2014年5月31日土曜日

やる気を出すためには無理やりやるしかない

自然にやる気が出てくる状態が理想だと、以前は思っていました。

ところが、30代後半のこの歳になって痛感するのは、この手の希望は、単に怠惰の言い訳にしか過ぎないということ。

「七つの大罪」をご存じでしょうか。

「セブン」という映画で、キリスト教の知識の少ない日本人にも知られるようになった概念です。キリスト教では人間を悪へと誘うものとして、
・傲慢
・貪欲
・嫉妬
・憤怒
・貪欲
・色欲
・怠惰
を挙げています。ちなみに、怠惰を司るのはベルフェゴールという悪魔。見た目はこんなのです。
中世ヨーロッパの伝承によれば、人間界を観察して、
「幸福な結婚というものはあり得ない」
という結論を出した悪魔だと言われています。

怠惰な人間は、この悪魔に支配されているということですね。不幸な結婚の大本は怠惰にある、ということなのかも。

……まあ、それは冗談だとしても、怠惰の悪魔から逃れる方法は、誰しも知りたいはずです。

しかし、それは最近の脳の研究によって明らかにされつつあります。研究によりますと、やる気のスイッチは前脳に存在する細胞集団「側坐核(そくざかく)」であり、これを刺激する方法は、
「やり始める」
ことしかないのだそうです。

やる気を出すためにやらねばならないとは、何たる矛盾!

これは無理ゲーのように思えますが、そのハードルを低くするのが、「習慣化」という作業なのだそうです。

本来やるべきことへのやる気が出ない人は、実は、すでにやる気を出してしまっていることが多いのです。つまり、大抵の場合、他の余計なことをしてしまうから、本来やるべきことをやらないのですが、それは、漫画を読んだり、携帯をいじったり、ネットサーフィンしたりといったことをする、「習慣」がすでに出来上がっている、というわけです。

つまり、すでにやる気が出ているのであって、やる気がないわけではない、ということを認識する必要があります。携帯をいじり始めたから、携帯をいじるやる気が出ている、ということ。いったんやる気が出たものを、途中でやめるのは大変困難です。

では、本来やるべきことをどうすれば習慣化出来るのか? それについて確か、ケリー・マクゴニガルだったと思いますが、本来やるべきことを、遊ぶ前に、ほんの少しだけやる癖をつけるという方法を提唱していたように思います。

携帯をいじる前に、1分間運動をするとか、ネットサーフィンの前に、1分間単語の暗記をするなどを心がけるとか、キャンデーを舐める前に、1分間本を読むとか。

たったそれだけで、一度やる気の炎がともり、携帯をいじり始めても、それを途中でやめる自制心が次第に養われるようです。



こういう記憶は覚えていても、使わないと忘れていくものですね!

とりあえず今日から、電子書籍を1分間、書くようにしよう。

2014年5月30日金曜日

『アクト・オブ・キリング』製作の背景にはなにがある?

映画「アクト・オブ・キリング」を観てきました。

きっかけは、名も知らないラジオ番組。夜8時頃、ラジオをつけながら食事をしていますと、とあるパーソナリティーが、この映画を大絶賛していたんですね。

正直、その解説を聴いただけで内容はほとんど分かってしまったのですけれども、内容を知っていても観る価値のあるのが素晴らしい映画であり、この「アクト・オブ・キリング」はどうやら、それだけの価値のある映画のようなので、行ったことのない駅から遠く離れた渋谷の映画館まで、足を伸ばしてきたのです。

映画について、少しだけ解説しましょう。

1965年、スカルノ大統領失脚と同時に、インドネシアでは共産党員と疑われた人々が100万人ほど、短期間に殺されました。まさに大虐殺。当時の大虐殺を主導した加害者たちの醜悪な自慢話を元にして作られたドキュメンタリーが、この「アクト・オブ・キリング」です。

大虐殺の実態については私が解説するよりも、「9月30日事件」というキーワードでお調べいただいた方がいいかもしれません。

事件について述べ始めると、映画について書くスペースが無くなりますので、ここでは簡単に触れるにとどめますが、この暴動の背景には権力闘争があり、中華系住民への反発があり、貧困層による現状打破という側面がありました。虐殺のきっかけとなったスハルト元大統領は、つい数年前までインドネシアで独裁体制を敷いていましたので、その影響が残るインドネシアでは、このときの事件を否定的にとらえることは今でもタブーとなっているそうです。

「アクト・オブ・キリング」は、その悪夢を容赦なくえぐり出します。

試写会には、スカルノ元大統領の三番目の奥様だったデヴィ夫人が出席。映画について下記のようにコメントを残していました。

★ デヴィ夫人、インドネシア大虐殺の真実を暴いた米監督に感謝

彼女が大絶賛している通り、この映画は観る価値のあるものです。

まず、映画としてよく出来ています。スプラッタ映画のような残虐なシーンは割愛されてほとんど出てきません。代わりに、出来の悪い特撮技術を使った惨殺シーンなどがはめこまれています、それが逆に(現実から離れられないという意味で)リアルで、笑えて、同時に気持ち悪いのです。

また、ドキュメンタリーという形式をとっているにも関わらず、素人のはず登場人物たちが、本職の俳優顔負けの、味のある、カメラ視線を意識した「演技」ができていて驚きました。これは予想外でした。

特に主人公のアンワルという男性には、心が惹かれました。まるでマンデラのような穏やかで知的な風貌。その風貌にふさわしい、含蓄あるセリフの数々。次第に過去をくやみ始めるその狼狽ぶりが、非常に人間的で、魅力的でした。

映画についての感想は、映画レビューでも読んでいただくとして、ここではなぜこういう映画が撮られ、世界中で放映されるにいたったのかについて、映画を見ながら考えたことを述べることにします。

この映画が製作されたのは2012年です。それまでインドネシアのスハルト政権をアメリカが後押ししていたこともありまして、スハルトの不利になる情報は西側諸国に現れることは、あまりありませんでした。東西冷戦の影響もありまして、「9月30日事件」で行われた共産党狩りは、インドネシアの過去の栄光として、世界とインドネシアで共有されてきたのです。

ところがこの映画では、インドネシアで共産党員に対する虐殺がいかに凄まじいことだったのか、共産党という理由だけで排斥しようとした人々が、いかに非道の限りを尽くしたのか、中国系の人々に対する差別がいかにひどかったのかを克明に描き出します。

これをイギリス・デンマーク・ノルウェーの3ヶ国が合同で製作し、世界中に配給したのです。

映画を作る上で必要なのは、「いい企画」と「監督の熱意」だけではありません。スポンサーがつかないといけない。「こういう映画をつくりたい」という企画があっても、それを応援しようとする資本の存在がなくてはいけません。

この手のドキュメンタリーは、あまり客が見込めません。現にWikipediaによれば、制作費は100万ドルもかかっているのに、アメリカでの興行収入は45万ドル。世界中で視聴されたので、もちろん興行収入はそれ以上となるでしょうが、それでも赤字なんではないでしょうか。

この、最初から大成功の見込めない映画製作に、ゴーサインを出したスポンサーたちのことが気になります。彼らはなぜ、このような判断をしたのでしょうか?

陰謀論に加担するつもりは毛頭ありません。どこかの会議室に世界を牛耳る資産家や政治家が一同に会して、世界をデザインするとか、ユダヤ資本が世界を操っている、などという妄想には与しません。

しかしながら、人々の雰囲気、全体意識が、人々を空気のようにからめとり、まるで強力な強い一個人の命令のような効果をすることは、あると思うのですね。

そうしますと、この映画の製作、配給が広く行われた背景には、西側諸国に蔓延する中国共産党へのアレルギーを、削ぎたいという大勢の資本家の意思が、背景に存在しているのかもしれません。

今の中国は、西側諸国にとっては脅威とはなり得ません。各国の共産党はもはや、欧米諸国の貧しい人々を救う手段とはなり得ず、かといって中国共産党が、かつてのソ連の代わりに彼らを糾合して欧米資産家を打倒の旗振り役を務める可能性は、"0"でしょう。

中国が目指すのはあくまで「中華秩序の再構築」ですので、日本を含む周辺国が、かつての朝貢国のように中国の権威を認め、その意思に服従しさえすればいい。そして大秦国(ローマ帝国)と漢が穏やかな交流を続けたように、中国と欧米が相対するあり方が理想です。

国境がなくなり、世界がひとつになる過程で、各地域の盟主的存在が、その地域ににらみをきかせるというあり方は、欧米諸国にとっても目指すもののように思います。特に欧米の資本家たちにとっては、自分たちの収奪的手法に協力する、奴隷主のような盟主の存在はありがたいはず。

そうしますと、資本家にとって大変都合のいい、この「中国」という存在を、現状のまま、欧米の民衆が受け入れられる下地を作りたいという意識が、資本家たちの根底にあるとは考えられないでしょうか。

実際のところ、ダライ・ラマの追放だとかチベット人、ウイグル人、法輪功信者への拷問だとか、中国では看過できない人権侵害が長年行われているのは間違いありません。広く知られているために、中国共産党のイメージは相当にネガティブなものです。

このイメージを民衆から払拭するためには、どうすればいいでしょうか?

「アクト・オブ・キリング」の舞台となったインドネシアは、そのキャンペーンのための道具として、大変都合のいい国です。欧米とも中国とも、そこまで密接な関係はなく、この国の過去の歴史を糾弾しても、大きなしっぺ返しを食らう心配はありません。

さらには、欧米とも中国とも離れた場所にあるために、客観的に、中国に触れずして、共産党、中華系住民への同情を訴えることも可能です。

「アクト・オブ・キリング」を観た人々の意識は、変容するでしょう。
「中国共産党というだけで、彼らを毛嫌いしていた自分たちは、この映画の中のフラマン(=ヤクザ)達と変わらないじゃないか」
とね。

今の時代にこの映画が製作され、世界中に発信された背景には、このような資本家たちの意向が底流にあるかもしれない、という見方は、少々うがち過ぎでしょうか。


ザッケローニがオーケストラの指揮に挑戦!! 奏者=自動車

5/27に行われたキプロス戦は、辛勝でした。

サッカー日本代表のこの試合の評価は分かれるようですが、ザッケローニ監督への人々の信頼は、ほとんど揺るぎませんな。彼が名将であることは衆知の事実だからでしょう。

それに……。

批判が大変多かった岡田監督の名采配の記憶がまだ新しいことも、人々のザッケローニへの信頼が揺るがない原因の一つでしょう。

ワールドカップ前に批判ばかりして、勝利の美酒が苦くなることを、人々は恐れているのかもしれません。

いずれにせよ、ブラジルワールドカップ開催まであと一週間と迫ったわけですが、ここに驚きのニュースが。

ザッケローニ監督が、サッカー選手を指揮するだけではなく、最近はオーケストラで指揮者としても活躍中だそうです。映像をご覧になった人はいらっしゃるでしょうか?
そのニュースタイトルを知った人は、
「さすが芸術の国・イタリア出身だ」
と思ったかも。ソニーの大賀典雄が経営者と音楽家の二足のわらじを履いていたように、彼も音楽家としての素養があるのかも知れませんし?!

