2014年2月16日日曜日

私用により、しばらく更新が途絶えます

一身上の都合により、記事を書くのをしばらくおやすみします。
私の記事を楽しみにお待ちいただいている皆様、申し訳ありません。

携帯で時々アクセスするかもしれませんが、本格的な更新は、
数週間後になる予定です。

よろしくお願い致します。

amakanata


2014年2月15日土曜日

師匠から学び、師匠を乗り越えるための方法

ノマドブームにあやかって、組織から離れて独立する人、増えていますね。組織に所属しないことをカッコイイ、と思う人も、相変わらず多いです。

このブームに警鐘を鳴らす、下記のような記事もあります。

これが一匹狼の実態である。
そして、狼同様に自然界での低カースト生物である人間の社会も、狼と相似した原理で運営されているに違いない。
孤立者は、劣っているから孤立しているのである。
身も蓋もない言葉ですが、これは真実。本当に強い人間とは、組織の中で出世レースに勝ち抜いた人物なのかもしれません。

ただ、安定した組織から離れてしまった人にとっては、それがカッコイイかどうかとか、劣っているかどうかなどはどうでもいい問題。生きていかなければなりません。生活していかなければなりません。家族を食わせていかねばなりません。

自分だけでうまくいく人はいない

しかし、そこで問題が生じます。独立心の強い人間は、まず、自分の力だけでやっていこうとします。でも、ほとんどうまくいきません。最初から自分の能力だけでうまくいく人間は、よほどの才能をもった人間だけです。

そこまでの才能のない人間で、それでも生き残っていきたい人間に残された方法が、他人の真似をする、という方法。そうです。師匠を見つけて、師匠に弟子入りするのです。

さて、本日の記事の主眼はここからです。

せっかくいい師匠についたにも関わらず、師匠の弟子のまま、一生を終える人がいます。逆に、師匠を超える成功をおさめる人もいます。

師匠から独立するのは、大変難しいのです。師匠と自分が選んだ人間だけあって、自分よりも能力が高く、自分よりも魅力があるのです。そして、自分の先を歩いていますから、老齢によって衰えるのを待つ以外に、師匠を追い抜くのは、通常困難です。

それに、師匠によっては、弟子が自立するのを嫌がる人もいます。支配欲が強かったり、あるいは自分のライバルが増えるのが嫌だったり、理由は様々ですが、この手の師匠に潰されている弟子も、よく見かけます。

では、ある程度師匠から学ぶべきものは学び、それから独立して、師匠を越えたいと願う人間は、どのような方法を取ればいいのでしょうか?

以前、『太平洋文明の興亡』という古い本を読んでいたところ、師匠を超えるための6つの方法が述べられていました。

もともとは詩人が新しい分野を開拓するための方法だそうですが、詩作にかぎらず、ビジネスでも創作でも、大変役立つ考え方ではないかと思い、ご紹介することにします。

師匠を乗り越えるための6つの方法

第一段階 クリナーメン

「誤読」を意味します。つまり、師匠の意図とは異なる読み方。自分独自のオリジナリティー。

いきなりハードルが高いのですが、師匠を乗り越えるためには、必ず自分独自のものを、自分の中になければならないということです。それは、誤解でもいいのです。誤りであってもいいのです。必ず、師匠とはこれだけは違う、というものが、あなたの中に必ずあるはずです。それを見つけることを、最初の第一段階とします。

第二段階 テッセラ

「補完」を意味します。つまり、師匠の仕事を「断片」とみなすのです。それに何かを継足すのです。

師匠の仕事を偉大だ、完璧だと思っているうちは、師匠を乗り越えることはできません。「師匠の仕事には、何かが欠けている」と考えるのです。無理矢理に。師匠の仕事は、大いなる作品の一部であり、自分が完成させてやると、こう考えるのです。
http://twitpic.com/bzo8eg

第三段階 ケノーシス

「反復」を意味します。師匠と同じことを、師匠を乗り越えるために敢えてやることです。

「それ、マネじゃないの?」
と思われる方、そうじゃありません。師匠と同じ能力を得るために、師匠と同じことをするのがマネだとしたら、師匠を乗り越えるために、師匠のやっていることを繰り返すことは、マネというよりも検証作業です。

批判的な態度で、師匠のしていることを反復しながらその意味を理解していくこと。それを、第一段階、第二段階を踏まえた上で、行うのです。

第四段階 デモナイゼーション

「悪魔化」を意味します。師匠のすることを、崇め奉ることが神格化だとしたら、その逆。

師匠を神格化するということは、師匠の仕事が特別なもので、かけがえのないものだと考えることです。では、その逆の「悪魔化」とは? それは、師匠の仕事が決して特別なものではない、と考えることでしょう。

