2014年1月18日土曜日

迷うことが常態化していないか?

おもしろ記事がよく載っている、デイリーポータルZの「悪の電子工作を子供に教える」という記事に書かれている記事によれば、プログラミング言語を知らない子供でも、いまでは簡単に工作機械の動かし方をプログラムできるそうです。

 記事の中身よりも、そちらの方に私は驚いてしまいます。記事にはこう書かれています。
 ワークショップ以前の話、まずこの子供たちがすごいのだ。
 見た目もキャッチーだし取っつきやすいソフトなのだけど、やってることはけっこうガチのプログラミングである。それを彼らは「考える速さで手が動く」といった感じで、どんどん組み上げていく。
「機械装置の動作をプログラミングする」
 という作業に昔、憧れていたことがありました。それが今では、小学生でも簡単にできる時代になったのですね。

 とはいえ、いろいろな動作を一つ一つ定めていく地道な作業は、根気がいるでしょうし、時間も必要でしょう。しかし、子供たちはそれをらくらくこなしています。

 そういえば先日、小学3年生が文部科学省所管の国家資格「技術士」(化学部門)に史上最年少で受かった、というニュースが話題になりました。大人でも何度も落ちるような試験を、小学生が受かってしまうのは不思議です。

 その分野の知識もさることながら、子供には常識や教養がありません。大人の数倍の努力が必要だったはずです(たとえば「指数分布」のような言葉が試験には出てくるようですが、小学生は「指数」の意味から学ばねばならず、大変困難です)。大変な努力です。

 ただ、子供だからこそ、有利な点があります。

 私達はみな、毎日朝9時から16時まで、何の役に立つのか分からないようなことをひたすら聞く、という無味乾燥な作業をこなしていました。私達が同じことを一年間やれと言われたら、発狂してしまうでしょう。

 無意味なことであっても、子供は、大人に命じられたことに疑いなく取り組むことができます。さらには、好きなことには異常な集中力を示すものですから、たまたまその対象が国家資格だとすると、大人よりも楽に、試験に受かってしまうことになります。

 彼ら――難関資格に受かった小学生達の勉強風景などをテレビで何度か観たことがあります。彼らの特徴は、一切迷いがないことでした。

 一心不乱に目標に取り組み、何も悩みません。大人になると、やる気は子供よりもあるのですが(毎年「今年こそは英語を勉強しよう!」と思う大人は星の数ほどいます)、いざ勉強を始めても、迷ったり飽きたり悩んだりしている時間が多いのです。

 特に、迷うという好意は無駄の塊。やってみればいいのに、失敗しないように、あるいは無駄なことをしないように、実行の前に考えることに時間を費やす人の多いこと。たいていその時間は無駄であることが多いものです。だいたい、脳内で試行錯誤するよりも、実際に試してみないと分からないことのほうが多いのですから。

「やる気がでない」とか「これを続けても意味があるのか」などで悩むよりも、一心不乱にまずは取り組み、ダメだったらまた別の方法を探す、というやり方に大人は躊躇します。なぜなら、生きるということが二度と繰り返せないことばかりだと分かってしまったからなのかもしれません。だから、何事にも慎重になり、何事にも「無駄なことをしていないか」を検討したくなるからでしょう。

 しかし、そのために迷っている時間は、たぶん、実際にやってみて、最初の結果が出るまでに用する時間よりも長いはずです。

 明日1日でいいので、朝に計画を立て、一度決めたことを一切迷わずに、実行してみませんか? たぶん、悩み、迷うことが日常化していることに、改めて気がつくはずです。

 JUST DO IT.




2014年1月17日金曜日

退社宣言を公開する理由 ~IT業と出版業との共通点~

他人は教えてくれない 会社を辞めるときの手続きガイド
他人は教えてくれない 会社を辞めるときの手続きガイド

最近ネットで良く目につくのが、
「◯◯を退社しました」
と宣言するブログです。

「ITエンジニアの『退職しました』ブログ相次ぐ ヤフーにグリー、ミクシィも」という記事の中で井上トシユキ氏はその理由を、
「エンジニアは技術があれば、次の仕事もみつかりやすい。あいさつ代わりに『よければ次の仕事をください』という意味も含まれているんだと思います」
と分析していましたが、私の意見では少々異なります。

2014年1月16日木曜日

尊故不囚~ふるきをたっとべどもとらわれず

最近、「尊故不囚(そんこふしゅう)」という言葉を作りました。時代考証的にこの漢字の組み合わせが正しいのかどうか、自信のないところではありますが、概念としては、少々自信を持っています。

「温故知新(おんこちしん」という言葉があります。「故き(ふるき)を温ねて(たずねて)新しきを知る」とよみます。古い時代を学ぶことによって、これからの世の中をどのように作っていくべきかを学ぶという意味の言葉です。歴史をなぜ学ぶのか、その理由を説明するためによく使われる熟語です。