……違ったようです。

ザッケローニが指揮官から指揮者へ挑戦した動画がyoutube上で上がった。これはサッカー日本代表のサポーティングカンパニーであるアウディ ジャパン株式会社が日本代表を応援するための動画で、AudiJapan公式YouTubeChannelにて公開されている。
(共同通信)
 詳しくは【アウディの公式サイト】に書いているのですが、どうやらアウディが販売する11車種を、サッカーの11人のプレイヤーに見立てている模様です。ちなみにその11車種とは、
・Audi S3 Sportback
車両本体価格: ¥6,710,000(税込)
・Audi S4
車両本体価格: ¥9,085,429(税込)
・Audi S4 Avant
車両本体価格: ¥9,355,429(税込)
・Audi S5 Coupé
車両本体価格: ¥10,046,571(税込)
・Audi S5 Sportback
車両本体価格: ¥9,876,571(税込)
・Audi S5 Cabriolet
車両本体価格: ¥11,236,000(税込)
・Audi S6
車両本体価格: ¥13,377,715(税込)
・udi S6 Avant
車両本体価格: ¥13,837,715(税込)
・Audi S7 Sportback
車両本体価格: ¥13,777,715(税込)
・Audi TTS Coupé
車両本体価格: ¥8,065,715(税込)
・Audi SQ5
車両本体価格: ¥9,250,000(税込) 
すごいな。合計で1億536万8860円のオーケストラ。こりゃ、サッカーの試合よりも緊張しそう。

ザッケローニ指揮のエンジン音は、残念なことにお世辞にも音楽のようには聞こえませんが(ましてやヴェルディのアイーダを想像するのは私には難しかったです……音楽が鳴り始めるまで)、それでも、美しい斜体のエンジンから吹き出す排気音の奏でる重低音って、ちょっと魅力がありますね。

ちなみにアイーダとは、こういう曲です。

高級車を背景に放つ、
「挑戦こそが、革新を作る」
というザッケローニの言葉にも、重低音に似た含蓄があります。

ザッケローニは元々無名のサッカー選手。病気と怪我のために20歳前に引退した後、家の仕事を手伝ったり、保険代理店を経営したりしながら、サッカー指導者になるために必死の努力を続け、苦節10年の末に30歳でサッカー監督になりました。

彼の人生は挑戦の連続。失うもののないどん底からの出発があったからこそ、常に革新を起こす挑戦を続けることができるのでしょう。

ワールドカップが楽しみになってきました。お祭を盛り上げるためのアウディの挑戦も、なかなかいいものです。



……というわけで、インフルエンサーワイヤー(iWire)を元にした記事を、初めて書いてみました。

インフルエンサーワイヤー
(共同通信)

iWireとの関係について
ブロガーと企業とを結ぼうという、アジャイルメディア・ネットワークの試みに賛同して、インフルエンサーワイヤー(iWire)事務局から送られてきたニュースレターをもとに記事を書いたものです。


2014年5月29日木曜日

「舞の海氏が排外発言」というのは大嘘だった

私、立場的には自分は保守的だと思っていますが、本多勝一のことは、高校生の時に『殺される側の論理』を読みまして、ファンとなりました。まあ、彼も一種の保守とも言えるのかもしれませんが。

その本多氏が「週刊金曜日」という雑誌を創刊したときには、頑張って欲しいと陰ながら応援していました。とはいえ、彼らの思想、運動にはあまり共感できるものもなく、新聞の広告などで見かけることはあっても、読むことはありませんでした。しかし、こんなヨタ記事が掲載されているんですね。

「週刊金曜日」オンラインニュースに掲載されていた記事です。

“昭和天皇万歳”集会で――舞の海氏が排外発言(2014 年 5 月 22 日 6:27 PM)
(↑ほんとうに、こういう題名です。リンク先を参照してください)
 改憲を唱える政治団体が4月29日、東京・明治神宮会館で開いた「昭和の日をお祝いする集い」で、厚労政務官・高鳥修一衆院議員(自民)らを先頭に、来賓と全参加者約250人が起立し、“聖寿万歳”と称し「天皇陛下万歳」を大合唱した。
(中略)
「昭和天皇と大相撲」と題し“記念講演”をした舞の海秀平氏が「外国人力士が強くなり過ぎ、相撲を見なくなる人が多くなった。NHK解説では言えないが、蒙古襲来だ。外国人力士を排除したらいいと言う人がいる」と語ると、参加者から拍手が湧いた。“日の丸”旗を手にした男性が「頑張れよ」と叫び、会場は排外主義的空気が顕著になった。さらに舞の海氏が「天覧相撲の再開が必要だ。日本に天皇がいたからこそ、大相撲は生き延びてこられた。天皇という大きな懐の中で生かされていると感じる。皇室の安泰を」と結ぶと、大拍手が起こっていた。

 最後の拓殖大学吹奏楽部による記念演奏会は“昭和のメロディー”と題されたものだが、「陸軍分列行進曲」「軍艦行進曲」など、軍歌が多かった。天皇のために人々が犠牲となる「海ゆかば」は、筆者を除く全員が起立斉唱していた。
私はこれを読んだ時に、
「あっちゃー。舞の海氏、リップサービスをやり過ぎちゃった……」
と舞の海氏のために嘆息したものです。

相撲が日本の娯楽として定着した一つの理由として、出身力士を応援できる、という理由があります。日本は地域性が高い国であり、人々は地縁を大切にします。おらが村・町の出身者が活躍するのが、我がことのように嬉しい……この感情が、力士への応援につながります。

ところが、外国人力士には、そのような感情を覚えにくいです。それを差別として否定するのならば、他人の子供よりも自分の子供のほうが可愛いと思う感情さえも否定しなくてはなりません。もっとも、今の情勢ではそうなってもおかしくありませんけれどね。

その状況への憤りは、年配層に主に強く、舞の海氏は年配者の多そうなこの集会で、思わず彼らに迎合してしまったのでしょう。

ところが、舞の海氏は、現実に外国人力士だらけの相撲界で活動する人物です。それなのに、現在の相撲界を否定するスピーチを行ってしまってはいけません。今後のタレント活動にも支障をきたすのではないか?

……と、心配していたんですね。何しろ記事のタイトルが、「舞の海氏が排外発言」ですからね。

この手の報道記事は、すべてを検証する暇はありません。記事の内容、媒体を見て、ある程度、信頼できるものかどうかを判断します。「週刊実話」は一点の真実のないまったくの嘘でも平気で書く、とかね。

「週刊金曜日」は冒頭に述べたとおり、本多勝一という、深代惇郎と並ぶ朝日新聞のかつてのスーパースター記者が責任編集している雑誌のオンライン記事です。曲解はあっても、まったくの嘘を書くはずがない、と思っていました。

ところがどっこい。これが大嘘でした。

★ 「排外発言」とは正反対だった「舞の海氏の講演」(前回エントリのお詫びと訂正)

私が先日取り上げた冷泉彰彦氏の、最新のコラムです。これを読んで良かったです。

詳細はリンク先をお読みいただきたいのですが、要点をかいつまんで書きますと、舞の海氏のスピーチは逆であり、現在の相撲界に大勢の外国人力士がいることを賞賛しているのです。

外国人力士を嫌っている人もいる、というのは、そういう声もある、という紹介です。そして、
外国人力士に関しては、排斥の声があるという指摘をした時点で、場内から拍手とともに「先生ガンバレ」という掛け声が飛んだのは事実ですが、これに対しても、舞の海氏は「それはできません」とキッパリ取り下げていました。
と取り下げているのですよ。

おいおい。

もしも私が、
「この日本にはイジメを肯定する人々がいる。しかし、絶対に肯定すべきではない」
と記事に書いたら、私がイジメを肯定することになるのでしょうか?!

あり得ないんですよ。

この記事を書いた永野厚男という教育ライターは、いったいどんな人物なのでしょうか? Amazonを見ましても著書はなし。

そうしますと、それほど経験のない記者なのかも。だから、この会の主催団体であるとか、会の雰囲気であるとか、その前後の論者の発言であるとか、その流れの中で、雰囲気に飲まれて発言自体を誤ってとらえる、ということはあると思います。もしかしてこの記事を書いた時点で、そういう誤解をしたのかもしれません。

そうだとしたら、今ではYouTubeに舞の海氏の発言がアップされているのですから、検証して訂正するなりなんなりすればいいと思うのですけれどね。

……とにかく、「週刊金曜日」には失望しました。自分の意見に都合のいい部分を集めて、真実を覆い隠すという行為を行う媒体からは、今後も距離を置いていきたいものですね。


もっとも、永野記者を一概に責めることはできないのかもしれません。

たとえば、手鏡で女性の下着を覗いたり女子高生に酒によって痴漢をした罪で有罪判決が出されてメディアを追われた植草一秀氏が、下記のような記事をアップしていました。

★ 横綱白鵬会見拒否と舞の海のモンゴル力士発言

植草氏はかつて、エコノミストとしてメディアで大活躍していた人物。それが、YouTubeを確認した上でこう判断するのですから、永野氏ばかりを責められませんね。

それにしても、植草氏もしょうがない人物です。
舞の海氏の発言で一番の問題箇所は次の部分だ。
1時間0分25秒時点の発言だ。
「彼らの目的は何か。
日本のこの大相撲界に入って、そして早く強くなってお金をかせいで。
そして、両親家族の面倒を見なければならない。」
ところが植草氏、舞の海氏のこの後の発言を故意にカットしていますね。舞の海氏は、琴欧洲のお父さんが交通事故で亡くなり、琴欧洲が家族のためにお金を稼ごうと頑張っている、というエピソードを紹介しているのですから。

まあ、その後、朝青龍の父親の、
「相撲に勝つためには、敵を、自分の母親を殺した相手だと思って戦え」
という教えも紹介していましたから、外国人力士の完全な美談とはなりませんでしたが。

長いスピーチの前後を切り取って、問題だ問題だと騒ぐところをみますと、この人も信頼できませんね。

植草氏によれば、私の嫌いな竹中平蔵に反対した政策を提案し続けたせいで、国家から睨まれたのが痴漢冤罪を受けた理由だ、などと主張していました。それも信用出来ないな……。

2014年5月28日水曜日

人身事故の瞬間がアップされる

電車に飛び込む人は後を絶ちませんが、その瞬間に居合わせた人はあまりいないはず。ましてやその瞬間を目撃した人に至っては……。

YouTubeでその瞬間がアップされていました。

いつまでこの映像が残っているのかわからないので、ご興味のある方はお早めに。

私は、興味深く観ました。

この映像を観るまで、私は人が死ぬ瞬間は、もっと思い切った「踏ん切り」が必要だと思い込んでいました。「生きる」ことから「死ぬ」までの振れ幅を飛び越える、必死の決意。それを持った人間は、必死の形相で死にいくのではないか……そんな空想をしていました。

ところが、豈図らんや。

むしろ自殺をされたこの方は、こわごわと、死のうかな、どうしようかな、とりあえず行ってみるか……というためらいの様子が、優っているように思えたのです。自殺への空想が木っ端微塵にされたような、ちょっとした衝撃でした。

想像と実像とはまったく違うということを思い知らされましたね。

2014年5月27日火曜日

引っ越しの予定があるなら、シングルベッド「アブサロム」がオススメ

今日の記事は、coloponさんの「引っ越しの予定があるなら、IKEAの家具を安易に買ってはいけない。」よりインスパイアされて書いてみました。

今年初めに転居した際に、ベッドを買い換えることにしました。

これまで使っていたベッドがこれ。


大変便利でした。狭い部屋では、「たためる」ことはとても助かります。
・友達が大勢やってきた時に、部屋を広く使える。
・掃除するときに折りたためば、簡単にベッドの下のホコリを掃き出せる。
・布団を敷いたまま、ベッドを窓際に置くだけで、簡単に布団を干すことが出来る。
たためるメリットは、上記のほかにもたくさんありました。

逆にデメリットとしては、使ううちに、ベッドの天板にヒビが入り、腰が沈み込むようになり身体が痛くなることとか、ネジを締めてもギシギシと音がするようになったところ、でしょうか。まあ、5年も使えばそうなって当然なのですが。

ただ、とにかくメリットのほうが大きく、私は気に入っていました。

ところが今回、転居するに当たって、いろいろと考えた末に、そろそろしっかりとしたベッドを買うことに。今まで使っていた折りたたみベッドは廃棄処分にしました。お疲れ様です。

理由の一つが、このたび、値段の高いマットレスを思い切って購入したことです。お値段なんと7万円です。奮発しました。そろそろ良質の睡眠が欲しくなり、そのためにマットレスに妥協しないことにしたのです。

重いマットレスを置くにあたって、折りたたみパイプベッドでは不安があります。しっかりとしたベッドフレームを購入することにしたのです。

マットレスの良さはいずれまた改めてレポートすることにしまして、今回ご紹介したい商品はベッドフレームです。

ベッドフレームを買うにあたって、気をつけたポイントは下記の点。
・重いマットレスを置いてもびくともしない頑丈性
・マットレスが7万円(!)もするので、値段が安いこと
・見た目がチャチでないこと
・いずれ引っ越しを予定しているため、解体して持ち運べること
・ベッドの下に物をおきたいので、足の高さがあること
・中国製ではないこと
以上です。

