2015年2月26日木曜日

正しい判断は公開された議論から生まれる

カール・セーガンといえば、啓蒙科学者として著名な人物だ。「コスモス」という宇宙のドキュメンタリー番組を作り、その作品は世界中で放映されたために、今でも世界的な知名度がある。また、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』という本でも有名で、一時期大量に売れたためか、ブックオフや古書店を回ると、彼の本がよく出回っている。

彼が1996年に亡くなるまで、終世批判を続けたのが「エセ科学」と言われるものだ。科学的な見かけをしているが、再現性が無かったり根拠が無かったりと、様々な理由で科学としては認められないものは世間に多い。水に優しい言葉をかけ続けたら美しい結晶が水の中に出来る、という『水からの伝言』や「ホメオパシー」などにまつわるものが、その典型だろうか。

既知の科学だけではわからないものがある、ということを少しでも信じている人間(私もその一人)は、この手のエセ科学にだまされやすいところがあるから、注意しなければならない。科学的であろう、まともであろう、という姿勢と、形而上のものへの信頼を両立させるためには、慎重である必要がある。

その点で面白いと思ったのが、下記記事で紹介されていた、カール・セーガンがエセ科学を見抜くための基準である。

★ 天体物理学カール・セーガンに学ぶ、物事を正確に見抜くテクニック


カール・セーガンは、上記記事で、「トンデモ話検出キット」というタイトルでエセ科学を診断するための方法を述べている。要約したのを下記に列挙してみた。
  • 提示された事実が本当かどうかをまず疑う。
  • 裏づけとなる証拠をたくさん取る。
  • 証拠は自分だけではなく、様々な人々と議論をして判断する。
  • 「権威はない。専門家がいるだけ」とわりきる。
  • 仮説は一つだけではなく、ありったけ立てる努力をする。
  • 自分の仮説を片っ端から反証してみる。
  • 自説に固執せず、自説を捨てることを考える
これだけできれば確かに間違った判断をすることはなくなりそうだが、人はめんどくさがり屋だから、それがなかなかできない。

事実を様々な立場の人の間で意見してもらうことは大切だ。「三人寄れば文殊の知恵」という。自分だけではわからないことが他人にはすぐに分かることが世の中には多いからだ。

エセ科学のようなものを信奉する人間は批判を嫌うし、詐欺師のたぐいは批判を巧みにかわそうとする。特に意図的な詐欺師は、公開された討論よりも個々のやりとりを好み、相手が詐欺師への批判者と交流することを、あの手この手で邪魔しようとする。

先日とある人物と交流をしていたとき、似たような経験をした。彼は私に、彼が敵対する人と「関わるな」「彼は嘘つきだ」と言い、「このやりとりを公表するな」と言ってとにかく情報の囲い込みを図る人物だった。ところが、後になって彼自身も裏で汚いことをやっていたのが発覚した。

彼からのメールは受信拒否にして今に至るが、このようなことは皆さんも経験したことがあるのではないだろうか。

正しい判断を行なうのは、それを妨げる人々と戦う必要がある。



2015年2月24日火曜日

『「殉愛」の真実』を読んだ(ネタバレ注意)

※この記事には作品のネタバレがあるため、これから『「殉愛」の真実』を読もうとする方は本日の記事を読まないほうがいいかもしれません。

百田尚樹の書いた『殉愛』は33万部を超えるベストセラーだが、発表当時から様々な批判を集めていた。「最後を見とった奥さんのさくらを美化し過ぎている」「家族や親戚を貶めている」などなど。

読み通していない私だったが、様々な媒体に引用された内容を知って、批判をされて当然だと感じた。百田によると、たかじんの娘は銭ゲバで父への愛情の欠片もなかったという。その証拠として、本では、父から食道がんと知らされた際の「何や食道がんかいな、自業自得やな」というメールが紹介されている。

これを娘の悪辣さの証拠、としている百田の感性を私は疑った。心置きなく悪口を言い合えるような親子関係が関西では珍しくないのは、百田尚樹ならばよく知っているはず。深刻な病気の告白を軽く受け流しただけかもしれない。なぜこれを娘の非道の証拠として紹介しなきゃならなかったのか?

ところがそのあと、作品がデタラメばかりだという悪評が出てくる出てくる。妻さくらを初婚のように本では紹介しているけれども、実はバツ1ではないのか、とか、いや、バツ2だろうとか。あるいはさくらがたかじんのメモを偽造したんじゃないか、とか。

ネット上の噂には嘘も多いがネットにしかない真実も多い。真実かどうかは読んでいればだいたい分かるが、私はさくらが以前書いていたブログ記事などを読むうちに、こりゃ、さくらという人物、真っ黒だな、と思うようになった。彼女はたかじんの遺産を食いものにするためにたかじんに食い込んだんだろうと。

ところが唯一解せないところがあった。彼女の写真を観ても、何年もかけて著名人を籠絡するような人間に思えない。


優しげで華奢な印象を覚える。

まあ、私という人間は面倒くさがりで、これから関わろうと思わない相手の第一印象に関してはいい加減で当たった試しはないのだけれども、私以外のほとんどの人だって、彼女を「真面目で気さくな女性」としか認識しないのではないか。

とかく、彼女の写真から伺える人柄と、伝え聞く行動にギャップがありすぎる。

そこが唯一の疑問点だが、昨日『「殉愛」の真実』を読んで疑問が氷解した。



この本の凄いところは、ネットでささやかれていた数々の噂の裏づけを丁寧におこなっている点だ。家鋪さくらというたかじんの元妻は、たかじんと結婚するまですでに離婚を3回も経験していた。

それだけではなくアダルトビデオ製作会社の社長の愛人までしていた。それが明確なのは、家鋪さくらがAV会社社長を、「別れた後もストーカー被害を受けている」と告訴したから。その際に元夫に証拠集めの協力を依頼していたという確たる証拠があるから、彼女が愛人契約をしていたというのは100%間違いない。

この本でもっとも重要な証言は、元夫のアメリカ人男性の告白だと思う。家鋪さくらは多重人格で、会話の途中で突然男の声に変わり、元夫を罵倒して、しばらくすると再びいつものさくらに戻り、男の声で罵倒していたときの記憶を一切失っている、という重要な告白がなされている。

多重人格者が著名人を籠絡して周囲と連絡を遮断、ベストセラー作家と組んで著名人の財産をすべて奪おうと画策するなんて、こんなの小説の設定だったら出来すぎだろう。

少し読んだらやめようと思っていたのに、下手なホラー小説を読むよりも面白くて、ページをめくる手が止まらなかった。
「次はいったいどうなるんだ?」
「どんな証拠が出てくるのか?」
とね。

それ以外にも、彼女が詐欺師だということがわかるさまざまな証拠が挙げられている。

なかには筆者の勇み足もある。
「彼だったらこんなことは言わない、だからさくらは嘘つきだ」
という論理構成に、無理があると思われるものも若干ある。しかし、弱点を上回る数々の証拠があるので、家鋪さくらと百田尚樹の悪辣振りは最早明らかだ。

新宿紀伊國屋でこの本を探したのだが、なんと2階に平積みで、5冊しか置かれていなかった。

出版社はこぞってベストセラー作家の百田尚樹を守ろうとしているらしく、出版社の意向を組んでか、書店もこの作品をママコ扱いするつもりなのかもしれない。書店側も「百田尚樹」という売れる作家を失うのは惜しかろう。彼らは積極的に売らないのではないだろうか。この本だけ売れても、未だ売れ続けている百田尚樹の本が売れなくなれば書店にとっては大損害だから。

実はこの本の陳列棚の前でたたずんでいたときも、少し離れた場所に置かれていた百田尚樹の本について、カップルが話しているのを偶然聞いていた。男が女に『永遠の0』がなぜ素晴らしいのか力説して、彼女に本を読むように力説していた。

「角を矯めて牛を殺す」という格言があるが、書店もその愚は犯したくなかろう。

だから、この本は、いつの間にやら新刊の中に埋もれて消え去る運命となるやもしれず、買おうと思っても買えない、ということにもなりかねない。興味のある方は早めに買うべきではないかと思う。










2015年2月22日日曜日

知っていることをまくし立てるのが説明ではない

妻の説明を「要領を得ない、わかりにくい」とけなし、自分の説明を得意がる夫の勘違いぶりが面白かったので、この問題について述べてみたい。

★ 医師「どうしました?」 嫁「子供の下痢が酷くて熱もあるんです!食べてもすぐもどしちゃうし」 俺(解りづらい説明乙!)
子供(2)が発熱、嘔吐、下痢の三重苦で病院に行った時の話

医師「どうしました?」
嫁「下痢がひどくて、熱もあるんです!食べてもすぐもどしちゃうし…」
俺(解りづらい説明乙…)
医師「えぇと…」
俺(説明しよう!)

