2015年2月5日木曜日

欧米の同調圧力に抗うトルコ

ダーイッシュ(自称イスラム国)に後藤健二さんが先日殺害された。後藤さんのご冥福をお祈りする。

ご家族、特に奥さんの悲しみを思うと胸が張り裂けそうになる。お子さんが生まれたばかりで夫を失い、子どもの誕生という女性にとってもっとも大きな喜びを味わえないのだ。子どもを見るたびに亡き夫を思い出すのはつらかろう。悲しみは、深く刻まれた傷となり、彼女をこれからも苦しめる。あまりに不憫だ。

同胞が異邦人に殺されるのを観るのは嫌なものだ。彼らダーイッシュを憎らしいと思う気持ちが湧きあがる。

今後の課題

彼らの行為を眺めながら、では、どうするか? 安倍総理が今後同種の事件が起きたときのために、自衛隊派遣も含めて検討をしていきたいと述べた。たしかにそれも大切だろう。

ただ、これまで軍隊を派遣しなかったからこそ日本人が世界で得てきたメリットを失う覚悟が必要だ。私が海外を旅していたときに、日本人という理由で親切にされた経験が数多くあった。同じような経験をしてきた観光客、現地駐在人は数多くいるだろう。

デメリットのほうが大きいのではないのか? アメリカにすらできないことをやろうとして、失うものが大きすぎやしないか? ……ただ、それは失ってみなければ分からない。

それに、軍隊を派遣して武装勢力を殲滅するという方法では原因を取りのぞくことはできないだろう。それは一種の対症療法だ。それよりも、紛争をなくすための原因を取りのぞくことが先決じゃないか?

対症療法以外の方法

……とはいえ、対症療法ではない根本療法を探るとしても、どこまで深く追求するべきか、解決方法を実行することは可能か、という問題が立ち現れるだろう。出来ないことについてあれこれ考えてもしょうがない。

たとえば、あの地域にイスラエルを建国したのが悪いだとか、欧米の国際石油資本(石油メジャー)が中東利権を守るためにあの地域の政治バランスに深く関与しているのが悪いだとかいった議論があるのは知っている。しかし、その議論を深めてもあまり意味はないように思う。

原因はそうかもしれないけれども、イスラエルを今さらなかったことにできないし、国家と同じ力を持つ巨大な石油メジャーの行動を縛ることは、私たちには荷が勝ち過ぎる。同じく考えるのならば、少しは考えた末になんらかの効果がある議論を深める方がいい。

たとえば、多様な民主主義を私たちは我慢するべきかどうか、どこまでを許すべきか、それは可能なのか、といった問題だ。

トルコの我慢の限界

ダーイッシュが隆盛を極めている背景には、アメリカがイラクを崩壊させたことだとか様々な要因がからんでいるわけだが、他の要因の一つに、トルコのイスラム回帰という問題があるように思う。

欧米で育ったアラブ系の人々が、なんのツテもないのに身一つでダーイッシュに身を投じていることは多くの報道でご存知だろう。彼らのほとんどがトルコ経由でシリアへ向かうのだという。ダーイッシュの支配地域がシリアのトルコ国境付近に迫っていること、シリアとトルコの国境には森林や小道が多いことから、人知れずダーイッシュへ潜り込むには好都合なのだそうだ。

だが、地理的要因だけのはずがない。アラブ系とはいえ、彼らダーイッシュ志願者たちは土地勘がない。全くその土地と無縁の彼らが、GPSがあったとしても、うまくダーイッシュの支配地域へと忍びこむことができようはずがなく、彼らを応援する草の根の人的ネットワークがトルコ国内に間違いなくある。

トルコの人々のイスラムへのシンパシー。それは現在のエルドアン大統領への熱狂的な支持ぶりからもうかがえる。

都市部ではエルドアン大統領の独裁的手法への批判の声が大きいが、地方ではイスラム教を賛美するエルドアン大統領支持者が圧倒的に多い。シリアとの国境付近の人々ならばなおさらだろう。

だがトルコは、イスラム諸国の中で政教分離を早い段階で成し遂げて成功した民主主義国だったはずだ。そのトルコがイスラムへ回帰を始めたのには理由がある。要因の一つには、トルコがヨーロッパの一部になろうとして、常に拒絶され続けたことに、トルコ国民がうんざりしたという背景があるように思う。

