2015年2月9日月曜日

動詞の敬語と受動態が似ているのは主語が入れ替わったから?

先日、動詞の敬語と受動態が似ていて紛らわしいな、と思いながら、そもそもなぜ両者は似ていたんだっけ? と考えていたときに、こんな仮説が成り立つのではないのか? と思いつきました。

たとえば、
「客は『……』と言った」
という文章を敬語で表すならば、「言った」を「おっしゃった」に変えて、
「お客様は『……』とおっしゃった」
となるでしょうが、「言った」を受動態に変えて、
「お客様は『……』と言われた」
と表すのも間違いではありません。。

後者が受動態が敬語になることの例です。
さて、なぜなのか、と考えたときに、
「他人を敬うために受動態を使うのではなく、他人を敬うために、主語を「自分」に切り替える習慣が長年経って、いつの間にやら受動態を敬語として使うように変化したのではないかな」と考えたのです。

つまり、
「客は『……』と言った」
を敬語に直すとしたら、
「(私は)(お客様から)『……』と言われた」
と変換する長年の習慣がまずあります。

そして、日本語では「は」や「が」という、主語を表す助詞が省略される傾向にあり、そもそも主語自体が省かれる傾向にありますから、人間の頭では短絡的に、
「敬語には受動態を使う」
とインプットされるようになったのではないかな、と。

英語で表すならば、
"He forgot me."
という文章を敬語で表すために、
"I was forgotten by him."
と表現するようになり、普段主語を略して、
"Was forgotten."
と使われるうちに、"He"が尊敬の相手だった場合には、必ず、
"He forgotten me."
 と使うようになった、というのが私の仮説です。

そう考えたものの、まあ、こんなことは国語の専門家ならば誰だって考えるかもしれないな、と思って、ネットで「敬語 受動態 理由』などといった言葉で検索しましたが、そのものずばりの回答がなかなかみつかりません。

★ どうして受け身の形が尊敬になるのでしょうか
では、
実は英語だけでなく「受動態」が敬語になる例は各国語にあります。
なぜ「受動態」が敬語になるかといういうと「動作の主体」が客体になるからです。
という回答があり、一見、私のアイデアに近いのですが、主体が客体となったのちに、主語が入れ替わり、それが脱落した、という意味ではありません。

それに、前半と後半の文章の論旨が一貫していませんね。だからベストアンサーに選ばれなかったのかも。 その点、
個人的な感覚ですが、「れる、られる」の尊敬用法は、自発用法から派生したという考えもありかな、という気がします。
というベストアンサーは面白いですね。

昔、高校生の頃、金田一晴彦著『日本語』を読んだことがありました。そのなかで、「お茶が入る」という日本語の用法の奥ゆかしさについて金田一氏が力説していたのも、思い出しました。

もしや、『日本語』にすでに書かれていたかもしれない、と思って本を探しましたが、しまいこんでいたのか、本棚から見つかりませんでした。

この説に少しは新しいものがあるのかどうかは分かりませんが、仮説として面白いかもしれません。また、英語では主語を省略できませんが、ドイツ語では日本語のように、主語を省略したり動詞の後においたりできるので、ドイツ語では敬語の自動詞と受動態が同じになる、というケースがあるかもしれない、などと考えましたが、ドイツ語は身についていないので、確かめるすべがありません。

1 件のコメント :

  1.  仕事中何かに関係して、「れる」「られる」という受け身の形が敬語と同じであることの理由が分かったように思えた。そこで、突き詰めて考えることにしました。
    私が日本語の性質に関心を持つようになったのは本や電波などのメディア、学校などで英語や世界の文化を習うことによって日本や日本文化を相対化できるようになったということから始まっています。
     これは、総合的には気が付きませんでしたが言葉にすれば単純なことのようです。
    すなわち、敬語も受け身も自分の意思では抗しがたく、受け入れるべき自分の外にある、あるいは自分に向かってくる物事の動きをあらわしています。
    絶えず変化し身を任せるしかない自然環境や、持続的な狭い郷土や社会を維持しその中で順応するための上下関係の尊重ということの二つが日本の文化、言語、社会の成立の根本ととらえればわかりやすいと思います。
     ある人が日本語を称して、「人間の上下関係を意識せずには一言も発することができない言語」と言いました。日本人は日々意識的、無意識のうちに自と他との位置関係にもとづいて、言葉を使い分けています。これは、社会の安定を上下関係の表示と、メンバーシップ的閉鎖性によって維持しようとするものです。その個人的モチベーションは既得権の維持と上からの庇護他からの恩恵の獲得ということであります。
     封建社会以後も敬語が続いている理由は個人があくまで周りの様々な力の中で存在するものとしてとらえ、社会の秩序、集団の力の維持という価値を最上に掲げる日本の文化の根本が変わらないことを示しているように思います。
    今、私は「思われます」と書いてつい自分をぼかそうとしました。立派に日本人です。

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