2015年2月11日水曜日

ブログを書く効用


「なぜブログを書くのか」
と問われることがある。

承認欲求だとか、アフィリエイトによる利益の追求だとか、人的交流の機会追求だとか、人によっていろいろな理由があるだろう。いや、むしろ理由は一つではなく、複数あることが多いだろう。

かくいう私も、自信のある記事を書いてPVが増えれば嬉しいと思うし、それによってGoogleから多少の小遣い銭が入れば別の意味で嬉しい。それに、このブログを書いたことで増えた友人もいるから、それも楽しい。

いろいろな効用があるが、最近、これももう一つの効用だと思ったのが、
「思考がスピーディーに、論理的になる」
というものだ。それを最近実感して、ブログを書いていてよかった、としみじみ思った。

どういうことか。

私のブログ記事は、よくいらっしゃる方はご存知かもしれないが、案外長い。一記事3000字以上書く、と決めていた時期もあって、それを毎日続けて書いたこともあった。訪問者の方も当時は読むのがしんどかっただろうと、深く反省している。

ところが長文を毎日、あるいは隔日でもいい、定期的に更新していると、ある時期から思考が良い方向に変化したことにふいに気がついた。

どういうことか。

通常人間の思考は、それほど論理的ではない。いや、論理的だがそれを意識することがない、と言い換えるべきかもしれない。

具体的に説明すると、たとえば今まで野球の話を興味深く聞いて、野球の話題も自分から振っていたいような人が、突然、
「俺は野球なんて嫌いだ!」
と怒るようなことがあったとする。

当然怒られた相手は驚く。そして、野球が嫌いだと怒りだした人のことを、
「この人は感情的だ」
と思うだろう。そして、怒った人が自分自身、なぜ怒ったのかを説明できないと、
「あの人は気分屋だ、論理的じゃない」
と周囲から評価されてしまうだろう。

ところが、
「自分は野球が好きだが、それとは別に、不倫という行動が大嫌いだ。ところが今度、不倫相手の女性を殴ったことをメディアで暴露された大久保博元が東北楽天監督となった。それを許すことはできず、大久保の監督就任を許した野球界に絶望した。だから俺は野球を嫌いになった。今は聞くだけで嫌なんだ」
と説明されれば、それに共感できるかどうかは別として、聞かされた方は、
「なるほど」
と納得するだろう。

問題は、こうした思考が普段は無意識下で行われているために、意識できず、意識できないから論理的に説明しづらい、ということだ。

野球が突然嫌になったのは、数日前に聞いた大久保博元の楽天監督就任が影響しているのだけれども、そのことを思い出せず、まさかそれだけの理由で、野球自体がイヤになるほど自分が狭量だったとも自覚していないと、なぜ自分が、突然野球の話を聞くことが嫌いになったのか説明できないだろう。

よく「論理的ではない」と言われる人間の行動や発言には、必ず論理がある。無意識下の複雑な論理が重なった結果、予想外の行動、普段と異なる発言を行なうのだが、それを自覚できないだけなのだ。

ときにはそれは脳の病理によるものかもしれないが、それも、「脳の病理のため」という理由が背後にある。

人間行動にかぎらないだろう。

物事すべての事象には、必ず論理がある。隠されているために読み取れないか、複雑なあまりに論理をたどることができないだけなのだ。それを筋道立てた理屈で説明できる人間が「論理的」と言われるようになるのだ。

そして、日々の行動、思考などを文章化しようとすると、人は論理的になる。

自宅の日記帳にでも書けばいいじゃないか、と思われるかもしれないが、日記は自分に甘くなる。自分しか読まないために、多少論理に整合性がなくとも、不正確でも、論理となる部品の一部が見つからなくとも、
「まあ、いいか」
で済ませてしまうことが多くなる。人間は不精な性格だから、思考の深堀を怠ってしまう。

インターネット上に公開されるブログはそうはいかない。他人に読んで理解してもらうためには理屈を文章につけなければならない。もしもとりとめのない思考をそのまま公表すれば、
「この人、馬鹿だな」
「この人、頭がおかしいんじゃないの?」
と思われてしまうだろう。

他人にまともな人間だと思ってほしいとか、馬鹿とは思われなくない、という自意識が、整合性のある文章を書かせる。「他人に理解してもらいたい」という欲求は、一人で日記に書いていた時には湧きにくい感情だろう。これが大切なのだ。

過剰な自意識は愚劣だと一蹴されがちだが、愚劣な感情には根深く強いエネルギーがある。このエネルギーを利用しない手はなかろう。

そして、論理的な文章を書くことを定期的に続けることで、思考はスピーディーになる。

毎日は暇な時ばかりではなく、急いでブログを書かねばならないこともあるだろう。あと1時間で日が変わってしまうことを恐れながら、時計を気にしながら記事を更新するときもあるだろう。いや、そんなときばかりだ。人生ヒマじゃない。

言わば強制的に、思考を高速に回転する訓練を自らに課しているようなものだ。それをPVやアフィリエイトが応援してくれる。

その繰り返しが重なり、それが数年続いたときに、ふと、自分の思考がクリアになり、合理的になり、スピーディーになり、無意識の行動に説明をつけられるようになった自分に気づくのだ。

私はバカかもしれないが、ブログを書く数年前に比べれば、自分の頭が確実に整理され、改善されたと断言できる。

これもまた、ブログを書く効用の一つではないか。

脳トレブームに見る如く、思考力を伸ばしたい、高めたいという欲求を持つ人はこの世に大勢いる。高齢化社会、ボケを防止したいと思っていらっしゃる老年の方々も多いはずだ。そんな人は、ある程度の量の記事をブログに毎日書いてみるといいのではないか。自己の成長という点で、数年後に必ず、良かったと思えるはずだ。





2015年2月9日月曜日

動詞の敬語と受動態が似ているのは主語が入れ替わったから?