トルコはEUへの加盟を幾度と無く拒絶されてきた。アルファベットを導入して、政教分離を成し遂げ、特権階級を認めない民主主義国家を作り上げたトルコに対して、ヨーロッパはアルメニア人虐殺を謝罪しろだとかキプロス島の権益を放棄せよなどと様々な理由をつけて、批判してきた。批判され続けて少しも敬意を払われない者は、ストレスが溜まり、鬱屈した感情を抱くだろう。トルコの人々は、ヨーロッパの傲慢にうんざりし、イスラムへ回帰しようとしている、という一面がある。

リベラルの同調圧力

トルコがヨーロッパから拒絶されてきた歴史に踏み込むと長くなるので、これ以上書かず、そもそもなぜヨーロッパがトルコをそこまで毛嫌いするのかについて述べたい。要は、民主主義の先進地域という意識が強いヨーロッパは、自分たちに似ているのに自分たちとは異なる存在を許せないのだ。

特に、リベラル勢力にその風潮が強い。彼らは多様性を唱えながら、実のところ同調圧力が大変強い人々だ。自分たちと全く異なる政治体制の国家(中国だとか)や開発の遅れた国々の独裁体制には妙に寛容なくせに、彼らに近い政治体制を取りながら、国情にあった民主主義の発展を目指す国には、自分たちの基準を押し付けようと必死になる。

自分たちを正統と考える人々は、異教徒には寛容でも異端を許せない。トルコの人々はイスラム教を精神的基盤に置きつつも、民主主義国家となることは可能だと考えている。ところがヨーロッパの人々は、キリスト教のベースがない民主主義には懐疑的で、だから何かしら、いちゃもんをつけようとする。彼らのように考えない国を批判したがる。

同じようなことは、日本に対しても行われる。彼らは日本もまた、「真の民主主義国家とはいえない」だとか「民主主義がまだまだ遅れている」などと批判してきた。今回の件でも、後藤健二氏がダーイッシュに拘束されたときに日本で「自己責任論」が現れたことに対して、ロイターのPeter Van Burenという記者が、
日本政府の反応とその支持者たちの態度は、欧米の反応の基準とは基本的に異なっていることを暴露する。(the response of their government and the attitudes of their fellow citizens expose key differences from the standard Western response. )
批判した。紛争地域で危険にあった同胞への対応が異なれば、すぐに民主主義ではない、日本のものはまがい物だ、という批判が彼らから出る。今までもよくあったことだ。

日本は相当、民主主義が根付いた国家だと思うが、それでも彼らは「まだここが違う」「あれが違う」と言って日本の民主主義を認めようとしない。欧米人のように行動して、彼らのように考えることを望む。口では多様性を唱えながら、その国の伝統に沿った民主主義の発展を決して認めない。

たとえば、同性婚を認めるのがここ10年ほどの欧米の風潮だが、それが主流になると、もうそれ以外を認めなくなる。10年前には同性婚を認めない人々が欧米でも多数で、それでいながら民主主義が成立していたのにもかかわらず、だ。今はそれを認めない人間や国は基本的人権を尊重する仲間にあらず、という見方をする。

本来、基本的人権の考え方とは合わない伝統をそれぞれの国が持っているものだから(たとえば君主制だとか宗教に関するものだとか)、進んだ部分、遅れた部分はどこにでもあるのだ。それぞれが国家の実情に沿ったスピードで、変えるものは変え、変えられないものは変えずに、少しずつよりよいものへと変えていけばいいはずなのだ。特にイスラム教の影響の強いトルコでは同性婚を人々が認めにくかろう。しかし欧米人は、それを許さない。

自分たちを変えること

近親憎悪という言葉がある。

カトリックがプロテスタントが何を決めようと放っておくが、同じカトリックの中で異端の説を唱える者には容赦しないようなものか。似ているとなると、とことん自分たちと同じようであることを求めようとする彼らのすぐそばにいて、トルコはさぞつらかったろう。

仲間の差異を認めない欧米の人々が、トルコの人々を追い詰め、国内のイスラム教徒たちを追い詰め、彼らをダーイッシュへと追い込んだという側面があるのではないか。

そして、似たようなことは私たち日本人も行いがちだ。昨今中国が、民主主義国家へと大きく変貌を遂げつつある。韓国はほぼ、民主主義国へと変貌した。しかし、逆にその違いに注目して批判を加える、という行為を、ネトウヨにかぎらず、私たちは行いがちだ。

いや、中韓に対するだけではない。私たちの人間関係の中で似たような批判はよくあることである。仲間と思う人々のちょっとした差異を嫌うというこの感情は、人間誰しも持つものなのだろう。