尊故の「故」の字は、ここからとりました。よって「尊故不囚」は、「ふるきをたっとべどもとらわれず」とよんで欲しいところです。

昨今は伝統的なものが顧みられない世の中ですが、私は神社仏閣だとか、伝統的な価値観だとか、武士道だとか武術などの日本に古くから伝わるものを、大切にしていきたいです。昔から武道が好きで、剣術や体術などを学んできました。

と同時に、こうしたものにとらわれてはいけない、という思いを強く持ちます。

一昨日の記事で、風俗に身をやつす人について述べましたが、もしも、親の借金を返すため、あるいは病気の親のために大金が必要なためという理由ならば、働くことを許すべきだろうか、という疑問を、持たれた方も多いのではないでしょうか。

当然の疑問です。

私の考えでは、こうです。そんな親は見捨てればいい。死ぬのは寿命だと思えばいい。

たとえ親が借金で苦しもうと、病気で死のうと、それを救うために子供が苦しむ義理はない、と考えるのです。

でも、そこまで思い切れない人が多いものですが。

文化、伝統は親のようなものです。この私を育ててくれた、ありがたい存在です。それを尊ぶべきだとは思うものの、もしもそれが自分の自由を縛り、そして害を為すものであるならば、それは破壊するべきです。それが無理なら急いでそこから逃げるべきなのです。

こういう考え方が「尊故不囚」という言葉には込められています。

先日、王貞治が、体罰を外部の人間がとやかく言うべきではない、と発言して話題になりました。

★ 体罰問題の根底「古き良き日本が失われたから」と王貞治氏
 確かに余所から見ている第三者からすれば、暴力に変わりはないのかもしれません。でも当事者の間には、意思の疎通というか、血の通ったところがあった。日頃の人間関係があるから受け入れられたし、周りの人も好意的だった時代でした。(中略)それが今は、何の関係もない外部から騒がれたりして、心の繋がりを作ろうにも全部、ブツブツと切られてしまうでしょう。とても難しい時代になっています。
 僕なんかは、当事者同士に任せておけばいいじゃないかと思うんです。起きた現象だけで、関係ない人にまで色々いわれることで、昔から日本にあった“良さ”みたいなものが切れるようになってしまった。
王貞治は国民栄誉賞をもらった偉人です。台湾人でありながら、日本のことを思い、活躍してきた彼のことを、私は尊敬しています。でも、この考え方だけには賛同できません。

彼が一流となった陰には、涙をのんで舞台から去った何百人という人々がいることが、彼には理解できないのではないでしょうか。去っていった彼らの中には、体罰が「そこまでされたのに成果を挙げられなかった」刻印としてトラウマとなっている人が果たしていないのでしょうか。その憤りを、今度は家族に向けて、より弱い子供に暴力を振るってしまう負の連鎖を産んでしまったということはないでしょうか。それは少数派でしょうか。そうではありません。王氏のような成功者ならば、苦労はすべて報われ、暴力にさえ感謝することができるでしょうが、それこそ少数の者の特権です。

★ 「もう人類に体罰の実験は必要ない」
 「体罰について人類はすでに1000年単位の試行錯誤を重ねてきた。だからもうこれ以上実験をする必要はない……」。待望の新刊「昨日までの世界 文明の源流と人類の未来」(上下巻、日本経済新聞出版社)を執筆したピュリツァー賞受賞者、ジャレド・ダイアモンドさん(75)が来日、インタビューに応じた。
 「牧畜社会は狩猟社会に比べ、子供をたたく文化が多い。その理由は、守るべき財産があるからだ。もし、子供が家畜のいる小屋のフェンスを開けっ放しにするミスをしたとしよう。その子供の小さなミスで、全ての家畜が逃げ、全財産を失ってしまう場合がある。そのため、子供がミスをしないよう、体罰でしつけをするのだ。狩猟社会では、特に守るべき財産がないため、体罰を与えてまで子供をしつける必要に乏しい」
「歴史から学ぶべきだ。もうどこかの社会で実験済みのことを、わざわざ繰り返してミスを重ねる必要はない」

体罰と似たようなおかしなことが、伝統と言われるものの中に多数あります。その一つ一つを否定したい。と同時に、間違ったものを多く含むものであっても、総じて良いものだとして、まずは尊んでいきたい。こうした考え方が、私の中にはあります。

最近、新しいブログを作ろうとしています。そのブログでは、テーマを決めて、何かそのブログを読むことで、役に立ったと思えるものにしたいと考えています。

そのために、できれば自分の価値観がぶれないものにしたいと考えているのですが、どうも、伝統を重んじたい、権威を尊びたい、という強い感情を抱く一方で、伝統に縛られたくない、おかしなものはおかしいと声を上げたい、権威の威圧にはとことん反発していきたい、という感情にも掻き立てられることが多く、この二つをどう統合するべきか、ということをこのところ、考えていました。

その中で生まれたのが「尊故不囚」という言葉です。これをしばらく、意識していこうと思います。