2013年3月11日月曜日

マザー・テレサ、ディスられる

昔、NHKに鈴木健二という名物アナウンサーがいた。

彼はアナウンサーとしても有名だったが、『気くばりのすすめ』という本を書いて大ベストセラーとなり、作家としての地位も確立した。一放送局のアナウンサーの本が400万部以上売れるというのは、今の時代には信じられない話だろう。

「鈴木の本は必ず売れる」
という評判を得たため、様々な出版社から類書が次々に出るようになった。

なにしろ彼の座右の銘が、
「多くの人は日記を書く、それならば私は原稿を書く」
というものだったから、原稿を書くのは全く苦ではなかったようだ。数多くの著書をものにしてきて、100冊は雄に超えるのではないか。

そのほとんどは自己啓発書のようなものであったが、いくら博覧強記の人とはいえ、次第に内容が似かよったものになってきたのは、仕方がなかったといえる。

もっとも重複しているのは、彼にとって思い入れのある内容だったから重複していたともいえるのだが、その中でもどの本にも必ず書いていたことの一つに、
「自分の尊敬する人」
についての記述があった。

「私の尊敬する人は二人いる。一人はドイツのシュバイツァー博士、もう一人は架空の人物シラノ・ド・ベルジュラック」
という、アナウンサーの名調子そのままで、いかにこの2人が素晴らしいか、子供の頃に読んだ彼らの物語がどれだけ鈴木少年の心を揺さぶったのかを、事細かに描き出すのだ。

……ところが鈴木氏が定年を過ぎた頃から、シュバイツァー博士のアフリカでの評判が決して芳しいものではないことが、日本でも知られるようになってきた。

Wikipediaには次のような記載がある。
 日本の児童文学者寺村輝夫が伝記『アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない。
 自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実である。現に、シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、あくまで白人を兄、黒人を弟として扱っていたため、アフリカの一部の保守階層を中心に、ヨーロッパの列強の帝国主義・侵略戦争・植民地支配のシンボルと見なしている者も少なくない。
シュバイツァーの悪評が世に知られるようになった後に出版された、著書の中の鈴木氏の狼狽ぶりは大変なものだった。現代は、偶像否定があまりに度を越している、人々から尊敬されてきた人間を貶めることはもう止めてほしい、ということを切々と訴えていたのだ。

哀れに思うと同時に、
「著書の中で散々旧世代を否定してきたあんたが、時代に復讐されたんじゃないのか?」
と思ってやや鼻しらむ思いがしたものだ。

とはいえ、長年尊敬してきた人間の醜聞を聞くのは悲しい。しかし、偶像をそのままにするよりも、真実を明らかにすることは、より現実に根ざした社会をつくり上げるために必要な行為だ。

所詮人間は、それほど聖人君子ではいられない。いや、聖人君子として名を売っている人の多くが、マーケティング戦略のために、そのような仮面をかぶっていることが多い。そのことを明らかにしていく人々の営為によって、虚飾に惑わされた人々が、他人のものではない自分自身の人生を歩みはじめるよすがとなる。