師匠の業績は素晴らしいけれども、師匠だけではなく、世の中の偉人はみなやっていることだと知り、普遍的なものなのだと考えていくことです。師匠を一般化するのです。そうして、師匠の信者となることを、やめるのです。

第五段階 アスケシス

「排除」を意味します。自分の中で、師匠からもっとも影響を受けた部分を切断するのです。

師匠から独立するのは、大変です。師匠から大きな影響を受けている訳ですから、それから自分独自のものを確立するのは、困難を極めます。そこで、師匠から最も影響を受けた部分を、敢えて切り離す勇気を持つことです。

たとえば、日本画を師匠から学んだとします。師匠は鳥を描くのがうまく、中でも孔雀を描かせれば日本一と言われ、弟子のあなたも、同じく孔雀を描くのを得意としていたとします。

アスケシスの段階に来た場合は、この師匠から独立すると決めたならば、今後は一切、孔雀を描かない、と決意することに当たるでしょうか。

師匠から最も影響を受けた部分を封印することで、師匠の影響を排除する、という苦渋の決断が、ここでは必要です。

第六段階 アポフラデス

「帰還」を意味します。自分のような偉人を教えた師匠として、師匠を褒め称えます。

師匠を褒めるのは、あくまで自分の価値を上げるため。もはや師匠は、自分を作り上げた部品の一部です。偉大なる見上げる存在としてではなく、かけがえのない自分を作り上げた土台として、師匠を祭り上げるふりをして師匠を自分の下に置いてしまうのです。



いかがでしょうか。それぞれの言葉には、他の解釈もあるようですが、私にとってはこの解釈がしっくり来ました。もしも師匠を乗り越えたいと思う方がいたら、ぜひ、こういった考え方があることを、知っておいてください。いつか役立つかもしれません。




※ちなみに、冒頭の写真は、ジュリアナ東京でセンスを振りながら踊っていたことでおなじみの荒木師匠。彼女が講師を勤める結婚予備校のHPより。


2014年2月14日金曜日

アメリカがチップの廃止に向かって前進中

チップ文化は慣れていないと恥をかきます。私、東南アジアやインドを旅行していたときに、チップの存在をすっかり忘れていて一度もチップを払いませんでした。ただ、彼らは日本人がチップを払わないのに慣れているのか、何も言われませんでした。

後から聞いた話では、チップは彼らの給料の一部と考えられており、チップがあること前提で低い給与体系となっているそうです。知らないこととはいえ、申し訳ないことをしてしまいました。

ところが、チップの習慣が根付いているアメリカで、現在「チップの習慣をやめよう」という運動が盛り上がっているそうです。

★ 米国のチップ文化に存続の危機?
この論争は、オンライン雑誌「スレート(Slate.com)」が、レストランの請求に加えて20%もの心付けを支払うのは「悪しき慣行」だとする大胆な記事を掲載したことに端を発しており、今では誰もが知るところとなった。
アンドリュー・フリーマン社のレポートによると、いくつかのレストランではチップの受け渡しが禁止され、その代わりに、従業員の給料値上げや、来店客からのサービス料金徴収といった措置が取られているという。
チップの起源には諸説あるようですが、18世紀、イギリスの飲み屋で急ぎのサービスを求めている客は"To Insure Promptness"(迅速保証用)と書かれた箱にお金を置いていたそうで、その頭文字をとって"TIP"と呼ばれるようになったという説が有力です。

日本語でチップは「ちっぽけな」に通じるために、料金+ちょっとした心づけとして、語感もいいです。習慣として広がりそうな気もしますが、逆に、廃れる方向へと進みました。昔は日本にも「心付け」という習慣がありましたが、今ではほとんど残っていません。

文化が変わるまでには紆余曲折がありますが、誰もが面倒だと思っている習慣は、なくした方がいいのでしょう。

もう一つ、面白いと感じたことがります。アメリカ中を巻き込んだ論争が、オンラインマガジン"Slate Magazine"を発端として巻き起こったこと。

アメリカでは、フェイスブックのIDなどを使って、コメントを自由に書き込めるメディアが多い印象を受けます。そのために、2ちゃんねる以上にこういったオンラインマガジンのコメント欄で熱い議論が繰り広げられ、それが現実の社会にも波及していきます。

日本にもオンラインマガジンがありますが、日本のメディアは批判を恐れてコメント欄を閉じていることが多いです。あっても、検閲後でなければコメントを掲載できないようになっています。その点が、日本のメディアが今ひとつ、社会に大きな影響を与えれらない所以ではないでしょうか。

もっと2ちゃんねるのように、1記事に対して自由な議論をさせていけばいいのに、なぜそれをしないのでしょうね?