2014年10月6日月曜日

身内意識と憎しみと

大久保博元が楽天の監督になる、という報道を聞いてから、身内意識についてつらつらと考えている。

私たちは他人へは、敬称をつけて呼ぶ。
「◯◯さん」「◯◯くん」
など。

ところが、親しい人間には、
「◯◯!」
と敬称を外して呼ぶ。軽蔑の感情とは、まったく無関係の感情だ。大切な相手、抱きしめたい相手、好きな相手。彼らへの親しみが増すほど、敬称をつけて呼びたくない、という気持ちが湧いてくる。

ところが、目下の人間、軽蔑する人間、嫌な人間にも、同じく敬称をつけたくない、という感情がはたらく。

この感情は、何なのだろう? まったくベクトルの異なる感情だ。片や、愛情を向ける相手、片や、軽蔑を覚える相手。そのどちらにも、
「敬称をつけたくない」
という感情がはたらく。

「愛情の反対は憎しみではなく、無関心」
という言葉がある。たしか、マザー・テレサの言葉だったはずだ。この辺りに真相があるのかもしれない。

いや、もう一つのベクトルがある。身内であっても尊敬する相手の場合。その場合は、敬称をつけたい、という気分にさせられる。上司や親にはどれだけ親しくなっても、敬称なしで呼びたい、という気分にはならない。

この気分の出処はどこにあるのだろう?

能動的に関わる相手か、受動的に関わる相手かの違い?

あるいは、コントロールしたい相手とそうではない相手との違い?

身内への人間、愛情、憎しみの対象となる人間には敬称をつけたくなくなる、というのならば、尊敬する相手へ敬称をつけようとする気分と矛盾する。

どうなんでしょうね。

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