2014年1月16日木曜日

尊故不囚~ふるきをたっとべどもとらわれず

最近、「尊故不囚(そんこふしゅう)」という言葉を作りました。時代考証的にこの漢字の組み合わせが正しいのかどうか、自信のないところではありますが、概念としては、少々自信を持っています。

「温故知新(おんこちしん」という言葉があります。「故き(ふるき)を温ねて(たずねて)新しきを知る」とよみます。古い時代を学ぶことによって、これからの世の中をどのように作っていくべきかを学ぶという意味の言葉です。歴史をなぜ学ぶのか、その理由を説明するためによく使われる熟語です。

尊故の「故」の字は、ここからとりました。よって「尊故不囚」は、「ふるきをたっとべどもとらわれず」とよんで欲しいところです。

昨今は伝統的なものが顧みられない世の中ですが、私は神社仏閣だとか、伝統的な価値観だとか、武士道だとか武術などの日本に古くから伝わるものを、大切にしていきたいです。昔から武道が好きで、剣術や体術などを学んできました。

と同時に、こうしたものにとらわれてはいけない、という思いを強く持ちます。

一昨日の記事で、風俗に身をやつす人について述べましたが、もしも、親の借金を返すため、あるいは病気の親のために大金が必要なためという理由ならば、働くことを許すべきだろうか、という疑問を、持たれた方も多いのではないでしょうか。

当然の疑問です。

私の考えでは、こうです。そんな親は見捨てればいい。死ぬのは寿命だと思えばいい。

たとえ親が借金で苦しもうと、病気で死のうと、それを救うために子供が苦しむ義理はない、と考えるのです。

でも、そこまで思い切れない人が多いものですが。

文化、伝統は親のようなものです。この私を育ててくれた、ありがたい存在です。それを尊ぶべきだとは思うものの、もしもそれが自分の自由を縛り、そして害を為すものであるならば、それは破壊するべきです。それが無理なら急いでそこから逃げるべきなのです。

こういう考え方が「尊故不囚」という言葉には込められています。

先日、王貞治が、体罰を外部の人間がとやかく言うべきではない、と発言して話題になりました。

★ 体罰問題の根底「古き良き日本が失われたから」と王貞治氏
 確かに余所から見ている第三者からすれば、暴力に変わりはないのかもしれません。でも当事者の間には、意思の疎通というか、血の通ったところがあった。日頃の人間関係があるから受け入れられたし、周りの人も好意的だった時代でした。(中略)それが今は、何の関係もない外部から騒がれたりして、心の繋がりを作ろうにも全部、ブツブツと切られてしまうでしょう。とても難しい時代になっています。
 僕なんかは、当事者同士に任せておけばいいじゃないかと思うんです。起きた現象だけで、関係ない人にまで色々いわれることで、昔から日本にあった“良さ”みたいなものが切れるようになってしまった。
王貞治は国民栄誉賞をもらった偉人です。台湾人でありながら、日本のことを思い、活躍してきた彼のことを、私は尊敬しています。でも、この考え方だけには賛同できません。

彼が一流となった陰には、涙をのんで舞台から去った何百人という人々がいることが、彼には理解できないのではないでしょうか。去っていった彼らの中には、体罰が「そこまでされたのに成果を挙げられなかった」刻印としてトラウマとなっている人が果たしていないのでしょうか。その憤りを、今度は家族に向けて、より弱い子供に暴力を振るってしまう負の連鎖を産んでしまったということはないでしょうか。それは少数派でしょうか。そうではありません。王氏のような成功者ならば、苦労はすべて報われ、暴力にさえ感謝することができるでしょうが、それこそ少数の者の特権です。

★ 「もう人類に体罰の実験は必要ない」
 「体罰について人類はすでに1000年単位の試行錯誤を重ねてきた。だからもうこれ以上実験をする必要はない……」。待望の新刊「昨日までの世界 文明の源流と人類の未来」(上下巻、日本経済新聞出版社)を執筆したピュリツァー賞受賞者、ジャレド・ダイアモンドさん(75)が来日、インタビューに応じた。
 「牧畜社会は狩猟社会に比べ、子供をたたく文化が多い。その理由は、守るべき財産があるからだ。もし、子供が家畜のいる小屋のフェンスを開けっ放しにするミスをしたとしよう。その子供の小さなミスで、全ての家畜が逃げ、全財産を失ってしまう場合がある。そのため、子供がミスをしないよう、体罰でしつけをするのだ。狩猟社会では、特に守るべき財産がないため、体罰を与えてまで子供をしつける必要に乏しい」
「歴史から学ぶべきだ。もうどこかの社会で実験済みのことを、わざわざ繰り返してミスを重ねる必要はない」

体罰と似たようなおかしなことが、伝統と言われるものの中に多数あります。その一つ一つを否定したい。と同時に、間違ったものを多く含むものであっても、総じて良いものだとして、まずは尊んでいきたい。こうした考え方が、私の中にはあります。

最近、新しいブログを作ろうとしています。そのブログでは、テーマを決めて、何かそのブログを読むことで、役に立ったと思えるものにしたいと考えています。

そのために、できれば自分の価値観がぶれないものにしたいと考えているのですが、どうも、伝統を重んじたい、権威を尊びたい、という強い感情を抱く一方で、伝統に縛られたくない、おかしなものはおかしいと声を上げたい、権威の威圧にはとことん反発していきたい、という感情にも掻き立てられることが多く、この二つをどう統合するべきか、ということをこのところ、考えていました。

その中で生まれたのが「尊故不囚」という言葉です。これをしばらく、意識していこうと思います。


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