2013年6月8日土曜日

マナーが身につくとは、マナー違反ができるということ

ある名優を使って食事のシーンを撮影していた時のことである。ベテランの俳優で、もちろん食事のマナーは完璧。作法に問題ないはずなのに、何度取り直しても監督はそのシーンに違和感を感じる。

最初は原因が分からなかったが、助監督とともに試写フィルムを見直して、その理由が判明した。……俳優のマナーが"完璧"過ぎたのだ。

その俳優は貧しい家庭で育った。親は無教養で、子供にマナーを教えることはなかった。大人になって成功をつかんだのち、様々な人々と食事をするようになった彼は、必死にマナーを学び、完璧な作法を身につける。

ところが、彼には「間違ってはいけない」という緊張がどこかにあった。意識しながら、一つ一つの動作をこなさねばならないから、どこかぎこちない。それが、フィルムを通すと途端に、透けて見えたのだという。

生まれつきの金持ちや教養ある家庭で育った人々は違うようだ。子供の頃に叩き込まれ、嫌々ながらも幼くして身につけたものは、普段の動作に染みこむ。だから無意識の内に、マナー通りにふるまえる。だから、自然で緊張がないのだ。

上流階級(嫌な言葉だが)の人間は、だからこそ、時にはお思いきり不作法にふるまうことすらできる。それ以外のマナーが出来ているから、一部分が無作法でも、周りを不愉快にさせないのだ。それが彼らに、自由な雰囲気を与える。名優には、その種の余裕がなかったのである。

そもそもマナーとは何か。他人を不愉快にしないための所作振る舞いの一体系だ。社会に出ると、不寛容な人が多いことに誰もが気づく。些細な仕草を不愉快だと思う人が、世の中には大勢いるのだ。

食事中に話すと「唾が飛ぶ」と嫌がる人。
口を開けながら食べることを「くちゃらー」と呼んで毛嫌いする人。
食事中に鼻をかむことを「汚い」と顔を背ける人。
ひじをつくと「姿勢が悪い」と怒り出す人。
皿に取り分けられた料理を均等に食べないと、不機嫌になる人・・・・・・。

気になる人は気になるのが、こういった一つ一つの他人の所作である。食事のマナーとは、たくさんの立場の人々に不快感を与えないような所作の集合体、と言えるだろう。

だが、すべて守ると窮屈だ。だから、一生、いついかなる時にでも、マナーをすべてを守れる人ような人はいない。それに、マナーは文化や家庭によって微妙に異なる。食事中に会話することが当然の家庭に呼ばれたにも関わらず、親からしつけられた通りに、食事中は無言を貫くような人は、食卓を不安にさせるだろう。その上、その理由を尋ねられて、
「食事中に話すと、唾が相手の料理にかかるので、汚いですよね。だから、食事中は会話してはいけないと家で習いました」
と答えるようでは、相手の家庭を不愉快にしているので、むしろマナー違反だ。他人に不愉快な念を抱かせないためのものなのに、本末転倒な話となる。

こんな話がある。イギリス女王を囲む食事会で、果物が出された。果物の皮を指でむかなければならないので、指先をすすぐための水をためた容器「フィンガーボール」が招待客に配られた。皮を剥いた後、そこに指を入れて、果汁で汚れた指先を洗うのだ。

ところが、無教養な賓客が、知らずにフィンガーボールを持ち上げて、水をごくりと飲んでしまった。当然周囲は失笑する。女王の前で無様な態度を取った彼は、翌週のゴシップ新聞に、
「バカはいつまでたってもバカ――女王の前で洗浄水を飲み干した成金」
などといったタイトルをつけられた記事で、侮蔑され、国中の笑いものになっていたかもしれない。

ところがそこは英国女王。とっさに同じようにフィンガーボールの水を飲み、周囲の失笑をピタリと止めた。お陰で、この賓客の面目は守られたという。

マナーを守りつつ、状況や相手によって一部のマナーを破ることができる……英国女王のような融通無碍な態度を取れることが、本当に「マナーが身に付いた」と言えるのだろう。

マナーが他人と円滑につきあうための態度の体系ならば、当然の帰結なのだが、ここに思い至らない人が、あまりに多い。そして、
「マナーを身につけたからこそ、マナー違反ができる」
ということは、他の様々なことにも、言えることなのだ。

2013年6月7日金曜日

キングコング西野がまたやらかしたらしい


お笑いコンビのキングコングと言えば、その実力以上に世間を騒がせることで有名な2人です。そのうちの1人、西野(生活保護を母親に脱法受給させた梶原ではない方)の行為が、再び世間の批判を浴びているようです。

   「キングコング」西野亮廣(32)が同居する後輩芸人・小谷に「今日中に荷物をまとめて家を出るように伝えた」と6月1日(2013年)にツイッターで明かした。4月から同居していたが、家賃4万円を2か月連続で滞納したためだという。
彼はこのようなこともつぶやいています。

