2015年2月20日金曜日

曽野綾子の醜態に作家の特権が失われゆくさまを見た気がした

曽野綾子のコラムが物議をかもして10日経つ。

キッカケは2/11付の産経新聞のコラム「透明な歳月の光」だ。以下の記事でコラム全文が読める。

★ 【追記あり】産経新聞、今度は曽野綾子が人種差別(アパルトヘイト)を肯定するトンデモ全開コラムを掲載

彼女はコラムの中で「移民の身分は日本人と法的に厳密に区別すべきだ」と説き、同時に、南アフリカ共和国の「実例」を紹介した上で、「居住区は人種ごとに分けて住むべきだ」と主張した。

これに批判が殺到したところ、彼女は下記のように弁明。

★ 曽野綾子氏「アパルトヘイト称揚してない」
私はブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て、今回、まちがった情報に基づいて興奮している人々を知りました。
私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう。
さらには荻上チキという評論家と対談して、以下のように解答をしている。

★ 荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし
曽野:はい、あの区別で、差別をしなさいなんて全然言っていないんです。
荻上:日常の中のそうした配慮を区別とおっしゃっていると。
曽野:日常の穏やかなにね、そして相手の立場を持って大人げを持って認めると言うのが私は良いと思っていますよ。
差別を区別と言い換えるのは差別主義者の常套手段だけれども、それを指摘されても彼女は自分の過ちを認めない。
 南アフリカ共和国の駐日大使などが下記のように抗議している。

★ 曽野氏コラムで南ア駐日大使が本紙に抗議

このまま産経新聞も放置しておくわけにはいかないのではないか。彼女に謝罪をさせるか、コラムニスト自体を降りてもらうか、を迫られるだろう。そして、曽野綾子はすでに地位もカネもある人物だから、謝罪をすることもないだろうから、コラムニストを自主的に降板するんじゃなかろうか。

そしてまた日をおいて、『正論』などに今回の騒動の総括をおこない、言論の自由が失われつつある世の中を嘆いてみせるものの、産経新聞とは影響力は段違いだから、特に話題になることもなく、そのまま彼女は忘れられていくような気がしている。彼女ももう、83歳だし。

私のこの件に関する意見を述べる。

彼女はずいぶんと不誠実だ、というのが最初の印象だ。昔から彼女とは同じ保守思想に属しているはずなのに、どうにも賛同できないことが多かった。その理由は、狭い知見をもとにした、彼女の押しつけがましい論の建て方にあった。

たとえば彼女は若いころ、アフリカで貧困生活を現地の人に混じって体験したことがあり(一種の冒険を昔したことがあったため)、
「私と同じ経験をあなた方、したことないでしょ? それなら私の言うことをそのまま受け止めなさい」
と主張する、そんな内容のコラムを読んだことがある。似たような暴論で、なおかつ内容が偏ったものが彼女には昔から多かった。

今回の話も、ヨハネスブルグのマンションに黒人が大勢転居したために白人が逃げ出した、という一例をもって、人種が一緒に住むことはむずかしいと一般論に仕立てあげるのは明らかに論理の飛躍だ(なぜなら人種が共存しているニューヨークなどの大都会がたくさんあるのだから)。そのうえ住居を別にすべきという主張の傍証に、自然に人種が分離したチャイナタウンなどを証拠と挙げるのも卑怯だろう。だったら自然に任せればいいだけである。彼女が主張することはなにもない。

そしてもう一つ。この騒動で私が考えたのが、作家の特権の暴落についてだった。

もはや「作家の特権」は有名無実化しているのかもしれない。

昔は言論を社会に問うことの出来る人間は限られていた。作家はそのような特権階級の一つであり、新聞や書籍などの媒体を使って世の中に意見を問うことが可能な数少ない人種だった。だから、作家には道義から逸脱した言論を吐く権利があると、社会的に認められていたし、作家がそう主張しても、それに違和感を感じなかった。

当時は政治家や官僚などの力が今よりも数倍強かったから、彼らにペン一本で異議申立てするのも今とは比べ物にならないほどの勇気が必要だった。だからそれをする作家に、人々は声援を送ったし、彼らに倫理を逸脱する「特権」が許されていたように思う。

ところがもう、時代が違う。彼女が触れていなかったというインターネットで、誰もが発言をできる時代だ。もはや作家に、今までと同じような特権を与える理由がない。

それに、権利には義務がともなう。特権だったならなおさらだ。作家が特権を主張するならば、彼らはそれに見合ったノーブレス・オブリージュ(聖なる義務)を行使しなければならないのだが、日本の作家がここ数10年、義務を果たしてきたといえるだろうか?

たとえば昔だったら、「四畳半襖の下張事件」という有名な刑事事件があった。当時は権力がとかく人民の自由な表現を邪魔しようとうるさかったから、こうした風潮に噛み付いて、自由に作家活動ができるようにするべきで、読者にもそれを読む権利がある、という作家たちの意見表明に人々は拍手喝采を送ったものだった。こうした言論の自由を守る活動が、作家の特権を支えてきたといっていい。

ところが今、こうした活動をおこなう著名作家は少ない。特に現代社会では企業の力が肥大化しているが、あいも変わらず政治批判をすれば権力に反抗していると考えている方が多いのではないか。名誉毀損などで裁判を起こされるから、企業に刃向かう方がよほど困難、知名度のある作家には頑張って欲しいところだけど、彼らが一丸となって企業に立ち向かう、というような話はあまりない。

いたとしても論の建て方に緻密さがないために、読者に簡単に見切られるようになって、ますます彼らの特権が失われつつあるように思える。もちろん良心的な作家も大勢いるのだが、声が小さく、社会を大きく動かすに至っていないように思う。

曽野綾子が、「私は作家だから」とか「書きたいと思ったら、その時静かに書かせていただきます。それだけのことです」などと、作家としての自負を見せても、もはや形骸化した作家の特権に固執する様に感じられてただ、醜悪なのだ。それに気づかずに自分が特権階級だと思い込んでいる彼女に哀れさを感じてしまって、そのことに愕然としたのだった。



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