しかし徹頭徹尾、カネのことしか言われないのにあきれ果て、彼に会ったことすら後悔をしたのを、ふいに思い出しました。

私の乏しい人生経験の中で、ほとんど会うこともない自衛隊トップの人間が、たまたま若者にカネの話しかできない愚昧な人間だった、という可能性よりも、自衛隊トップの人間にはこの手の人間が大勢いる、と考えたほうがいいのかもしれません。

田母神俊雄も、航空幕僚長という経歴からもっと立派な人間を想像していましたが、ずいぶんと卑しい人物のようです。現代では昔と違って、品性に優れていようとも実務能力に劣る人間は出世しません。実務能力やコミュニケーション能力に優れていることと品性や教養とは別です。逆に言えば、出世した人間には随分と卑しい品性の持ち主もいる、ということでしょう。

それにこの方、支持者も右翼モドキやネトウヨばかりのご様子ですから、彼らにだいぶ毒されているという側面もあるのでしょう。また、Twitterなどは本人ではなくスタッフがおこなっているのでしょうから、スタッフに恵まれていないのかもしれませんし。

いずれにしても、彼には保守派を名乗らないでほしいものです。


2015年1月28日水曜日

イスラム国による日本人誘拐事件について

このブログでは一応、日々のニュースについての論評をおこなうと謳っている。

しかし、最近話題のイスラム国による日本人殺害予告事件については、今まで一度も触れてこなかった。

ここまでメディアが連日報道しているから、もちろん私の耳にも届いている。しかし、敢えて記事にしなかったのは、大騒ぎとなっているニュースについての論評は大手メディアにまかせて、自分のところのような個人ブログの一つや二つで扱わなくてもいいだろう、と思ったのと、イスラム国のプロパガンダにみすみす乗るのも癪に障るという、二つの理由からだった。

特に後者の理由が大きい。少し日本のメディアは騒ぎすぎではないだろうか。

我々が大騒ぎしても、彼らが釈放されることはない。我々が大騒ぎしていることは、先方にリアルタイムで伝わっているだろう。そうすると、騒ぐことで彼らに満足感を与えているだろう。

イスラム国という明白なテロ組織を利するような行為はおこなってはならないから、彼らに身代金を払うようなことは言語道断だ。同時に大騒ぎしてパニックになっている様子を相手に見せることもまた、利敵行為の一つだから極力避けるべきかと思う。

それに、今回の騒動で、イスラム国にシンパシーを感じる異常者が増えて、国内にイスラム国の拠点をつくろうという動きが加速するかもしれない。

昨日「人を殺してみたかった」という理由でお婆さんを殺した女子大生が逮捕されたように、犯罪行為や非道徳的な行為が大好きな人間というのはヤンキーに限らず社会の中には必ず発生する。イスラム国の存在や参加方法を彼らに知らしめることは、社会を不安定にする手段を彼らに与えるようなものだろう。 現に欧米諸国では、イスラム国の主張に賛同した大勢の10代の少年少女が刺激を求めてイスラム国へと馳せ参じて問題となっている。

だから騒ぐべきではない、と思うのだが、別の意見もあるのは確かだ。逆に騒がなければ、現在監禁中の後藤氏の利用価値がなくなったとみなしたイスラム国が、今すぐにでも後藤氏を殺すかもしれない。邪魔な人質をいつまでも生かしておくことは移動の妨げにもなり、証拠にもなるのでリスキーだからだ。私達が騒ぐことで、後藤氏の生命を保証するという意味合いがあるかもしれない。

報道しない、騒がないデメリットはまだある。彼らの行為を知らないと、彼らの跳梁跋扈を許して被害を拡大する可能性もある。私は昨年8月頃にこのブログで、彼らの残虐行為を撮影した動画を紹介した。あの場所ではこんなひどいことが行われていると、注意をうながす意味合いだからだが、そのときにはほとんど注目もされなかった。対岸の火事だからだろう。

中東の情勢はそれでも比較的知られているが、中南米も今、ひどい状態になっているのを知らない人が多い。中南米では麻薬が騒動の主原因だ。中東の宗教と中南米の麻薬(どちらも麻薬であると言えないこともないが)、この二つが現在世界で猛威をふるっていることを日本人はあまりに知らない。今回の件をもとに彼らの実態を広くしらしめる必要性は確かにある。


騒ぐメリットとデメリットを秤にかけて、行動することは難しいが、私は現段階では騒ぐ方がデメリットの方が大きいと思うので、これ以上書かない。

嫌がらせや脅迫を行なう組織へ、戦争等の積極的抵抗ができないならば、せめて消極的抵抗をおこなうべきだろう。それには無視をして、平然とした態度を見せ、彼らにおもねらず、あとは専門家にまかせて応援をする、というのが考えうる最善策だと思う。

実際、キルギスで起こった日本人誘拐事件では、その方法でうまくいき、日本人の解放につながっている。

ただ今回の事件では、マスコミは連日大騒ぎをして見せたけれども、ネット上では冷静な言論が飛び交い、これを政府攻撃に利用しようとした人々に対しては大きな反発が巻き起こるなど、日本人は総じてうまく対応しているように思う。

