2014年10月16日木曜日

崇高なものを抱えて戦場におもむくわけじゃない

言葉も文化も違う人々の行動は、理解しがたいものだ。人は、理解できないものの行間を想像で補う。想像は自由に羽ばたく。結果、行動する当人が考えてもいないような崇高な理想を彼らに仮託することとなる。

「イスラム国」という武装勢力のもとに参加する欧米出身の若者が増えているという。

両親や片親がアラブ系の移民の子供たちが多いという。自分の出自を問い直す中で、イスラムの理想を追求する最も過激な集団に身を投じるのだと説明される。だが、最近はイスラム文化と無縁だった白人の若者の参加者も、増えているという。

彼らの行動に対する、識者の分析、論評、Twitterなどの市井の人々の感想を眺めてみた。ほとんどの人が理解できないものととらえているけれども、中には参加者たちの心情を褒め称えるものがある。戦争に参加することを、なにか特別なもののように思いなす人がいる。日本の若者と比べ、彼らの世の中を改革しようとする理想に共鳴するものもあった。

しかし、先日北大生の日本人が、自分探しの延長のような動機でイスラム国に合流しようとした事実を人々が知るところとなった。彼にとどまらない。戦争に参加する人々の考えていることは、案外バカバカしいものだ。

『きけわだつみのこえ』だとか知覧特攻平和館の少年たちの手紙を読んだことがある。とても哀しく、崇高なものをその中に感じる。だがそれは多分に美化されたものだ。

編纂は老人によって行われた。老人には若者たちの心理は理解できないから、想像で埋め合わせる。その結果、事実が覆い隠された。

そもそも、当時も現代も、戦場に向かおうとする志願兵の若者のほとんどは、死を覚悟しているというよりも、自分だけは死なないという根拠の無い自信に支えられているだけではなかろうか。それが若さだ。彼らが身近な人の死を、すでに経験していたとしても。

本当に人が死を理解して、自分のものとするのは、何年も何十年も、死ぬということを折にふれて考え続けてからではないかと思う。

私も、親友の病死や部活の後輩や叔父の自殺、祖父母の死などを経験してきたが、それを知ったばかりの当時の感情と、今の心情とは随分異なっている。今よりも年若い頃の私は、彼らの死に臨みながら、それを自分の死と結ぶことができず、無鉄砲なことを気軽に出来た。それが今は、難しい。

ある事柄を「理解する」ということは、表面的なものだけではなく、その中に潜むさまざまな情報を把握しているということである。決してよみがえることはなく、多くの人を悲しませ、将来がなくなることなどが瞬時に想像することが、今より若いころには出来なかった。

戦場におもむく、というと、なにやら崇高でロマンチシズムただようものを想像するけれども、無知なるが故の案外バカバカしい理由で参加しているバカな人々がほとんどだ、と割りきって考えることの方が、事実として近く、正しく状況を理解できるのかもしれない。



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