2014年12月8日月曜日

清朝最後の文人「呉昌碩(ごしょうせき)」はなぜ四絶と言われたか

呉昌碩(ごしょうせき・ウーチャンシュオ)の名前を知らない人は、多いでしょう。1844年に生まれ、1927年に亡くなった清朝末期に活躍した人物です。

古代の人物は評価が確立していますが、時代が近づくに従って一般の人々に名が知られることは少なくなります。顔真卿の名前ならば、世界史の授業で習って知っている人は多いはず。でも、呉氏の名を高校までの授業で習うことはありません。そのため、書道に興味のある人以外にはほとんど名前が知られていないのは、惜しいところです。

彼の人生について、詳しくはWikipediaで読んでいただくことにしまして、このブログでは簡単なご紹介と、彼がなぜ「四絶」と称されたかについて、ご案内したいと思います。

呉氏は浙江省安吉県に生まれました。

エリートの家系で裕福でしたが、1850年の太平天国の乱に17歳の時に巻き込まれます。故郷を家族とともに離れて避難したものの、弟と妹、許嫁を相次いで亡くしました。

そのあと、働きながら書の修行に明け暮れましたが、生活は苦しく、戦乱の中、結婚後も家族を養うのに一苦労したようです。ただ彼は、その困難に決して負けることはありませんでした。何人も師匠を変えながら各地を転々としつつ、「書」「詩」「画」「篆刻(てんこく)」に関する様々な技法を貪欲に学んでいきます。

50歳を過ぎてから、段々と世の中に認められるようになり、次々と仕事の依頼がくるようになりました。遅咲きの人だったのです。

そのあと、彼の名前は篆刻家として非常に有名になります。1904年に丁仁・王禔・葉銘・呉隠という4人の芸術家が、篆刻を中心とする国際的な学術団体・西泠印社(せいれいいんしゃ)を設立したときに、わざわざ招かれて60歳にして初代社長となったほど。

そのあとも活躍を続けましたが、 1927年、南京事件の起こった年に脳卒中のため84歳で亡くなりました。

さて、彼が「四絶」と称された理由です。ここで言う「絶」とは、「絶対的な」「並優れた」という意味です。 つまり、文人が身につけなければならないとされる四種の芸術分野「書」「詩」「画」「篆刻」に、並外れた技能を発揮したから、彼は四絶と呼ばれたのです。

どのような作品を生み出したのか。まずは「篆刻」から見ていきましょう。

「篆刻」

中学校までしか書道を習っていないならば、篆刻の存在について知らない人も多いかもしれません。高校で書道を選択すれば、一度は経験するんじゃないかな。「てんこく」と読みまして、早く言えば「書」と「彫刻」の結合芸術のことです。

木や石に文字を彫りつける……「書」の技法も「彫刻」の技法も必要となる、奥深い世界です。

呉氏が得意としたのがこの篆刻でした。その作品がこちらです。

彼は「鈍刀(どんとう)」という、あまり切れない彫刻刀を好んで使いました。鈍刀は、切れ味が悪いために削り過ぎることがありません。力は必要ですが、時間をかけてコツコツと掘れば、理想通りの彫刻が出来るという利点があります。

苦労の多い人生を歩んだ呉氏に適した道具だったのでしょう。 しかし、彫り過ぎによるものでしょうか、肩を壊してしまいまして、50歳を過ぎてからの作品は大変少なくなります。彼の篆刻の名品は、有名になる前のものが多いようです。

「書」

彼は篆刻を一番得意としていたため、「書」に「篆刻」を応用した独特の文字を書くのを得意としていました。

春秋戦国時代に花崗岩に刻まれた文字である「石鼓文(せっこぶん)」 を模した、「猟碣集総聯」と言われる書体で書かれた文字は、独特の美しさがあります。


「画」

彼は絵に、書で学んだ技法を応用しました。草書体をさらに崩した「狂草」という書体がありますが、この技法や、篆書(てんしょ)と呼ばれる秦代以前の絵のような文字を書く上で学んだ技法などを惜しみなく画に応用したため、花や山、岩などが、絵であるのに文字のような独特の風味があります。