最後の「中国製ではないこと」という項目は、こだわり過ぎかも……と思いました。いまや日本の生活には中国製のものであふれています。品質もいいものが多くなっているのも事実。

でも、今回は安いものを求めています。お値段がそれなりの中国製のものは、安全性に問題がある可能性があります。木材の防腐や漂白のために、どんな薬品を使用しているのやら。

睡眠のために1日の3分の1を過ごすのがベッドの上。微量のホルムアルデヒドなどにより少しずつ被曝する可能性もあります。中国製は、その点あまり信用できません……。

最初は大塚家具や多慶屋で探しましたが、ベッドはどれも高いですね! いいものはどこでもそれなりの値段がするため、店舗で確認して購入することは断念。

次に探したのが、通販サイト。ニトリだとかニッセン、Amazonのサイトだとかを探し回りました。

そして見つけたのが、この商品。


評判が圧倒的にいいです。今確認した時点で、62件のカスタマーレビューがついていながら、4つ星以上の評価をした人が60名もいます。ここまで評価が高いと、業者のステマを疑いましたが、レビュアーの一人ひとりの過去のレビューをできるだけ確認しましても、どれも本物の消費者のようです。

私はカスタマーレビューに賭けることにしました。

届いたものを組み立てて(45分もあれば組み立てられます)、使用して数ヶ月。これはいい買い物でした。

間違いなく頑丈です。なにしろ、150kgでも耐えられるように作られているので、そんじょそこらのものを置いても、びくともしません。
・とにかくしっかりとしている。上で跳ねても、まったく揺るぎません。
・安い。13.000円台というお値段は、この品質では考えられません。
・見た目も美しい。安っぽさがない。
・組み立てが簡単。一人でも組み立てられたし、高さを後で変えることも簡単だった。
・下に物を十分置ける。
・安心のベトナム製。
IKEAの某製品のように、引っ越しの時に部屋から出せなくなることは間違いなくありませんので、ご安心を。通販製品だからと不安に思っている方に、使用者として自信をもって薦められる製品です。

2014年5月26日月曜日

児童虐待と二宮尊徳(下) ~冷泉氏の記事はピントがずれている~

昨日の記事の続きです。

3.忍耐と努力の勧めは、無教養の若い親が増えている日本では悪影響。

現在の日本では、高い教育を受けた層よりも、俗に言う「ソフト・ヤンキー層」の方が高い出生率になってきていると考えられます。教育に関心を持たない親を持った子供が増えているのです。
高学歴の夫婦は、子供を産みたがりませんね。先進国ではどこも同じようでして、日本以上の高学歴国であるシンガポールでは、優秀な人材の再生産を行うために、高学歴夫婦に子供を産ませるためにあの手この手の政策が積極的に取り入れられているといいます。

それに比べますと、「ソフト・ヤンキー層」の出生率は確かに高いでしょう。そして、彼らの中の子供の虐待率は、高学歴夫婦よりも高という、そこに異論は唱えません。

では、現に虐待を受けている子どもたちにとって、どのような教育が救いとなるのでしょうか? 
「あなた方は尊敬されるべき存在である」
という教師の美辞麗句でしょうか?
「人間にはお互いに尊重されるべき権利がある」
という言葉でしょうか?

私が子供の頃、この手のことをしたり顔に唱える教師が大嫌いでした。現実とは異なる空理空論を唱える教師に限って、目の前の問題に真剣に取り組んでくれはしなかったからです。イジメを見たら、その場で加害者を叱りつける教師は、むしろ保守的な人に多かった記憶があります。

イジメられている子供にとってはイジメっ子を叱り飛ばしてくれる教師が必要ですし、家庭で虐待されている子供にとっては、それを発見して自動相談室に通報してくれる教師が必要でしょう。あるいは、励まし、応援してくれる教師を求めています。少なくとも、高尚な理念ではありません。

ちなみに、虐待を受けている子供にとって必要なのは、例えば下記のイラストのような理想的な風景でしょうか?
それとも、二宮のような、克己勉励をして苦難から抜け出すことが出来た生きた実例でしょうか?

フィクションではなく、かつてもっと貧しかった日本で、もっと厳しい文化風土の中で、それでもそこから脱出することに成功した一偉人の物語によって、多くの子どもたちが救われるのではないかと、思うのです。

現に若年期につらい思いをした私にとって、心の支えとなったのは偉人たちの苦しい幼少時代のエピソードでした。

4.教育現場では「自助努力」が推奨されるに違いない。そこからは知恵もやる気も生まれない。

これに至っては言語道断。冷泉氏が空想した道徳の授業の風景とは、下記のようなものでした。
先生「おじさんはどうして油を使っちゃいけないと言ったのかな?」
生徒「ハーイ。たぶんお金がなくて困っていたんだと思いまーす。」
先生「正解だ。では君たちは自分が金次郎だったらどうするかな?」
生徒「私も、金次郎みたいに自分のできることをやって人に迷惑をかけないようにしまーす。」
先生「正解だ。みんなも、困ったらまず自分ができることをするんだよ。人に頼ったり、欲しい欲しいなんて言う前に努力する人間になりなさい」
これを冷泉氏は「正解探し」として退けるのです。

冷泉氏にとって、土台を教えることは余計なこと、なのでしょう。しかし、「嘘をつくな」「弱いものをいじめるな」「自分で努力しろ」といった当たり前の価値観は、誰かが教えなければ、子どもたちの身につくものではありません。子どもたちが自然に身につけるとでも思っているのでしょうか?

いや、冷泉氏の言いたいことは、
「自助努力」
は教えられるべきことではない、というものなのかもしれません。「嘘をつくな」というものに比べて、ややオトナの社会にとって都合のいいもののように思える、というところでしょうか。

冷泉氏には、どのような価値観を教えるべきで、どのような価値観は学校で教えるべきではないのか、例示してもらいたいものです。「自助努力」は学校で教えられてしかるべきことだと思うのですがね。

子供は天邪鬼です。それに反発するかもしれません。それを上から押さえつけたとしたら、それは戦前と同じ。反発を感じて反論されたら、それをきっかけに何が正しいのか、という正義論について教えればいいのです。それにも、冷泉氏は反発するのでしょうか? もしも、
「それならばいい」
と言うのだとしたら、「自助努力」を教えること自体を否定するべきではありません。それにすら反発するのだとしたら、そもそも学校では「嘘をつくな」「仲間を大切にしろ」「弱いものをいじめるな」という価値観を一切教えてはいけない、ということになりやしないでしょうか。

5.根底にあるのは「個の尊厳を否定し、将来ある若者を年長者に忍従するように仕向け、アジアの草深い世界に帰って行きたい、そのような思想」だ。

リベラル系の知識人は、どうしてもマルクス主義の影響から逃れられないようでして、「アジア」を反近代の象徴と唱えることに抵抗感がありません。

この手の差別的な言質は、今のアメリカではあまり許されていないのではないでしょうか? そうだとしたら、アメリカ在住のコラムニストとしてはお粗末です。草深い世界はアジアだけではありますまい。ヨーロッパでもアフリカでも、近代以前は草深い世界でした。アジアを劣ったものの象徴として使わなくても良さそうなものです。

ただ、言葉尻を捉えてばかりいても仕方ありませんので、冷泉氏の真意に沿って理解をした上で、それに批判を加えることにしましょう。

冷泉氏はあまりに近代主義に偏りすぎているように思われるのです。

第二次世界大戦以前、「個の尊厳」がないがしろにされていたのは間違いありません。戦後その反省のもとに、封建的なあらゆるものを捨て去って今に至りました。その成果は、間違いなく現れています。

しかし、現代社会ではその弊害もまた、現れてきています。特に多いのが、メンタルヘルスを病んだ人々の急増です。

「個の尊厳」を追求する社会は、人々に「自分が何であるか」を問いかけきました。自分だけのものを追い求める、いわゆる「自分探し」をしている人々が今でも社会には大勢いることでしょう。

でも、自分探しをしている人はいても、「自分が見つかった」人の話は聞いたことがあまりありませんね。玉葱の皮を剥くように様々なものを捨て去って、最後には何も残らないようなものです。

多くの人はそれであきらめて、自分探しと曖昧なまま決別して日常生活を送るのですが、少数の人々は、「自分」が何も残らない現実と折り合いをつけることが出来ず、アイデンティティーを喪失して精神を病んでしまうのです。

近代以前は違いました。「何が自分であるか」を問うのが近代以前の考え方です。裸の自分が自分ではなく、服を着て、身支度を整えた自分こそが本来の自分だったのです。「国家の一員としての自分」「父親、あるいは母親としての自分」「日本人である自分」といった一つ一つが自分の構成要素である、という考え方は、安心感を与えてくれます。

一度玉ねぎの皮をすべて剥き去ったのが近代教育だとしたら、今後の道徳教育では、剥いた皮を再び集めて玉ねぎの形に整えていく作業とも言えます。それによって、再び個の尊厳が侵されることはありますまい。それ以上に、今の社会で苦しんでいるか弱き人々を少しでも、救うことが出来る効果があるのではないでしょうか。

2014年5月25日日曜日

児童虐待と二宮尊徳(上) ~冷泉氏の記事はピントがずれている~

昨日二宮尊徳について記事を書くに当たって、二宮について検索していたところ、下記記事を見つけました。

★ 道徳教材に「二宮金次郎」、何が問題なのか?

私がコラムニストとして尊敬をしている冷泉彰彦氏が連載している『プリンストン発 日本/アメリカ 新時代』で上掲記事が書かれていたのを、私は見過ごしていたようです。

残念なことに冷泉氏は、道徳教育で二宮を扱うことに否定的です。

残念だと思った理由は2つ。二宮という偉人を冷泉氏が否定的に捉えていたという点。そして、彼が挙げていた理由が、どれも見当違いのものばかりである、という点です。

順を追って説明してみましょう。

冷泉氏は二宮を道徳教育で取り上げるべきではないことの理由を簡単にまとめると、下記のようになるでしょうか。
1.二宮の少年時代のエピソードは児童虐待の話である。
2.二宮に漢学の素養があったから忍耐と努力が出来た。そこを無視されている。
3.忍耐と努力の勧めは、無教養の若い親が増えている日本では悪影響。
4.教育現場では「自助努力」が推奨されるに違いない。そこからは知恵もやる気も生まれない。
5.根底にあるのは「個の尊厳を否定し、将来ある若者を年長者に忍従するように仕向け、アジアの草深い世界に帰って行きたい、そのような思想」だ。
冷泉氏が成長した二宮の業績について、ほとんど述べないまま上記の主張を繰り広げていることには触れますまい。

二宮が今で言うマイクロファイナンスのさきがけでした。その上、封建社会の中で一農民ができうる考えられる限りの手法でお上に反抗し続けた反骨の人です。投票によって選ばれた優秀者を表彰する方式を考案するなど、大変近代的な人物でもあります。

それに一言でも触れるべきでは? 「二宮金次郎自体は大変近代的な人物であり、あの時代においては頑張ったほうだと思います、しかし……」とかね。

一言も触れずに「二宮と教育と近代主義」について語るのは少々、バランスに欠くというもの。まさか冷泉氏、二宮のことをほとんど知らずして、上記の主張をしたのでしょうか? ……まさかね。

それはともかく、上記の5点について、順を追って、批判してみたいと思います。

1.二宮の少年時代のエピソードは児童虐待の話である

彼が叔父の家に身を寄せたのは15の時。すでに元服を済ませた一人前の働き手です。今でも中学を卒業して働く人も少なからずいます。15歳の彼が働くこと自体を、まさか児童虐待とは言いますまい。
ストーリーは単純で、「幼くして両親と死別した金次郎は、おじの家に引き取られた。読書好きの金次郎は夜遅くまで読書をしていたところ、菜種油を無駄遣いするなとおじに怒られた。そこで金次郎は自分で畑を耕して菜種を収穫して読書を続けて立派な人になった」というものです。
と冷泉氏は書き、その上で、
これは虐待被害の話です。(中略)これ自体に違法性を感じます。
これは児童労働の話です。(中略)ところが、この教材では児童労働を肯定的に扱っています。外務省と関係のNGOは厳重に抗議すべきだと思います。
と述べるのですが、まさか二宮が巻きを背負いながら本を読んでいたのは15歳の頃だと、冷泉氏は知らなかったのでしょうか? そんなわけはありませんよね。高名なコラムニストです。Wikipediaで調べればすぐに分かることですから。

それでは、二宮が夜に菜種油を使って本を読むのを禁止されたのが、児童虐待なのでしょうか?