俺「金曜日の夜から調子悪くなって、夜中に嘔吐2回、熱は8度3分。水のような便。
土曜日…、昨日は8度5分で、終日食事はとろうとせず、イチゴなどを食べさせましたが、すぐ嘔吐。併せて水のような便。
本日午前中は、8度3分で、ビスケット数枚とイチゴを食べて嘔吐無し。相変わらず、水のような便。
脱水症状防止のため、赤ちゃん用のスポドリを飲ませるようにしています。
ノロ…ですかね?牡蠣とかは食べさせてませんが…」
医師「わかりました」

その後、医師が今後の対応について話すとき、座っている嫁と、立って子供(0)をあやしている俺と、交互に見ながら説明していてちょっと申し訳なかった…
時系列にそって説明とかできないんですかね。国文学科?かなにか、文系のはずなのに
理系の方が向いているなのかな?経緯とか比較とか…

俺自身は、職業的に『状況の説明』とかの訓練を受けているので、比較はできないのかもしれませんが。
仕事をしていて、この手の男性から話を聞かされることがよくある。そしてイライラとさせられる。

相談を受ける場合に、いろいろなケースを想定しながら慎重に話を進めたい。だから、回答は短く要領よくおこなってほしい。あとはこちらの質問に答えてくれるのが一番ありがたい。

ところが件の夫のように、知っていることをまくし立てられると、その情報を理解して、夾雑物を抜き取り、それから判断しなければいけない。それも短時間に。この手の人間はたいてい短気だから、こちらが素早く判断しないと、今度はこちらをバカ扱いする。

「あんた、俺が今説明しただろ? 話を聞いていないの?」

(あんたのムダな説明をだらだら聞く気はこちらにないよ。しかも必要な情報が入っていないじゃないか)

と言いたい気持ちをぐっとこらえて、にこやかに彼に応対するのはなかなか骨が折れる。

冒頭のやりとりでも、何を食べたのかとか、体温の細かな数字など、不必要な数字がいくつもある。 ノロかどうかの判断も、医師がするものなので、余計な素人判断だ。

「金曜日の夜中に嘔吐と水のような下痢が始まり、38.3度の熱が出ました。翌日の土曜日も症状が収まらず、ビスケットなどを食べさせても嘔吐するので、丸一日何も食べられませんでした。今日午前中は吐き気はなく食欲も戻りましたが、熱と下痢の症状が止まらないためにお医者様に伺いました。今は赤ちゃん用のスポーツドリンクだけ、飲ませています。牡蠣とかは食べさせてませんが…」
ということを、聞かれながら答えれば済むではないか。体温などの数字は、医師から聞かれれば答えればいい。どうせ病院では、再び体温を測るのだから。

自分の知っていることをすべて言えばいいと思っている自称優秀な人間はこの社会に多い。彼らは、自分が馬鹿であることになかなか気づかない。「説明」とは相手の理解に応じて行なうものなのに、相手の理解度を図ろうとしない、そこまで頭が回らないという点で彼らは馬鹿であり、自己を客観視出来ないという点でも馬鹿なのだろう。

かくいう私にも、知っていることをまくしたてる傾向があるから、他山の石とせねばなるまいて。

2015年2月20日金曜日

曽野綾子の醜態に作家の特権が失われゆくさまを見た気がした

曽野綾子のコラムが物議をかもして10日経つ。

キッカケは2/11付の産経新聞のコラム「透明な歳月の光」だ。以下の記事でコラム全文が読める。

★ 【追記あり】産経新聞、今度は曽野綾子が人種差別(アパルトヘイト)を肯定するトンデモ全開コラムを掲載

彼女はコラムの中で「移民の身分は日本人と法的に厳密に区別すべきだ」と説き、同時に、南アフリカ共和国の「実例」を紹介した上で、「居住区は人種ごとに分けて住むべきだ」と主張した。

これに批判が殺到したところ、彼女は下記のように弁明。

★ 曽野綾子氏「アパルトヘイト称揚してない」
私はブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て、今回、まちがった情報に基づいて興奮している人々を知りました。
私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう。
さらには荻上チキという評論家と対談して、以下のように解答をしている。

★ 荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし
曽野:はい、あの区別で、差別をしなさいなんて全然言っていないんです。
荻上:日常の中のそうした配慮を区別とおっしゃっていると。
曽野:日常の穏やかなにね、そして相手の立場を持って大人げを持って認めると言うのが私は良いと思っていますよ。
差別を区別と言い換えるのは差別主義者の常套手段だけれども、それを指摘されても彼女は自分の過ちを認めない。
 南アフリカ共和国の駐日大使などが下記のように抗議している。

★ 曽野氏コラムで南ア駐日大使が本紙に抗議

このまま産経新聞も放置しておくわけにはいかないのではないか。彼女に謝罪をさせるか、コラムニスト自体を降りてもらうか、を迫られるだろう。そして、曽野綾子はすでに地位もカネもある人物だから、謝罪をすることもないだろうから、コラムニストを自主的に降板するんじゃなかろうか。

そしてまた日をおいて、『正論』などに今回の騒動の総括をおこない、言論の自由が失われつつある世の中を嘆いてみせるものの、産経新聞とは影響力は段違いだから、特に話題になることもなく、そのまま彼女は忘れられていくような気がしている。彼女ももう、83歳だし。

私のこの件に関する意見を述べる。

彼女はずいぶんと不誠実だ、というのが最初の印象だ。昔から彼女とは同じ保守思想に属しているはずなのに、どうにも賛同できないことが多かった。その理由は、狭い知見をもとにした、彼女の押しつけがましい論の建て方にあった。

たとえば彼女は若いころ、アフリカで貧困生活を現地の人に混じって体験したことがあり(一種の冒険を昔したことがあったため)、
「私と同じ経験をあなた方、したことないでしょ? それなら私の言うことをそのまま受け止めなさい」
と主張する、そんな内容のコラムを読んだことがある。似たような暴論で、なおかつ内容が偏ったものが彼女には昔から多かった。

今回の話も、ヨハネスブルグのマンションに黒人が大勢転居したために白人が逃げ出した、という一例をもって、人種が一緒に住むことはむずかしいと一般論に仕立てあげるのは明らかに論理の飛躍だ(なぜなら人種が共存しているニューヨークなどの大都会がたくさんあるのだから)。そのうえ住居を別にすべきという主張の傍証に、自然に人種が分離したチャイナタウンなどを証拠と挙げるのも卑怯だろう。だったら自然に任せればいいだけである。彼女が主張することはなにもない。

そしてもう一つ。この騒動で私が考えたのが、作家の特権の暴落についてだった。

もはや「作家の特権」は有名無実化しているのかもしれない。

昔は言論を社会に問うことの出来る人間は限られていた。作家はそのような特権階級の一つであり、新聞や書籍などの媒体を使って世の中に意見を問うことが可能な数少ない人種だった。だから、作家には道義から逸脱した言論を吐く権利があると、社会的に認められていたし、作家がそう主張しても、それに違和感を感じなかった。

当時は政治家や官僚などの力が今よりも数倍強かったから、彼らにペン一本で異議申立てするのも今とは比べ物にならないほどの勇気が必要だった。だからそれをする作家に、人々は声援を送ったし、彼らに倫理を逸脱する「特権」が許されていたように思う。

ところがもう、時代が違う。彼女が触れていなかったというインターネットで、誰もが発言をできる時代だ。もはや作家に、今までと同じような特権を与える理由がない。

それに、権利には義務がともなう。特権だったならなおさらだ。作家が特権を主張するならば、彼らはそれに見合ったノーブレス・オブリージュ(聖なる義務)を行使しなければならないのだが、日本の作家がここ数10年、義務を果たしてきたといえるだろうか?