★ Was Mother Teresa actually sort of a jerk?
 敬愛されてきた修道女が、思われていたほどは貧しい人々のために役立っていなかったという新しい研究が発表された。
 カトリック教会がマザー・テレサを、長年の間待ち望まれていた聖人として正式に承認する可能性は高い。
 しかし、宗教的研究誌『修道女』に掲載された新しい研究によれば、昨今のマザー・テレサの高い評判は、人気低迷に苦しむ教会がそのイメージを刷新しようとしたほとんど誇大広告に等しいものである、というものだった。
 マザー・テレサの最大の罪とはなにか? 『タイムズ・オブ・インディア』によれば、それは、
「病人の苦しみを癒す代わりに、彼らが苦しむことを祝福して世話をする、といういかがわしい方法」
 だという。
 研究者たちはどのようにして、この物議を醸す結論にいたったのか? カナダの研究者のチームが約300もの資料を調べたところ、資金は不足していないにも関わらず、「死を待つ人々の家」のようなマザー・テレサの517の場所で、衛生基準が劣悪で、医薬品や物資、治療が足りていなかったことが報告されたのだ。この告発によれば、彼女の所属する組織である「神の愛の宣教者会」は寄付によって何百万ドルもの金額を受け取っていたにも関わらず、である。
(中略)
 また、論争の的となっているこの報告では、バチカンがテレサの聖人認定を人気回復の手段のために、カトリック当局が列福を後押しし、彼女の「奇跡」を否定する証拠を無視しているとも指摘している。
 こうした扇情的ともとれる発見が記されているにも関わらず、研究者たちは、マザー・テレサを汚すつもりはないと主張し、「彼女が、貧困に苦しんでいる人々を真に救い、貧困や孤独の原因を解決しようと活動している多くの人道主義者たちに影響を与えてきたことのようなこと」にも触れている。しかし「メディアのマザー・テレサに関する報道はもう少し正確であるべきだ」とも訴えている。(後略)
このニュースに対する人々の反応は様々だ。反発する人、攻撃する人、そして現実を受け入れようとする人、あるいはこれが何の問題があるのだろうと開き直る人々……。

私は後者で、彼女の考え方は一つの価値観として尊重されるべきだし、彼女がいなければもっと悲惨な目にあってきた人々が、それよりは、はるかにマシな状態で死を迎えられるようになったのだからいいではないか……と思うのだが?
"本当の利他主義は、賞賛を求めないためにほとんど気づかれない"

"貧乏人の役に立つ人で、世間で言われているほどもっともらしい人は誰もいないね"

"彼女はだらしのない経営者だった可能性がある。彼女が大豪邸に住んでいなかったことはみんな知ってる。それに86歳で亡くなるまでほとんど毎日働いていた。もしも私が80年代にいたとして、インドの医療問題を解決できただろうか?"

"彼女が亡くなってどのくらい経つのだろう? 生き返って欲しいと思う? 最近他人のために何をした?"

"それじゃこれからは、マザー・テレサをののしることになるわけ?"

"彼女は世間知らずだったのかもしれない。"

"皮肉にも、「主流」メディアが、死んだ独裁者のチャベスを持ち上げて(別のYahoo!記事に、そのような記載あり)、マザー・テレサの思い出を攻撃する日がやってくるなんて誰が思っただろうか?"

"Yahoo!の何が問題か? チャベスを持ち上げ、政治家ジョン・ケリーを称賛する記事を書き、マザー・テレサは愚かな人間だったという物語を広めるところ。Yahoo!はあらゆるものを曖昧にすることが目的なの?"

"豊かな国で何かする上では、ワイロがつきものということを、彼らが選んだ結論じゃないの?"

"これからマザー・テレサをほんの少し悪く描こう。何も言うことはない。どんなことでもいいんだ"

"ロイターの次の記事では、オサマ・ビン・ラディンが子供と子犬にどれだけ優しかったかを書くんじゃないの?"

"おいおい、マザー・テレサを攻撃しているよ? だれでもいいのか?"

"マザー・テレサが助けた人々は道端に捨てられて死んでいくはずだったんだよ。彼女に苦しみを取り去るために何が出来たと言うんだ? ほとんど死にかけた人々にとって、彼女は文字通り「人のぬくもり」だったんだ。「本当の」人生ではほとんどの人が味わったことのない優しさだったんだ"

2013年3月10日日曜日

文化的なホームレス生活

昭和50年前後の頃の話です。来日したあるアメリカ人の政治家に、日本人が質問をしました。
「日本で印象に残ったことはなんですか?」
それに対してアメリカの政治家は、
「びっくりしたことがある。日本ではホームレスが新聞を読んでいたことさ。これには驚いた」
と回答しました。

この話をとある講演で聞いたのは、昭和60年前後だったでしょうか。その頃はモノ知らずだった私は単純に、
「日本人はホームレス(当時は浮浪者と呼ばれることが多かった)でも新聞が読める! 日本人はスゴイ!」
としか考えなかったのですが、今になってこのエピソードを思い返しますと、そんな単純なものではないことが分かります。

