2013年2月3日日曜日

弁護士をなんとかできないか

オリンパスの闇と闘い続けて
弁護士が弱者の味方でなくなりつつある。

立法、行政、司法の三つは大変強い力を持っているため、お互いに権力の濫用を抑え合うのが「三権分立」の趣旨であるが、それをさらに監視する力を与えられたのが、第四の権力であるマスコミだ。

ところが、国会議員や政府への監視はそれなりに行なっているものの、司法に対しての監視がどうもおろそかなのではないか? という気がしてならない。

不祥事を起こした裁判官や弁護士の大きな写真が新聞の一面を飾ることはないし、彼らを批判する記事が雑誌のトップを飾ることもほとんどないではないか。

ところが司法にも、権力を濫用し、弱い立場の人間をとことん追い込む悪魔のようなヤカラがいる。


野村総研の社員が行なったとされる複数の猥褻事件。謝罪を要求した被害者を相手取って、野村総研は「法人に対する精神的苦痛」を名目に1000万円の賠償請求を求めていた。

ところが、野村総研はその根拠を提示できずに訴えを全面的に取り下げたそうだ。

根拠を提示できなかったということは、1000万円もの法人の精神的苦痛なるものに根拠が無いだけではなく、猥褻事件が嘘であることも、自分自身で証明できなかったということだろう。

(こんな異常な訴訟を手伝った、野村総研側の代理人となった法律事務所はどこだろう?)

記事を読み初めてすぐに思い出したのが、オリンパス報復人事事件で暗躍した弁護士の存在のことだ。


オリンパスの内部告発をした浜田正晴さんは、報復人事を受けただけではなかった。産業医が彼を精神病者にしたてあげ、精神的に追い込もうとしていた。その計画を立案していた弁護士がいたはず。たしか、高谷某じゃなかったっけ……。

そう思いながら上記の野村総研に関する記事を読んでいたら、出て来ましたよ。森・濱田松本法律事務所の高谷知佐子弁護士のことが。やっぱり同じ人物が関わっていた。

オリンパスでどのような卑劣な手段を取ろうとしたのかは、下記の記事を読めばよく分かる。

<T谷弁護士は(編注:原文は本名)都内の大手コンサルティング会社から労働法の専門弁護士として依頼を受任し(略)、不都合な社員や退職させたい社員がいる際には、まず集団ストーカーと呼ばれる手口で、その社員の周辺に複数の人間が常につきまとい、その社員に精神的苦痛を与え続け、その社員がたまらなくなって、怒鳴ったり暴力を振るったりしやすいようにする、もしくは精神的苦痛で自殺しやすい状況にする行為を続ける>
 <このような集団ストーカー行為、もしくは産業医の制度を悪用する手口を使って、被害を訴える個人に対し、精神分裂症等の精神病として診断書を作成して被害者の発言の信憑性を低下させ、その上で産業医が治療と称し措置入院等を行う事で、報道、捜査機関、裁判所等を欺いて対応が出来ないようにし、さらに一般市民を自殺や泣き寝入りに追い込む>
上記でT谷と一部アルファベットにされているのが高谷氏だ。こんなことが、許されていいはずがない。

彼女のご尊顔は、下記サイトに載っている。

★ 「解雇」をめぐる個別紛争をどう解決するか
★ 第4回グローバル法務戦略セミナーを開催
★ 第23回研究会「職場トラブルへの対応実務ー最新判例を中心にー」

唾棄すべき行為である。

ただ、彼女だけの問題じゃあるまい。報道されていることは氷山の一角だ。その裏側では、企業の要請に基づき様々な「アドバイス」をする多数の弁護士の暗躍があるに違いない。

彼らの道義的な問題点を追求できるのは大手マスコミくらいしか体力的に無理だろうが、大手マスコミにその気配はない。

セクハラ被害者に高額請求をぶち上げて反撃の芽を事前に防ぐのも、企業の暗部を内部告発した人物に適当な精神病名をつけて休職させるのも、合法ではある。

だが、たとえ合法ではあっても、道義的に間違っていることは多々あるものだ。過去に合法だったストーカー行為を、問題だとして追求することで、ストーカー規制法が成立した。弁護士の倫理にもとる行動は合法ではあっても、健全ではなかろうし、なにより自分が被害者となることを考えると、身の毛がよだつ。

マスコミさんにはなんとか頑張って欲しいのだが……。

2013年2月2日土曜日

悲観主義の価値

スタンフォードの自分を変える教室
昨日は、ケリー・マクゴニガル女史の講演が新宿のコクーンタワーで行われました。
……行きたかった。

残念なことに仕事が立て込んで行くことかなわず。どなたかがマクゴニガル女史の講演の感想をアップすることを心より期待しております。

さて、久々にマクゴニガル女史が以前連載していたブログ記事のうち"The Virtue of Pessimism"(悲観主義の価値)の内容を簡単にご紹介しようと思います。


昨今では「ポジティブ・シンキング」の効用が多く説かれことが多いため、悲観主義者の肩身は狭くなる一方です。物事を暗くとらえることよりも明るくとらえることは、ストレスが貯まらないだけではなく、モチベーションを上げる効果があります。

「悲観主義よりも楽観主義であれ」

というのは多くの人が説くことですが、ダイエットに関しては、そうでもないようです。

同志社大学の研究結果によれば、楽観主義者と悲観主義者を集めてダイエットを競わせた時に、効果を上げたのは悲観主義者のグループだったそうです。

★ 楽観的な人は減量が困難!?