たとえば昔だったら、「四畳半襖の下張事件」という有名な刑事事件があった。当時は権力がとかく人民の自由な表現を邪魔しようとうるさかったから、こうした風潮に噛み付いて、自由に作家活動ができるようにするべきで、読者にもそれを読む権利がある、という作家たちの意見表明に人々は拍手喝采を送ったものだった。こうした言論の自由を守る活動が、作家の特権を支えてきたといっていい。

ところが今、こうした活動をおこなう著名作家は少ない。特に現代社会では企業の力が肥大化しているが、あいも変わらず政治批判をすれば権力に反抗していると考えている方が多いのではないか。名誉毀損などで裁判を起こされるから、企業に刃向かう方がよほど困難、知名度のある作家には頑張って欲しいところだけど、彼らが一丸となって企業に立ち向かう、というような話はあまりない。

いたとしても論の建て方に緻密さがないために、読者に簡単に見切られるようになって、ますます彼らの特権が失われつつあるように思える。もちろん良心的な作家も大勢いるのだが、声が小さく、社会を大きく動かすに至っていないように思う。

曽野綾子が、「私は作家だから」とか「書きたいと思ったら、その時静かに書かせていただきます。それだけのことです」などと、作家としての自負を見せても、もはや形骸化した作家の特権に固執する様に感じられてただ、醜悪なのだ。それに気づかずに自分が特権階級だと思い込んでいる彼女に哀れさを感じてしまって、そのことに愕然としたのだった。



2015年2月18日水曜日

最初の謝罪は直接会うほうがよろしかろう

岡田斗司夫ネタでまだ引っ張っているから、興味のない方は読まない方がいいだろう。

さて、岡田斗司夫が高須克弥医師を怒らせた際の対応について、今回は述べたいと思う。

岡田斗司夫がダイエットネタで人気を博していたときに、高須医師との対談で脂肪吸引手術を了承しながらドタキャンする、という騒動があり、それが最近になって再び騒動となったのは先日ご紹介したとおり。

私が気になるのは次の箇所だ。

★ 高須 克弥さま  お詫びと、経緯説明を申し上げます。
新潮社からは「広告出稿の件もあるので、こちらから手術の件はお断りします。ビジネスがらみになりますので、以後は任せてください。岡田さんから高須先生に直に連絡しないようにしてください」と言われました。
その時に、すぐに僕から直に高須先生に謝罪すべきでした。
しかし、後藤氏より「岡田さんが謝ると、人間味がないのでますますこじれる」と遠回しに言われ、自分でもそんな気がしたので、お任せしてしまいました。
 この部分である。

私は以前、橘玲の『臆病者のための裁判入門 (文春新書)』という本を読んで以来、交通事故でもめている人々のブログや、雑誌の記事、書籍の体験談などに気をつけるようにしている。

交通事故では、被害者は突然の事故によって大変な苦しみを受けることになる。加害者は当然、それに対してお詫びしようとするのだが、最近の損害保険会社は、それを押しとどめることが多いようだ。

「あなたが行っても解決しないから」
「むしろ被害者の感情を悪化させてしまう」
などと言って、加害者がすぐにでも被害者のもとを訪れて謝罪するのを押しとどめようとする。

これには理由がある。損害保険会社が示談交渉をおこなう場合に、加害者と被害者が直接やりとりされると困る。冷静な判断のもとで、法律上で許される裁定ラインで保障額を算定しようとするのを、被害者に拒まれることがある。そのときに、損害保険会社では埒があかないとなると、加害者に直接精神的な揺さぶりをかける被害者がいる。そのようなことになっては加害者側にとって大きなリスクとなるから、それを避けたい、という判断のようだ。

ところが、加害者側が一度たりとも被害者に顔を合わせないようなケースも、最近は多いという。損害保険会社がそう指示するからだ。しかしそれはあまりにも極端だろう、と思う。現にそのようなケースでは、被害者側の感情がこじれて、解決に何年も掛かる場合がある。

損保会社の指示で加害者が被害者に顔を合わせなかったがために、問題がこじれたとしても、それが統計に現れることはないだろう。損保会社側の判断ミスになるし、因果関係がはっきりしないものをわざわざ報告するとも思えないからだ。だから実態は分からないが、最初から加害者が謝っていれば済んだことも、案外多いのではないかしらん。

離婚についても似たような話がある。

夫に何の非がないにも関わらず、妻側から離婚を切り出す場合がある。そういう場合に限って妻は、「夫とは二度と会いたくない」と主張して、弁護士だけが夫に会うケースが多いようだ。それを弁護士が指示するからだ。

当然夫は納得しない。一度でもいいから会おうと言っても、妻はそれを拒否する。自分に非があるから、責められたくない、という自己保身のためだろうか。

沢尻エリカがそれで揉めて、結局夫の高城剛との間で、数年に渡る離婚劇を繰り広げることになった。最近では中山美穂がそれに当たるかもしれない。

謝罪の意思を直接確認したいというのは人間の性だろう。面と向かって言われないと、納得出来ないというのはよくわかる。もともとネット上のつきあいならばともかく、最初からリアルで出会っておきながら、肝心要で会うことが出来ないと、人は裏切られたと感じる。ましてや加害者の謝罪をや。

交通事故の被害者がどう豹変するかわからないし、非のない夫からどう罵られるかわからない、という恐怖があるのも分かる。しかし、相手が暴力気質だと判明しているのでもない限り、やはり道義的には一度は直接会って、謝罪などの意志を伝えるべきじゃないだろうか。それで相手も納得することが多い。

一度目の謝罪に直接訪問するかどうかの判断において、仲介者の言うことに唯々諾々と従うべきじゃない。なぜなら彼らは結局自分の立場を第一で行動しているから。決してこちら側の意図を汲んでいるわけではないからだ。損保会社も弁護士も、最終的に守りたいのは自己の利益だ。損保会社は慰謝料が高額になって欲しくないし、弁護士も和解されて離婚訴訟費用が入らないことはなんとしても避けねばならない。

岡田斗司夫の件でも、高須医師が広告宣伝費を出してくれるか、出さないにしても対談原稿を掲載させてくれるかが問題であり、どちらもダメだったとしたら、せめて新潮社側が火の粉をかぶらないようにしたい、というのが新潮社の意思であっただろう。岡田斗司夫が最終的に高須医師に恨まれようがどうしようがどうでもいいのである(と言うと、新潮社の後藤氏にやや申し訳ないが)。

「会って話をしたい」
などと凄む相手はたいてい輩の類なので、その誘いにホイホイのらないことは大切だ。しかし事件の加害者となったりこちらに非があって離婚を進めたい場合は、やはり一度は会って話すべきだろう。心から謝罪をして、それでも納得しないならば、そこから第三者に間に入ってもらえばいいのだ。



2015年2月16日月曜日

サイコパスは軽口のなかでも真実を明かさない

岡田斗司夫がサイコパスであることは明白なんじゃないかと思っている。

ウィキペディアによれば、犯罪心理学者のロバート・D・ヘアはサイコパスを以下のように定義している。それが岡田斗司夫にどう当てはまるかも書いてみた。
  • 良心が異常に欠如している……文章盗用や不倫騒動など
  • 他者に冷淡で共感しない………捨てた女への態度
  • 慢性的に平然と嘘をつく………岡田斗司夫の普段の行動のとおり
  • 行動に対する責任が全く取れない……美容手術ドタキャン騒動の放置
  • 罪悪感が皆無……罪を問われても言い逃れするばかり。
  • 自尊心が過大で自己中心的……彼のいつも態度
  • 口が達者で表面は魅力的……彼の特徴そのもの
「別の言い方をすると、他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく、社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う」
とか、他にも「 乱交的な性関係」だとか「寄生虫的な生活様式」だとか、岡田斗司夫の特徴そのものがサイコパスの特徴としてずばり書いている。

岡田斗司夫がサイコパスでなければ何なのか? という話だ。

似たような人間として有名なのが田中真紀子氏だろうか。彼女も平気で嘘をつき、口が達者で表面は魅力的であり、それでいながらお手伝いさんの女性を素っ裸で母屋の階段を昇り降りさせたり、雨の中、玉砂利の上で正座させて謝まらされた、などの過去が週刊誌で暴露されていた。報道のとおりならば、彼女も典型的なサイコパスと言える。

さて、岡田斗司夫と田中真紀子の二人には、似たような名言がある。岡田氏の名言はネット上の動画での軽口的な応答から。田中氏の名言は、身近に人に叩いた軽口が漏れ聞こえてきたものから。

「俺は、俺以外の人間はすべて犬とか虫に見える。それが人生観」……岡田斗司夫
「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」……田中真紀子

私はこれまで、彼らのこのセリフは軽口だからこそ彼らの本心を表していると思っていた。だが、前回の記事を書くうちに、どうやら違うな、と考え始めている。彼らにとっては、それ以外の人間がいるのに、それを慎重に隠しているだけなんじゃないのか、と。

岡田斗司夫の場合は、高須克弥がそれにあたる。彼は岡田氏にとって虫けらだろうか? 謝罪の慌てぶりからすれば、決してそうは思えない。虫けら相手にあれほど真摯な対応をするだろうか? 彼が評論家の竹熊健太郎相手に見せた態度とは雲泥の差ではないか。

違うね。虫けら以外の人間だと思っているから、彼は異なる対応を取るのである。

それでは、「俺以外の人間はすべて犬とか虫に見える」という言葉には嘘が混じっているのだろうか? たぶん、そうだ。

私はかつて、サイコパスだろうと思われる上司の下で働いていたことは、このブログを以前から読んで頂いていた方はすでにご存知かもしれない。初めての方に改めて説明すると、彼は学生時代に暴力沙汰で警察の世話になったことを自慢していたり、愛人を10人近く常に抱えていたり、複数回の離婚歴があったり、部下をしょっちゅう殴りつけたり(私も被害にあった)、部下を鬱病で自殺未遂に追い込んだりと、「現実的で長期的な計画の欠如」以外のサイコパスの特徴をすべて兼ね備えているという人物だった(それに典型的な嘘つきだったしね)。