まさか。たとえば今の時代、夜遅くまで子供がインターネットで遊んでいたら親は叱るでしょう。それが「虐待」でしょうか?

「本を読むのは勉強だ。それを止めるのは虐待だ」
と言うのは詭弁です。今の時代、子供がインターネットをいじっていたとして、それがゲームのプログラミングを学んでいたとしても、親にとっては遊びにしか見えないようなものです。当時の貧しい農村で、貴重な菜種油を使って、農民に必要ないと思われた本を読んでいたら、叔父が「遊び」だと考えて叱るのも当然です。

小学校の子供には時代背景が分からないのだから、「当時」の事情など分からない。今の時代では勉強を禁止することが虐待なのだから、それで統一すべきだ、ということでしょうか?

それこそ子供をバカにした話です。時代劇を現代社会と混同して、刃物を振り回す子供はいません。「昔はこうだった」と説明すれば、小学校低学年ならば、ほとんど理解できるものです。

2.二宮に漢学の素養があったから忍耐と努力が出来た。そこを無視されている。

冷泉氏はやや左翼的な思想にシンパシーを持っている方のようです。そういう人物には、中国思想をやけに持ち上げる傾向があります。冷泉氏にもその傾向があるようです。二宮に漢学の素養がある、云々というところが今ひとつわかりにくいのですが、
「小さな島国の人物の偉業を教えるならば、古典漢文でも先に教えればどうだ」
というのが彼の言いたいところなのだと、推察しました。

しかし、漢学のメインは『論語』を中心とした儒学です。これ、もはや近代思想に耐えるものではありませんよ。儒学では「論語・大学・中庸・孟子」という4つの書物(四書)が絶対的な価値を持ち、後世の自由な思想の発展を妨げてきました。

宋明時代には儒学の再検討が行われ、朱子学や陽明学という独自の思想が発達しました。しかしかわいそうなことに、朱子学を創始した朱熹も、陽明学を創始した王守仁も、思想活動のほとんどを「四書とどう整合性をつけるか」に費やされています。

王守仁の思想をまとめた『伝習録』すべてに目を通しましたけれども、自分の考え方が『中庸』からいかに外れていないかを弁明するのにあまりにもエネルギーを使いすぎており、現代からすると滑稽なほどです。

言い過ぎかもしれませんが、現代社会で漢学を学ぶのは、少々無駄のように思えます。

一方、二宮の報徳思想は漢学に比べればはるかに自由です。場所も日本であり、時代も150年ほどしか隔たってはいません。その分、私達の思想により近いものを感じます。思想が『論語』に準拠しなければならない、という儒家のくびきから自由であったために、農業、金融、経営、行政などから学んだ、彼の思想は大変オリジナリティーあふれるものとなりました。

彼が基礎としたのが漢学だとしても、私達はむしろ、彼から学ぶべきではないでしょうか。その手始めに彼の子供時代を教えるのは、小学校低学年生は適しているように思われます。


以上、長くなったので、続きは明日に回します。

2014年5月24日土曜日

人道がなぜ天道よりも上に来るのか

国際社会の中で、日本人としてどう誇りを持って生きるかは、私が学生の頃からのテーマの一つ。モデルケースを模索する中でたどり着いたのが江戸時代末期に活躍した二宮尊徳(そんとく。通称は金次郎)だ。

「貧しかった子供の頃、重い荷物を背負って働きながら勉強していた」
という逸話だけが独り歩きしているが、克己勉励の果てに土地を少しずつ買い集め、集めた土地を小作に貸し、カネを貸して、ついには若くして大地主となったという実務家の顔が本来の姿だ。その手腕を領主に認められて以降、近隣の農村のみならず、関東一円の農村復興コンサルタントとして活躍する。

順風満帆ではなかった。農民の生活立て直しのために、年貢の減免から始める彼の方法では武士の俸禄は上がらない。農民の生活が向上して、武士の生活が据え置かれることに、武士は我慢が出来なかった。むしろ武士にとっては、農民は困窮したままの方が、都合が良かったのだろう。

そこで様々な妨害があり、彼の生まれ故郷である小田原藩は、後ろ盾となる前領主が亡くなった後に彼を領地から追放する。先祖の墓参りさえ認めなかったのだ。既得権益を守ろうとする人々からは疎まれる、改革の人が二宮だった。

しかし、彼の方法により荒廃した農村が次々に復興した実績を隠すことは出来ない。彼は幕臣に取り立てられ、死ぬまで農村復興に尽力した。その思想は弟子たちによって、「報徳思想」という形にまとめられている。

経済と道徳の融合、経済的な自立と社会貢献の重要性などを説く二宮の思想はとても魅力的であり、夢中になって学んだものの、ただ一点、どうしても納得できない所があった。それは、彼の報徳思想の核となる部分。

彼は、混沌とした自然に対して、消極的な態度をとることを「天道」と呼び、積極的な態度を取ることを「人道」と名づけた。

さらに、「天道」に沿って生きようとする人間の心を「人心」と呼び、「人道」にそって生きようとする人間の心を「道心」と呼ぶ。「人心」とは我欲にとらわれた心のことであり、生産的ではないので、「道心」に沿った生き方をするべきだ、というのが二宮の思想だ。

東洋的――老荘思想的な観点から言えば、自然に沿った生き方こそが、我々の本来のあり方であるはず。人よりも天が上位にくるべきじゃないのか。しかし二宮は、「天道」という言葉を否定的に用いた。なぜだろうか?

農民だった彼にとって、自然は改良する対象だったからだとも言われているが、どうにも納得できなかった。

ところが、今から3年前に東北を津波が遅い、日本中が慟哭で覆われた時に、詩人でもある長渕剛が発表した『復興』という散文詩を読んだ。そのときに、ああ、こういうことかと得心がいったのだ。
憎い
憎い
私は 自然が憎い
憎い 憎い 私は 海が憎い
たわむれ 優しく 大きく 父のような海だったのに
恐くて憎くて たまらない 許せない 絶対に許さない
こんなに あなたを 愛して 生きてきたのに
なぜ 海よ あなたは 私たちを壊す?
なぜ 何もかも奪い去る?
なぜ こんなにひどい事をする?
こうした問いかけから始まる長渕の詩は、そのあと、津波への怒りへ、家族を失った悲しみへと続き、そののち、人間参加へと移る。決して人間は自然の横暴には屈しないと宣言し、立ち上がってやると力強く雄叫びを上げる。そして、こう結ばれる。
今こそ このむごたらしい現実を直視したからには 瞳をそらさず
ゆっくり立ちのぼってくる生き物の息吹に手を打ちならそう
どんなにささやかでもいい
勇気ある小さな者たちを どんどんグングンたたえるのだ
共に拳が上がったら 一目散に駆け上がれ
生存せよ!の方向へ駆け上がり
立ち向かうのだ
たとえ それが自然という憎き相手でも
私たちは決してひるまない
憎くても
怖くても
許せなくても
それでも
私たちは あの場所を
この国を
愛してやまないのだから
この詩を読んで思い出したのが、二宮尊徳の生家が貧農へと転落したきっかけだった。

彼が5歳の時、近くの酒匂川が氾濫し、居住地全てが濁流で押し流されてしまった。田畑は全て流され、家も財産も何もかもが奪われ、それをきっかけに二宮家は没落へと突き進む。父はアル中となり10年後に亡くなった。一家は離散し、そこから二宮の苦労が始まった。

二宮にとっての原体験とは、濁流で流された故郷だっただろう。彼の心には、それ以来、ずっとずっと天への怒りが潜んでいたのではないか。

彼の説く「道心」とは「理性」のことなのだろう。人間の本能、欲求、感情もまた自然の一種である。自然の放任に任せたままでは、社会はうまく回らない。理性によって積極的に立ち向かっていかなければならない、という確信を、彼は自然による裏切り、そして大勢の武士の醜い嫉妬から、学んだに違いない。

2014年5月23日金曜日

片山被告が無実ではないことを見抜くためには

片山祐輔が犯罪者であることを、なぜ見抜けなかったのか、という後悔の念に時折襲われる。彼が無実であると、なぜ信じてしまったのだろう、と。

小保方晴子の場合、彼女が嘘つきであるという確信を私が持つのは早かった。一連の論文に疑義を呈した11jigen氏のブログ記事や、その他の論者の指摘を読みこみ、彼女は黒だと早い段階で判断できた。

論文不備の理由は「多忙」だと、彼女は主張する。しかし、どれほど多忙であっても実験写真と企業の販促写真を混同することはあり得ない、というところは経験上、譲れなかった。いかに釈明会見が立派であろうとも、彼女を信じることは一度たりともなかった。

だから、
「小保方はSTAP細胞を本当に見つけたかもしれない。STAP細胞が発見されれば逆転できる」
などと主張する人を、真実を見抜けない人間だと笑うことができた。ところが、今度は笑われる側になってしまった。

片山の場合は、彼が逮捕された時に彼が犯人かもしれないとは思ったものの、拘置所で一年以上勾留されても自白しないこと、決定的な証拠は何一つ出てこないことなどによって、次第に彼の冤罪を確信するようになった。そして、保釈後の記者会見を見て、それは決定的になった。淀みのない回答、整合性のある説明。相手の目をしっかりと見て答える自信。小保方晴子に騙されなかった私が、彼は無罪だと信じてしまった。自らの不明を恥じるばかりだ。

この世の中は他人を騙そうとする人間にあふれている。猖獗を極めるオレオレ詐欺を思えばそれは容易にわかる。ところが他人を騙そうと狙うのは犯罪者だけではなく、まともな人間が仕事として信念をもっておこなうのが現代社会だ。宗教の勧誘、広告代理店の仕掛け、メディアの人心掌握などなど、他人を思い通りに動かして自分の利益とすることが正しいこととされ、まっとうな社会で公然と覇を競い合っているのが、私達の社会だ。

ウソを付くこと、騙すことを「邪」とするならば、邪悪をすべて避けようとしては、まともな社会生活を送ることはできないのが現代の私たちの宿命なのである。

誠実にまっとうに生きるために、悪と並走しながら彼らをはねのけることが必要だ。それができなければ、悪をすべて避けた隠遁生活でも送らねばならない。人のまったくいない世界は、人でなしに出会う世界よりも暮らしにくかろう。

どうすべきだったのか? 判断保留することが必要だったのだ。なんとはなしの違和感は、間違いなく片山被告の会見を観ていたときにあった。それを私は「彼を信じられない自分の不明」だと捨て去ってしまった。判断を保留しなければならなかった。

それに改めて思い至ったのは、「極東ブログ」の次の記事。

★ パソコン遠隔操作事件、雑感
ネットを通して見る論調には、検察暴走による冤罪だという意見が多かったように思う。私はそれにも与しなかった。
 私は、このブログで2003年時点で、東電OL殺人事件で逮捕されたネパール人は冤罪であると主張したことがある。これはその後冤罪となった。私の見立てが正しかったが、そのことを再度主張するのは拙いように思えた。(中略)こうした事件では、自分のなかにそれなりに確たる心証があったからだ。
 だが、このパソコン遠隔操作事件については、そうした冤罪の心証がついに得られなかった。
ブログ主が片山が冤罪であるとの心証を得なかったのは、①片山が過去の前科に無関与の態度を取っていたこと、②片山が捕まってから、愉快犯的なメールが一切送付されていない、という事実の2つが根拠だったという。。

後者②に関しては、片山が冤罪ではないかもしれない、という疑念を持つための根拠としては、弱いと思っている。劇場型犯罪、たとえば「怪人21面相事件」などは、ある時を境にピッタリと脅迫はやんだ。社会をかき回しておきながらピタリとなりをひそめる愉快犯は大勢いる。PCメール遠隔操作事件の犯人もまた、心境の変化で身を潜めることもあるだろう、と考えた。

