2013年11月14日木曜日

私達の処世術について……アイヌの記事より

いろいろな人々がいろいろな主張を述べる。おっしゃる内容を理解すると同時に、私達はそこにどう対応すればいいのかも、考えないといけない。

アイヌ民族に行われた同化政策」という記事が話題になっている。アイヌを日本人に同化させるためにどのような政策が戦前に行われたのか、そのためにアイヌがどれほどの苦痛を強いられたのか、Twitterである人物がつぶやいた内容がまとめられている。

私がアイヌ民族のことを初めて知ったのは『コタンの口笛』を小学生の頃に読んことがきっかけだ。その後、名前を忘れたがシャクシャイン・コシャマインの戦いを題材にした本を、これまた小学生の頃に図書館で読んだ。

その後もいろいろな媒体でアイヌのことを知っていたので、この記事で書かれたような内容は既知のことである。とはいえ、当事者によってつぶやかれるこれらの証言は重い。久々に彼らの苦難の道のりを思って、ため息をついた。

ところで、差別される側からの証言を聞く時に、さて、私達はどのように対応するべきなのだろう?

加害者側の子孫として、反省するべきなのか?
被害者の主張に逐一反論すべきなのか?

対応は難しい。もしもあなたが今は加害者側の立場に立っているとは言え、別の局面では差別される側であるかもしれない。将来、被害者、差別される側へと回るかもしれない。

その時々で立場によって対応がくるくると変わっていては首尾一貫性を失う。感情的に落ち着かず、周囲からも信用をされまい。

弱者の言葉を受け止めることは重要だ。彼らの悲しみをくみ取り、同じような苦しみを味あわせないようにする社会構築に勤めることは、私達の子孫がよりよい社会に住むことを可能とする。

かといって、彼らの言葉に同情し過ぎるあまりに彼らの言うことになんでも従うようでもいけない。彼らの中にはゴロツキめいたものも多く、こちら側の贖罪意識につけこんで不当な要求を行い、そして食い物にしようと狙っていることもあるからだ。

 有名な話だが、『マルコポーロ』1993年9月号で、『血と骨』の作家・梁石日(ヤン・ソギル)、『月はどっちに出ている』の監督・崔洋一(さい よういち)、鄭義信(てい よしのぶ)らが対談の中でこう述べている。
崔「一時流行ったんだな。左翼少女を口説くときは日帝三十六年史で落とせというのが。」
鄭「いまだにそんな手を使っている人、いるんだよね。」
梁「男の風上にもおけんなあ。」
崔「梁さん、唇、震えてますよ(笑)。」
朝鮮系の人々へのかつての加害行為に対する贖罪感情に、つけこんで利用しようと狙う人々がいる。ほとんどの朝鮮系の人々は、大変よい人々であることを忘れてはならない。と同時に、こういう輩も少なからずいることも忘れてはならない。

兵庫県の尼崎事件でも似たような事例はある。保険代理店を営んでいた仲島家の運命が暗転したのは、遠縁の李正則という人物の更生を断ったという、弱みにつけこまれたことだった。悪辣な人間が、こちら側の"正義感"に漬け込んで無理難題の欲求を行うことは、案外社会に多い。

同情すればつけこまれる。かといって見捨ててしまえば社会の荒廃に加担するのと同じ。その中間辺りに、私達の処世法が転がっている。

お釈迦様は「中庸(ちゅうよう)」を説き、極端に陥らない中間の道を歩めと説いたが、これがなかなか難しい、どちらかに偏った方が、楽だからだ。被害者の側に偏って、逆に加害者を糾弾する側に立つ、あるいは加害者の側に立って被害者の落ち度を責め立てる。その中間にいると、両陣営から「コウモリ」と囃し立てられることとなる。

だが、両極端は異なっているようで似ている。相手を自分の支配下に置こうとする人々が住む世界だ。そこには幸福はない。

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