で、だ。

彼の行動を間近でみてきて面白かったのは、彼は利益のためならば、いくらでも下手に出ることが出来る人間でもあった。決して自己中心一辺倒ではなく、上下関係を一見、尊重するふりをするのだ。とはいえ、体育会系の上下関係とは明らかに異なっていた。

面倒見がいい人間、自分が取り行って得になる人間には徹底的に尽くす。その中でも自分をかわいがってくれる相手には常に平身低頭、どんなお願いでも聞いた。特に、権力を振りかざす、敵に回すと怖いタイプの人間との相性が抜群によくて、下手すりゃ夜のお供までしたんじゃないか? というくらい、卑屈になることが出来た。

ところが地位が上の人間でも、公平な人間や力のない人間に対しては、
「あいつは情がない人間だ」
とか、
「彼には挨拶だけしていればいい。そこそこつきあってりゃいいんだ」
と言って、敬意を払うふりをするだけ。彼にとっては、自分をかわいがってくれる人間だけが「情のある人間」であり、利用価値の無い人間を敬うことなど、考えられもしなかった。

この、「利用価値のある人間」や「敵に回すと怖い人間」へ極端に卑屈になるという特徴は、サイコパスの診断表にはまったく出てこないが、サイコパスの特徴の一つとして加えてもいいんじゃないだろうか。

ところが彼らは、自分よりも上の人間が存在する、ということを認めたがらず知られないようにしたがる。
「俺が一番」
「他の奴らは無能」
と威張るのが好きで、自己中心的だから、なによりも自分を敬ってほしい、崇め奉ってほしいと思っているから、「利用価値があって逆らってはいけない上位者」がいる、という事実を認めたがらない。口にしたくない。だから軽口で漏らした人間分類ですら、それを含めないのだ。

それで済むのは、自尊心のある人間ならば、岡田斗司夫が「自分以外はみんな虫」と公言しようが、自分のことを虫けらとは思っていないからだろうか。
「ああ、彼も馬鹿なことを言っているな」
としか思わず、岡田氏が自分のことを馬鹿にしていると考えて怒ることもない。

逆に独裁者タイプの人間にしてみると、他人には傍若無人な人間が自分にだけ擦り寄ると、
「他人には威張っているくせに、俺にはなつきやがって。うい奴じゃ」
と思って逆に可愛いと感じるんじゃないだろうか(気持ち悪いけれども)。

話を整理しよう。
  • サイコパスは、人間を(田中真紀子の分類法を利用するならば)「敵」「家族(または愛人)」「奴隷」の三種類に分類すると公言することがある。
  • しかしもう一つ「利用価値のある上位者」という分類があるが、そのことを公言しない。
  • 周りの人間には自分だけに注目して欲しいのと、上位者に「利用価値があるから媚びへつらっている」とバレるのが怖いからだ。
  • よって周囲は、この手の人間の「自分以外はみんな虫」という言葉を信用しない方がいい。それ以外の分類があることを隠しているだけだから。基本、彼の言葉には嘘が塗り込められていると疑ってかかった方がいい。
ということである。

それと、もう一つ悟ったことがあるが、これもテーマが異なるので別記事にして明後日辺りにアップしようと思う。






2015年2月15日日曜日

岡田斗司夫はなぜ高須克也氏には謝ったのか?

評論家の岡田斗司夫が、一時期ダイエットに成功してバラエティー番組にひっぱりだこになっていたことを覚えていらっしゃる方は多いはずだ。

ただ、ダイエットにはリバウンドの危険性が常に付いて回る(岡田氏も後でリバウンドした)。

ダイエット成功発表直後の2008年に、たまたま雑誌の企画で対談した美容外科医の高須克弥はそれを見越して、
「この際だから肥満再発予防のため、脂肪細胞を吸引してしまおう」
と岡田に提案したらしい。しかし岡田斗司夫は一度受けたその話を手術前になってドタキャンした、という事件があったらしい。

それが今頃になって明らかとなったのは、最近カネに困った岡田が、高須医師に借金の無心をしたために高須医師が怒りを爆発させて数年前のこの件を週刊誌で暴露したからだ。

★ 高須院長が激怒!「岡田斗司夫が金銭的援助を求めてきた」
高須:そう、あり得ないよね。よし、そのメッセージを見せてあげよう!(スマートフォンでフェイスブックを開き、岡田斗司夫氏からのメッセージを見せる高須院長)今回の女性問題で、岡田斗司夫が作ってた女性の格付けリストがネットに流れたでしょ。女性たちのために、それを削除したいってことらしくて。弁護士費用がかかるから、数百万円を援助してくれないか、という内容なんだよ。
「数百万円の貯金もないのか?!」
という批判の声がネット上で飛び交っているけれども、その批判に私は与しない。岡田氏が借金でここを乗り越えようとする気持ちは不思議ではないからだ。

仮にもあれだけの著作をヒットさせている男だ。数百万円の貯金は当然あるだろう。しかし、イレギュラーな高額出費のために貯金を切り崩してはならない、と判断したが故の行動だろうし、その判断は正しい。

借金をしてでも貯金に手を出さない、というのはカネを貯める人間にとっての鉄則だ。これは貯金の不思議な性質であり、詳しくは藤田田の著作「ユダヤの商法―世界経済を動かす (ワニの本 197) 」などに書かれているので、ご興味のある方は読んでみられてはどうだろう。それに財務的には、手元に自由になる現金が常にあることも重要。キャッシュフロー経営という言葉でお調べになれば、なぜそれが大切かがお分かりになるだろう。

ただ、この状況で、自分が以前迷惑をかけた人間に借金を申し込むという行動を理解するのは難しいだろう。しかしよくよく考えてもらえれば、極めて彼らしいと言えるはずだ。

彼は身勝手な人間で自分のことしか考えない。当然今、謝罪することが自分にとって有利だからそうするのだろう。そしてどん底の状態こそ、多くの人と和解するチャンスなのは間違いない。というのも、それは卑屈になれる数少ないチャンスだからだ。

怒らせた相手に謝罪するのは、不必要なリスクを抱え込まないためにも必要な行為だが、謝罪をするには下手に出なければならない。ところが岡田斗司夫という男はたいへんプライドが高い。たとえ自分に非があろうとも、相手に媚びたり卑屈な態度を取ったりすることは我慢できない。これまでもなんとかして言い逃れようとしてきた。

しかし、損得勘定に長けた男だから、カネのためだったら卑屈になれる。そしてそのことを、
「利益のために卑屈になるのは心が位負けらしているのではないから、いくらでも頭を下げる。そんな自分は他人から見ればカッコいい」
とでも考えているんだろう。

この手の傍若無人な人間は、「気にしない」と強がりながら実は人一倍外面を気にする。だから自分が他人に謝罪することで、自分が謝罪した相手よりも下に見られることに我慢できない。この手の男は、人間関係を上下関係でしかとらえないから、自分が他人よりも下の人間だと思われることをはなはだしく嫌う。

ところが現在四面楚歌、窮状にいることは誰しも認めるところだから、謝罪したことが世間に後日バレても、暴落した自分の株は、下げ止まりしていてこれ以上下がらないと踏んだのだろう。

それに、謝罪した相手よりも格が下だからなのか、窮状のせいなのか、それとも借金のために頭を下げたのか、世間は判断できまい、とも考えたのだろう。

様々な計算が働いた結果、高須医師に借金の申し出をしたのだろうが、いかんせん相手が悪かった。高須医師は全て見抜いた上で、岡田氏のメールを先に世間に暴露してしまったのだから。

私信の公開は違法だから、高須医師もずいぶんとリスクの高い行動をとっている。岡田氏が訴えれば高須医師にとってはダメージだろう。しかし岡田氏は訴えまい。訴えれば余計に自分の首をしめることになるからだ。非のある人間が居直るのを許すほど、世間は甘くない。

親告罪だから岡田氏が訴えなければ高須氏の罪を問われることはない。世間的には私信の公開はそれほどの罪だとは思われていないし(だから世間ではメールを平気でネット上で公開している人が多い)、高須氏はオープンな人間で、私信の公開を批判しながら陰口を叩いてきたエセ評論家とは異なるから、高須氏が責められることもなかろう。

