2014年7月31日木曜日

いつも何かの問題が現れる人

先日、
「なぜかプロジェクトの直前にもめ事が起こってご破算になることが多い」
という人の愚痴が書かれているブログを読んだ。

大口の契約が取れそうな時に限って、親が病気になったりといった身辺のゴタゴタがあったり、転職のいい話がある時に限って上司から大変な案件の仕事を割り振られたりするのだという。

よくあることだ。

ただ、物事が必ずうまくいかない人たちには、なにかしら共通の問題を抱えていることが多いものである。

「計画を立てて実行しようとしたら、必ず問題が起こる」
という友人が以前いた。

「これをしたいと思っていろいろと下準備をするんだけれども、その直前に必ず何か問題が起こるんだよね」
と笑って話すのを聞いて、最初は不運だと思っていたけれども、次第にその人自身に問題があるのではないかと思うようになった。

計画に余裕がない

この手の人の計画を見ると、必ずギチギチに積めた計画表を見せられる。週末の休みにも予定がぎっしりと詰まり、一日の計画にも余裕がない。

計画を立てる前には遊んでいたのだから、もっとそう急に予定を変えられないと思うのだが、
「計画を立てるうちに、時間がないことに気がついた。これから予定日までは休みなしでいく」
と宣言する。そして失敗する。

だいたい人生なんて、先になにが起こるか分からないものだ。事件の連続、障害の連続なのである。予定の直前に問題が生じて実行できない人のほとんどは、それ以前に無理に無理を重ねている。

だから直前時期に生じた問題の前で撃沈する。

逆算しない

目標を立てて逆算して考えるのではなく、ものごとを始めてから方法を考えてしまう。

計画を実行する間には、いろいろなことが起こるものだけれども、目標を念頭に置いていれば、多少わき道に逸れても再び元の道に戻れる。

ところが目標が常にぐらぐらしていると、方向を見失っているから、大きな障害が現れるととたんに方向感覚を失ってしまう。方向感覚を失う人は、普段から方向のことを考えていない人である。

目標を達成する段階にない

「直前にあれがなければ・・・・・・」
と後悔する人の能力は、たいていギリギリであることが多い。

余裕があれば、直前期の多少の困難は乗り越えられるものだが、能力が低いとちょっとした困難が大きなハードルに見えてしまう。

でも、そもそもそのハードルが直前期ではなくて、道半ばにあったとしても、挫折していただろう。

自分の能力が劣っているということを認めることはとてもつらい。しかし、それを認めることから、努力が始まる。行動が始まるのだが。

覚悟がない

「絶対にこれを実行する!」
という強い信念を持っていない人が多い。

信念がないから続けられないのに、それを何かの障害のせいにする。言い訳しやすいからだろう。

いつも何かの問題が現れようと何があろうとも、やり遂げられればなんの問題もない。
「それでもこの問題を解決してやる!」
という堅い決意を持っていれば、たいてい問題は解決できる。

直前に揉め事が起こってご破産になる、という人は、揉め事が起ころうが何があろうが、必ず実行してやる、という強い決意を持っていないことが多いように見受けられる。

2014年7月30日水曜日

池田信夫の指摘が面白い 「空気」とは市場で定まる意思決定なのかも

日本軍の戦死者の半分が餓死だったというのは、有名な話かと思います。

その理由は兵站(へいたん=戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語)活動の軽視だと常々指摘されてきました。

前線で戦う兵士こそが優れていて、後方支援をする兵士は2級品だと、太平洋戦争前は目されていたのですね。

その意識は、下記のような戯れ歌にも現れています。兵站担当を、輜重・輸卒(しちょうゆそつ)とも呼ぶのですが、
輜重輸卒が兵隊ならば
蝶々トンボも鳥のうち
焼いた魚が泳ぎだし
絵に描くダルマにゃ手足出て
電信柱に花が咲く
と嘲っていたのです。

これに比べると、アメリカ軍は伝統的に兵站を重んじます。結果として太平洋戦争においてアメリカ軍に日本軍が敗れてしまいました。

さて、経済学者である池田信夫氏は、こうした日本とアメリカの違いを、ボトムアップの判断によって解決策を見つけるか、トップダウンの計算で解決策を見つけるかの違いだと述べています。

★ 日本軍はなぜ半分も餓死したのか

ボトムアップによって解決策を模索する方法とは、市場で需要と供給が自然と決まっていくように、現場の判断を重視した方法。

それに対してトップダウンによって解決策を求める方法とは、オペレーションズ・リサーチ(OR=作戦研究)という、シミュレーションを繰り返して、最適解を求める手法方法である。市場が神の見えざる手で探り当てた数値と同じものを、コンピューターによって割り出す方法です。
要するに、現代の資本主義は戦争に近づいているのだ。そこで必要なのはコンセンサスではなく命令であり、合理的な(一貫した)目的関数を設定して独裁的に実行するスピードだ。これが戦争の好きなアメリカ人がグローバル資本主義で強い理由である。
とのこと。

なるほど、と思わせる面白い指摘ですが、私は別の部分に関心をいだきました。

日本人は計画主義的、アメリカ人は市場主義的だと、一般的に思われています。ところが経営の分野において、日本人の方が、集団の中の同意に基づいた意思決定を重んじている、という点です。たしかに。

「空気を重んじる」
のが日本人の特性だと言われています。この「空気」とは、それぞれの思惑があいぶつかるうちに、自然と熟成された意志のことですよね。計画的に定まったものではなく、お互いの牽制によって意思が定められていく様は、市場経済で価格が定まる過程そのもの。

