2013年9月14日土曜日

自分のブログを見直すと、同じようなテーマを多く扱っていた

『バクマン』より
三連休であることもあり、これまで書いた自分のブログを見なおしたりブックマークをつけた記事を見なおしたりすると、同じようなテーマで幾度となく記事を書いたことに気づく。
  • 従軍慰安婦
  • 韓国の悪質な反日要求
  • イジメ問題
  • 尼崎連続殺人事件
  • 体罰
  • ワタミ
  • 禅寺の暴力
などなど。

根っこに共通しているものがある。目下の者は目上の者に絶対服従すべきだ、という盲従への反感、強圧的なものへの嫌悪感、暴力への忌避感だ。

第二次世界大戦の時のイギリスの指導者であるチャーチルが、かつて日本をこう評価したそうだ。
 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数が上がるのに、それができない。それでもう一度、無理難題を要求すると、これも呑んでくれる。すると議会は、いままで以上の要求をしろという。
 無理を承知で要求してみると、今後は笑みを浮かべていた日本人がまったく別人の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては刺し違えるしかない」
と言って突っかかってくる。
 英国はマレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈されシンガポールを失った。日本にこれ程の力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
これが果たしてチャーチルの言葉なのかどうか、議論があるようだが、仮にそう言ったとしよう。これを聞いて、
「そうだ、日本人は黙って譲歩を繰り返す、穏やかな民族だけれども、やるときはトコトンやるんだ」
という、何か誇らしい気持ちになる日本人は多いと思う。かつての私がそうだったように。

実際、上記のチャーチルの言葉は日本人が「こうありたい」と望む日本の姿だ。穏やかで涼しげではあるが、武士としての一分は決して失わず、いざというときは死をためらわずに敵へ敢然と立ち向かう、という生き方。

だが、この美徳には裏側がある。たとえ嫌われようとも言葉で物事を解決してやる、という意思がそこには寸毫も感じ取れない。戦争は外交の一手段だとしても、戦争に至る外交は下の下である、という視点がない。

以前、「曹洞宗の暴力事件を知って」でも書いたように、日本人は近代化の過程で、暴力、体罰を内在化した。暴力による教育は、軍隊から村へ、家庭へと持ち込まれていった。

その薫陶を受けた韓国や朝鮮では、未だに日本の悪しき伝統が蔓延し、目上の人間が暴力によって目下の人間を支配するのが当然、という雰囲気が残る。元々あった両班(ヤンパン)支配がそれに輪をかけてしまい、彼の国の上下関係は、なかなかに凄まじい。それが、日本相手に悪い形で噴出している。

中華文明をもたらした兄である(と思い込んでいる)朝鮮を敬い媚びへつらわない日本に苛立ち、先に西洋文明を学び立場が逆転したことにさらにコンプレックスを抱えてしまい、執拗に日本に屈服を求めている。

朝鮮人が日本人の支配にトラウマを抱えたのには他にも理由があるようだ。年配の日本人で韓国・朝鮮にシンパシーを感じている人々には、子供時代に朝鮮半島で生活し、敗戦後に住処を追われて帰国した経験を持つ人々が多い。

敗戦時には現地で酷い目にあった人々が多いだろうに、彼らから朝鮮人への恨みつらみが聞こえてくることはあまりない(五木寛之などを念頭においている)。なぜなら、彼らは朝鮮半島で親の世代に当たる日本人たちが、現地人に対してどれほどひどい暴力をふるっていたのか、その目で観ていたからだ。

朝鮮で子供時代を送り、朝鮮人にシンパシーを表明する日本人は一様に、
「朝鮮人にあんな酷いことをしていたのだ。日本人が敗戦時に仕返しされてもしょうがない」
と述べる。

とにかく、現地で日本人はなにかといえば朝鮮人を殴っていたらしい。それを観ていた子どもたちにとって、共感できるのは、日本人の親ではない。自分と同じように殴られて泣いている朝鮮人たちだ。結局ここの根っこにも、日本人の暴力性向、上下関係の強制という問題がある。

ワタミでは暴力はないようだが、「夢」という曖昧模糊とした独善的な価値観で従業員を洗脳し、それに従わない人間を下賤とする渡邉美樹の手法は、精神的な暴力だ。少なくとも、契約と基本的人権を貴重とした近代社会のあり方と異なる、支配被支配の関係で成り立っており、そこに反感を感じるから、ワタミが多くの人から嫌われる。

ほんの少し前までは、日本人の中には異常なほど体罰信仰が強かった。今の60代の連中なんて、子育ての時に子供を殴るのはしょっちゅうだった。初期の『3年B組金八先生』では、平手打ちが当たり前のように出てくる。

戦後になって男女の平等を謳った『青い山脈』で男女が平等になったことを象徴するシーンは、男女が対等に議論を交わすシーンではなく、女性が男性を殴るシーンだった。ここにも、日本人の内側に根強い暴力信仰が垣間見える。

昔、中国人やパキスタン人が数多くいる工事現場で働いていたことがある。その中で、仕事をどうしても覚えない中国人がいた。年配の男性が指導役だったが、あまりに物覚えが悪いため腹が立ったのだろう、ヘルメット越しに、持っていたスパナで、ゴツンと中国人男性を殴った。

その途端だ。

数十人いた中国人とパキスタン人が、いっせいに仕事を止め、指導役の男性を取り囲み、
「暴力だ!」「何をあなたはやっているんだ!」
と口々に叫びながら詰め寄り、抗議を始めたのである。当然工事は中断した。

見事なほど彼らの動きは統率が取れていた。事前に打ち合わせなどない、突然の出来事に、彼らは見事なほど同じ反応を見せた。
「暴力は絶対に許さない」
という強い意思だ。

彼らにとっては、暴力は決して見過ごせないものなのだ。我々日本人労働者はぽかんとそれを見守るばかりだった。

日本人は長い間、あまりにも暴力に寛容であり、それを上下関係の強化のために利用し続けてきており、それが原因で、様々な問題がそこかしこで生じている。日本の諸問題は、よくよく見ると根っこにこの「上下関係の強制」「暴力」がある。

私はそれがどうにも苦痛で、しばしばこの手のニュースに言及せざるをえないらしい。

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