そこまで見越しての高須医師の行動だったのだろうが、さすがだね。お見事である。

それに対して岡田氏、早々白旗を上げた。

★ 高須 克弥さま  お詫びと、経緯説明を申し上げます。(岡田氏のFacebookより)
その時に、すぐに僕から直に高須先生に謝罪すべきでした。しかし、後藤氏より「岡田さんが謝ると、人間味がないのでますますこじれる」と遠回しに言われ、自分でもそんな気がしたので、お任せしてしまいました。
編集さんの影にコソコソ隠れたりせず、まず、キャンセルを自分でも伝えればよかったと、今でも後悔しています。
その後、トラブルになっていると聞いたときも、編集さんに任せるだけでは無く、自分なりに誠意をもって謝るべきだった、と痛感しています。
ずいぶん殊勝じゃないか、と面食らった。乱交暴露騒動のあとの公開の場で、
「俺は、俺以外の人間はすべて犬とか虫に見える。それが人生観」
と言い放ったり、竹熊健太郎氏の盗作疑惑批判に対して、
「それが竹熊さんのあつかましいところでさ、あの当時、マンガファンみんな知ってたことじゃん。『オタク学入門』に全く新しい知見なんかないんだよ。」
「今更言うところも含めて、竹熊さんちっちぇえ」
と軽侮してみせた岡田氏と同一人物とはとても思えない。

何なんだろうね? この人……とつらつらと考えているうちに分かったことがある。この手の詐欺師の言葉に、誰もが左右されていたという事実だ。

記事が長くなったので、詳しいことは次の記事で書こう。普段は隔日連載だが、ひとつづきの記事は間を空けない方がいいから、明日記事を書こうと思う。

2015年2月13日金曜日

バレンタインデーで男からチョコを貰うことが普通になるかも

2/14はバレンタインデーだ。女性が思っている以上に、男性はチョコレートをもらうと嬉しいものだ。義理であってもぜひ、お近くの男性にチョコを渡していただきたいと思う。

別に意中の女性や絶世の美女からでなくとも、異性から好まれているというだけで私は嬉しい気持ちになるし、たいていの男性はそうだろう。

とはいえ、なかには偏狭な男性もいるのはたしかだ。好きでもない女性、気に入らない女性からチョコレートをもらうことを嫌がり、それを露骨に顔に出す男もいる。性格が悪い奴らで、まともじゃない、と思う。

……とはいえ、そういう自分は果たしてまともだろうか? と下記の記事を読んで考えた。

★ 同性カップルに結婚相当証明書 東京・渋谷区
東京・渋谷区は、同性のカップルに「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行する新たな条例案をまとめ、来月の区議会に提出することになりました。
区は証明書を持つカップルを結婚と同等に扱うよう区内の事業者などに求める方針で、条例が成立すれば全国でも例がないということです。
同性愛を異性愛と同じように認め祝福するのが欧米先進国のトレンドだ。同じ文明圏に属する日本でも、これがやがてスタンダードになるのだろう。

さて、そのときに、たとえばバレンタインデーで、私が男性からチョコレートをおおっぴらにもらうことが数年後には当たり前になるのかもしれない。そう考えたときに、正直生理的な嫌悪感を感じた。ホモからチョコレートをもらうなんて!

ふいに、昔観た映画を思い出した。

あれはテレビドラマだったかもしれない。

アメリカの白人老夫婦の偏見がテーマだ。彼らは今でも人種差別を当然と思う、古い南部の田舎町に住んでいる。同じような価値観を持つ老人同士で意気軒昂に黒人差別で盛り上がる。現実に彼らが黒人を侮辱する行為に出ることはない。その場所はあまりに田舎なので黒人がいなかったため、それが通用していただけなのだ。ところがとうとうこの街にも黒人が移住してくるようになった。

そこで悲喜劇が起こるのだが、主人公である老夫婦も、やむを得ず黒人とつき合わざるを得なくなる。そしてある事件(なんだったか忘れた)をきっかけに、夫は黒人差別が間違っていることを悟る、というストーリーだ。

ところが、白人夫婦の改心で終わらないところが、この映画の良さだった。最後が秀逸だった。

夫の価値観の変化に戸惑いながら、「夫に妻は従うもの」という古い価値観にしたがい、妻は今度は黒人差別を一切口に出さなくなる。そして黒人に寛容であるようふるまおうと努力する。ところが、最後になってそれがどうしてもできず、彼女は涙を流しながら訴えるのだ。
「黒人差別が間違っていることは頭では分かっているの。でも、生理的に無理なの!」

……

よく、
「嫌なものは嫌なの!」
と自分の感情を変えないことを正当化し、感情を抑えることに徹底的に反対する人々がいる(女性に多い)。上記の白人の老婦人もそうだったのだろう。しかし、この生理的な嫌悪感や感情がどれほど純粋なものであろうとも、正しくないものは正しくない。

キアヌ・リーブスが、かつて、
「あなたは同性愛者ですか?」
と尋ねられたときにこう返したという。
「僕がその噂を否定するのは簡単だ。けれどそんなことをすれば
僕はゲイやバイセクシャルの人間であると思われたくないということになるだろう? 
それはひとつの差別意識の表れだよね。

ゲイだと思うなんて酷い、バイセクシャルの人間だと決めつけるなんて失礼だ
とそんな風に考えること自体が、実はひどく差別的なんだから。

セクシャリティにかかわらず、僕は僕だよ。
僕の俳優としての評価は、セクシャリティとは無関係だ。

だからその質問に対する答えはたった一つ、『ノーコメント』だよ」
これを2ちゃんねるで読んだときにカッコイイな、と思ったが、これからはこれを私達の公式な態度にしなければならないのだろう。同性愛への嫌悪感を示すこと自体、恥ずかしい行為だと認識して、決して口にせず、差別の輪に加わらないような態度だ。

キアヌは差別意識すら否定したが、生理的な嫌悪感、嫌だと思う感情を持つことまでも禁止するのはもはや自由意志の否定だと思うからそれには反対だ。しかし、それを外に出すことが許されない時代は、すぐそこまで来ている。

それに対応できない人間は、セクハラで捕まる老年オヤジのような末路を、これから数年後に迎えるのではないだろうか。そして、差別意識を有したままで態度だけを改めようとしても滲み出てくるのを止めるのは至難のわざだから、それなら意識を変えた方が手っ取り早い。

バレンタインデーでチョコレートを男からもらうことを想像して、生理的な嫌悪感を抱いている男性諸氏は、今のうちから自分を訓練しておいた方がいいかもしれない。

少しずつ自分を変えていき、同性愛者をからかうジョークの輪から一歩身を引き、嫌悪感を外に表さない訓練を少しずつ続けるのだ。

数年経てば、行動が変わり、やがて感情が変わる。生理的嫌悪感を抱くことはなくなるだろう。男性からチョコレートをもらっても、ただ、
「ありがとうね」
と言って笑って感謝することが、自然に出来るようになるのではないか。


2015年2月11日水曜日

ブログを書く効用


「なぜブログを書くのか」
と問われることがある。

承認欲求だとか、アフィリエイトによる利益の追求だとか、人的交流の機会追求だとか、人によっていろいろな理由があるだろう。いや、むしろ理由は一つではなく、複数あることが多いだろう。

かくいう私も、自信のある記事を書いてPVが増えれば嬉しいと思うし、それによってGoogleから多少の小遣い銭が入れば別の意味で嬉しい。それに、このブログを書いたことで増えた友人もいるから、それも楽しい。

いろいろな効用があるが、最近、これももう一つの効用だと思ったのが、
「思考がスピーディーに、論理的になる」
というものだ。それを最近実感して、ブログを書いていてよかった、としみじみ思った。

どういうことか。

私のブログ記事は、よくいらっしゃる方はご存知かもしれないが、案外長い。一記事3000字以上書く、と決めていた時期もあって、それを毎日続けて書いたこともあった。訪問者の方も当時は読むのがしんどかっただろうと、深く反省している。

ところが長文を毎日、あるいは隔日でもいい、定期的に更新していると、ある時期から思考が良い方向に変化したことにふいに気がついた。

どういうことか。

通常人間の思考は、それほど論理的ではない。いや、論理的だがそれを意識することがない、と言い換えるべきかもしれない。

具体的に説明すると、たとえば今まで野球の話を興味深く聞いて、野球の話題も自分から振っていたいような人が、突然、
「俺は野球なんて嫌いだ!」
と怒るようなことがあったとする。

当然怒られた相手は驚く。そして、野球が嫌いだと怒りだした人のことを、
「この人は感情的だ」
と思うだろう。そして、怒った人が自分自身、なぜ怒ったのかを説明できないと、
「あの人は気分屋だ、論理的じゃない」
と周囲から評価されてしまうだろう。

ところが、
「自分は野球が好きだが、それとは別に、不倫という行動が大嫌いだ。ところが今度、不倫相手の女性を殴ったことをメディアで暴露された大久保博元が東北楽天監督となった。それを許すことはできず、大久保の監督就任を許した野球界に絶望した。だから俺は野球を嫌いになった。今は聞くだけで嫌なんだ」
と説明されれば、それに共感できるかどうかは別として、聞かされた方は、
「なるほど」
と納得するだろう。