西野氏の行為と一連の発言に対して、インターネットでは批判の渦が沸き起こりました。
「これはどこで笑えばいいの?」
「モーレツに面白いと本気で言ったんなら最悪の性格だなw」
「ホームレスの炊き出しに参加する事がそんなに面白いのか」
「不快感しか湧かない
これが面白いと本気で思ってるんだろうか」
西野氏は、先日も放送作家の鈴木おさむに喧嘩をふっかけ、謝罪をするハメになるなど、問題発言が多いことで有名です。彼の発言は、世間の共感を得るよりも反感を買う傾向があります。

今回の行為は、後輩芸人の売名行為の手助けといえるようなものであり、いまいちパッとしない後輩芸人に「ホームレス芸人」という新しい肩書きをつけようという西野氏なりの思いやりなのでしょう。しかし、その目論見は大きく外れてしまったようです。

思うに、西野氏の感覚は世間とだいぶずれているのではないでしょうか。

この小谷という芸人は、健康で若くて体力もあるのですから、芸人としての仕事を減らして定期的なバイトをすれば、ある程度の生活はできるはずです。それをしないのは芸人になるための夢を追っているからでしょうが、そのためにホームレスの炊き出しに並んではいけません。

以前ホームレスのためにボランティアが飲み物などを配布したところ、近くで働くサラリーマンが、それをもらうために並んでいて、批判を受けたことがありました。それと同じですね。

「勤労」は国民の3大義務ですから(なんて大上段なことを言うのは少々バカバカしい話ではあります)、それをできるのにしないで、恵まれない人のための善意に便乗するという行為や、それをけしかける行為は、倫理的に問題です。相方の梶原が行なった、母親への生活保護脱法受給の勧めとまったく同じ構図。やはり2人、コンビだけあって、発想が似てしまうのでしょうか。

それに、運命のイタズラで、ホームレスまで身をやつすのならばともかく、吉本の芸人が半分遊び感覚でホームレスを体験したところで、世間が面白がることはないでしょう。

今では芸人の社会的地位は、大きく向上しました。芸能界の中でも最低ランク、世間からは爪弾きにされ、ヤクザにすら五分のつきあいを断られた昔とは違います。ビートたけしやタモリなどのインテリ芸人の奮闘のお陰もあり、彼らの社会的地位は随分と向上しました。

政治家や大学教授、財界の大物と、お笑い芸人が対等に話すのは当たり前のこの時代、売れっ子芸人と直につながっている若手芸人がホームレスに混じって生活するというのは、大手企業の若手社員から、
「ワタミに社会人になっても入っちゃったよ!」
と自慢するのを聞くような、嫌らしさを感じるのが正直なところでしょう。

たとえばビートたけしがフライデーを襲撃したり、江頭2:50がトルコで局部をもろ出ししたりしたことがありました。それはメディアからは叩かれるものの、大衆の支持を深い所で得て、後日の活躍の礎となりました。

でも、これだけ芸人の地位が向上した今、彼らに求められるハードルも高くなりました。若手芸人が世間の共感を得たいのならば、もっと巨悪に立ち向かうようなことでもしない限り、彼らレジェンドに肩を並べることは難しいでしょう。

いずれにしましても、倫理観の欠如、時代の流れを読み取る能力の欠如は、お笑い芸人としては致命的な欠陥のように思えます。西野氏に才能があることは間違いありません。例えばこの絵本。

彼がこの細密画を描いていることは確かな模様です。

他にもいろいろなイベントを手がけている彼は、才能の塊に思えます。それは確かなものの、自分の才能に溺れて、世間の人々の反感を考慮しない傲慢な姿勢、弱者を踏みつけにすることが面白い、という嗜虐性を今後も露わにするのならば、世間から段々と受容されなくなり、ひっそりと消えていく運命になるでしょう。少々もったいない気はします。


2013年6月6日木曜日

瞑想の方法と私の失敗

以前『スタンフォード大学の自分を変える教室』をたびたびこのブログで紹介しました。その中で著者が意志力強化法として、幾度となく勧めていたのが"瞑想"という技術でした。

日本では宗教アレルギーが強いためか、もともと宗教の中の一つの行法として知られている瞑想という行為について、あまりおおっぴらに語りにくい雰囲気があります。

「私週末にはテニスしている」
と言うことはできるでしょうし、
「ヨガに通っている」
とも気軽に言えるでしょうが、
「毎晩瞑想しています」
と告白するのには勇気が要ります。時には気味悪がられることだって、あるでしょう。

とはいえ、瞑想という行為が大変精神に良い影響を与えることは間違いありません。私も以前から、時間を見つけては日常の中に、瞑想を取り入れるようにしています。これは、確かにリラックスに効果があります。

失敗を繰り返しつつ、実践しながら学んだ瞑想について、わかっていることを簡単に述べてみます。

1.瞑想は睡眠ではない
瞑想も睡眠も、目をつぶって身動きしないという点で似ているため、
「瞑想なんて意味あるの? 寝ればいいじゃない」
と考える人は、多いはずです。かつては私もそうでした。でも、全然違います。