「詩」

中国の文人は、必ず漢詩を作ることができます。彼もまた、
「呉先生の作品が欲しい」
という依頼に応えるために、作詩に余念がありませんでした。

彼の作品の一つが、これです。
泠然一曲奏当筵
和鮮陽春顧亦捐
充耳不聞簫管徹
琵琶疑坐李龜年
冷然として一曲、まさに筵(むしろ)にて奏でたり
鮮やかなる陽春に和し、 また狷なるを顧みん
耳に充てれども簫管の徹するを聞かず
琵琶、李亀年の座するかと疑う

とでも読み下すのでしょうか。

むしろの上で音楽家が曲を奏でている、その曲を聞きながら、春の日に照らされ、己の短気を反省していた。ふと耳をそばだてると、いつの間にやら簫管の音が聞こえない。琵琶の音のみが聞こえてくる。その美しさは、音楽家として名高い唐代の李亀年(りきねん)が奏でているようだ。

とでも訳すのでしょうか(不学のため、誤っていればコメント欄などで教えてください)。


こうして彼の作品をほんのわずかでも眺めて見ますと、彼が清朝最後の文人と呼ばれ、四絶と称されたのもなんとくなく分かります。すごい人です。



参考:「書道偉人物語」 「「書道ジャーナル研究所」」など


2014年12月6日土曜日

家族を守るために殺人を犯した父の判断は正しかったか?

デジタル版朝日新聞の記事からです。

★ 「妻と娘を守る義務がある」 三男殺害、父への判決
父親「主治医や警察に入院をお願いしたが、最終的には措置入院もできなかった。今の精神医療の社会的仕組みでは、私たち家族は救えないのではないか。そう思いました」
 7日午前3時前。父親は風呂を出ると、2階にあった出刃包丁を持ち出し、三男の部屋に向かった。寝ている三男の横に中腰で座り、左胸を1回、思い切り突き刺した。

この記事を読んで、私は考えました。同じような状況に置かれたとき、自分はどうするか、と。

身内や隣人が反社会的人物となる可能性

似た事件が、長崎県の佐世保市でもありました。少女は、殺人衝動にとらわれた末に、同級生を殺したという、例のあの事件です。少女を野放しにしていた責任を問われた弁護士の父親は、世間から非難を受けた末に、自殺しました。

家族に狂人がいる苦労を想像することは、同じ状況にいない者にとっては難しいでしょう。しかし、たとえば隣人に執拗な嫌がらせを受けることや、ストーカーの被害に遭うことは誰にでも起こりうることです。他人に害を加えようとする狂人に出会う可能性は、どこにでも転がっています。

彼らが社会人ならば、彼らの非道を会社なり得意先なりに訴えて、兵糧攻めをねらうこともできるでしょう。ところが、相手が生活保護を受けていたり、親の財産を相続して働かなくてもよい、そんな相手だった場合は? 彼らには時間が十分にあり、失う社会的地位もないため、執拗な嫌がらせを避けることは困難です。

有り余る時間を使って、バレないように窓に石を投げたり、延々と苦情を述べ続けたりと、あの手この手の嫌がらせをおこなうことも多いのです。中には身の危険を感じることもあるでしょう。たいていバレますが、中には巧妙に証拠を隠すことに長けている者がおり、警察が動きようがないことも珍しくありません。

そんな狂人とつきあう羽目におちいったときに、さて、どうするか? この父親のように、殺すしかないのか? いざその状況に陥った時に、追い詰められた頭ではまとな判断ができません。平時に考えておくことが、大切です。