だが、前者①に関しては、これまで私が幾度となく考察してきたことだったはずだ。同じ過ちを行わないためには、そのことを嫌悪することが必要だというのが私の持論だ。過去の間違った経験を、
「自分にとって必要だった。肯定的にとらえている」
「あれもひとつのいい思い出」
と語る人間は、再び同じ過ちを犯す、というのが私の苦い経験則だ。理性から感情のレベルまで落としこんで、初めて深い反省となる。

ところが、片山は過去に「仙台市太白区内の小学4年生♀を殺します。9人以上しょけいする」という脅迫を2ちゃんねるに書き込んでいた過去を、反省して二度と繰り返さないと主張するものの、「どこかに原文のあるものをそのまま転載しただけ」と、どこか他人ごとのように言い逃れていた、という。

そこに、疑念を持つべきであった。少なくとも、彼の冤罪を革新する前に、彼が過去の事件にどのように向き合っているかを調べるべきだった。

「今」の自分は過去の延長にある。もちろん、過去だけで未来を判断してはならないが、未来を作っている現在の時点で、過去をどのように消化しているかを確認すれば、「今」を材料にその人がつくり上げる未来像を予測することは十分可能だろう。

全体の印象で決めるのではなく、要素一つ一つにじっくりと当たり、動かし得ない判断基準があれば、それをもとに判断する。証拠不十分で判断が出来ないものは、判断を保留する勇気も必要だ。そうでなければ、勇み足を踏む。

それにしても、小保方のような毅然とした態度、片山のような理路整然とした態度を目の当たりにすると、人間を印象で判断することは出来ないとつくづく思う。

この堂々とした態度で、彼が書いたメールがいかにえげつないものだったのか、下記のリンクをご覧いただきたい。

★ http://yokoku.in/enkaku2012/mail20140516.pdf

人間を見た目や態度で判断することは出来ない、という諦めをもつことが大切だ。ただ、事実のみで冷静に判断する。そして、判断できないことは保留する。予断を持たない。

立場的には大変不安定だが、その不安定に慣れる強さを持ちたいものだ。

2014年5月22日木曜日

便利なサイト 面白いサイト 変わったサイト リンク集

2ちゃんねるの西村博之氏が新しい2ちゃんねるを開設して1ヶ月がたとうとしています。まだアクセス数に苦戦しているようで、有用な情報の書き込みも少ない模様。

その中でやや鼻白んだのが、過去の人気スレと似た内容を自作自演で作り上げてしまうというもの。


証拠はありませんけどね。ただ、金曜日朝の7時から2分間隔で適切なリンクが短時間に集まるなんて、出来過ぎでしょ。主婦ライターが依頼を受けて、旦那を送り出したあとに一仕事している風景が見えてきます。

2ちゃんねるはあくまで不特定多数の様々な能力の持ち主が、寄ってたかって情報を持ち寄るところが面白いのです。まとめサイトのアフィリエイトで稼ぐために、特定少数の人々が情報を書き込む、というのはちょっと興ざめです。

面白いサイトのリンクを紹介したいならば、そのままリンク集としてしまえばいいのに。何も2ちゃんねるのチャットを模倣しなくとも良さそうなものを……。

そう思いまして、それなら上記を参考に、純粋なリンク集を作ってしまえ、と思って作ったのが以下のリンク集。ご参考にしてください。

Googleの画像検索が、実際の写真の大きさがわからないのに比べて、これはそのHPで使われた写真げ原寸大で表示してくれます。
大きくて画像の細かな写真を探したい、などの条件があるときに便利です。


かつてTBS系列で放送されていた「まんが日本昔ばなし」の動画集です。昔、土曜日の夜にこの番組を見るのがうちの定番でした。同じような家庭はたくさんあったはずです。お子さんのいる家庭では重宝するでしょう。


★ JAZZRADIO
ジャズはリラックスするのに最高です。心を乱すことがあまりなく、気分を落ち着かせてくれます。このジャズの音楽集です。BGMとして役立てましょう。


YouTube以外にも、ニコニコ動画やDailymotionなど、様々な動画サイトが乱立しているため、探したい動画を見つけることが困難になりました。そこで役立つのがこのサイト。一括で調べることができます。


★ Popular games 
有名な昔のゲームをオンライン上で遊べる、というものです。いったいどういう仕組みになっているのか、謎です。


パソコンに詳しくない友達が来たりした時に、このサイトを開いて適当にキーボードを打つと、不思議なことに勝手にプログラミングをしてくれるというサイトです。仕事をしているふりにも使えるかもしれません。


★  サーチストリーム
伊藤忠の子会社であるExciteに、誰がどのような言葉で検索しているのかがリアルタイムで見ることができるというものです。時々、やばそうな単語が流れてくるのが面白いです。


ウェブ漫画の新着情報をいち早く手に入れられます。暇な時は、ここで漫画を探せます。


★ 鉄道Now
時刻表をもとに、電車がいまどの路線を走っているのかを表示しています。時刻表を参考にしているだけなので、事故で電車が止まってしまった時などを調べるのには使えません。下記はその飛行機版です。



日本の大手企業のリンク集です


★ 資格com
資格について調べたいときには、このサイトをまずクリック。資格について、その勉強方法、稼げるのかどうかなどが詳細に記されています。


★ EDITOR
PhotoshopやIllustratorがなくとも、画像編集できるすぐれもののサイトです。これさえあれば、Photoshopでできる事の半分はできてしまいます。


言わずと知れた事故物件サイト。家を買ったり借りたりする場合には、必ず見ておいたほうがいいでしょう。近所でこれだけ人が死んでいるのかと、げんなりすることもあるでしょう。


電話機に表示された見知らぬ電話番号が、迷惑電話番号なのかどうかをある程度目星をつけることが出来ます。友人の電話なのか、それとも業者なのか……調べたいと思った方は、どうぞ。


運転する人にとっては便利なサイトです。どこで渋滞が起こっているのかなどを、すぐに調べることが出来ます。


ラノベ作家の登竜門的な存在となりました。
「作家を目指したいけれど、○○大賞に応募すると、結果がわかるまでに半年以上かかる。そんなに待てない」
という人は、とりあえずここに投稿する方が近道かもしれません。ライトノベルのレーベルの編集者たちは、最近このサイトで新人発掘に余念がないそうですよ。


YouTubeをリピート再生したいときに、このサイトを利用できます。YouTubeは録音出来ないので、これは便利です。


★ CiNii
論文を検索できます。今話題の小保方晴子さんの名前を入力して、著者名検索をすれば、小保方さんの論文だって読むことが出来ます。


バイク乗りにとって、バイクを停められる駐車場を探すのは大変です。このサイトがあれば、簡単に調べられます。バイク専用駐車場ですと、車を停めるよりも料金が安く済むのも魅力的ですよね。


誰かに誕生日プレゼントを渡そうと思った時に参考になるのがこのサイト。宝石というととても高いイメージがありますけれど、ちょっとしたネックレス等ならばそれほど高くありません。ましてや花ならば、数千円で小粋な花束を作ってくれます。恋人、あるいはこれから恋人にしたいと思う人に送ってはいかがでしょうか。


2ちゃんねる、あるいは掲示板を使いたい人にとっては必須の顔文字とAA。でも、今はほとんどLINEのスタンプで代用できてしまいますから、あまり必要ありませんね。
LINEの人々のスタンプは、案外2ちゃんねるのアスキーアートが元ネタなのかも。
今やいろいろな求人サイトがあるため、どれで調べればいいのか悩みどころ。このサイトを使えば、知りたい職種をまとめて探すことが可能です。


★ メンズ髪型
男性で髪型について悩む人用のサイトです。


昔はこの手のマナーをバカにしていたのですが、結局バカを見たのは自分でした。これを守ることはあくまで最低条件。能力を発揮するのはそれからです。


絵がうまくなりたい人にとっては参考となるのかも今ではPixivなどで絵を公表する機会は増えています。「イラストを書いてほしい」という依頼もたくさんきます。かなりみなさん、儲かっているようです。私が本を書くときに、イラストを描いてほしい、と依頼したところ、結構な額を請求されましたっけ。


今回一番役に立ったサイトです。雑学好きな私でも、知らない雑学が結構ありました。「クラリネットをこわしちゃった」という有名な童謡があります。このサビにある「オ パキャマラド」という歌詞の意味は、フランス語で「みんな足並みをそろえて」なのだとか。へぇ~。


★ 名詩集
時々詩を眺めると、使ったことのない言葉遣いを学べるのでいいものです。友達をメールを交わすとき、同じ言葉ばかりを使ってしまうことに気づいていない人が多いのです。出来るだけ、自分が使ったことのない言葉を取り入れて使うようにすると、文章が上達します。


最近四字熟語を知らない人、使わない人が増えましたが、提携の言葉は思考をショートカットする機能があるので便利です。


海外のSFで現れる宇宙船の大きさを比較したもの。SFファンにとっては嬉しいですよね。同じような取り組みを、ぜひ日本のSF作品でも行って欲しいですね。


犯罪地図です。ご興味のある方は、どうぞ。


2014年5月21日水曜日

うまく会話のキャッチボールをおこなう方法

社会にでは、会話力が求められます。もともと上手い人、自然に家族などから学んだ人ならば、たやすく出来ることがうまく出来ない人は、案外多いものです。

会話が下手な人の発言の特徴としては、下記のようなものが挙げられます。
相手の発言を、まず否定する。
「いや違うでしょ。それはさ……」
自分が興味の有ることに対しては、長々と話す。
「これはこうだから……」
女性が嫌がるのが嬉しくて、シモネタを敢えて話す。
「アメリカ人の好きな体位は何だと思う?」
自分の苦労話をする。
「俺も昔、こんなつらいことがあったんだよ」
相手を責める。
「この前言ってたことと違うじゃん……」
性格の悪い人が必ずしも嫌なことを言うとは限りませんが、嫌なことを言う人間の性格には、たいてい問題がありますよね。

「自分は毒舌だけど気にしないで。根はさっぱりしているから」
と自己紹介する人がいますけれども、根っこが腐っているから言葉に菌が混じることをそろそろ自覚したほうがいいでしょう。自分の性格を人生のどこかで直さないと、大きなしっぺ返しが待っています。

もっとも、自分の性格を直すには長い時間が必要。それよりも、相手を不快にさせる発言を控えて、相手に喜んでもらえるような言葉を出来る限り増やすことの方が、簡単ではないでしょうか。

会話力を磨くために私がとった方法は、マニュアル本を読み漁るというものでした。そこから抽出した、どうにかこうにか自分に実行できるテクニック術を以下に列挙してみたいと思います。

①状況を整理して、ワンフレーズで述べる

よく、
「会話力を伸ばすためには、コツさえ知っていればいい。練習なんて必要ない」
と教える人がいますが、これはもともと才能のある人の言葉。私達凡人があとから学ぶためには、どんなものであれ、練習して身に付ける、という行為が欠かせません。

でも、会話が下手な人は友達が少なく、会話力を伸ばすための練習台となってくれる友人がいないことが多いもの。どうやって能力を伸ばせるというのでしょう?!