それとどう折り合いをつけていけばいいのか。それは答えのない問題だけれども、それについて考えを深めていけば、それが政治への目となり、欧米人の同調圧力へ抵抗することへとつながり、イスラム的、あるいは共産主義的なものを大切にしながら民主主義国家へと変わろうとする国々を、間接的に応援することにもなるだろう。

そして、世界のシステムは個人では変えられないが、自分たちの考え方は変えられる。それによって影響を受けた世界もまた、変わるかもしれない。

2015年2月3日火曜日

『ブラック企業』は過渡期の存在かもしれない

最近になって『ブラック企業』という本を読んだが、読むのがつらくて何度か本を置くこととなった。

文章が読みにくいということはない。著者は私よりもはるかに年下ではあるけれども、学術的な訓練を受けているせいか私よりも論理的で、なおかつ豊富な実例が「読ませる」。

しかし、その豊富な実例を読むのがつらい。昔の自分の体験を思い出させるからだ。ブラック企業から離れて年月も経ち、ある程度気持ちの整理もついたはずだが、あのときの悔しい気持ち、腹立たしい気持ちとは未だに折り合いをつけるのが難しいようだ。

詳細は上記の本を読んでいただくことにして(幸いなことに、かつてたくさん売れたので中古本が安価で出回っている)、その本に書かれていないことを読みながら考えたので、書いてみたい。それは、現在のブラック企業の発生の理由だ。

なぜ近年、ブラック企業がこれほど話題になるようになったのか?

それは、日本企業が少し方向性を誤ると、ブラック化しやすくなったからだ。なぜ企業がブラック化しやすいのか? もともと日本流、あるいは松下幸之助流の家族主義という土壌へ、アングロ・サクソン流の熾烈な競争原理が持ち込まれて、社員に逃げ場がなくなったからだと思っている。

どういうことか? もともと日本企業は企業が社員の一生を丸抱えすることで、会社が一つの家族のような役割を果たしてきた。それは社員の忠誠心を育てたが、やる気を育てるためには別の燃料も必要だ。アングロ・サクソン流の頻繁な解雇や降格がない中でいかに社員のモチベーションを高めるか? そこで日本企業では様々な方法を用いて、社員のやる気を上げる工夫をこらした。

その一つに、労働と社会貢献、本来は別のものをくっつけてしまい、労働することが社会貢献だ、という価値観を育てたことがある。

リッツ・カールトンという外資企業が「クレド」 なる会社の理念を掲げてかつて話題になったが、あれはもともと日本企業のやり方を外資流にアレンジして取り入れたものであることはよく知られている。日本企業が世界を席巻していたときに、アメリカの企業が日本企業を研究して、朝礼で「社訓」「社是」と呼ばれるものを唱えられていることに着目して、アメリカの企業に紹介をした。それを洗練させたのが、リッツ・カールトンの「クレド」だった。

クレド、その源流となる「社是」「社訓」で訴えられることは、会社で働くことが社会をよくすることにつながる、という主張だ。この主張が使命感を育てる。使命感は、社員に労働に没頭させる。働くことが歓びとなった人間の生産性が高くなることは、容易に想像がつくだろう。また、会社で一生懸命に働かない人間は社会貢献の意思がない、と周囲がみなすようになり、社員にプレッシャーを与えるだろう。こうして人々は仕事に専念する。

こうした洗脳的な手法で日本企業は社員を追い立ててきたわけだが、ただ会社が家族のようなものだったから、社員間でお互いに支えあい、その欠点を補ってきた。
 
ところが今や、会社がリストラを自由に行なう時代が。従業員の生活には責任を持ちません、でも従業員にはこれまでどおり忠誠を誓って欲しい、という都合が良すぎる命令を現代の企業は我々に強いている。

こんな馬鹿げた命令に私たちが従う必要はまったくないし、いずれ社会から淘汰される考え方だろう。しかし今は過渡期だから、その害が明らかにまだなっていない。そこで、日本流の会社勤務=社会貢献という思想と、競争原理が容易に結びついて、人々を追い込む企業を生み出してしまう。ブラック企業の発生と増加の原因がそこにあるように思う。