問題は、こうした思考が普段は無意識下で行われているために、意識できず、意識できないから論理的に説明しづらい、ということだ。

野球が突然嫌になったのは、数日前に聞いた大久保博元の楽天監督就任が影響しているのだけれども、そのことを思い出せず、まさかそれだけの理由で、野球自体がイヤになるほど自分が狭量だったとも自覚していないと、なぜ自分が、突然野球の話を聞くことが嫌いになったのか説明できないだろう。

よく「論理的ではない」と言われる人間の行動や発言には、必ず論理がある。無意識下の複雑な論理が重なった結果、予想外の行動、普段と異なる発言を行なうのだが、それを自覚できないだけなのだ。

ときにはそれは脳の病理によるものかもしれないが、それも、「脳の病理のため」という理由が背後にある。

人間行動にかぎらないだろう。

物事すべての事象には、必ず論理がある。隠されているために読み取れないか、複雑なあまりに論理をたどることができないだけなのだ。それを筋道立てた理屈で説明できる人間が「論理的」と言われるようになるのだ。

そして、日々の行動、思考などを文章化しようとすると、人は論理的になる。

自宅の日記帳にでも書けばいいじゃないか、と思われるかもしれないが、日記は自分に甘くなる。自分しか読まないために、多少論理に整合性がなくとも、不正確でも、論理となる部品の一部が見つからなくとも、
「まあ、いいか」
で済ませてしまうことが多くなる。人間は不精な性格だから、思考の深堀を怠ってしまう。

インターネット上に公開されるブログはそうはいかない。他人に読んで理解してもらうためには理屈を文章につけなければならない。もしもとりとめのない思考をそのまま公表すれば、
「この人、馬鹿だな」
「この人、頭がおかしいんじゃないの?」
と思われてしまうだろう。

他人にまともな人間だと思ってほしいとか、馬鹿とは思われなくない、という自意識が、整合性のある文章を書かせる。「他人に理解してもらいたい」という欲求は、一人で日記に書いていた時には湧きにくい感情だろう。これが大切なのだ。

過剰な自意識は愚劣だと一蹴されがちだが、愚劣な感情には根深く強いエネルギーがある。このエネルギーを利用しない手はなかろう。

そして、論理的な文章を書くことを定期的に続けることで、思考はスピーディーになる。

毎日は暇な時ばかりではなく、急いでブログを書かねばならないこともあるだろう。あと1時間で日が変わってしまうことを恐れながら、時計を気にしながら記事を更新するときもあるだろう。いや、そんなときばかりだ。人生ヒマじゃない。

言わば強制的に、思考を高速に回転する訓練を自らに課しているようなものだ。それをPVやアフィリエイトが応援してくれる。

その繰り返しが重なり、それが数年続いたときに、ふと、自分の思考がクリアになり、合理的になり、スピーディーになり、無意識の行動に説明をつけられるようになった自分に気づくのだ。

私はバカかもしれないが、ブログを書く数年前に比べれば、自分の頭が確実に整理され、改善されたと断言できる。

これもまた、ブログを書く効用の一つではないか。

脳トレブームに見る如く、思考力を伸ばしたい、高めたいという欲求を持つ人はこの世に大勢いる。高齢化社会、ボケを防止したいと思っていらっしゃる老年の方々も多いはずだ。そんな人は、ある程度の量の記事をブログに毎日書いてみるといいのではないか。自己の成長という点で、数年後に必ず、良かったと思えるはずだ。





2015年2月9日月曜日

動詞の敬語と受動態が似ているのは主語が入れ替わったから?

先日、動詞の敬語と受動態が似ていて紛らわしいな、と思いながら、そもそもなぜ両者は似ていたんだっけ? と考えていたときに、こんな仮説が成り立つのではないのか? と思いつきました。

たとえば、
「客は『……』と言った」
という文章を敬語で表すならば、「言った」を「おっしゃった」に変えて、
「お客様は『……』とおっしゃった」
となるでしょうが、「言った」を受動態に変えて、
「お客様は『……』と言われた」
と表すのも間違いではありません。。

後者が受動態が敬語になることの例です。
さて、なぜなのか、と考えたときに、
「他人を敬うために受動態を使うのではなく、他人を敬うために、主語を「自分」に切り替える習慣が長年経って、いつの間にやら受動態を敬語として使うように変化したのではないかな」と考えたのです。

つまり、
「客は『……』と言った」
を敬語に直すとしたら、
「(私は)(お客様から)『……』と言われた」
と変換する長年の習慣がまずあります。

そして、日本語では「は」や「が」という、主語を表す助詞が省略される傾向にあり、そもそも主語自体が省かれる傾向にありますから、人間の頭では短絡的に、
「敬語には受動態を使う」
とインプットされるようになったのではないかな、と。

英語で表すならば、
"He forgot me."
という文章を敬語で表すために、
"I was forgotten by him."
と表現するようになり、普段主語を略して、
"Was forgotten."
と使われるうちに、"He"が尊敬の相手だった場合には、必ず、
"He forgotten me."
 と使うようになった、というのが私の仮説です。

そう考えたものの、まあ、こんなことは国語の専門家ならば誰だって考えるかもしれないな、と思って、ネットで「敬語 受動態 理由』などといった言葉で検索しましたが、そのものずばりの回答がなかなかみつかりません。

★ どうして受け身の形が尊敬になるのでしょうか
では、
実は英語だけでなく「受動態」が敬語になる例は各国語にあります。
なぜ「受動態」が敬語になるかといういうと「動作の主体」が客体になるからです。
という回答があり、一見、私のアイデアに近いのですが、主体が客体となったのちに、主語が入れ替わり、それが脱落した、という意味ではありません。

それに、前半と後半の文章の論旨が一貫していませんね。だからベストアンサーに選ばれなかったのかも。 その点、
個人的な感覚ですが、「れる、られる」の尊敬用法は、自発用法から派生したという考えもありかな、という気がします。
というベストアンサーは面白いですね。

昔、高校生の頃、金田一晴彦著『日本語』を読んだことがありました。そのなかで、「お茶が入る」という日本語の用法の奥ゆかしさについて金田一氏が力説していたのも、思い出しました。

もしや、『日本語』にすでに書かれていたかもしれない、と思って本を探しましたが、しまいこんでいたのか、本棚から見つかりませんでした。

この説に少しは新しいものがあるのかどうかは分かりませんが、仮説として面白いかもしれません。また、英語では主語を省略できませんが、ドイツ語では日本語のように、主語を省略したり動詞の後においたりできるので、ドイツ語では敬語の自動詞と受動態が同じになる、というケースがあるかもしれない、などと考えましたが、ドイツ語は身についていないので、確かめるすべがありません。

2015年2月7日土曜日

武道を稽古するならば型稽古の方がいい

実践形式ではない武道の稽古をすることに、昔は疑念を抱いていました。

日本の伝統武道は、ほとんどが型稽古を重視しています。今の剣道のような防具をつけて竹刀でたたきあうような稽古を始めたのは江戸時代末期の北辰一刀流だそうでして、それまでの道場のほとんどは、型をひたすら繰り返す、というものばかりだったといいます。

学生の頃には、この種の稽古を小馬鹿にしていたことがありました。大学生の頃に古武術を習っていながら、
「こんなの実戦で通用するのかね」
と思いながら稽古していたのも事実。

子どもですから、ヒーロー願望があるんです。

街で暴漢に突然襲われたときに、次々に倒してやりたい、とかね。そんなシーンを夢想したこと、ありませんか?

型稽古を繰り返して、彼ら悪漢を倒せるように成るとは、到底思えず、かといって私の尊敬する武道家たちは「型稽古をやらなければならない」「強くなる」という主張をするものですから、ほんまかいな、と思いながら型稽古を不承不承、やっていたのです。

それから仕事が忙しくなって武道から離れて10年以上となりますが、最近ふたたび武道でも稽古しようかな、と思える精神的余裕を持つようになって、ふと思ったのが、今まで自分がいかに運が良かったのか、という事実。

この年で、たとえば頚椎に損傷を負って下半身不随になったとしたら、どうしようと考えると、ふいに怖くなりました。

考えてみれば、暴漢に襲われて命が奪われる可能性よりも、実践形式の武道の稽古で、打ちどころが悪くて半身麻痺になったり、骨折したりする可能性の方が確率が高いのではないでしょうか。

「危険を避けるため」
に武術や武道をやるのだとしたら、怪我をする危険性が、暴漢に襲われる危険性よりも低くなければなりません。それなのに、アクシデントの多い試合形式の稽古では、リスクが大きすぎます。

筋トレをして、走りこみをして筋力とスタミナをつけ、型稽古をすれば、いざというときに身を守る動きをするには充分ではないか、という確信が、今はあります。筋力をつけるという積み重ねを嫌う人間が、勘だとか技だとかに安易によりかかるのではないか、とも思うのです。

そう考えますと、実戦形式で稽古することには、メリットよりもデメリットの方が大きいのではないか、と思うようになりましたが、これは私が歳をとった、ということなのでしょうかね。