① 当時のアメリカでは、識字階級ならば失業することがないほど、社会が豊かだった
② 当時日本はバブル前だが、それでも識字階級がもホームレスに落ちぶれることがあった
③ 日本には、ホームレスでも興味のあることが新聞に載っていること

このブログの読者は、私よりも頭の良い方々が多いためもっとたくさんのことを瞬時に思いつくかもしれませんが、私が思いついたのはとりあえずこの3点です。

①に関して言えば、知識階級が職を失うことがざらにある今のアメリカでは、ホームレスが新聞を読むようなことは当たり前となっていることでしょうし、②に関しては、高度経済成長期とはいえ、戦後日本はかなり貧しい時代が続いていた、ということが言えるはずです。

③に関して言えば、日本の大変スノビッシュな世相を反映している、と言えるのかもしれません。当時の情報入手の一番のメディアである新聞には、ありとあらゆる情報が満載だったのです。ある面で社会を論じているかと思えば、別の面では夫婦の夜の営みについて解説していたり……。こういった娯楽性が日本の特徴で、上流階級と下層階級が断絶していないのが日本の長所ですね。

もっとも、文字が読めるホームレスの読んでいた新聞とやらは、朝日や読売のようなお固い新聞ではなく、スポーツ新聞や競馬新聞の類かもしれませんが……。

ただ、新聞を読む、という行為は、単に「文字を知っている」ことを意味するだけではなく、知的好奇心を働かせる、精神的な余裕がその人にあることも、同時に示しています。

現在、都心部では、ホームレスの姿が当たり前のように散見されます。長引く不況に、公共事業が減った結果でしょう。でも、彼らを観察してみてください。ほとんどの人々は、ボンヤリと時間を過ごし、新聞を読んでいるような人々はほとんどいません。ゴミ箱で新聞くらいすぐに見つかりそうなものなのに、彼らは文字を読みません。たぶん、生きていくことで精一杯だから、読書をしたいという精神的欲求が湧いてこないのでしょうね。

私だってあなただって、いつホームレスへと身をやつすかわかりません。人生、何が待ち受けているかわかりませんから。でも、最底辺にあってさえ、新聞を呼んだり、あるいは装いに凝るような、精神的余裕を持ち続けていきたいとは思います。それが教養というものだと信じています。

彼らを眺めながらそう考えるのですが、同時に、
「そんなこと、無理じゃないか」
とも思っていました。最底辺な生活をしながら、文化的な生活を追求する余裕。それは果たして可能なのか?

それに対する応えを先日見つけました。私にとっては、この一枚の写真は衝撃的でした。
どこぞの公園に勝手に住み着いたホームレスのテントのようです。
手入れの行き届いたテントは、白を貴重としながら薄汚れていません。定期的に掃除しているのでしょう。周囲には松ぼっくりをしきつめています。そしてドアに窓ガラスを使う贅沢。廃屋から持ってきたのでしょうか? 軒先に置いた人形、壺、どれも道端に捨てていたものを持ってきたのでしょう。すべてゴミだったものを組み合わせ、魅力的で簡易的な日本庭園を作り上げています。

お金はほとんどかかっていないでしょう。廃棄物と自然物を利用して作り上げながら、とても上品で、洒落ています。不遇な境遇を恨むのではなく、楽しんでしまおうとでもいう、この強靭でしなやかな精神!! 脱帽しました。

豊かな家に生まれながらも、自己改革を怠り、ずぼらな生活、汚部屋と呼ばれるような生活に甘んじている人々がいます。そこに教養はないでしょう。それよりももっと豊かな精神が、この「家屋」にはあるような気がしてなりません。