2015年2月1日日曜日

小保方春子はリケジョじゃない

最近、また小保方晴子の周辺が騒がしくなってきましたね。

★ 小保方晴子さんを思わせるキャラクターをゲームに使用、スクエニが謝罪

★ 窃盗容疑で小保方晴子氏を刑事告発へ
STAP細胞を開発したとする論文で研究不正が認定され、先月に理化学研究所を依願退職した小保方晴子氏(31)が、窃盗容疑で刑事告発されることになった。
★ 小保方氏と理研「暴露本」で密約?
騒動の幕引きを急ぐかのような経緯からは、理研の体質が垣間見える。内部関係者の話。
「あれだけのスキャンダルを起こしておきながら、組織の長である野依良治理事長がそのまま居座っているのが、いい例だ。理研は一日も早く騒動のマイナスイメージを払拭し“何もなかった”状態に戻したいと考えているのです」

昨年あれだけ世間を騒がせ、いったん収束したかとおもいきや、ふたたびニュースとなるのは、それだけ小保方晴子のキャラが魅力的だったからでしょう。

一見清楚、お嬢様。スタイルも容姿も美しい。その上科学の大天才。ハーバード大学で研究員を務めたのち、日本最高峰の研究所「理研」に所属しながら、「万能細胞を簡単に作れる」という画期的な論文を、世界的な科学誌『ネイチャー』に掲載。

しかしその実態は、大勢の科学者たちを手玉にとって国際的な地位を着々と築いた悪女。ある男は死に、ある男は人生を狂わされた。しかし女自身は決してつかまらず、逃げ続ける……。

これ、完全にアニメやライトノベルのキャラ設定ですよね。そしてたぶん、「設定を詰め込み過ぎです」「リアリティーがなさすぎます」と編集者に怒られるパターン。でも、本当にこんな人物が実在しているのですから、いやはや、事実は小説よりも奇なり、です。

昨年私も、彼女についていくつか記事を書きました。

★ 小保方捏造論文捏造疑惑は上質のミステリー
★ 小保方晴子の記者会見を観た
★ 小保方さん側弁護士は、わざと不利な情報を公表しているのではないか

それだけ魅力を感じたからでしたが、さて、再び最近のニュースで彼女についてふと思いついたのが、
「彼女は本当は理系ではなく文系だったのではないか?」
という疑惑です。

彼女は理系女子、通称「リケジョ」と言われ、当初は理系女子の出世株と目されていたのは衆知のとおりです。その株は後で暴落しましたが。

理系の女の子の取扱説明書」によれば、リケジョには三つの特徴があるそうです。
  • プライドが高い
  • 子供の頃にいじめられたことがある
  • 議論が好き 
でも、小保方さん、そのどれにも当てはまりそうにありません。天然ぽくていじめられるタイプではなく、議論も下手でしょう。理系女子にありがちなプライドとは、少々無縁のように思います。

思えば彼女の言葉は、やけに文学的でした。STAP細胞のことを「王子がキスして目覚めるプリンセス細胞」と言ったり、週刊誌の記者が彼女に問い詰めたところ、「私が死んでも、STAPの現象は起こります」と答えたり、STAP細胞の再現実験に参加する際に、「生き別れた息子を早く捜しに行きたい」と答えたり……。

人間を理系と文系に分ける基準は思考のフレームにある、という説を聞いたことがあります。

理系はものごとを論理的に把握して、論理的に説明します。論理とは共通認識の積み重ねの末に、新しい事実を納得させるという技法です。たとえば、彼に浮気をしてはいけないことを説明するのに、
  1. 浮気をされると嫌だよね(←そうだな。俺は嫌だな)
  2. あなたは私を大切にしたい、私の嫌なことはしたくないって誓ったよね(←そうだ。君の嫌がることはしたくない)
  3. 浮気されることは私の嫌なことなの。だから浮気はやめて(←わかった)
と説得するのが論理的な説得方法。

それに対して、文系は、イメージをふくらませて、感情に訴えて説得するのだそうです。
「浮気をされたら、私は多分自分の心臓をえぐりだして死んでしまうかもしれない。大切なあなたに浮気をされたら、何も信じられなくて、自分が惨めになって、この世界にはいられないと思う。それほどつらいと思う……」
とかね。当然、思考もイメージ。頭の中にはさまざまなイメージがフラッシュのようにパッパッと沸き起こり、あるいはポロックの絵画のように、イメージや感情がうねりをともないながら渦巻いています。

その分類方法でいけば、小保方晴子は明らかに文系女子。論理的な積み重ねよりもイメージでものごとを考えるタイプの女性でしょう。

人間は異なるタイプの人間の話を面白がる性癖がありますから、理系の園に迷い込んだ文系女子に、研究者たちが魅力を感じて彼女に惚れ込んだのも、理解できなくもありません。