……こんな私がたどりついたのが、
「会話をワンセンテンスに要約する」
という訓練でした。

話の下手な人って、話がやたらと長いこと、多くありませんか?
冗長で、要点がつかめないことを言う人が多いのです。それは相手に嫌われてしまいます。
その点、短い言葉で端的に述べる事ができる人の会話力は、高いと言えましょう。

上手だったのが小泉元首相。
若いころ、会社員経験があると言いながら、実態はなかったのではないか、と責められたときに、
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」
と言ってのけた、あれです。
自分の人生を、たった一言で要約する手口にしびれました。

あの境地を目指す。そのためには、自分が言ったばかりの発言でもでもいいですし、喫茶店で座れば聞こえてくる、周囲の会話でもいいのです。それを要約する訓練をしてみるのです。これはどこでもできる事であり、そうですね。5回ほど訓練すると、自分の会話力が格段に上がったことに気がつくでしょう。

たとえば、こんなふうに。
「この前一緒に飲んだ人と、この前偶然会ったんですよ。全然ピンと来なくて、チビでハゲだったんです。でも、せっかく会ったから……。(中略)それでね、その男が告白してきて……。(中略)結局、つきあうことになったんですけど、めちゃくちゃ素敵な人で……」

これに対して、一言、
「最初に会ったときは気づかなかったけど、その人は運命の相手だったんだね」

すると、なんということでしょう。、
「そうそう! そうなんですよ!」
と言って、相手は喜んでくれるのです。
「自分の気持ちをこの人は分かってくれる!」
と勝手に思ってくれるのです。

相手を理解するということは、相手の思想を要約すること、別の言葉で言い換えることである、と言うと言い過ぎでしょうか。

②相手が話したことに応じて、自分のことを相手に話す

極端な秘密主義の友人が私にはいました。彼は、決して自分の仕事の話をしないのです。
いい人間でしたけれども、会うのが段々と嫌になり、今では会わなくなりました。

プライドが高いのに自分の境遇に満足しない人は、自分のことを話そうとしない人が多いですね。自分の話をした結果、からかわれたり突っ込まれたりして、嫌な経験をしたことがあるからでしょうか。

自分のことを聞かれたから話したのに、
「そこまで聞いていない」
「自分語りが好きな人」
などと陰口を叩かれることすらあります。

ところが、相手にいじられたくないというかたくなな態度は、相手に見透かされているものです。それが攻撃てな人間ならば、自分を守ることになるでしょう。でも、もしも将来の親友となりうる人だとしたら。その人からは、
「俺を信用しないやつだ」
と誤解されて、仲が深まることはないでしょう。

自分を守ることと、自分を認めてもらうこと。この両者のバランスを取ることは案外難しいのです。

そこでお勧めなのが、相手の様子をうかがいながら、自分のことも話していくという相互主義です。そして、相手が突っ込めば、同じように自分も相手に突っ込んでいくのです。ジャブの応酬のようですが、こうしていけば、攻撃的な相手も、
「これ以上突っ込むと、俺も攻撃される」
と思うので、矛先を引っ込めるものです。
それでも攻撃しそうな相手には、自分の情報開示をそこでストップすればいいのです。

人間関係は相互関係です。相手が話せば自分も話す、自分が話しても相手が話さないなら、それ以上自分のことも話さない。このスタンスは大切です。

その繰り返しが、会話のキャッチボールになるのです。

③自分の感情を伝える

自分の感情を露わにすることは、社会人にとってはあまり褒められたことではありません。でも、仲良くなりたいならば、感情を伝えることはとても大切です。

かといって、
「嬉しい」
「悲しい」
「楽しい」
「面白い」
などといった月並みな形容詞ですと、相手はがっかりします。

そんなときに役立つのは、「身体言語」と呼ばれる、感情を身体の変化で表す言葉です。
「歌い出したくなりそう」
「胸がはりさけそう」
「小躍りしちゃいます」
「夢中になります」
最近、この手の慣用句に不慣れな人が多くなりましたけれども、自分の体の変化で感情を表現することによって、相手に共感してもらえるのです。


以上、3つの方法をご紹介しましたが、こういう方法は、人によって合う、合わないがあるもの、いろいろな本を読み、いろんな方法を試して、自分に合ったものを探るといいでしょう。


2014年5月20日火曜日

片山祐輔被告がPC遠隔操作を自供

完全に騙されました。

PC遠隔操作事件の真犯人と疑われていたもの、執拗な東京地検の追求もかわし、無実である可能性が濃厚と思われていた片山被告が、自ら東京地検に出頭し、罪を自白したそうです。

昨日私は、各メディアが一斉に、片山被告が真犯人化のような報道を始めたこと、それにともなって片山被告の行方が不明になっている現状を踏まえて、こうツイートしました。
また、片山被告の無実を信じ、応援を続けていたジャーナリストの江川紹子さんのつぶやきに対しても語りかけました。

その結果がこれですよ。

★ 遠隔操作事件 片山被告「私が真犯人」と認める
パソコンの遠隔操作事件で、19日から連絡が取れなくなっていたインターネット関連会社の元社員、片山祐輔被告から19日夜、弁護団に連絡があり、関係者によりますと、片山被告は「私が真犯人だ」と認め、先週、報道各社などに届いたメールを自分が送ったと話したということです。
確たる証拠もないのに無実の人を捕まえ、自白を執拗に求める検察の非道ぶりが報道されるたびに、憤りを感じてきました。

最近検察の横暴ぶりは、たびたびニュースとなります。厚生労働省の村木厚子の誤認逮捕だとか、今回のPC遠隔操作事件で大学生を冤罪事件によって大きな傷をつけたりだとか、大ポカをしでかす彼らを、そろそろ解体した方がいいんじゃないか、と思っていたのですが。

袴田事件のような冤罪事件もありましたよね。今回もまた、検察の暴走だろうと予測していました。でも、強制下ではない場所で自白したのだとしたら、本当でしょう。

どうしようもありません。

検察の皆様方、疑ってしまって本当に申し訳ありませんでした。

2014年5月19日月曜日

大量生産された物語に感動する居心地の悪さ

大塚英志の記事が、注目を浴びている。大塚英志といえば、オタク文化に大変造形が深い人物。「西の岡田斗司夫、東の大塚英志」と並び称されているといえば、その大物ぶりがわかるはず。

★ 大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」

記事は長いが、大変面白く読んだ。

内容は、ニコニコ生動画を主催するドワンゴとKADOKAWA(旧・角川書店)が経営統合したことの「意味」を説明するもの。

KADOKAWAという企業は、作家性に依存せず、一定レベルの物語を大量生産するシステムを作り上げた企業。ドワンゴはアマチュアの作品を吸い上げるシステムを作り上げた企業。

この両者が合併することで、私達はプロとアマの垣根を超え、システム化された「創作→消費→創作→消費」の循環の中に身をおくようになる。それは管理されたユートピアであるが、吐き気のするディストピアでもある、というものだ。

彼の記事を読みながら思い出したのは、彼の著書『キャラクターメーカー』と『ストーリーメーカー』を初めて読んだ時の興奮だった。
キャラクターメーカー 6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」 (星海社新書)
キャラクターメーカー 6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」 (星海社新書)
ストーリーメーカー 創作のための物語論 (星海社新書)
ストーリーメーカー 創作のための物語論 (星海社新書)

大塚によれば、物語を作るのに天賦の才能はいらず、並の能力があり、修練を積めば、一定レベルの物語を作ることができる、という。

数十年前までは、それは才能のある作家によって作り上げられた一点物の芸術作品と考えられてきた。だが、昨今の研究では、神話やベストセラーには共通の「型」があることが分かってきた。

たとえば大塚の本の中で取り上げられていたキャンベルという人によれば、神話に共通の要素として、下記のようなものを挙げている。
冒険への召命
召命の辞退
超自然的なるものの援助
最小の境界の越境
鯨の胎内
試練の道
女神との遭遇
誘惑者としての女性
父親との一体化
神格化
終局の恩恵
  :
  :
  :
この考えかたを元に『スター・ウォーズ』が作られ大ヒットしたため、民俗学の研究成果は世界中で知られるようになり、さらに洗練され、ハリウッドの脚本術として知られるようになった。アメリカで脚本を書く場合、それをまとめた下記二冊が必読書となっている。


大塚が次々に紹介する「物語製造法」は、創作を志していた私にとって、目から鱗が落ちるほど、画期的だった。彼の考え方をもとに、創作したこともある。

ところがそれは頓挫した。なぜならこの「創作活動」とやらが、まったく面白くなかったからだ。面白くないことをするのは仕事で十分。そう思って、彼の一連の著作から離れた。

愚かだったことに、大塚の著書を、私はあくまで個々人のハウツー本としてしか、認識していなかった。ところが「物語の創作のシステム化」は、出版の現場では積極的に取り入れられ、大成功を収めていたという。

KADOKAWAの人々は、この「物語の量産システム」を積極的に取り入れ、ライトノベルの大量生産に役立てていたようだし、ゲーム業界人がゲーム産業黎明期に、良作品をコンスタントに発表できたのも、創作のシステム化が相当程度に進んでいたかららしい。

このことを大塚の記事によって初めて認識した私は、目眩に似たものを感じた。

大量生産品の美しさに感動することは、何も悪いことではない。中国古代の精巧な青銅器は、奴隷による大量生産によって作られたものだ。

しかし、現代の作品には古代のロマンはない。芸術作品だと考えていたものが、大量生産品だとわかった時、どうしても落胆する気持ちを抑えられなかった。

2000年代になってKADOKAWAが発表する数々の作品――『涼宮ハルヒの憂鬱』など――に相当程度入れ込んでいた私にとって、機械的に作られた「物語」に感動してきたという事実は、マネキン人形を人間と勘違いして挨拶し続けていたようで、妙な居心地が悪く、面白くなかったのである。

ただ、同時に、私は大塚の記事によって救いを得た。私が、まがい物を見る目をかつて持ちえていたことに気づいたから。

それについては、長くなったため、日を改めて書こうと思う。

2014年5月18日日曜日

ゲイにはなぜ才能のある人が多いのか

昨日、ゲイについて触れました。念の為に書き添えますが、私自身はゲイではありません。ゲイを迫害する社会であってはならないと思うものの、かといってゲイの結婚までも認めるのは行き過ぎではないか。ましてやゲイのカップルが養子を迎えることまでは認められないと考える、少々保守的な人間です。

ただ、テレビなどを時々観ますと、以前にもましてゲイの人々が活躍しているなと感じます。私の生きている間に、日本でもゲイ同士の結婚が当たり前になるかもしれません。

そういえば、芸能界は昔から、ゲイが非常に多くジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川を筆頭として、おすぎとピーコや美輪明宏など、ゲイであることをカミングアウトした、稀有な才能の持ち主が多数います。

彼らはなぜ、優れた才能を持っているのでしょうか?

疑問に思っていた時に、立花隆が『文明の逆説』(講談社、1984年)で紹介したイギリスのカルフーンという学者が行った実験を知って、
「ああ」
と思ったのです。なるほど、そういうことか。

カルフーンは、ネズミを3世代に渡って過密状態に保ったまま飼育するという実験をおこなったところ、ネズミの性衝動に異常が現れることを発見しました。

最初に、雌雄の区別が出来ない同性愛者が現れ、次に、未成熟のメスを犯すオスが現れました。やがて、インポテンツになったオスが現れ、変態も現れたそうです。

ここから立花隆は、ストレス社会の弊害を説くのですが、私はむしろ、生命の神秘に思いを馳せました。過密社会の弊害を解決するために、種の中に緩和する個体が自然発生するなんて、神秘ではありませんか。

現代がストレス社会であることは論を待たないでしょう。その中で、ゲイとなった人々は、その人自身が後天的に社会のストレスを感じ取ったのか、それとも親が社会の危機を感じて子へ遺伝子を伝えたのか定かではありません。現代の有力な説では、妊娠中に性差を決めるホルモンのバランスが崩れることによってゲイが生まれるそうですので、「母親がゲイを選んだ」のかもしれませんね。

いずれにせよ、ゲイというのは、社会全体の危機に敏感な、先鋭的な遺伝子の持ち主であるということです。つまりは生まれつき、鋭敏な感性の持ち主ということ。流行の先を読み取るセンサーを持つのは当たり前なのかもしれません。

……としますと。

上述のカルフーンの実験によれば、同性愛のネズミの次に生まれたのは、
「未成熟のメスを犯したがるオス」
だといいます。

昨今の萌えブームなど、オタクの一部に熱烈なロリコンが多いことはよく知られています。彼らもまた、ゲイに次ぐ、鋭敏なアンテナの持ち主なのかもしれませんね。

2014年5月16日金曜日

ブログタイトルのつけ方 命名法

昨日の続きです。

「アマカナタ」のタイトルを変えるとして、どう変更すればいいのか?