最底辺の人の最上級の文化的生活。苦しい時、この写真をみて、私は勇気をもらっています。

2013年3月9日土曜日

イジることは愛情じゃない

愛情表現がまだ下手な小学生くらいの男子がよくやる過ちに、
「好きな女の子を思わずいじめてしまう」
ことがありますね。

その子が好きなのに、それを素直に表現することができません。一番気になるのが周りの目、でしょうか。友達にそのことがバレて、
「お前、◯◯のこと好きなんだろ! けっこん! けっこん!」
などとはやし立てられたら……と考えただけで、恥ずかしくて死にそうになります。でも、その子のことが気になってしょうがありません。自分のことを考えていてほしい、自分を振り向いてほしい、でも、好きだとは周囲にばれたくない。

そんな葛藤の末、取る行動が彼女をいじめてしまうという謎の行動です。小学校2年生の頃に好きな子がいた私の場合、彼女を好きだということを口に出せずに、彼女の机の引き出しに、口に含んだ水をみんなの前で吐き出す、という突飛な行動をとってしまいました。彼女は泣いていました。あのときの彼女は、まだ私のことを覚えているのでしょうか? そして、私のことを許してくれたでしょうか……。

子どもたちは、恋愛や性に大して妙に潔癖なものです。何故でしょうね?

もしかすると、思春期前の子供が、充分に身体が発育する前に性行為を行わないようにするための、本能的な自衛行動なのかもしれません。

そこからの延長でしょう。好きな人のことを「いじる」という愛情表現を、社会人になっても見せる人々がいます。

・好きだからこそ、からかう
・好きだからこそ、文句を言う
・好きだからこそ、怒鳴る

それの行き着く先は「好きだからこそ、殺してしまう」という阿部サダじみた猟奇殺人犯なのですが、
阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定が1936年5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。
それは極端にしても、歪んだ愛情表現を当然だと思っている人々は、今になっても多いものです。この記事を読んで「あるある」と思わず頷いてしまった人、多いのではないでしょうか。
ここでやっぱり一番問題なのは、イジってる側は愛情表現しているつもり、イジられる側はけなされてると感じて落ち込む、この食い違いだと思うのです。
そもそも「けなすことで愛情表現」というのが狂ってるように私には感じられるのですが、これは男友達のような奴に限らず、実は一部の女にも見られる行動。
人間には「支配欲」というものがありますから、けなすことで相手を困らせ、支配下に置いて優越感に浸りたい、という欲求を持つ人も多いのかもしれません。

この手の勘違いをしている人は、社会にたくさんいます。特に関西系の芸人に多いですよね。罵倒されたり頭を叩かれたりして泣きだしたタレントに、
「イジられることはおいしいんだ、と思わないといけない」
と芸人が説教する姿が、よくテレビで放送されませんか? 特にダウンタウンの浜田当たりがよくそれを言います。ダウンタウンに関わる人間に、この手の説教をする芸人、多いですね。

あれを観るたびに、私は苦虫を噛み潰したような不快感が腹の中に広がります。お仕着せがましい説教に、うんざりします。なぜ思ってもいないことを思えと強制されるのか。納得出来ない感情を押しつけられるのか。それは思想の自由の侵害だろ。なぜ大げさに言えば憲法違反になるようなことを公共の場で、堂々とこいつらは主張しているのか、とね。

「からかわれることは、大変不愉快なことだと思う。でも、そのことによって世間の同情が集まれば、あなたの人気も上がる。メリットとデメリットを比較して、メリットがあると思えばそれを利用すればいい」
という、こちらの気持ちに共感した上でのアドバイスならまだ分かるんですよ。イジられることは嫌なことだという共通認識が、そこにはありますから。

昨今ではよくサドだ、マゾだと言って人間を嗜虐と被虐の関係性に落としこみ、どちらかにカテゴライズしようとするのが流行りですが(これを言い始めたのもダウンタウンでしたね)、勘弁してほしいものです。

ちなみに、阿部定事件。満佐喜(まさき)という待合(今のラブホテル)のあった場所は、現在の東京都荒川区西尾久2丁目7辺りなので、お近くの方は散歩がてら周囲を散策するのもいいかもしれません。