価格が市場で決まるように、集団の方向性が自然に定まっていくのです。

そうしますと、「空気を読む」をかっこ良くいえば、「意思が市場決定される」こととと言えるのかも。こうしますと、「雰囲気」だとか「空気」だとかいったものに、よりポジティブな意味合いをもたせられそうな気がします。

2014年7月29日火曜日

「なぜ人を殺してはいけないか」のあの番組にid:netcraft が出ていたとは

あの当時の騒ぎはよく覚えている。

1997年、今は亡き筑紫哲也という左派のニュースキャスターが、知識人と高校生をTV局のスタジオに多数集めて、「ぼくたちの戦争'97」と題したディスカッションを行った。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎とか芥川賞作家の柳美里だとか、錚々たる的なメンバーが、そこにいた。

結論ありきの討論会だったと思う。
「戦争はいけない」
という若者たちの“想い”を電波に乗せようとした進歩的文化人たちの思惑がそこにあったはずだ。が、たった一人の若者によってそれは打ち砕かれた。

彼は、左派知識人の重鎮たちに向かって抜け抜けと、
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
と尋ねた。そして、そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。

あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのか……と、世間は嘲笑した。

大江健三郎はその後、朝日新聞に「誇り、ユーモア、想像力」と題したコラムで、このときのことを述懐して下記のように主張した。
テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。/私はむしろ、この質問に問題があると思う。まとまな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。 ―(「なぜ人を殺してはいけないか(7)――大江―永井論争」より孫引き)―
答えなかったのではなくて答えられなかったのだろうと、テレビを観ていた人たちは大江を嘲笑した。

知識人達が誰一人、子供の素朴な質問に答えられなかったという事実。
偉い先生相手によくあんなバカけた質問をすることが出来たな、という感心。

雑誌などでいろいろと取り上げられたこの事件のあの場に、まさか今はてな村でもっともホットなブロガーの id:netcraft がいたとは……あくまで彼の語る内容が本当だと仮定しての話だけれども、びっくりした。

★ 「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない
私は福島に住んでいたけど、高校生を募集する案内をみて「出演したいです」と番組に手紙を送った。番組から実家に電話があり、私の出演が認められた。
上記記事より転載
私たちが記憶しているあの場所に、彼が参加していたことを想像もしていなかっただけに、過去の風景が書き換わるというショックを味わった。今後、「ぼくたちの戦争'97」のスタジオ風景を思い出すときに id:netcraft の姿がその中にいることを意識してしまうのだろう。

さて、本論。

なぜあのとき、左派知識人たちは子供の質問に答えられなかったのか?

彼らも伝統に寄りかかっていた

そもそも左派=革新主義者たちは、旧来の伝統的価値観に疑いを持つことを奨励してきた人々だ。天皇陛下への敬意、報国精神、男女の伝統的秩序などを、ことごとく否定してきた。

伝統的価値観には、理由のないものがたくさんある。保守主義者たちは、基本的人権などに大きく違反しない限り、伝統的価値観は出来るだけ尊重していきましょう、という立場だ。

ところが革新主義者たちは逆で、理由のないものならば尊重する必要はないだろうと主張する。

ところがだ。革新主義者たちのもう一つのスローガンである「戦争反対」自体、「殺人はいけない」という伝統的な価値観にもとづいたものだった。伝統的価値観を否定し続けてきたくせに、彼らの主張自体が伝統的価値観に依拠したものだったというこの矛盾。

大江の、
まとまな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。
という言葉は、「まともな国民ならば戦争がおかしいと口にだすことを恥じるものだ」のような主張と、本質的に同じじゃないか。

左派が「戦争はいけない」ことは当然のことだ、当たり前のことだと主張する根っこに、彼らが否定してきた伝統的な価値観があった。その矛盾に目を背けていたことが、あの場所で暴露されたのだと、思っている。

どう答えるべきだったか

私だったら、まず若者に尋ねるだろう。
「『人を殺すことがいけない理由』というのはあまりに漠然とし過ぎている。まずあなたに尋ねたい。物を盗むこと、暴力をふるうこと、嘘をつくこと……さまざまな『いけないこと』とされていることがある。そういう禁忌すべてに、理由がないとあなたは考えているの? それとも、貴方自身に『人を殺したい』という強い衝動があってたまらないのかな? それで「人を殺す」ということがなぜ悪いのか知りたくてたまらないとか?」

後者と答える勇気のある人は、あの場ではまずいないだろう。もしも後者ならば、精神治療が必要だよ、と嘲笑すればいい。

前者だったならば、
「『人を殺すのが、いけない理由』について、君は質問した。ほとんどの人は『人を殺すことは悪い』と思っている。でも、あなたはその理由がわからない。そうだね?」
とさらに畳み掛ける。

そうすると、「わからないわけじゃなくて、理由を知りたいだけだ」とか「なんとなくわかるけれども、はっきりと言葉に出来ない」とか言い始めるだろう。そこで、
「『人を殺すことが悪い理由』について考えてみよう。そもそも『悪い』とは何だと思う?」
と、彼の言葉を言い換えて、尋ねてみればいい。昨今話題のサンデル教授ばりに、「正義とはなにか」について語らせてもいい。

質問者自身に正邪を定義づけさせた上で、殺人は「悪」の範疇に入るのかどうかを彼自身の口で語らせれば済んだのではないだろうか。

議論の前提をひっくり返そうとする相手自身に、その質問を別のわかりやすい言葉で言い換え、さらに、要素に分解し、それぞれの意味を定義づけさせる、というのは討論上のテクニックの一つ。「いけない」という曖昧な言葉ではなく、「悪」というより明確な言葉にすればよかったのだと思う。