私の経験

今のところのベストな回答は、
「彼らから危害を受けたら、どんなに恥ずかしくても、怖くても、必ずその都度、警察に訴える」
ということではないかと思います。

冒頭の記事の事件では、母親に暴力を振るっています。長崎の同級生殺害事件も、その前に父親の頭蓋骨を陥没させるという暴力事件を起こしています。その時点で、警察に突き出さなければならなかったのでしょう。そうすれば、後日自分の手で息子を殺すことも、娘が他人を殺すことも、なかったかもしれないからです。

しかし、これは思った以上に、難しい。それは、昔私がとあるブラックな職場に勤めていた頃に、雇い主から木刀でのどを突かれたことを警察に訴えられなかった経験上、よくわかります。

警察に駆け込んでも、彼が逮捕されることはないでしょう。せいぜい厳重注意でしょう。のどの柔らかいところを突かれただけで痣もありませんから証拠もありません。逆に名誉毀損で訴えられるかもしれません。



しかも、彼は、
「もしもお前が逆らえば、懲戒解雇の上、以前の勤め先すべてに電話して、どんな人間か調べつつ、お前がどんなに無能な人間だったかを話してやる」
とうそぶくのです。

彼には実行力と執念深さを備えていました。たとえば、取引先の気に食わない役員に失礼な態度を取られたことがありました。そのとき彼は、その役員によって取引が中止されたあとに、その上司に敢えて大口の顧客を紹介したり、それをきっかけに他の役員と飲み食いを重ねるなどして信頼を勝ち取ったのちに、1年かけて件の役員を退職に追い込んだことがありました。

彼はゲームのように、誰かを嗜虐するのが好きな人間で、雇った人間が不幸になるように裏で画策するのが大好きなのです。だから、私の以前の勤め先に電話をしてあることないことを吹き込むというくらいの嫌がらせは、法に触れない範囲で間違いなくやるでしょう。

私にもプライドがあります。元勤め先を円満退社したものの、そこに嘘ではあっても妙な噂を吹き込まれるのは死ぬほど嫌でした。だから結局彼の暴力を警察に駆け込むことはできませんでした。

彼はこうした脅しで、前に勤めていた人間に暴力をふるい、自殺未遂に追い込んだりもしていました。弱い人間をねらって。世間に公表されることがないだろうと見越して。弱い人間にもプライドがあることを見越して。

プライドを捨てるのは難しい

この手のプライドが邪魔をして、結果大きな災厄に見舞われることは予想以上に多いのです。北九州監禁殺人事件でも、被害者が犯した小さな罪(不倫など)を表沙汰にされることをおそれて、加害者の松永太の言いなりになっていました。彼が犯す犯罪を警察に訴えることができませんでした。

犯罪者を警察に突き出すことに、普通ならば、誰もためらいを覚えないでしょう。ところが、相手が家族であったり、あるいは相手に弱みを握られていたりすると、警察に突き出すのは難しくなります。
 父親「警察に突き出すことは、三男を犯罪者にしてしまうこと。その後の報復を考えると、それは出来ませんでした」
 父親は法廷で、「三男は自分が犯罪者になることを恐れていた。家族がそうさせることはできなかった」とも話した。
と、冒頭記事の事件を犯した父親は証言しています。これもまた、プライドです。記事では「三男を犯罪者にすることはできなかった」と父は述べていますが、それだけでしょうか? 身内に犯罪者を抱えること、それが勤務先にばれることなどが恥ずかしい、という気持ちが、彼ら家族にあったのではないでしょうか?