先日、動詞の敬語と受動態が似ていて紛らわしいな、と思いながら、そもそもなぜ両者は似ていたんだっけ? と考えていたときに、こんな仮説が成り立つのではないのか? と思いつきました。

たとえば、
「客は『……』と言った」
という文章を敬語で表すならば、「言った」を「おっしゃった」に変えて、
「お客様は『……』とおっしゃった」
となるでしょうが、「言った」を受動態に変えて、
「お客様は『……』と言われた」
と表すのも間違いではありません。。

後者が受動態が敬語になることの例です。
さて、なぜなのか、と考えたときに、
「他人を敬うために受動態を使うのではなく、他人を敬うために、主語を「自分」に切り替える習慣が長年経って、いつの間にやら受動態を敬語として使うように変化したのではないかな」と考えたのです。

つまり、
「客は『……』と言った」
を敬語に直すとしたら、
「(私は)(お客様から)『……』と言われた」
と変換する長年の習慣がまずあります。

そして、日本語では「は」や「が」という、主語を表す助詞が省略される傾向にあり、そもそも主語自体が省かれる傾向にありますから、人間の頭では短絡的に、
「敬語には受動態を使う」
とインプットされるようになったのではないかな、と。

英語で表すならば、
"He forgot me."
という文章を敬語で表すために、
"I was forgotten by him."
と表現するようになり、普段主語を略して、
"Was forgotten."
と使われるうちに、"He"が尊敬の相手だった場合には、必ず、
"He forgotten me."
 と使うようになった、というのが私の仮説です。

そう考えたものの、まあ、こんなことは国語の専門家ならば誰だって考えるかもしれないな、と思って、ネットで「敬語 受動態 理由』などといった言葉で検索しましたが、そのものずばりの回答がなかなかみつかりません。

★ どうして受け身の形が尊敬になるのでしょうか
では、
実は英語だけでなく「受動態」が敬語になる例は各国語にあります。
なぜ「受動態」が敬語になるかといういうと「動作の主体」が客体になるからです。
という回答があり、一見、私のアイデアに近いのですが、主体が客体となったのちに、主語が入れ替わり、それが脱落した、という意味ではありません。

それに、前半と後半の文章の論旨が一貫していませんね。だからベストアンサーに選ばれなかったのかも。 その点、
個人的な感覚ですが、「れる、られる」の尊敬用法は、自発用法から派生したという考えもありかな、という気がします。
というベストアンサーは面白いですね。

昔、高校生の頃、金田一晴彦著『日本語』を読んだことがありました。そのなかで、「お茶が入る」という日本語の用法の奥ゆかしさについて金田一氏が力説していたのも、思い出しました。

もしや、『日本語』にすでに書かれていたかもしれない、と思って本を探しましたが、しまいこんでいたのか、本棚から見つかりませんでした。

この説に少しは新しいものがあるのかどうかは分かりませんが、仮説として面白いかもしれません。また、英語では主語を省略できませんが、ドイツ語では日本語のように、主語を省略したり動詞の後においたりできるので、ドイツ語では敬語の自動詞と受動態が同じになる、というケースがあるかもしれない、などと考えましたが、ドイツ語は身についていないので、確かめるすべがありません。

2015年2月7日土曜日

武道を稽古するならば型稽古の方がいい

実践形式ではない武道の稽古をすることに、昔は疑念を抱いていました。

日本の伝統武道は、ほとんどが型稽古を重視しています。今の剣道のような防具をつけて竹刀でたたきあうような稽古を始めたのは江戸時代末期の北辰一刀流だそうでして、それまでの道場のほとんどは、型をひたすら繰り返す、というものばかりだったといいます。

学生の頃には、この種の稽古を小馬鹿にしていたことがありました。大学生の頃に古武術を習っていながら、
「こんなの実戦で通用するのかね」
と思いながら稽古していたのも事実。

子どもですから、ヒーロー願望があるんです。

街で暴漢に突然襲われたときに、次々に倒してやりたい、とかね。そんなシーンを夢想したこと、ありませんか?

型稽古を繰り返して、彼ら悪漢を倒せるように成るとは、到底思えず、かといって私の尊敬する武道家たちは「型稽古をやらなければならない」「強くなる」という主張をするものですから、ほんまかいな、と思いながら型稽古を不承不承、やっていたのです。

それから仕事が忙しくなって武道から離れて10年以上となりますが、最近ふたたび武道でも稽古しようかな、と思える精神的余裕を持つようになって、ふと思ったのが、今まで自分がいかに運が良かったのか、という事実。

この年で、たとえば頚椎に損傷を負って下半身不随になったとしたら、どうしようと考えると、ふいに怖くなりました。

考えてみれば、暴漢に襲われて命が奪われる可能性よりも、実践形式の武道の稽古で、打ちどころが悪くて半身麻痺になったり、骨折したりする可能性の方が確率が高いのではないでしょうか。

「危険を避けるため」
に武術や武道をやるのだとしたら、怪我をする危険性が、暴漢に襲われる危険性よりも低くなければなりません。それなのに、アクシデントの多い試合形式の稽古では、リスクが大きすぎます。

筋トレをして、走りこみをして筋力とスタミナをつけ、型稽古をすれば、いざというときに身を守る動きをするには充分ではないか、という確信が、今はあります。筋力をつけるという積み重ねを嫌う人間が、勘だとか技だとかに安易によりかかるのではないか、とも思うのです。

そう考えますと、実戦形式で稽古することには、メリットよりもデメリットの方が大きいのではないか、と思うようになりましたが、これは私が歳をとった、ということなのでしょうかね。