2014年5月23日金曜日

片山被告が無実ではないことを見抜くためには

片山祐輔が犯罪者であることを、なぜ見抜けなかったのか、という後悔の念に時折襲われる。彼が無実であると、なぜ信じてしまったのだろう、と。

小保方晴子の場合、彼女が嘘つきであるという確信を私が持つのは早かった。一連の論文に疑義を呈した11jigen氏のブログ記事や、その他の論者の指摘を読みこみ、彼女は黒だと早い段階で判断できた。

論文不備の理由は「多忙」だと、彼女は主張する。しかし、どれほど多忙であっても実験写真と企業の販促写真を混同することはあり得ない、というところは経験上、譲れなかった。いかに釈明会見が立派であろうとも、彼女を信じることは一度たりともなかった。

だから、
「小保方はSTAP細胞を本当に見つけたかもしれない。STAP細胞が発見されれば逆転できる」
などと主張する人を、真実を見抜けない人間だと笑うことができた。ところが、今度は笑われる側になってしまった。

片山の場合は、彼が逮捕された時に彼が犯人かもしれないとは思ったものの、拘置所で一年以上勾留されても自白しないこと、決定的な証拠は何一つ出てこないことなどによって、次第に彼の冤罪を確信するようになった。そして、保釈後の記者会見を見て、それは決定的になった。淀みのない回答、整合性のある説明。相手の目をしっかりと見て答える自信。小保方晴子に騙されなかった私が、彼は無罪だと信じてしまった。自らの不明を恥じるばかりだ。

この世の中は他人を騙そうとする人間にあふれている。猖獗を極めるオレオレ詐欺を思えばそれは容易にわかる。ところが他人を騙そうと狙うのは犯罪者だけではなく、まともな人間が仕事として信念をもっておこなうのが現代社会だ。宗教の勧誘、広告代理店の仕掛け、メディアの人心掌握などなど、他人を思い通りに動かして自分の利益とすることが正しいこととされ、まっとうな社会で公然と覇を競い合っているのが、私達の社会だ。

ウソを付くこと、騙すことを「邪」とするならば、邪悪をすべて避けようとしては、まともな社会生活を送ることはできないのが現代の私たちの宿命なのである。

誠実にまっとうに生きるために、悪と並走しながら彼らをはねのけることが必要だ。それができなければ、悪をすべて避けた隠遁生活でも送らねばならない。人のまったくいない世界は、人でなしに出会う世界よりも暮らしにくかろう。

どうすべきだったのか? 判断保留することが必要だったのだ。なんとはなしの違和感は、間違いなく片山被告の会見を観ていたときにあった。それを私は「彼を信じられない自分の不明」だと捨て去ってしまった。判断を保留しなければならなかった。

それに改めて思い至ったのは、「極東ブログ」の次の記事。

★ パソコン遠隔操作事件、雑感
ネットを通して見る論調には、検察暴走による冤罪だという意見が多かったように思う。私はそれにも与しなかった。
 私は、このブログで2003年時点で、東電OL殺人事件で逮捕されたネパール人は冤罪であると主張したことがある。これはその後冤罪となった。私の見立てが正しかったが、そのことを再度主張するのは拙いように思えた。(中略)こうした事件では、自分のなかにそれなりに確たる心証があったからだ。
 だが、このパソコン遠隔操作事件については、そうした冤罪の心証がついに得られなかった。
ブログ主が片山が冤罪であるとの心証を得なかったのは、①片山が過去の前科に無関与の態度を取っていたこと、②片山が捕まってから、愉快犯的なメールが一切送付されていない、という事実の2つが根拠だったという。。

後者②に関しては、片山が冤罪ではないかもしれない、という疑念を持つための根拠としては、弱いと思っている。劇場型犯罪、たとえば「怪人21面相事件」などは、ある時を境にピッタリと脅迫はやんだ。社会をかき回しておきながらピタリとなりをひそめる愉快犯は大勢いる。PCメール遠隔操作事件の犯人もまた、心境の変化で身を潜めることもあるだろう、と考えた。

だが、前者①に関しては、これまで私が幾度となく考察してきたことだったはずだ。同じ過ちを行わないためには、そのことを嫌悪することが必要だというのが私の持論だ。過去の間違った経験を、
「自分にとって必要だった。肯定的にとらえている」
「あれもひとつのいい思い出」
と語る人間は、再び同じ過ちを犯す、というのが私の苦い経験則だ。理性から感情のレベルまで落としこんで、初めて深い反省となる。

ところが、片山は過去に「仙台市太白区内の小学4年生♀を殺します。9人以上しょけいする」という脅迫を2ちゃんねるに書き込んでいた過去を、反省して二度と繰り返さないと主張するものの、「どこかに原文のあるものをそのまま転載しただけ」と、どこか他人ごとのように言い逃れていた、という。

そこに、疑念を持つべきであった。少なくとも、彼の冤罪を革新する前に、彼が過去の事件にどのように向き合っているかを調べるべきだった。

「今」の自分は過去の延長にある。もちろん、過去だけで未来を判断してはならないが、未来を作っている現在の時点で、過去をどのように消化しているかを確認すれば、「今」を材料にその人がつくり上げる未来像を予測することは十分可能だろう。

全体の印象で決めるのではなく、要素一つ一つにじっくりと当たり、動かし得ない判断基準があれば、それをもとに判断する。証拠不十分で判断が出来ないものは、判断を保留する勇気も必要だ。そうでなければ、勇み足を踏む。

それにしても、小保方のような毅然とした態度、片山のような理路整然とした態度を目の当たりにすると、人間を印象で判断することは出来ないとつくづく思う。

この堂々とした態度で、彼が書いたメールがいかにえげつないものだったのか、下記のリンクをご覧いただきたい。

★ http://yokoku.in/enkaku2012/mail20140516.pdf

人間を見た目や態度で判断することは出来ない、という諦めをもつことが大切だ。ただ、事実のみで冷静に判断する。そして、判断できないことは保留する。予断を持たない。

立場的には大変不安定だが、その不安定に慣れる強さを持ちたいものだ。

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