2015年2月5日木曜日

欧米の同調圧力に抗うトルコ

ダーイッシュ(自称イスラム国)に後藤健二さんが先日殺害された。後藤さんのご冥福をお祈りする。

ご家族、特に奥さんの悲しみを思うと胸が張り裂けそうになる。お子さんが生まれたばかりで夫を失い、子どもの誕生という女性にとってもっとも大きな喜びを味わえないのだ。子どもを見るたびに亡き夫を思い出すのはつらかろう。悲しみは、深く刻まれた傷となり、彼女をこれからも苦しめる。あまりに不憫だ。

同胞が異邦人に殺されるのを観るのは嫌なものだ。彼らダーイッシュを憎らしいと思う気持ちが湧きあがる。

今後の課題

彼らの行為を眺めながら、では、どうするか? 安倍総理が今後同種の事件が起きたときのために、自衛隊派遣も含めて検討をしていきたいと述べた。たしかにそれも大切だろう。

ただ、これまで軍隊を派遣しなかったからこそ日本人が世界で得てきたメリットを失う覚悟が必要だ。私が海外を旅していたときに、日本人という理由で親切にされた経験が数多くあった。同じような経験をしてきた観光客、現地駐在人は数多くいるだろう。

デメリットのほうが大きいのではないのか? アメリカにすらできないことをやろうとして、失うものが大きすぎやしないか? ……ただ、それは失ってみなければ分からない。

それに、軍隊を派遣して武装勢力を殲滅するという方法では原因を取りのぞくことはできないだろう。それは一種の対症療法だ。それよりも、紛争をなくすための原因を取りのぞくことが先決じゃないか?

対症療法以外の方法

……とはいえ、対症療法ではない根本療法を探るとしても、どこまで深く追求するべきか、解決方法を実行することは可能か、という問題が立ち現れるだろう。出来ないことについてあれこれ考えてもしょうがない。

たとえば、あの地域にイスラエルを建国したのが悪いだとか、欧米の国際石油資本(石油メジャー)が中東利権を守るためにあの地域の政治バランスに深く関与しているのが悪いだとかいった議論があるのは知っている。しかし、その議論を深めてもあまり意味はないように思う。

原因はそうかもしれないけれども、イスラエルを今さらなかったことにできないし、国家と同じ力を持つ巨大な石油メジャーの行動を縛ることは、私たちには荷が勝ち過ぎる。同じく考えるのならば、少しは考えた末になんらかの効果がある議論を深める方がいい。

たとえば、多様な民主主義を私たちは我慢するべきかどうか、どこまでを許すべきか、それは可能なのか、といった問題だ。

トルコの我慢の限界

ダーイッシュが隆盛を極めている背景には、アメリカがイラクを崩壊させたことだとか様々な要因がからんでいるわけだが、他の要因の一つに、トルコのイスラム回帰という問題があるように思う。

欧米で育ったアラブ系の人々が、なんのツテもないのに身一つでダーイッシュに身を投じていることは多くの報道でご存知だろう。彼らのほとんどがトルコ経由でシリアへ向かうのだという。ダーイッシュの支配地域がシリアのトルコ国境付近に迫っていること、シリアとトルコの国境には森林や小道が多いことから、人知れずダーイッシュへ潜り込むには好都合なのだそうだ。

だが、地理的要因だけのはずがない。アラブ系とはいえ、彼らダーイッシュ志願者たちは土地勘がない。全くその土地と無縁の彼らが、GPSがあったとしても、うまくダーイッシュの支配地域へと忍びこむことができようはずがなく、彼らを応援する草の根の人的ネットワークがトルコ国内に間違いなくある。

トルコの人々のイスラムへのシンパシー。それは現在のエルドアン大統領への熱狂的な支持ぶりからもうかがえる。

都市部ではエルドアン大統領の独裁的手法への批判の声が大きいが、地方ではイスラム教を賛美するエルドアン大統領支持者が圧倒的に多い。シリアとの国境付近の人々ならばなおさらだろう。

だがトルコは、イスラム諸国の中で政教分離を早い段階で成し遂げて成功した民主主義国だったはずだ。そのトルコがイスラムへ回帰を始めたのには理由がある。要因の一つには、トルコがヨーロッパの一部になろうとして、常に拒絶され続けたことに、トルコ国民がうんざりしたという背景があるように思う。

トルコはEUへの加盟を幾度と無く拒絶されてきた。アルファベットを導入して、政教分離を成し遂げ、特権階級を認めない民主主義国家を作り上げたトルコに対して、ヨーロッパはアルメニア人虐殺を謝罪しろだとかキプロス島の権益を放棄せよなどと様々な理由をつけて、批判してきた。批判され続けて少しも敬意を払われない者は、ストレスが溜まり、鬱屈した感情を抱くだろう。トルコの人々は、ヨーロッパの傲慢にうんざりし、イスラムへ回帰しようとしている、という一面がある。

リベラルの同調圧力

トルコがヨーロッパから拒絶されてきた歴史に踏み込むと長くなるので、これ以上書かず、そもそもなぜヨーロッパがトルコをそこまで毛嫌いするのかについて述べたい。要は、民主主義の先進地域という意識が強いヨーロッパは、自分たちに似ているのに自分たちとは異なる存在を許せないのだ。

特に、リベラル勢力にその風潮が強い。彼らは多様性を唱えながら、実のところ同調圧力が大変強い人々だ。自分たちと全く異なる政治体制の国家(中国だとか)や開発の遅れた国々の独裁体制には妙に寛容なくせに、彼らに近い政治体制を取りながら、国情にあった民主主義の発展を目指す国には、自分たちの基準を押し付けようと必死になる。

自分たちを正統と考える人々は、異教徒には寛容でも異端を許せない。トルコの人々はイスラム教を精神的基盤に置きつつも、民主主義国家となることは可能だと考えている。ところがヨーロッパの人々は、キリスト教のベースがない民主主義には懐疑的で、だから何かしら、いちゃもんをつけようとする。彼らのように考えない国を批判したがる。

同じようなことは、日本に対しても行われる。彼らは日本もまた、「真の民主主義国家とはいえない」だとか「民主主義がまだまだ遅れている」などと批判してきた。今回の件でも、後藤健二氏がダーイッシュに拘束されたときに日本で「自己責任論」が現れたことに対して、ロイターのPeter Van Burenという記者が、
日本政府の反応とその支持者たちの態度は、欧米の反応の基準とは基本的に異なっていることを暴露する。(the response of their government and the attitudes of their fellow citizens expose key differences from the standard Western response. )
批判した。紛争地域で危険にあった同胞への対応が異なれば、すぐに民主主義ではない、日本のものはまがい物だ、という批判が彼らから出る。今までもよくあったことだ。

日本は相当、民主主義が根付いた国家だと思うが、それでも彼らは「まだここが違う」「あれが違う」と言って日本の民主主義を認めようとしない。欧米人のように行動して、彼らのように考えることを望む。口では多様性を唱えながら、その国の伝統に沿った民主主義の発展を決して認めない。

たとえば、同性婚を認めるのがここ10年ほどの欧米の風潮だが、それが主流になると、もうそれ以外を認めなくなる。10年前には同性婚を認めない人々が欧米でも多数で、それでいながら民主主義が成立していたのにもかかわらず、だ。今はそれを認めない人間や国は基本的人権を尊重する仲間にあらず、という見方をする。

本来、基本的人権の考え方とは合わない伝統をそれぞれの国が持っているものだから(たとえば君主制だとか宗教に関するものだとか)、進んだ部分、遅れた部分はどこにでもあるのだ。それぞれが国家の実情に沿ったスピードで、変えるものは変え、変えられないものは変えずに、少しずつよりよいものへと変えていけばいいはずなのだ。特にイスラム教の影響の強いトルコでは同性婚を人々が認めにくかろう。しかし欧米人は、それを許さない。

自分たちを変えること

近親憎悪という言葉がある。

カトリックがプロテスタントが何を決めようと放っておくが、同じカトリックの中で異端の説を唱える者には容赦しないようなものか。似ているとなると、とことん自分たちと同じようであることを求めようとする彼らのすぐそばにいて、トルコはさぞつらかったろう。

仲間の差異を認めない欧米の人々が、トルコの人々を追い詰め、国内のイスラム教徒たちを追い詰め、彼らをダーイッシュへと追い込んだという側面があるのではないか。

そして、似たようなことは私たち日本人も行いがちだ。昨今中国が、民主主義国家へと大きく変貌を遂げつつある。韓国はほぼ、民主主義国へと変貌した。しかし、逆にその違いに注目して批判を加える、という行為を、ネトウヨにかぎらず、私たちは行いがちだ。

いや、中韓に対するだけではない。私たちの人間関係の中で似たような批判はよくあることである。仲間と思う人々のちょっとした差異を嫌うというこの感情は、人間誰しも持つものなのだろう。

