2014年6月23日月曜日

国会で野次がなぜ必要か

東京都議会本会で塩村文夏(あやか)議員の一般質問に対してセクハラ野次を行ったことで生じた騒動。議論が活発に沸き起こっています。セクハラなどの嫌がらせが日本では蔓延していますから、これを機会に年配男性の多い職場での意識改革が進んで欲しいですね。

ところがこの件に関するコメントやつぶやきに、
「野次の意味が分からない」
「そもそも野次は無駄だ」
というものが散見されました。それはちょっと違うのではないか、と考えていたところ、時宜を得た良記事が上がっていたのでご紹介します。

与野党それぞれ「野次飛ばし部隊」と呼ばれる、とりわけ声が大きくてユーモアのセンスがある議員(もちろん、その中には女性議員も含まれています)たちが控えています。「野次飛ばし部隊」として敵・味方から一目置かれるのは、議員として栄誉です。
彼ら、そして彼女たちはお互いに、ウケを狙い、弁舌……いや毒舌を競うわけです。
英国議会で野次がどれほど力を持つのか、野次が議論をいかに活発化させるのかについて、記事では詳しく説明しています。

それではアメリカはどうなのでしょう?

上の記事でも触れていますが、もっと詳しい説明が書かれた記事を見つけました。

★ 日本の常識はアメリカの非常識!? 日米議員のヤジ比較!
アメリカの上院は定員が100人。そして出席率が悪い時には10人くらいしかいない時もあります。ヤジを飛ばすということは物理的に考えにくいですね。上院の場合、賛成投票する予定の議員と、反対投票する予定の議員、そういう人達が事前にマッチングをして両方欠席することが出来るんですよ。
アメリカの議会では議論の応酬があまりなく、野次もなく、議会というよりも「会議」と言ったほうが良いもののようです。確かに合理的。しかし、衆人環視のもとにない議員は、ロビー団体の代理人に堕する危険性が高いのではないかと、危惧します。

学生の頃、法律制定の過程を公開する「議会」という制度を大変無駄なものと考えていた時期が、私にもありました。

「まるで猿芝居じゃないか。裏で官僚が根回しをしているに違いなく、最終的には多数決で決まるというのに、議論の中から政策が定まるかのようなふりをしてお茶を濁す国会というのは、無駄以外の何物でもない」
とね。

よって、当然野次にも反対。討論者の発言の妨げになるような不規則発言をなぜ許すのか? と疑問だったのです。

ところが、この論法でいきますと、アメリカのような質疑応答をしたい議員だけが議会に参加するのが理想のあり方となります。

いや、そもそも質疑応答も無駄というもの。今ではメールがありますから、お互いにメールでやりとりをして、HPで全文公開すればいいのかもしれない。

……と、こう合理化の極地点を見すえてみますと、薄ら寒くなったものです。時間の制限のない、書類上で行われる議論の応酬は、紙に直せば何百ページもの厚さになるでしょう。それをすべて読む気力のある人は暇人や研究者、ジャーナリストだけになることでしょう。

ほとんどの人が議論の過程を垣間見ることなく、いつの間にか政策がさだまっていく社会。それに私たちは、心から得心できるものなのでしょうか。

社会はそれとは逆の方向で発達しています。たとえば現在は、契約書さえ交わせば契約がすべて成立する、というものではありません。
お金を借りるとき、家を借りるとき、携帯を契約するときなどては、重要事項説明書をもとに、誤解されがちなところを口頭で契約者本人に読み上げてもらい、納得したことをチェックをしてもらう、という"再確認"手続きが必要なのをご存知の方も多いはず。

立法・行政もまた然り。

実際に法を定め、政策を実行する人々の姿、行動を、この目で見て、この耳で聞くことで、政策が自分たちの議論の結果、定まっているという臨場感は共有できません。

野次を飛ばす議員の姿に、多くの人は感情移入することでしょう。パフォーマンスと言えば、パフォーマンスですが、それは必要な、自分が衆議決定の一員であると"再確認"する、重要な機会なのです。

議会の野次や拍手などがどれほど民主主義にとって大切なのかは、東ローマ帝国の故事を探ればよいでしょう。

ローマ帝国は建前上、民主主義の国。主権者は元老院と市民であり、ローマ皇帝は市民の第一人者である、ということになっていましたので、共和制から帝政移行後も、ローマ帝国では議会で活発な議論が行われ、野次も飛び交っておりました。

ローマ帝国が東西に分裂後、より長く命脈を保った東ローマ帝国。ここでは皇帝の独裁権力が強く、ほとんどの政策は議会ではなく、皇帝と官僚が定めていました。しかし、偉大なるローマ帝国の末裔であることを証明するために、彼らは形式的ではあるものの元老院議会を開催して、そこで皇帝の勅令に対して、賛同の声を上げる、という儀式が行われていたと言います。

私たちの声の代弁者が議員だとしたならば、答弁者だけではなく、野次を放ち、拍手をし、エールを送る声もまた、私たちの感情を代替するものと言えましょう。野次や怒号の果てに決議されたものの方が、密室で少数の「合理的判断」で決められたものより信頼できるのです。

政治とは妥協の産物です。数千の様々な思惑の中、微調整をしながらよりよい政策を選んでいきます。ところが、合理的だと思われたことが、後日不合理だと判明することなど、枚挙にいとまがありません。見る人によっては、政治とは失敗の連続。

だとしても、私たちは責任をとり続けなければなりません。官僚による合理的選択よりも、民主主義による集合知を私たちは信じ、試行錯誤を受け入れています。

後は、議論の過程に納得できるか、否か。数年に一度、数千分の1、数万分の1の効果しかない投票行為だけでは納得することは難しいでしょう(もちろん、投票はしますがね)。目前の議会の活発な討論と、そこでの怒号や野次の応酬のお陰で、定まった政策は私たちが選んだものだという得心を得られるでしょうし、そこまで含めて、議会制度の利点です。

会社の会議でも、野次を飛ばしてみてはどうでしょうか。会議が活性化すると思うのですが、いかがでしょう。

1 件のコメント:

  1. まるで議員の野次が国民の声であるかの様におっしゃいますが、あくまで議員個人又は政党組織の構成員による不規則発言に過ぎないのではありませんか?誰もそんな事は頼んでいないし、その為に彼らに投票したわけでもない。議員である事の再確認はご自分で勝手に、他の場所でやって頂きたい。
    野次がなければ密室での会合になるというのは、民主主義である以上は一寸考えたらあり得ないだろうくらいは解ります。野次のない話し合いをテレビ中継なりネット配信すれば済むではありませんか。
    野次で、本来発言を許された人の言葉がかき消されたり、中断してしまうというのは如何にも無駄だし、話を聞きたい人間としては「うっせぇな」となります。今の日本の国会の野次に、ユーモアがありますか?薄汚い言葉や、何を言っているのか解らないような怒声しか聞こえませんけど。

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