人気の出るブログやサイト名を参考にしようと思いまして、アルファブロガーと呼ばれる人のブログ名や人気サイト名を、いろいろと分類してみました。

1.「◯◯ブログ」「◯◯日記」

具体例
極東ブログ」「やまもといちろうBLOG」「404 Blog Not Found」「Chikirinの日記」「phaの日記

ブログ、と名前をつけるのがもっともわかりやすいです。SEO的にも「これはブログだな」とすぐに分かるため、検索されやすいという利点があります。

ブログは元々ウェブ上に公開する日記を意味していましたが、今では製品紹介やホームページ代わりのものも多く、日記の範囲を完全に逸脱してしまいました。それでも昔ながらのこの名前を使っている人は、多いようです。

2.「◯◯通信」「◯◯新聞」「◯◯マガジン」「◯◯報知」「◯◯ニュース」

具体例
ガジェット通信」「虚構新聞」「ほぼ日刊イトイ新聞
これ、既存の新聞や雑誌を意識してつけられた名前ですね。ウェブであろうと、これまでの出版メディアの伝統を引き継いていこう、という意識が感じられます。

3.ブログ独自のネーミング

具体例
GIZMODO」「GIGAZINE」「ネタフル」「天漢日乗」「カラパイア」「ひろぶろ
「その単語を検索すると、最上位にそのサイトリンクが表示される」
というのは理想ですよね。

「あのブログ、面白かったな。お気に入りに登録していなかったけど、また読もうかな」
と思ったときに、サイトをお気に入りに入れていなくても、単語を検索すれば必ずヒットするので、思い出した時にブログを見てもらえます。

でも、サイト名を正確に覚えてもらうことが難しいのが、オリジナルの単語の欠点。

4.◯◯××という、既存の単語のこれまでにない組み合わせ

具体例
伊勢-白山道」「インターネットの備忘録」「オレガジェット」「情報屋さん。
「オレガジェット」というタイトルを最初に聞いた時「やられた!」と思いました。オレとガジェット。この二つを組み合わせたタイトルの組み合わせ、ありそうでありませんから。ご本人のご尊顔を先日拝見しましたが、なかなかのイケメンです。

ところで、「情報屋さん。」を運用しているコジェさんに昨年末了承いただいた、私の電子書籍の広告を出していただける、という話はどうなったんでしょ。

5.詩的な言葉

具体例
新世紀のビッグブラザーへ」「無限の地平はみな底辺」「真があって運の尽き
三橋貴明のブログのタイトルが、オーウェルの小説から取られていることは、分かる人には分かるもの。洒落ていますよね。

底辺氏のブログである「無限の地平はみな底辺」というタイトルも詩的ですが、内容は底辺に生きる人々がどうすれば這い上がれるかについての、含蓄あふれるものとなっていて読み応えがあります。

6.会社や組織っぽい名前

具体例
イケハヤ書店」「ココロ社
イケダハヤトは最近、超有名ですから多くの人がご存知でしょう。

ココロ社さんは、はてなの言わば重鎮的な存在。彼のブログには一時期、はまりました。

しかし、あるときから書く頻度が落ち、いつの間にか更新を見過ごしていました。久々にココロ社さんのブログを読みますと、文体が変わっていて驚きました。内容も哀愁を帯びてい、往年のねちっこくてポップな文章から様変わりしていました。面白いことには変わりませんが、より文学っぽくなりました。

大人になったのかな。私自身がまだ子どもなので、少し残念。
ココロ社さんの人生に、転機となるような何かがあったのかもしれません。

7.サイトの趣旨をそのまま名前としたもの

具体例
スチームパンク大百科S」「Today's Best News
スチームパンクは、以前に比べると格段にメジャーになりました。その先鞭となったのが、麻理さんのサイトである「スチームパンク大百科S」であることは論を待たないでしょう。



……という風に分類してみますと……タイトルにはこれ以外にも様々なバリエーションがありますし、サイトの人気とは無関係であるという当たり前のことに、ようやく思い至った次第です。

内容が良ければアクセス数が増えるし、つまらなければ誰も見に来ません。

そこまで考えまして、ブログ名を変えるのもバカバカしくなり、これからもこのままで行くことにしました。名前にも愛着あるし。

2014年5月15日木曜日

「アマカナタ」というブログタイトルの意味

ブログを再開するにあたって、心機一転、ブログの名前も変えてしまおうか……と考えていました。

というのも、このブログを同じ頃に立ち上げた友人と以前話をしていたところ、

「◯◯さんのアマカタナはね」
アマカタナのデザインが」
と、このブログのタイトルを最後まで間違って彼は話していたんですよ。

……衝撃でした。

もっとも、私自身、このブログを書き始めた頃、このブログの中で何度か、「アマカタナ」と書いていたことがありますから、友人が間違えるのは無理がないのかも。「アマカナタ」という言葉、日常では使いませんからね(「アマカタナ」が言いやすいのは、「アカサタナ」に似ているから?)

ブログタイトルの意味を知りたい方がいるかもしれませんので、ここでネタばらし。この言葉に……意味はありません(EL PSY KONGROO)。

スマートフォンのフリッカー用のキーボード配列には、あ行やま行などの最初の文字「あかさたなはまやらわ」が表示されています。
タイトルをキーボードで打つ時、あ行やか行の文頭ならば打ちやすいはず。そこで「あたまかな」をアナグラム配列して、なんとなく意味があり、しかも検索してもこのブログタイトルしか出てこない、どこにもないものとして、考えた末に出来た言葉なのでした。

そのうえ、「アマカナタ=天彼方」にも通じます。気宇壮大ではないか、と。密かに自画自賛していたのですが、このブログを誕生の頃から知っている友人にすら、覚えてもらえない名前は、果たして本当にいい名前なのでしょうか? 疑問に思った末に、タイトルを変えようと思ったのです。

この件、明日も続きます。

2014年5月14日水曜日

Amazon VS 出版社の戦いは、ダイエー VS パナソニックの30年戦争に学べ(下)

出典:『里山の自然をまもる』(石井実・植田邦彦・重松敏則 著、築地書館)
昨日の続きです。

昨日は、ダイエー VS パナソニックの30年戦争の概略についてまとめ、流通側がメーカーから価格決定権を奪った現状について、解説しました。

なぜ、メーカーは流通に敗れたのか。

「自由競争と価格破壊が時代の流れだったから」
と言ってしまえば、それで終わりですが、メーカー側の対応がもう少し異なれば、別の結果に持ち込めたかもしれません。

今から20年ほど前までは、商店街に小さな家電店があるのは当たり前でしたが、今ではすっかり姿を消してしまいました。

家電製品は確かに安くなったものの、家電メーカーはどこも赤字で苦しみ、従業員は次々にリストラされ、今の日本の雇用状況の悪化をもたらしています。

メーカーがあの時、もっと別の方法を取っていれば、たとえ変化が避けられないものだとしても、ソフトランディング(軟着陸)が可能だったかも。一気に変わるのではなく、少しずつ変われば、社会は変化に対応できます。多くの人生が大きく狂うこともなかったかもしれません。

当時、どのような方法をメーカーが取ればよかったのか。冒頭のAmazon VS 出版社の戦いの参考にもなるのではないかと思いまして、メーカー側の戦略を、再検討してみました。

①メーカー側が一致団結するべきだった

家電メーカー敗北の1番の要因は、メーカー同士の足並みの乱れでしょう。ダイエーに対抗したのは松下電器だけ。その間、ソニーやシャープなどの大手メーカーは松下電器の動きを静観し、ほとんど協力することはありませんでした。

家電メーカー同士は熾烈なライバル関係にありましたし、ソニーと松下電器は家庭用VTR規格統一戦争を行っていましたから、しょうがないのかもしれません。それにメーカー間で価格協定を結んでしまえば、カルテルとなり、独占禁止法に引っかかります。

それでも、共闘宣言を出し、暗黙の了解のもと、流通側に対向する、という方法もあったはず。「ゲーム理論」でいうところの「囚人のジレンマ」を挙げるまでもなく、メーカー間で報復と報酬を繰り返すことで、密室談合を行わなくとも、協力できたのではないでしょうか。

ところが当時のメーカー間ではそのような動きはなく、松下電器だけの一人相撲になってしまいました。

②「メーカーが価格決定権を持つことは正しい」という信念がなかった

「自由競争と価格破壊」は世界のトレンドです。現在TPPの締結が急がれているのはその流れの一環。消費者志向は自由貿易の要とも言えます。

しかし、自由市場経済が世界中に広がった結果、私達は本当に豊かで幸せになったのでしょうか。むしろ、格差が広がり、最も豊かな国で極貧の生活を余儀なくされるような矛盾が、目立つようになったのではないでしょうか。

完全な自由社会では、一部の優秀な人間、組織のみに資金が異常に集まり、それ以外の労働力以外に売るものがない人々にカネが行き渡らなくなります。消費者は同時に生産者です。多数の生産者にカネが回らなければ、消費するための元手がなくなってしまいます。

松下幸之助は当時から、
「過当競争は寡占を生むので、将来的な独占価格をもたらす」
と指摘していました。この慧眼がメーカー側の共通認識となりえなかったこと、そのため、メーカー側に、
「価格決定権を我々がもつことは、人々の生活を豊かにすることだ」
という強い信念がなかったことも、足並みが揃わなかった理由の一つでしょう。

③大勢の人々への啓蒙活動がなされなかった

「価格決定権をメーカーがもつことが正しい」
という信念をメーカー側が持っているだけでは、世の中は動きません。メディアを巻き込んだ、大きな宣伝活動が必要です。

「ニューヨークでは100円で飲めるコーヒーが、東京では600円もする」
と、1970年代から90年代の日本では、新聞がこぞって書きたて、メディア全体が、日本の物価は高すぎる、という論陣をはっていたのを覚えている方々も多いでしょう。

600円の値段設定のお陰で、いくつもの中間業者に利潤が行き渡り、大勢の人々の生活が潤っていたというのに。皆が少しずつ得をする。もたれあい、支えあう隠微的な世界がそこにありました。それは窮屈ではあっても、心地よい世界でした。

もっとも、そのぬるま湯の心地よさは、今だから分かることかもしれません。20世紀末期には、消費者志向によってバラ色の未来が広がると、誰もが信じていました。

④その他大勢のメーカーを巻き込んだ研究会を開催するべきだった

消費者がメーカー側の主張に理解をするのは、生活レベルが一度落ちないと、難しかったもしれません。

数十年前にそれは無理でした。それでも、せめてメーカーに属する人々の意思疎通だけでも、統一する動きがあっても良かったのではないでしょうか。

流通業界では、ダイエーなどが日本の流通関係者を大勢集めて、アメリカのスーパーを見学させるツアーをよく主催していたものです。研究会や勉強会が各地で開催され、日本への流通革命の導入が図られました。

同じような勉強会を、メーカーが大勢の人々を招いて行ったという話は、あまり聞きませんね。

たとえばアメリカに対抗するものとして、欧州の方法があります。ドイツが生産者保護のために、どれほど法規制を国内に敷いていたか。そのあり方を日本のメーカーが、異業種のメーカー経営者のツアーを組んで見学させたりしたでしょうか? 生産者主導の社会をいかにつくり上げるか、という研究会が各地で開催された話も、寡聞にして知りません。

大勢の若手が集まって研究を行えば、その中にはキラリと光る手法が見つかったかもしれません。それによって、流通側に対抗する新しい方法がみつかったかも知れないのに。


以上をまとめると、もしも当時家電メーカーが流通側に対抗するとしたら、
①流通側に共同で対抗すると同時に、
②メーカー側の理念を明確にし、
③そlの理念を消費者に理解してもらいながら、
④業種を越えたメーカー間で研究を行う。

……といったところでしょうか。

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出版社には、家電メーカーと異なり、巨大流通業者と戦う上で有利な点が幾つかあります。

一つ目は、再販制度により、定価販売が法的に認められているということ。

知的財産を守るためには、定価販売が必要という共通認識が広く行き渡っていることです。これは、Amazonと戦う上で有利に働くでしょう。

二つ目は、自由市場経済の弊害が、現在では日本でも多く、知られるようになっていること。

2011年「ウォール街を占拠せよ」運動は、まだ記憶に新しいところです。自由主義の本場アメリカですら、市場経済万能思想は批判を浴びるようになりました。

三つ目は、出版社の商品を購入するのがインテリであること。

安いものにすぐに飛びつくではなく、自分の頭で考え、理念を消費行動に結びつける人々が出版物の消費者には多いはず。「安くて便利」以外の部分で、勝負が少しは、可能でしょう。

