2013年9月29日日曜日

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と述べたのは、ドイツの名宰相であるオットー・ビスマルクということになっている。
だが彼が本当に語った言葉は微妙に異なる。正確には、
愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。
Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.
というものだという(出典:Wikipedia)。

しかし、上記の言葉そのものより「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉のほうが人々によく知られている。格言というものが時間によって取捨選択された人々の智慧なのだとしたら、冒頭の言葉の方が、格言としてふさわしい。

確かに、個々人のせまい経験から導き出された判断よりも、多くの人々の経験を広く集め、比較検討し、客観的な事実として定着した歴史を元にして判断した方が、間違いがない。「三人寄れば文殊の知恵」とも言う。集合知による判断は個人の偏狭な判断力を大きく上回る。

経験に学ぶ愚は、歴史を見ても明らかだ。

イギリスは歴史に学んだ


イギリスが世界中を植民地にして回ることに成功したのは、この国が「判例」を重視することで名を馳せた国で、歴史を重んじることを国是とした国であったからだ。彼らは、植民地経営に乗り出すまでに、膨大な知識を記録、整理し、歴史としてまとめる作業を数百年かけて行い、智慧をひたすら蓄え続けてきた。

彼らに侵略されたアフリカや南アジア、北米大陸やオセアニアの土着の人々が、自分たちの狭い経験をもとにイギリス人に対抗したのに対して、イギリス人はローマ史からの歴史を学び、マキャベリなどの天才たちの知識を学び、それを自国に生じた事件に当てはめ、自家郎中(じかろうちゅう)のものとした歴史上の知識をもとにして、原住民を効果的に分断統治し、世界の半分を支配することに成功した。

確かに、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は正しい。

経験に学ぶことは無駄なのか


だが、この言葉はときに、個人の体験をないがしろにするためにも使われる。
「自分の体験だけでものごとを判断してはダメだろ。もっと歴史を知らないと。『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』というではないか」
などとね。

果たして、個人の経験を省みることは、歴史を学ぶことよりも意味のないことなのだろうか。

否。

「愚者は経験に学ぶけれども、聖人は経験から悟ることができる」
とも言えるのではなかろうか、と、ふと考えた。

中国の明代の思想家に、王陽明(おうようめい)という人物がいる。
若い頃に、武芸を学び全てに秀でると同時に、多くの書物を読み、広い知識を得たものの、確固たる判断力を得るまでにいたらず、長く迷い続けた。科挙という、今の司法試験以上に難しい試験にも受かるほどの知識も得たのに、心から納得することができなかった。

ところがあるとき、辺境の地に左遷されたのをきっかけに瞑想三昧の生活を送り、ついに「龍場の大悟(りゅうじょうのたいご)」と呼ばれる悟りを得た。それから何千人もの若者を指導し、政治家としても軍人としても一流の業績を挙げるという、八面六臂の大活躍をする。

彼は、
「書物が無くとも、思索を深めることで、人は聖人になることが出来る」
と説いている。

聖人は賢者を超える

王陽明に限るまい。釈迦も、キリストも、ムハンマドも、そして彼らから学んだ多くの聖人たちも、深い瞑想、思索の果てに悟り、多くの人々を導いている。瞑想は個人の経験をもとに思索にふけるものであり、書物を読みながら歴史的考察を深めるものではない。

イギリスはたしかに、世界中に植民地を得た。だが、その繁栄の源泉でもあるインドを、たった一人の「聖人」によって奪還されたではないか。
マハトマ・ガンジーは、南インドで弁護士を開業していた時に、インド人差別の実体を知る。生涯をイギリスの圧政との戦いに捧げることを誓い、創設した農園で、禁欲、断食、清貧、純潔を実践する瞑想生活を送ることで、あの高い精神性を得た。

彼の不服従の思想は国境を越え、世界中に感銘を与え、インドを独立させ、そしてイギリスの世界支配を終焉させた。

確かに、経験に固執する愚者は、歴史を学んだ賢者から支配される。だが、己の経験を「悟り」にまで深く掘り下げた聖人は、賢者を凌駕して、愚者を支配の鎖から解き放つことができるのだ。

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