楽観主義者には挫折や落とし穴を過小評価する癖がある上に、自分が太っていることで被る被害について楽観的に考えるという傾向があります。これは、ダイエットにとっては有害な考え方です。

もっとも、楽観主義者の持つ「自信」――つまり「自分自身にはダイエットをやり遂げるだけの意思力がある」という信念は、多くの困難を乗り越えるための力をその人に与えます。そのため、必ずしも楽観主義がダイエットに有害である、というわけでもありません。

大切なのは、自分自身を観察することです。自分にはどのように考える傾向があるのか。楽観的で、多少食べ過ぎても気にしない性格なのか、それとも食べ過ぎる自分が嫌でたまらないものの、ストレスがあるとどか食いをしてしまう癖があるのか……じっくりと観察して、その傾向を把握します。

そして、その自分の在り方が、今の自分にどのように影響を与え、このままではどのような未来が待っているのかを予測するのです。

こうすることで、ダイエットのような多大な意思力を必要とする作業を、よりたやすくできるようになるのです。

以上となりますが、ダイエットのご参考になれば幸いです。

2013年2月1日金曜日

長嶋茂雄の脳は英語脳

野球は人生そのものだ
長嶋茂雄とえば元ジャイアンツの野球選手で戦後の大スターですので、いまさら説明する必要もないでしょう。

野球選手時代、監督時代の活躍もさることながら、その底抜けに明るいキャラクターと、独特の言語感覚でも愛されてきました。

たとえば、英語がそれほどうまいとも思えないのに、会話の中に頻繁に英単語が入ります。
"鯖"という字の書き方を確かめるために、
「魚ヘンにブルーだっけ?」
と周囲に尋ねたのは有名な話です。

また、擬態語が多いのもその特徴。
「ダーッと打つ」
「ガーッときたらバーッと行けばいいんだ」
などという言葉づかいは、よく、
「彼の言っていることは意味が分からない」
などと評されたものです。

おおざっぱな性格だろうと思われるエピソードが数々あるにもかかわらず、数字にやけにこだわる、という意外性が笑いの対象となってきました。
「彼のスイングが10cmずれている」
「ふりぬく角度が30度で」
などという単語がよく出てきます。周りからはジョークの一種としてあまり真面目に取り合われなかったのは、
「そんなに彼が正確に物事を把握できるわけがない」
と誰しもが感じ、
「数字も正確に表現しようとして思いつきで言っているに違いない、ウソっぽい」
と思われていたからでしょう。

また、彼には口癖がありまして、
「ひとつの」
という言葉をのべつまくなしに使う、という特徴がありました。
それも、「いわゆる」という言葉とともに使うことが多く、
「いわゆるひとつの」
という言葉を使うと、年輩の方々ならば、
「ああ、長嶋茂雄だ」
と思うくらいに有名な口癖です。

さて、彼の上記の言葉遣いは、これまで、彼の憎めない天然ボケなキャラクターの産物として認知されてきました。

「野球は天才だけれども、論理的思考には弱い。国語能力が低いから、あんな言葉遣いしかできないのだ」
というのが、ほとんどの日本人の感想だったのではないでしょうか。

でも、本当にそうなのでしょうか?

そうではないのではないか、と思い始めたのは、明治大学教授でもあるマーク・ピーターセンの書いた、『日本人の英語』という本を読んだ後です。

日本人が苦手とする"a"と"the"のような冠詞の使い分けや、単数形と複数形をどう区別するかなどに的をしぼって一冊の本にまとめた良著であり、英語が苦手な人にとっては福音となるものでしょう。

この本を読みますと、英米人には簡単に使い分けができるものが、日本人に使い分けができない理由がわかります。

英米人の思考の根本には、
「それが単数なのか、それとも複数なのか」
「それは個別具体的なものなのか、それとも漠然としたものなのか」
を常に意識していこう、という強い欲求があるのです。もっと具体的に言えば、状態の視覚的な把握への執着心がある、とでも言えばいいでしょうか。

日本人は彼らほど、数量に執着心はなく、具体と抽象の区分を意識しません。

だから日本人が英語を話すと、単数と複数か、具体的な話なのか一般的な話なのかが始終曖昧であり、英米人にとってフラストレーションがたまるのだとか。

長嶋茂雄の発言集を笑いながら見ていた時のこと。
上掲書のことをふと思い出し、そして愕然としました。長嶋茂雄の口癖、
「いわゆる一つの」
という言葉は、英語冠詞の"a"を無意識に使っているのではないか?
ということに気がついたからです。

日本人が普段使わない単語が日本語の会話に頻繁に出てくると、
「なんだかおかしな」
と思われますが、長嶋氏には、ものごとを視覚的かつ数量的に把握し、具体的なモノなのか、それとも一般的な"いわゆる"モノなのか、単数か複数を厳密に区別しようという意識がその根底に常にあり、それが彼の独特の言葉使いとなったとは考えられないでしょうか?

