2014年5月26日月曜日

児童虐待と二宮尊徳(下) ~冷泉氏の記事はピントがずれている~

昨日の記事の続きです。

3.忍耐と努力の勧めは、無教養の若い親が増えている日本では悪影響。

現在の日本では、高い教育を受けた層よりも、俗に言う「ソフト・ヤンキー層」の方が高い出生率になってきていると考えられます。教育に関心を持たない親を持った子供が増えているのです。
高学歴の夫婦は、子供を産みたがりませんね。先進国ではどこも同じようでして、日本以上の高学歴国であるシンガポールでは、優秀な人材の再生産を行うために、高学歴夫婦に子供を産ませるためにあの手この手の政策が積極的に取り入れられているといいます。

それに比べますと、「ソフト・ヤンキー層」の出生率は確かに高いでしょう。そして、彼らの中の子供の虐待率は、高学歴夫婦よりも高という、そこに異論は唱えません。

では、現に虐待を受けている子どもたちにとって、どのような教育が救いとなるのでしょうか? 
「あなた方は尊敬されるべき存在である」
という教師の美辞麗句でしょうか?
「人間にはお互いに尊重されるべき権利がある」
という言葉でしょうか?

私が子供の頃、この手のことをしたり顔に唱える教師が大嫌いでした。現実とは異なる空理空論を唱える教師に限って、目の前の問題に真剣に取り組んでくれはしなかったからです。イジメを見たら、その場で加害者を叱りつける教師は、むしろ保守的な人に多かった記憶があります。

イジメられている子供にとってはイジメっ子を叱り飛ばしてくれる教師が必要ですし、家庭で虐待されている子供にとっては、それを発見して自動相談室に通報してくれる教師が必要でしょう。あるいは、励まし、応援してくれる教師を求めています。少なくとも、高尚な理念ではありません。

ちなみに、虐待を受けている子供にとって必要なのは、例えば下記のイラストのような理想的な風景でしょうか?
それとも、二宮のような、克己勉励をして苦難から抜け出すことが出来た生きた実例でしょうか?

フィクションではなく、かつてもっと貧しかった日本で、もっと厳しい文化風土の中で、それでもそこから脱出することに成功した一偉人の物語によって、多くの子どもたちが救われるのではないかと、思うのです。

現に若年期につらい思いをした私にとって、心の支えとなったのは偉人たちの苦しい幼少時代のエピソードでした。

4.教育現場では「自助努力」が推奨されるに違いない。そこからは知恵もやる気も生まれない。

これに至っては言語道断。冷泉氏が空想した道徳の授業の風景とは、下記のようなものでした。
先生「おじさんはどうして油を使っちゃいけないと言ったのかな?」
生徒「ハーイ。たぶんお金がなくて困っていたんだと思いまーす。」
先生「正解だ。では君たちは自分が金次郎だったらどうするかな?」
生徒「私も、金次郎みたいに自分のできることをやって人に迷惑をかけないようにしまーす。」
先生「正解だ。みんなも、困ったらまず自分ができることをするんだよ。人に頼ったり、欲しい欲しいなんて言う前に努力する人間になりなさい」
これを冷泉氏は「正解探し」として退けるのです。

冷泉氏にとって、土台を教えることは余計なこと、なのでしょう。しかし、「嘘をつくな」「弱いものをいじめるな」「自分で努力しろ」といった当たり前の価値観は、誰かが教えなければ、子どもたちの身につくものではありません。子どもたちが自然に身につけるとでも思っているのでしょうか?

いや、冷泉氏の言いたいことは、
「自助努力」
は教えられるべきことではない、というものなのかもしれません。「嘘をつくな」というものに比べて、ややオトナの社会にとって都合のいいもののように思える、というところでしょうか。

冷泉氏には、どのような価値観を教えるべきで、どのような価値観は学校で教えるべきではないのか、例示してもらいたいものです。「自助努力」は学校で教えられてしかるべきことだと思うのですがね。

子供は天邪鬼です。それに反発するかもしれません。それを上から押さえつけたとしたら、それは戦前と同じ。反発を感じて反論されたら、それをきっかけに何が正しいのか、という正義論について教えればいいのです。それにも、冷泉氏は反発するのでしょうか? もしも、
「それならばいい」
と言うのだとしたら、「自助努力」を教えること自体を否定するべきではありません。それにすら反発するのだとしたら、そもそも学校では「嘘をつくな」「仲間を大切にしろ」「弱いものをいじめるな」という価値観を一切教えてはいけない、ということになりやしないでしょうか。

5.根底にあるのは「個の尊厳を否定し、将来ある若者を年長者に忍従するように仕向け、アジアの草深い世界に帰って行きたい、そのような思想」だ。

リベラル系の知識人は、どうしてもマルクス主義の影響から逃れられないようでして、「アジア」を反近代の象徴と唱えることに抵抗感がありません。

この手の差別的な言質は、今のアメリカではあまり許されていないのではないでしょうか? そうだとしたら、アメリカ在住のコラムニストとしてはお粗末です。草深い世界はアジアだけではありますまい。ヨーロッパでもアフリカでも、近代以前は草深い世界でした。アジアを劣ったものの象徴として使わなくても良さそうなものです。

ただ、言葉尻を捉えてばかりいても仕方ありませんので、冷泉氏の真意に沿って理解をした上で、それに批判を加えることにしましょう。

冷泉氏はあまりに近代主義に偏りすぎているように思われるのです。

第二次世界大戦以前、「個の尊厳」がないがしろにされていたのは間違いありません。戦後その反省のもとに、封建的なあらゆるものを捨て去って今に至りました。その成果は、間違いなく現れています。

しかし、現代社会ではその弊害もまた、現れてきています。特に多いのが、メンタルヘルスを病んだ人々の急増です。

「個の尊厳」を追求する社会は、人々に「自分が何であるか」を問いかけきました。自分だけのものを追い求める、いわゆる「自分探し」をしている人々が今でも社会には大勢いることでしょう。

でも、自分探しをしている人はいても、「自分が見つかった」人の話は聞いたことがあまりありませんね。玉葱の皮を剥くように様々なものを捨て去って、最後には何も残らないようなものです。

多くの人はそれであきらめて、自分探しと曖昧なまま決別して日常生活を送るのですが、少数の人々は、「自分」が何も残らない現実と折り合いをつけることが出来ず、アイデンティティーを喪失して精神を病んでしまうのです。

近代以前は違いました。「何が自分であるか」を問うのが近代以前の考え方です。裸の自分が自分ではなく、服を着て、身支度を整えた自分こそが本来の自分だったのです。「国家の一員としての自分」「父親、あるいは母親としての自分」「日本人である自分」といった一つ一つが自分の構成要素である、という考え方は、安心感を与えてくれます。

一度玉ねぎの皮をすべて剥き去ったのが近代教育だとしたら、今後の道徳教育では、剥いた皮を再び集めて玉ねぎの形に整えていく作業とも言えます。それによって、再び個の尊厳が侵されることはありますまい。それ以上に、今の社会で苦しんでいるか弱き人々を少しでも、救うことが出来る効果があるのではないでしょうか。

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