2014年7月3日木曜日

丸と人形と幼稚園児

以前読んでいた本に、面白いエピソードが載っていました。

母親が幼稚園のこどもに、算数を教えていたそうです。教えたい概念は、
「6-2=4」
でした。

母親は紙に大きな四角を書き、その中に6つの◯(丸)を書きまして、
「6人の人がお部屋にいます」
と説明。

次に、その部屋から2人分が出て行ったことを矢印で示し、
「2人の人がいなくなりました」
と説明。

最後に、
「部屋に残っている人は、何人でしょう?」
と尋ねました。

当然、4人と即答できると思っていたのに、子どもは、
「わからない」
と応えるのです。

「わからないの? 人が部屋の中にいくつ残っているの? 数えて!」
と母親はしかります。なぜなら、この子どもはすでに数字の概念が分かっていて、積み木を使った足し算や引き算を答えられていたからです。わからない訳がない、と母親はぐずる子どもをワガママだと判断したのでした。

ところがいくら叱っても、子どもは「わからない」を連発するばかり。母親は途方にくれてしまいます。

どうして我が子は突然物分かりが悪くなったのだろう? 急にワガママになって、これが早過ぎる反抗期なのだろうか? ワガママ言っているのは間違いないのだから、叩いてでも答えさせるべきだろうか……。

ところがそこに旦那が帰ってきます。ぐずる子どもの訳を尋ねる旦那に、理由を説明します。旦那は、子どもに、
「本当にわからないの?」
と尋ね、母親と同じように説明しても、やはり子どもは泣きべそをかきながら、
「わからない」
と小さな声で答えました。

そこで父は笑って、
「じゃあ、もっとわかりやすくするね」
と言い、◯に手足を書き加えて、色鉛筆で服も着せてあげたそうです。
「このお部屋に、6人のお人形さんがいます。そこから2人のお人形さんがいなくなりました。残っているのは何人のお人形さんでしょう?」

娘は満面の笑顔で、
「4人!」
と大きく答えたそうです。

このエピソードを知って、面白いと思いました。「理解」と「指導」の本質をつくエピソードではないでしょうか。

会社でも、よく「わからないなら聞いてね」と指示する人がいます。また、失敗したら「わからないのになぜ勝手にやるんですか!」と怒る人がいます。

でも、わからない人は、何がわからないのか説明できないのです。それは、◯を人間、あるいは人形と認識できない子どもと同じ。その場合、子どもが悪いのでしょうか?

そうではないでしょう。何がわからないのか、どこで引っかかっているのか、汲み取って理解させるのが親の役目。同じく、指導者には、相手がどこでわからなくなるのかを推定す義務があるのです。何が引っかかって理解できないのか、答えの分からない教えられる側には、絶対に推定できないことだからです。

上記のエピソードで、父親がそのことに気づけたのはなぜでしょうか?

多分父親には、子どもに対する信頼があったのではないか、と思うのです。長時間一緒にいる母親とくらべて、帰宅したときだけ子どもと触れ合う父親の前では、子どもは少しだけ、よそ行きの顔をしているのかもしれません。

母親の前ではときおりワガママを言うこともある子どもが、父親の前ではあまりワガママを言わないのでしょう。

それなのに「わからない」と答える子どもに対して、
「ワガママじゃなくて、本当にこの子は困っているのだな」
と父親は冷静に考えることができたのかも。だから、
「じゃあ、もっと分かりやすく、具体的に説明してみよう」
と考え方を変えることができたのかも。

「わかる」という観念は、個別具体的なものを抽象化して一般的な概念へ個人の中で変化したときに発生します。相手がわからないならば、相手でもわかるレベルに話を落としこんでみる。具体的なものへ、たとえるのです。それで理解してくれれば、抽象度をあげてみる。それが「教える」ということでしょう。

同じ説明を繰り返せばわかるはずだと思う人間は、不親切であり、能力不足だということを肝に銘じるべきでしょう。

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