日本人にはこの「恥ずかしい行動をしたくない」という気持ちが、自分でも思っていない以上に強いのです。それは社会の安定をもたらす反面、狂人や反社会的人物らに、つけこまれる隙をつくります。

江川達也の覚悟

こうした問題解決の参考例として、漫画家の江川達也さんがいます。
『東京大学物語』でおなじみ、ときどきテレビでコメンテーターとして活躍している江川氏は、元研究者である兄との間に、大きな確執を抱えています。

★ 親族に20億円騙し取られた森光子、実兄のせいで数億円失った江川達也…家族とお金の話

「1年研究してだめだったらやめてください」と結論を先送りした江川氏のもとには、さらに兄より執拗な電話がかかってくる。

「『お前が今まで稼いだ金と将来的に稼ぐ金も全部俺のものだ。死ぬまで稼いでも足りないぞ。早く金を返せ』『金を送らないと、お前のかみさんを“念”で殺してしまうぞ。殺したらお前の責任だ』『お前の目が見えなくなるぞ、いいのか』――こういったことを16~17時間にわたってネチネチと繰り返され、『このままでは、死んでしまう』と思いました」

江川氏は宗教に狂った兄から家族を守るために、兄を訴えます。それだけではなく、骨肉の争いを、継続することを決意しています。
「裁判が終われば、必ずまた兄が執拗に金を要求し、『お前の家族を殺してしまう』と言ってくると思うからです。私が死んだら妻や子どもが標的にされるでしょう。『俺の金を返せ。数兆円だ』とどこまでも追ってくるでしょう。兄が死ぬまで私は、生きて、家族を守るつもりです」
身内が狂人となるかどうか、反社会的人物が自分にからんでくるかどうかなど、自分がこうした争いに巻き込まれるか否かは、運次第です。それでも世間の中で、なんとか犯罪者とならずに、あるいは被害者とならずに踏みとどまるためには、現状の司法制度で出来る限りのことを、おこなっていくしかないのでしょう。そして、こうした争いを続けている人々を、応援していきましょう。


上記の本はお勧めです。犯罪者たちがどのように脅してくるのか、その場合にどのように立ち向かえばいいのか、くわしく書かれています。

2014年12月4日木曜日

将門の首塚はもっと評価されていい

日本には「三大怨霊」と呼ばれる三人の歴史上の人物がいます。
  • 菅原道真……当時最高の大学者。左遷されて903年に死亡後、怨霊化。
  • 平将門……桓武天皇の末裔が新皇を自称、反乱。940年に討伐され怨霊化。
  • 崇徳院……保元の乱を鎮圧されて、1164年に配流先で死亡後、怨霊化。
それまで日本で怨霊といえば、 崇徳院の方が、将門よりも有名でした。

崇徳院の数奇な生涯

崇徳院は悲劇の人です。天皇在位中も譲位後も鳥羽上皇に実権を奪われ、上皇亡き後は、逆恨みされることを恐れた鳥羽上皇の側近たちから命を狙われる悲運に見舞われます。

追い詰められて仕方なく乱を起こしましたが、とらえられ、讃岐(現・香川県)に島流しにされます。彼は本来、優しい人なのでしょう。戦死者の供養のために大変な量の写経を朝廷に送ります。

ところがこれを、「呪いをかけているのでは?」と疑われて突き返されたことに、怒りを爆発させました。堪忍袋の緒が切れ、舌を噛み切り、その血で「大魔王になって、天皇をその地位から引きずり下ろし、今は見下されている者を王にしてやる」と写経に書き込んで死ぬのです。

結局、その20年後には鎌倉幕府が成立し、朝廷の権力は完全に武士に奪われました。王政が復古するまで700年近くの間、崇徳院の呪いがかかっていたと言えなくもありません。

とにもかくにも、彼のすさまじい最期とその後の怪異によって、崇德院は人々におそれられ続け、様々な文学のモチーフとなりました。中でも有名なのは江戸時代中期に書かれた『雨月物語』です。江戸時代後期から末期にかけて大きな影響を人々に与えました。

物語の影響は、案外大きいものです。江戸の影響が色濃い明治時代には、崇徳院が非常に崇められました。明治天皇は即位するとき、崇徳院の御霊を京都へ帰還させる行事を行って、白峯神宮を創建して霊を弔いましたし、戦後になっても、昭和天皇が崇徳院800年祭を祀ったほどでした。