次に私達にできることは、その周辺諸国に早急に安定をもたらしてイスラム国を日干しにするよう地道な取り組むくらいだろうか。

目の前で苦しんでいる人がいるのに、何も出来ないのはつらい。だが、出来ないことに躍起になれば苦しむだけだ。今は我慢に耐えるべきだと、思う。


2015年1月26日月曜日

岡田斗司夫が異常にもてた理由とは

ここ数年でしょうか。

10代、20代の若者が喫茶店などで話しているのをなんとなく横で聞いていて、
「ずいぶんと、コミュニケーションを取るのが下手な人が増えたな」
とふと感じることが増えました。

仕事では、彼らと接点がありません。日常的に彼らを観察する機会がなく、印象論でしか語れないのが残念ですが、それでもその印象は、実態からそれほどズレていないはずです。

と言いきれますのも、私自身コミュニケーション能力が低く、苦労してきたため、なんといいましょうか、同種の人間を感じとるセンサーが発達しているからです。こう書くとなにやら超能力じみた力でもあるのか、と突っ込まれそうですが、そんなものではありません。

「同病相哀れむ」という言葉を思い浮かべた方がいるかもしれません。似た欠点を持つ人間にシンパシーを感じる力は、誰もが持つものです。それで、コミュニケーション能力に障害のある人――あまりいい言葉ではありませんが、「コミュ障」と呼ばれています――の存在にすぐに気づけるわけですが、若者の集団にコミュ障がいるな、と思う頻度が、ここ数年確実に増えました。

コミュニケーションで苦労している人間に会うと、かつての自分を思い出し、もどかしくなります。
(もう少し知識と経験と別の信念があれば、こんなふるまい方はしないのに)
この胸が苦しくなる感覚は、同じ苦労をしてきた者が共有するものかもしれません。

もちろん、私自身のコミュニケーション能力は今でもさほど高いものではありませんが、それでも年齢を重ね、経験値が蓄積されています。この場合にはこう言ってはいけない、こう言えば自分の言葉がこう曲解される、この場合にはこう行動しなければならない……知識が増えたせいで、随分と楽になりました。余裕があるからこそ、他人のことに気がつける、という側面もあるのでしょう。

コミュ障が増えた理由は、いったい何故だろう? と考えてみました。


若者になぜコミュ障が増えたのか?

私自身がコミュ障となった理由をふりかえってみますと、ちと特殊な経験からです。

父に転勤が多く、数年おきに友人関係を再構築しなければならなかったこと、母の束縛が大変強く、友人と遊ぶよりも家で勉強をするよう強要され、周囲から浮き上がっていたことなど、いくつもの原因が重なりました。それに、母が新興宗教にのめり込んでいたため、休日にそれ系の活動に駆り出されたことの悪影響も大きかったように思います。

つまり、意図せずして周囲の人間と濃密でまともな人間関係を築く機会が少なく、それを補うために読書へと逃げ、さらにコミュニケーションの機会を失うという悪循環からコミュ障となったわけです。

こんな経験をした人間は昔は少数派だったのでしょう。コミュ障はそもそも脳の作りが他人と異なっているという研究もなされていますが、最近はそうではない、という主張をなされる研究者もいるようで、意見はさまざま。私は、環境の影響も大きいと考えています。

20年ほど前から、人間のコミュニケーション能力、特に面と向かって話し合いながらお互いの意思疎通をおこなっていく能力を奪う環境が、増えてきました。

一つ目はゲームの存在です。

マクドナルド、あるいは公園などで小学生の集団を見かけますと、特に男の子はゲームに夢中になっています。お互いの目を見ながら会話するよりも、それぞれのゲーム画面をにらみながら会話してばかり。

たまに一人のゲーム機に面白いシーンが流れると、一斉に同じ画面をのぞきこみますが、そのときもお互いの顔を見て話すことはありません。このようなことを多感な時期に続けていては、相手の表情を読み取る能力は伸びないでしょう。

二つ目が体を動かして遊ぶ場所と機会の激減。

私の小中学生のころはまだ空き地が多く、しかも権利意識に乏しかった時代ですから、私有地であっても空き地ならば、入って缶蹴りをしたり虫捕りをしたりしても怒られることはほとんどありませんでした。ところが土地開発が進み、整備もされ、空き地が減り、減った空き地で遊べなくなりました。特に都市部では、子供たちが駆けまわって遊べる場所が減りました。

それに物騒な事件が多く報道されるようになり、子供たちを人気のないところで遊ばせることに躊躇する親が増えました。そのうえ、球技などの出来る公園は限られています。子どもの声が騒音だと難癖をつける人間も増えました。こうして外で遊ぶ機会は奪われていきました。