同じように身体を動かしながら水に浮いていても、泳いでいるのと溺れているのとがぜんぜん異なるのと同じくらい、違います。

睡眠中は、意識の全活動がほぼ停止します。ところが、瞑想中には意識は覚醒していなければなりません。言語や、自我、エゴといったものの活動を抑制することで、普段の思考ではアクセス出来ないような、より潜在意識の深い部分と意志を司る理性がつながり、深い智慧を獲得できるところに、瞑想の醍醐味はあります。

はっきりと意識を覚醒させながら、言語による思考活動を抑制する……言うは易く、行うは難し。大変むずかしい行為です。普段、慣れていないからです。それが難しいからこそ、
・呼吸の数を数える
・心臓の鼓動に耳を傾ける
・両手で手を叩くのではなく、片手で手を叩いた時の音を想像する
・種が芽吹き、成長して大木になるまでを想像する
といった、様々な方法が試みられてきました。

瞑想は睡眠ではありません。睡眠とは別の時間を取って、改めて行うことが必要です。

2.瞑想中は身動きしてはいけない
瞑想してみると、いろいろなことが気になってくるものです。たとえば、身体のどこかがむず痒くなることは、よくあります。というのも、人間は実は常に、身体のあちこちに、痒みが生じているものなのです。それを無意識の内に掻いているか、他のことをしているうちに忘れてしまうのに、厄介なことに瞑想中にはできません。そうしますと、余計に気になって、掻きたくてたまらなくなります。

あるいは、身体の凝り。これもまた、普段意識していない部位の凝りが気になって、少しだけ、身動きをしたくなります。

「ほんの少し、掻いたり身体を動かしたりすれば、再び瞑想に集中できるのだから、雑念を生じるものが現れたら、それを解消したっていいじゃない」
と思って、そんな時には一度瞑想を中断して、体を掻いたり、ストレッチをしたりして、それから再び瞑想を始めていた時期も、ありました。

でも、これは間違いですね。むしろ、日常生活において感じないものが身体に現れて、瞑想を邪魔しようとするのならば、それは悟る前の釈迦の前に現れた悪魔のような存在なのです。それに気を取られず、瞑想の姿勢を崩さないこと。これもまた、集中力を養うために必要な行為であり、散漫となりがちな意識を乗り越えることで、よりより瞑想ライフを行えることが、分かって来ました。

瞑想を始めたら、他のことに気を取られてはダメなのです。特に日本では、生命を脅かすウイルスを運ぶような蚊はほとんどいません。痒くても、蚊に刺されても、身動きしてはいけません。ましてや、やらなければならないことを思い出してメモをとる、なんてことは言語道断です。

3.疲れているとき、眠い時に瞑想してはいけない
瞑想するとリラックスすることは確かです。半分ウトウト、半分覚醒。この状態がまた、気持ちがいいのです。朝起きたばかり、あるいは疲れきったときに瞑想することは、疲労回復や睡眠不足解消にちょうどいい、と思っていた時期もありました。

でも、これって、二度寝と同じなんですよね。先述の通り、瞑想は睡眠とは異なります。疲れているのならば、30分ほど仮眠をとればいいし、朝瞑想するならば、一度目を完全に覚ましてから瞑想する必要があります。そうでないと、時間だけが無為に過ぎます。瞑想がもたらす効果も半減してしまいます。

4.一つの方法にこだわらなくてもいい
最近私が瞑想しながら思い浮かべる質問が、
「自分のこの、今の考えは、どのようにして浮かんだのか?」
というものです。

以前は「呼吸を数える」方法を取っていましたが、どうしても雑念が多く生じて、呼吸を数えているつもりが、心のなかで別のことを考え始め、すぐに精神集中が途切れてしまう、という失敗を繰り返していました。

ところが、
「自分の今の考えは、どのようにして浮かんだのか?」
という、言わば公案のようなものに取り組むと、他の雑念が生じなくなりました。

考えてみれば、小さな日本の中ですら、公案という、言葉では語り尽くせない質問に取り組む一派である臨済宗と、ひたすら何も考えずに座り続ける曹洞宗という二大宗派に分かれていたのです。がっしりした体格とひょろ長い体格の人間には、それぞれ向いたスポーツがあるのと同じように、人間の精神活動のあり方もまた、千差万別です。

自分にあった瞑想法を取捨選択しなければ、その効用を知ることができません。

雑念のような、脳のムダなおしゃべりをいかに抑制できるか……テーマは同じでも、人それぞれ、合う方法合わない方法、様々であることを認める必要があります。そして、自分に一番合った方法を、選べばいいのです。何か一つの方法にこだわって、
「ああ、おれは精神統一ができない。ダメな人間だ」
などと悩むことほど、ムダなことはありません。


ほんの少しの時間でかまいません。毎日、必ず瞑想するようになれば、私たちは、より精神的に余裕を持って生活できるようになります。ほんの少しの進歩は、ほんの少しの実践で成し遂げられるの。ぜひ、日常生活の中に瞑想を取り入れてください。

気軽に座り、心を落ち着けて座れば、いずれ効用を実感できるようになるでしょう。