こうした利点を元にすれば、時代のスピードが早いとはいえ、出版社も十分、体勢の挽回は可能でしょう。

たとえば、出荷停止だけではなく、
「アマゾンは社会の多様性を奪います」
という煽り文句とともに、密林のすべての木々の根っこがすべて「Amazon」一つから生えているという反多様性の未来を描いたイラストの意見広告を、新聞やネットに流すとか。

戦争に勝つために、大勢の人々を巻きこみ、味方に引き入れるなど、いろいろな方法があるんじゃないでしょうか。

私もAmazonのアフィリエイトがもう少し多ければ、Amazon擁護の論陣を貼るのですが、一ヶ月のアフィリエイトが数百円という現状ですと、出版社側を応援せざるをえません。それに、Amazonの力が強くなりすぎると、我々ブロガーへの報酬がさらに少なくなるでしょうし。

出版社側には、ぜひとも頑張って欲しいところです。

2014年5月13日火曜日

Amazon VS 出版社の戦いは、ダイエー VS パナソニックの30年戦争に学べ(上)

 
なし崩し的に再販制度を崩壊させようとするAmazonに対して、出版社3社が叛旗を翻しました。

★ 出版3社がAmazonへの出荷停止を発表
 一般社団法人 日本出版社協議会は5月9日、記者会見を開催。同協議会の会員社である株式会社 緑風出版、株式会社 水声社、株式会社 晩成書房の3社が5月7~9日より6カ月間、Amazonへの自社出版物の出荷を一次停止すると発表した。3社が出荷停止する出版物の点数は約1600点。
今朝この記事を読んで記憶に蘇ったのは、かつてダイエーと(現・パナソニック)の間で行われた価格決定権を巡る争い――「30年戦争」のことでした。

1964年、東京オリンピックの年にさかのぼります。
「15%まで」
というのが松下電器の値引き限度でしたが、その要請を無視したダイエーが、20%引きで家電製品を販売したことが発端。

松下電器はダイエーには一切自社製品を卸さないことを決意。ダイエーは松下電器を独占禁止法違反の疑いで告訴しました。両者は泥沼の争いを始めます。

松下電器創業者の松下幸之助には、持論がありました。
「メーカーには大勢の従業員と、系列販売店の生活を守る義務がある」
彼は経営者であると同時に、国家のために尽くしたいと願う国士でしたから、多くの人々の雇用が守られる、余裕のある価格をメーカーが設定することが必要だと考えていました。

これに対して、ダイエー創業者である中内功の考え方は違います。
「価格を決めるのはお客さん。安いものを届ければ消費者が喜ぶ」
徹底的に消費者目線に立った彼は、メーカーから価格決定権を奪うために規模の拡大を追求します。

ライバルスーパーのすぐ横にダイエーを出店して客を奪うなど、強引な手法で売上を上げ、メーカーが口を出せないほど巨大な流通帝国をつくり上げることに成功したのです。

松下電器が出荷停止すると、ダイエーは倒産した電器屋から松下電器の製品を仕入れ、メーカーによって貼られた製品管理シールを剥がして身元を隠して販売する、などの方法で徹底抗戦します。両者の争いは、1994年に正式に和解するまで30年間続いたのでした。

メーカーと流通の争いの結果は、みなさんご存知のとおりです。

メーカーは価格決定権を流通に奪われてしまいました。今ではダイエー以外のヤマダ電機やビックカメラ、ヨドバシカメラなどにメーカーが社員を派遣して販売を手助けするのが当たり前の時代となりました。

流通側の圧勝、という訳ですね。

もっとも、その立役者であるダイエーは、バブル崩壊によって売上が一気に落ちた時に、規模が大きすぎて身動きが取れず、業績が大幅に悪化。現在はイオンの子会社となってしまいましたが。

それにしてもなぜ、あの時にメーカーが敗れたのか。

明日は、その原因について探ると同時に、そこからどのように学ぶことができるかについて、分析を試みます。

2014年5月12日月曜日

小保方さん側弁護士は、わざと不利な情報を公表しているのではないか

小保方晴子の「STAP論文捏造事件」は、週イチで新しい燃料が投下されるので、炎上が収まる気配がありません。

先日は小保方さんの実験ノートが公開されまして、多くの人々の度肝を抜きました。
朝日新聞DIGITALより
ITmediaによれば、上記のような簡単なノートが、8ヵ月で4ページしか記載されていないそうです。研究者も色々な性格の人がいて当然ですから、雑なノートもあるでしょう。しかし、いくら雑であろうと限度があります。そして上記のノートは、明らかにその限度を超えていました。

その上、論文画像差し替えを誤った理由を、小保方さんは「多忙」と説明していたのですが、その時期に、そば教室に通ったり、ケーキ屋に弟子入りしてケーキを作っていたことも判明。

さらにはPEACEという動物愛護団体の情報開示請求によって、小保方さんが実験を行ったと主張する時期には、動物実験計画書が提出されなかったことも明らかとなりました。

★ STAP細胞論文の動物実験計画書についての質問書

おそらく彼女は、まともな実験を理研では一切していなかったのではないでしょうか? そんな人間に理研では高給を与えていたのだから、とんでもないはなしです。

それにしても、どうしてこう、どう考えても分かる嘘を、小保方さんはともかく、その周りのブレーンである弁護士たちが発表するのでしょうか?

そこでふと思ったのが、彼らが最初に主張した、
「小保方さんには悪意はない」
というものの中に、全ての答えが隠されているのではないか、ということ。

法律を多少かじったことのある方なら御存知の通り、「悪意」は日常用語と法律用語とだは意味がまったく異なります。日常用語での「悪意」とは、相手を騙そうという意思を意味するのですが、法律用語では「ある事実を知っている」という意味を示します。

それを知らない法律の専門家は存在しません。

ところが、小保方さんについた弁護士は、記者会見で、この「悪意」を、日常用語である「騙そうとする意思」という意味で使っているのです。

最初は「そんなバカな」と竹内久美子 のように思っていましたが、ここにきて、ようやく彼らの主張するところの、意味が分かりました。

彼ら弁護士は、最初から、小保方さんを弁護する気持ちなんて、さらさらないのではないか。

彼らはこの勝負が負け戦で、決して勝てるものではないことを知っています。小保方さんから全て、概要を聞いているのですから、小保方さんを擁護することは到底不可能であり、小保方さんの主張を通すことは無茶であることは百も承知なはず。

そこで彼らは目的を大きく変更したのではないでしょうか。バカな依頼人のために、一生懸命に働いているふりをし、名前を売るという方向へ。

自分たちの名前を売り、その上で、負けることを正当化することが当面の目的だとしたら、小保方さんがいかに「バカ」なのかを、マスコミ受けする形で、少しずつアピールする必要があります。マスコミに顔を出しながら、負けるのが当たり前、という雰囲気を作るのです。

依頼人もマスコミも騙し通せる自信のある彼らが唯一怖いのは、同業者たちから"無能"の烙印を押されることでしょうか。そこで彼らが記者会見でイの一番にやったことが、「悪意」の意味を、法律とは異なった解釈をしてみせることだったのではないか……と推測するのです。

つまりは大勢の同業者に、
「私達はプロレスをします」
と高らかに、宣言したのですね。

「『悪意』を『詐欺を働こうという黒い意思』という意味で使うところで察してください。
私達、本来の法律上の土台をもとに勝負するつもりありませんから」
というところですね。

「憎まれっ子世にはばかる」
といいます。弁護士に依頼をする客の誰もが、頭がいいとは限りません。いや、むしろ、おカネはあるものの揉めごとを自分たちで解決ができない、という点で能力の劣った人々が、彼らの顧客となることが多いのかもしれません(もちろん、裁判を起こす人々が全てそういう訳ではないことは、当然の話ですが)。

弁護士にとっての将来の顧客である人々は、どの弁護士が優秀でどの弁護士が劣っているのか判断する能力はなく、弁護士を探す上で、ネットで調べたり過去の事例を調査したりすることはないでしょう。

彼らが弁護士を依頼する上での判断基準は、
「聞いたことがある」
とか、
「過去に有名な事件を扱っている」
とか、記憶のどこかにかすかに残っているか否かのみ。

小保方さん側のバカな主張を繰り返しテレビで観る人々に、小保方さんをバカだと思わせ、それを一生懸命弁護しようとする弁護士側に頼り甲斐を感じさせる……弁護士陣はそこまで考えて、あのような稚拙な弁護活動を行っている……とは、考えられないでしょうか。

これくらい、私ですら考えられるのですから、様々な宣伝効果をご存知の弁護士が考えつかないはずがありません。負け戦も宣伝活動と思えば、ありがたいものです。

そうしますと、さらに大きな隠し球を、これからも投げ続けてくれるはずです。小保方さんがいかにどうしようのない人物で、負けて当然とでもいうような、そんな情報を。

これから彼らが投げる隠し球は、理研の内情暴露ではないか、と私は思うのですが、どうでしょう。

2014年5月11日日曜日

ブログをようやく復活

インターネットにパソコンを繋げない環境にいましたが、ようやくそこから解放されました。
2012年から毎日ブログを書いていたけれども、昨年末にブログを休み、それから一身上の大きな変化もあり、多忙を極めていて、本日までブログを更新出来ませんでした。

愚考を綴った拙文であるにも関わらず、少なからず楽しみにして頂いている方々もいらっしったようで、
「再開はいつになるのか」
という声をいくつかいただきました。大変感謝しています。

個人ブログというのはいつの間にやら更新しなくなることが多いもので、私も毎日のように楽しみに読んでいるブログが更新されなくなると、ちょっとした喪失感を抱くことになります。

このブログは取り敢えず、今後も更新していく予定ですので、ブックマークしていた方々は、削除するのは今しばらくお待ちいただけますと幸に存じます。

それと、せっかく心機一転する機会を得たので、少々ブログの書き方を変えていこうと思います。

・常体と敬体を日によって書き分ける。

私の記事は、若干強めの主張が多く、文末表現を常体(~だ、~である)とすると、ときに、独善的に感じられるきらいがあります。

敬体(~です、~ます)を使うようになり、その点の改善はなされました。ところが、私自身の感情から離れてしまい、書いていてもどかしい思いにとらわれることが多いのです。そこで、幾度か常体に戻そうとしたこともありましたが、そうしますと先述の弱点があらわになります。

帯に短したすきに長し、とはこのこと。

ところがあるブログで、この問題に簡単な答えが書かれていました。

そんなことをしばらく続けてみたんですけど、(もちろん内容にもよりますが)私の場合は常体でも敬体でもさしてPV数やブックマーク数に変わりないんだなぁと思いました。
むしろ『常体』の時の方が共感具合が上がるっぽいです。
目から鱗でした。それってありなの?

よく考えたら、ありなんですね。ブログにはルールはありませんから。

それに、このブログにはGoogle検索でやってくる人が、多いのです。一つ一つの記事に個別にアクセスするならば、その日によって文末表現が異なっていても、読むのに違和感はないはず。

ということで、文末表現はこれから、日によって変えていく予定です。もしもそれに違和感があり読みにくいと思われるようでしたら、コメント欄でご指摘ください。

・記事を1日1記事に限定しない

記事を書くのを、1日1記事に限定していました。継続するためには、毎日1記事を必ず書く、という原則を守ることが大切です。そして、記事が着実に毎日書かれているかどうかは、カレンダーを見ればわかるので、自分の励みになります。

ところが、逆に記事を書き始めるまでに時間がかかってしまうのです。厳選しなくてはありませんから、もっと気軽に書くことが出来ません。

記事を多く書くと負担になると思っていましたが、そうではないことが段々と分かってきましたが、かといってせっかく1日1記事でやってきた生活習慣を変えることにも抵抗感がありました。

でも、こんかい心機一転する機会を与えられたので、これを機に、1日に書く記事数を限定しないことにしようと思います。




とりあえず、こんなところでしょうか。
それでは今後ともに、よろしくお願い致します。