コンピューター経由ではない、対人関係を築く環境が激減したのです。


便利が能力を退化させる

そして三つ目、SNSの普及です。


日常的にパソコンやスマフォで文字入力をされていますと、久しぶりに手書きで文章を書こうとすると、漢字が思い出せなくて悩んだ経験がおありのはず。

人間の能力は、使えば伸びる代わりに、使わなければ退化します。便利になることはいいことばかりではなく、人間の能力減退も生み出します。それならば、コミュニケーション能力を補完するSNSというサービスのお陰で、逆に人間のコミュニケーション能力を退化させるのは当然と言えましょう。

Facebook、Instagram、Twitter、mixi……今の20代の若かりし頃は、「前略プロフィール」なんてものもありました。

これらSNSでは、これまでのような自己紹介が不要です。相手がどんな人間か、手探りで調べる必要がありません。日頃何をしているのか、尋ねる必要もありません。
「Facebook見てね」
「Twitterの過去ログを見れば、私が何に興味を持っているかわかると思うよ」
それだけで済んでしまいます。

イイねを押してもらえればつながっている安心感が生まれます。旅先の写真がアップされれば、わざわざ時間を見つけて、会って旅行の話を聞く必要もなくなります。

満足しているうちにコミュニケーション能力の一部は使われず成長させる機会も奪われ、リアルでのコミュ障が増える、というわけです。

……といったことを今つらつらと考えましたが、わざわざ私が書かなくても、誰でも思いつくことでしょう。「SNS コミュニケーション能力を奪う」という検索キーワードでググりますと、同じようなことを訴えている方々が大勢いました。

そのうえで本日の主題。社会評論家の「岡田斗司夫乱交事件」について、考えたのです。なぜ彼はそこまでもてたのだろうか、と。


岡田斗司夫がもてたワケ


彼は愛人遍歴を記した流出リストを「妄想がほとんど」と説明していますが、長年ネットをいじっていれば、彼の女性遍歴が妄想「だけ」なのかどうか分かります。自己顕示欲が肥大化した人間が、匿名のアカウントで他人にばれるかばれないかのギリギリのラインで何百回も投稿をしている内容がすべて嘘でしょうか? 私は彼の匿名告白は、8割型本当だと思っていいと考えています(もっとも、こんな意見もあるにはあるので、どちらを信じるかはあなた次第)。

彼の容姿はご存知のとおりですし、その上デブです。カネがある知識人だからといって、なぜあそこまでもてていたのか?

そこで、先ほどのコミュ障の増加ですよ。

近年、コミュニケーション能力を社会から問われることが多くなりました。それは以前ブログで書いた通り、IT化が進み、それでも人間にしか出来ないことを求めて追求された結果であるのでしょう。

ただ、それともう一つ、コミュニケーション能力に欠けた若者たちが社会に増えたために、入社してトラブルが多くなった、という側面もあるように思うのです。彼らがあまりに周囲とトラブルを起こすので、企業側が自衛策のために、コミュニケーション能力を事前に、入社前に若者たちに要求するようになったのではないでしょうか。

コミュニケーション能力を低下させる環境が増えたのに、社会は逆にコミュニケーション能力を求める。このアンビバレントな環境に挟まれた若者たちは高いストレスにさらされているはずです。

ストレスにはさまれた人々は、そこから逃れるために出口を探します。そこで、
「出口はこちらだよ!」
と指し示していたのがオタクの地位向上を目指していた岡田斗司夫らであり、彼らが異様にもてていた原因ではないでしょうか。

オタクには様々な定義がありまして、岡田斗司夫は、ある趣味に異常なこだわりを持つという面の方にフォーカスすることが多いのですが、若者たちが惹かれたのはそこではなくて、岡田斗司夫が余技的にやっていた社会性欠如フォローの方だったのでしょう。

社会性の欠如、コミュニケーション能力のなさを、
「いいんだよ、それでいいんだよ。これからの時代、それでいいんだよ」
と優しく包み込む彼の言動が、彼の講義を聴く大勢の若者たちの心をとらえたのではないでしょうか。


若者は悩んでいる

本来オタクについての専門家なるものはキワモノでして、日本における軍事評論家のような、
「たまに出てきて非常事態について説明してくれる人」
程度の存在だったはず。ところが若者の中でコミュ障が大きな割合を占めるようになったために、いつの間にか彼らは若者の間で大きく評価されてきてしまったのではないか、と。

だから彼が80人もの女性と同時並行で付き合い続けられるほど、次から次へと20代の(ときには10代の)若者たちが彼に群がったのではないでしょうか。

今は少子高齢化時代でして、数が少なくカネもないために、若年層の嗜好性が市場の中で軽視されがちなきらいがあります。かわいそうに、彼らの存在感は小さく、目立ちません。

しかし彼らの中で、コミュニケーションについて悩んでいる人々は、中高年の人々が考えているよりももっと、もっと多いのではないでしょうか。その悩みを救い取れる専門家は、案外少ないのではないでしょうか。

岡田斗司夫は期せずして、そこにつけこむことができた、ということなのでしょう。