『帝都物語』の影響

ところが、1976年に放映された海音寺潮五郎原作のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』で平将門が主人公となった頃から、人々の注目が将門に集まるようになりました。

ただドラマで描かれたのは、あくまで歴史上の一武将というものでした。ところが1985年から87年にかけて刊行された荒俣宏の『帝都物語』で、平将門のもう一面、怨霊としての将門が大きくクローズアップされるようになります。

『帝都物語』は、平将門の生まれ変わりである加藤保憲が、東京を魔都へ変えようと画策する明治期から昭和73年(!)までの100年間を描く、という壮大な物語です。幸田露伴や泉鏡花、さらには角川春樹まで、実在の人物が登場して加藤と戦うのが特徴です。

小説は映画やアニメになりました。なかでも当時邦画界として破格の10億円をかけて制作された映画版「帝都物語」は、大変な反響を呼びました。しかし、興行成績は8位、興業収益は10億5千万円と、ほとんど儲けが出ませんでしたが……。

この映画は、とにかく嶋田久作がカッコ良いのです。脚本が大変お粗末で、どうしてこんな分かりにくい脚本にしたんだろう? と今でも思い出すと怒りが湧いてくるほどですが、それ以外、映像と演技が抜群によく、特に大抜擢された遅咲きの俳優・嶋田久作の怪演によって、映画が駄作になることを防ぎました。これほど「はまり役」という言葉が合う役は、ないかもしれません。


私は映画が先で、小説があとでしたが、小説の加藤のイメージは、嶋田久作の演じる加藤そのままでした。島田氏のブログを読みますと、ネコ好きの穏やかな芝居バカというキャラが浮かんできますが、私の中の嶋田久作は、あくまでも「帝都物語」のおどろおどろしい加藤です。

とにかく、「帝都物語」は興行成績こそふるわなかったもの、大きなインパクトを世の中に残しました。平将門ブームの火付け役になり、大手門にある「将門の首塚」には、大勢の観光客が訪れたといいます。

首塚は現代も

「将門の首塚」は、皇居のすぐ近くにあります。住所は、「東京都千代田区大手町1-2-1」であり、高層ビルに囲まれていますが、ここだけ異次元の空間のようです。

『帝都物語』以降、将門の首塚を題材にした作品は作り続けられています。少し前になりますが、ヒットして映画にもなった『鴨川ホルモー』の続編で2007年に刊行された『ホルモー六景』では、東京学生の鎮守行事が、この首塚で行われていたことなどが描かれています。

私は数度、この首塚を訪れたことがあります。なんとなく、妙な雰囲気がありまして、たしかに人々が、この神社に惹かれるのが分かりました。通りから中をのぞきこめるのですが、時間が止まったような鬱蒼感があり、長居をしたいとは思えませんでした。

東京の一等地に手付かずの神社があるのが、とても奇妙です。そもそも天皇のお住まいの皇居のすぐ近くに、天皇にかつて反逆した将門公の首塚がある、というのが不思議でなりませんでした。

ただ、よくよく考えますと、平成天皇の身体には、第六天魔王を名乗った織田信長の血も、天皇に代わり日本国の王たらんとして東照大権現を名乗った徳川家康の血も流れています。現在の天皇家自体が、江戸幕府に反逆して現在の地位に就いたとも言えるわけですから、その血に脈々と流れる反逆者の魂にとっては、むしろ平将門は頼もしい存在に思えるかもしれません。

『帝都物語』のブームも今はなく、皇居の近くにひっそりとたたずむ、この「将門の首塚」ですが、 せっかくこれだけの物語に彩られた神社です。もっと人々に、興味を持ってもらいたいものです。

現代の権威に反逆を試みようとする人々は、東京駅に寄ったついでに、この「将門の首塚」に参拝に行ってみてもいいかもしれません。