2013年3月21日木曜日

「場」と「空気」の違い

佐々淳行(さっさあつゆき)という評論家がいる。元警察官僚で、内閣官房内閣安全保障室長という要職を歴任、過去にはあさま山荘事件の解決などに尽力した、有能な人物だ。

題材には事欠かない。さまざまな事件の裏面に関わった人物であり、頭がよく度胸もあるから、在任中のエピソードが豊富だ。その上文章にユーモアがあふれているので、小説を読むよりも異常に面白いエッセイや評論文を読むことができる。

彼の体験談の中に、香港のカジノの日本人と外国人の振る舞いが異なる、という分析があった。彼が香港総領事館領事も勤めていた頃に、カジノに出入りしながら感じたことだという。

カジノでは「ブラックジャック」というトランプを使った賭け事が人気だ。このゲームについて詳しく述べると退屈だろうから、イメージをつかんでもらうために簡単に説明するに留めたい。

テーブルに一人の胴元がいて、複数のプレイヤーがその周りを囲む。胴元が自分も含めてトランプを一枚ずつプレイヤーに配っていく。手札の数字の合計数が21を超えず、21に一番近くなるようにカードをそろえたら勝負を胴元に挑む。胴元に声をかけ、その時点で胴元の手札よりも合計数が多ければ、プレイヤーが勝つ、というゲームだ。
一見、プレイヤー対胴元の、一対一の勝負のように見えるけれども、そうではない。他のプレイヤーに配られたカードの一部はテーブル上に見えているため、胴元の持ち札の合計数は、他のプレイヤーの手札、表情を見ることで、予測することがある程度可能となる。

だが、それだけではなく、プレイヤー同士が連携をすれば、胴元の裏をかくことができるという。もちろん、イカサマをすればカジノから永久追放となるが、そうではなく、プレイヤー同士が暗黙の了解のもとで、言葉を交わさずとも、お互いに協力し合えば、胴元を陥れることが可能なのがこのゲームの醍醐味となるのだそうだ。

つまり「場を読む」ことが必要となる。

ところが、これが、日本人参加者が圧倒的に下手だったらしい。欧米人や中国人が、プレイヤー同士の暗黙の了解のもとで、胴元から(カジノから)協力しておカネをふんだくろうとするのに比べて、日本人プレイヤーは「自分だけが勝てばいい」という態度でふるまうものだから、日本人がテーブルに加わると、一斉に舌打ちが響くのだという。

著者である佐々氏は、外国人は他者と陰で共闘することがうまい、という結論を出していたけれども、それならば、日本人だって同じだろうと当時思ったものだ。「空気を読む」ことは日本人のお家芸ではなかったっけ?

海外では「旅の恥はかき捨て」的に、日本では考えられないような無作法な行為をしたくなるのはわかるけれども、カジノで空気を読むのは、自分のためになることなのだ。お互いに協力しあって「最大多数の最大幸福」を目指すことは、カジノに数回通えば、日本であれだけ空気を読むことを強制されて、もはや天性となっている日本人の多くは、その場の空気をすぐに理解できるのではないのだろうか?

昨今も、イジメだの何だのといった、日本の同調圧力に関する議論が盛んだ。そこでふとこのエピソードを思い出したわけだが、ふと、日本人の「空気を読む」ことと、賭博場の欧米人や中国人が「場を読む」とこととは似ているようで異なるのではないか、ということに思い至っった。

日本人は、身内の中では同調圧力は非常に強いけれども、逆に「外」の人間には甘い。「お客さん」が間違った行動をしても、大目に見るのが日本流だ。ウチとソトとを峻別する、というのが一般的だろう。

ところがここからは、「外人」「お客さん」と線を引いた異物と、協力し合おう、という意思は生まれない。価値観を共有しない人間とも暗黙の内に共闘して、利益を得ようとすることもない。

異民族に囲まれ、絶望的な状況の中で生き延びてきた欧米や中国の人々には、敵の中にも協力できる人物が必ずいるから、その相手と手を携えよう、という考えがどこかにある。価値観は異なっていても、欲望は人類普遍のモチベーションだ。金を稼ぎたい、社会から認められたい、などの欲望を必ず相手が持っているものと信じて、死中に活を求めようとする弱者の高度テクニックだ。

「空気を読む」とは、組織の中の上下関係の中に自分を位置づけ、周りの期待に応じた振る舞いをして周囲の感情にひたすら配慮する行動だ。だが、「場を読む」とは、もっと大局観からものごとを見ていくことである。

自分の利益にフォーカスしつつ、組織という枠組みにとらわれず、日本社会全体、あるいは世界に目を配る。この大きな世界の中でどのように行動すれば、時には組織を利用してでも、自分が一番利益を得ようと冷静に判断することだ。

そして、「場を読む」ことに徹すれば「空気を読む」ことなく生きていくことができる。

「空気を読む」ことが嫌で嫌でたまらない人は、日本でも多いだろう。それはこのブログを読んでいるあなたなのかもしれず、あなたは人知れず悩んでいるかもしれない。組織の中の不合理な不文律(お局様に気を使わなくてはならない、会議で正論を言ってはならない等)に拒否反応を示す人々にとって、日本は生きにくい社会だ。

だが、その性分をあなたは今さら、変えられまい。

だが、空気を読めないから組織の中で生きていられない、と決めつけるのは早計だ。ある時に、自分が異分子であるというあきらめに似た諦観を持ったのならば、「この状況をどのように利用し、世間とどのように関わっていけば、逆境を利用することができるのだろう?」という方向で、今の自分の立ち位置を考えなおしてみてもいいのではないか。

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