口癖だけではありません。
たとえば、若かりしころの定岡との会話。
「学生服を脱いで、洋服を着るのは初めてか」
という長嶋茂雄の発言に、視聴者は、
「そんなわけないだろ? 学生だって、制服以外の時は、洋服くらい着るだろう?!」
というつっこみをしたはずですが、長嶋が「いわゆる」という言葉を使わないときは、
"the"を無意識のうちにつけていると思われます。

この場の「洋服」とは"a suit"ではなく"the suit"のことであり、もちろん背広のことを指しているのです。

長嶋氏にとって「いわゆる」を使うときは"a"をつけている、あるいは不加算名詞を意味していますし、それがつかない時は、この場での共通認識であるものを指しているため、いちいち「背広」などの具体的名称を使わず、一般名詞で代用するのです。

こういった言葉の使い方、英語のネイティブがよくしますよね。一般名詞にtheをつけて固有名詞にしてしまうといった用法。日本人の感覚に馴染めないものですが、長嶋氏にとってはそれがごくごく自然な感覚なのではないでしょうか。

彼の異常なほどの数字へのこだわりも、英米人の特徴です。それが正しいかどうかはあまり重要ではありません。
「扉を少し開けた」
という表現を、
「扉を10cm開けた」
と表現するのが英米流。

「いや、本当は12cmだぞ? 10cmではないから、正確ではない。正確ではないことを書くのならば、むしろ数字はとってしまえ」
と日本人は考えます。逆に英米人は、曖昧な表現を使うよりも近似値を使う方が、具体的で会話を聞く人に対して親切であると考えるのです。

上の動画にもあるように、長嶋氏は、服の皺など、こだわらなくてもよさそうなところに具体的な数字を持ち込みます。彼の意識の根底には、
「不正確ではあっても具体的な数字を出すことの方が、相手にとってイメージしやすいので分かりやすいだろう」
という信念があるはずです。

ところが日本人はそのような概念に慣れていないため、ううろたえて、かえって長嶋氏をバカにするのです。

擬態語の多さについて。彼はあれだけ擬態語を使用しながら、日本語に特徴的な、
「ドキドキ」
「オロオロ」
などの2音による組み合わせが案外少ないのが特徴です。
「ドーッ」
「バーッ」
などの一音が多いですよね。

この手の擬態語は、英米人もよく使います。それは、母国語の異なる者同士ではとても顕著です。論理構造の異なる相手に理解させるために、適切な単語が思いつかず、ボディランゲージと共に擬態語を使用するのです。

言葉によって、思考回路、論理構造は大変異なります。母語によって、脳の神経回路自体がかなり異なることも、最近の研究で分かっています。

だからでしょうか、英米人が日本人の論理を聞いても
「なにを言っているのかよく意味が分からない」
と言いますし、逆もまたしかりです。それが「直訳したもののわかりにくさ」につながっています。

日本人には英語コンプレックスがあるために、英語で書かれた論文が理解できないことは"英語力不足”のレッテルを貼られるため表面化しにくいですが、英語ネイティブの論理構造が日本人と異なるために、理解できずに文意を読みとれないことも多いはずです。

ところが、まれに、英語を母語とする人々の論理構造が先天的に備わっている人がいて、彼らにとっては、英語を習う前から、日本語よりも英語的な考え方がしっくりくる、ということがあるのではないでしょうか。

そして、長嶋茂雄は日本人でありながら、英米人の言語構造が先天的に備わっていたということは考えられないでしょうか。

長嶋氏が英単語を多用していたのも、そう考えると納得出来ます。単語はその言語と不可分のものです。長嶋氏にとって自分の思想を言い表すのに、日本語にちょうどいい概念が見当たらないのです。微妙にずれているのです。だから、英単語をどうしても使わざるを得ない……そんな可能性はないでしょうか?

そもそも長嶋氏は単なる天才ではなく努力の人であり、勉強家でもありました。その彼の頭が悪い訳がありません。

彼の論理構造は英米人のそれである、という目で改めて彼の発言をとらえてみると、大変論理的で、おかしいどころか非常に優れて合理的な発言ばかりなのです。

長嶋茂雄、あなどれませんね?!