それとどう折り合いをつけていけばいいのか。それは答えのない問題だけれども、それについて考えを深めていけば、それが政治への目となり、欧米人の同調圧力へ抵抗することへとつながり、イスラム的、あるいは共産主義的なものを大切にしながら民主主義国家へと変わろうとする国々を、間接的に応援することにもなるだろう。

そして、世界のシステムは個人では変えられないが、自分たちの考え方は変えられる。それによって影響を受けた世界もまた、変わるかもしれない。

2015年2月3日火曜日

『ブラック企業』は過渡期の存在かもしれない

最近になって『ブラック企業』という本を読んだが、読むのがつらくて何度か本を置くこととなった。

文章が読みにくいということはない。著者は私よりもはるかに年下ではあるけれども、学術的な訓練を受けているせいか私よりも論理的で、なおかつ豊富な実例が「読ませる」。

しかし、その豊富な実例を読むのがつらい。昔の自分の体験を思い出させるからだ。ブラック企業から離れて年月も経ち、ある程度気持ちの整理もついたはずだが、あのときの悔しい気持ち、腹立たしい気持ちとは未だに折り合いをつけるのが難しいようだ。

詳細は上記の本を読んでいただくことにして(幸いなことに、かつてたくさん売れたので中古本が安価で出回っている)、その本に書かれていないことを読みながら考えたので、書いてみたい。それは、現在のブラック企業の発生の理由だ。

なぜ近年、ブラック企業がこれほど話題になるようになったのか?

それは、日本企業が少し方向性を誤ると、ブラック化しやすくなったからだ。なぜ企業がブラック化しやすいのか? もともと日本流、あるいは松下幸之助流の家族主義という土壌へ、アングロ・サクソン流の熾烈な競争原理が持ち込まれて、社員に逃げ場がなくなったからだと思っている。

どういうことか? もともと日本企業は企業が社員の一生を丸抱えすることで、会社が一つの家族のような役割を果たしてきた。それは社員の忠誠心を育てたが、やる気を育てるためには別の燃料も必要だ。アングロ・サクソン流の頻繁な解雇や降格がない中でいかに社員のモチベーションを高めるか? そこで日本企業では様々な方法を用いて、社員のやる気を上げる工夫をこらした。

その一つに、労働と社会貢献、本来は別のものをくっつけてしまい、労働することが社会貢献だ、という価値観を育てたことがある。

リッツ・カールトンという外資企業が「クレド」 なる会社の理念を掲げてかつて話題になったが、あれはもともと日本企業のやり方を外資流にアレンジして取り入れたものであることはよく知られている。日本企業が世界を席巻していたときに、アメリカの企業が日本企業を研究して、朝礼で「社訓」「社是」と呼ばれるものを唱えられていることに着目して、アメリカの企業に紹介をした。それを洗練させたのが、リッツ・カールトンの「クレド」だった。

クレド、その源流となる「社是」「社訓」で訴えられることは、会社で働くことが社会をよくすることにつながる、という主張だ。この主張が使命感を育てる。使命感は、社員に労働に没頭させる。働くことが歓びとなった人間の生産性が高くなることは、容易に想像がつくだろう。また、会社で一生懸命に働かない人間は社会貢献の意思がない、と周囲がみなすようになり、社員にプレッシャーを与えるだろう。こうして人々は仕事に専念する。

こうした洗脳的な手法で日本企業は社員を追い立ててきたわけだが、ただ会社が家族のようなものだったから、社員間でお互いに支えあい、その欠点を補ってきた。
 
ところが今や、会社がリストラを自由に行なう時代が。従業員の生活には責任を持ちません、でも従業員にはこれまでどおり忠誠を誓って欲しい、という都合が良すぎる命令を現代の企業は我々に強いている。

こんな馬鹿げた命令に私たちが従う必要はまったくないし、いずれ社会から淘汰される考え方だろう。しかし今は過渡期だから、その害が明らかにまだなっていない。そこで、日本流の会社勤務=社会貢献という思想と、競争原理が容易に結びついて、人々を追い込む企業を生み出してしまう。ブラック企業の発生と増加の原因がそこにあるように思う。


2015年2月1日日曜日

小保方春子はリケジョじゃない

最近、また小保方晴子の周辺が騒がしくなってきましたね。

★ 小保方晴子さんを思わせるキャラクターをゲームに使用、スクエニが謝罪

★ 窃盗容疑で小保方晴子氏を刑事告発へ
STAP細胞を開発したとする論文で研究不正が認定され、先月に理化学研究所を依願退職した小保方晴子氏(31)が、窃盗容疑で刑事告発されることになった。
★ 小保方氏と理研「暴露本」で密約?
騒動の幕引きを急ぐかのような経緯からは、理研の体質が垣間見える。内部関係者の話。
「あれだけのスキャンダルを起こしておきながら、組織の長である野依良治理事長がそのまま居座っているのが、いい例だ。理研は一日も早く騒動のマイナスイメージを払拭し“何もなかった”状態に戻したいと考えているのです」

昨年あれだけ世間を騒がせ、いったん収束したかとおもいきや、ふたたびニュースとなるのは、それだけ小保方晴子のキャラが魅力的だったからでしょう。

一見清楚、お嬢様。スタイルも容姿も美しい。その上科学の大天才。ハーバード大学で研究員を務めたのち、日本最高峰の研究所「理研」に所属しながら、「万能細胞を簡単に作れる」という画期的な論文を、世界的な科学誌『ネイチャー』に掲載。

しかしその実態は、大勢の科学者たちを手玉にとって国際的な地位を着々と築いた悪女。ある男は死に、ある男は人生を狂わされた。しかし女自身は決してつかまらず、逃げ続ける……。

これ、完全にアニメやライトノベルのキャラ設定ですよね。そしてたぶん、「設定を詰め込み過ぎです」「リアリティーがなさすぎます」と編集者に怒られるパターン。でも、本当にこんな人物が実在しているのですから、いやはや、事実は小説よりも奇なり、です。

昨年私も、彼女についていくつか記事を書きました。

★ 小保方捏造論文捏造疑惑は上質のミステリー
★ 小保方晴子の記者会見を観た
★ 小保方さん側弁護士は、わざと不利な情報を公表しているのではないか

それだけ魅力を感じたからでしたが、さて、再び最近のニュースで彼女についてふと思いついたのが、
「彼女は本当は理系ではなく文系だったのではないか?」
という疑惑です。

彼女は理系女子、通称「リケジョ」と言われ、当初は理系女子の出世株と目されていたのは衆知のとおりです。その株は後で暴落しましたが。

理系の女の子の取扱説明書」によれば、リケジョには三つの特徴があるそうです。
  • プライドが高い
  • 子供の頃にいじめられたことがある
  • 議論が好き 
でも、小保方さん、そのどれにも当てはまりそうにありません。天然ぽくていじめられるタイプではなく、議論も下手でしょう。理系女子にありがちなプライドとは、少々無縁のように思います。

思えば彼女の言葉は、やけに文学的でした。STAP細胞のことを「王子がキスして目覚めるプリンセス細胞」と言ったり、週刊誌の記者が彼女に問い詰めたところ、「私が死んでも、STAPの現象は起こります」と答えたり、STAP細胞の再現実験に参加する際に、「生き別れた息子を早く捜しに行きたい」と答えたり……。

人間を理系と文系に分ける基準は思考のフレームにある、という説を聞いたことがあります。

理系はものごとを論理的に把握して、論理的に説明します。論理とは共通認識の積み重ねの末に、新しい事実を納得させるという技法です。たとえば、彼に浮気をしてはいけないことを説明するのに、
  1. 浮気をされると嫌だよね(←そうだな。俺は嫌だな)
  2. あなたは私を大切にしたい、私の嫌なことはしたくないって誓ったよね(←そうだ。君の嫌がることはしたくない)
  3. 浮気されることは私の嫌なことなの。だから浮気はやめて(←わかった)
と説得するのが論理的な説得方法。

それに対して、文系は、イメージをふくらませて、感情に訴えて説得するのだそうです。
「浮気をされたら、私は多分自分の心臓をえぐりだして死んでしまうかもしれない。大切なあなたに浮気をされたら、何も信じられなくて、自分が惨めになって、この世界にはいられないと思う。それほどつらいと思う……」
とかね。当然、思考もイメージ。頭の中にはさまざまなイメージがフラッシュのようにパッパッと沸き起こり、あるいはポロックの絵画のように、イメージや感情がうねりをともないながら渦巻いています。

その分類方法でいけば、小保方晴子は明らかに文系女子。論理的な積み重ねよりもイメージでものごとを考えるタイプの女性でしょう。

人間は異なるタイプの人間の話を面白がる性癖がありますから、理系の園に迷い込んだ文系女子に、研究者たちが魅力を感じて彼女に惚れ込んだのも、理解できなくもありません。