2013年5月15日水曜日

53歳からの再出発

先日、二宮尊徳のことに触れました。彼のような才能を持って生まれた人間には、尊敬の念を抱かざるを得ません。彼ほどの能力を持たない私にとっては、彼にひたすら近づくように努力するしかありませんが、そんな時に勇気を与えてくれるのが、彼の弟子(?)の一人である、安居院庄七(あぐいしょうしち)の存在です。

彼のことを知っている人は少ないでしょう。安居院庄七は、寛政元年(1789)に今の神奈川県で生まれました。1787年生まれの二宮の2歳下ですから、ほとんど同世代です。でも、彼らが初めて出会った天保13年(1842)、2人の地位には大きな差がありました。

安居院は山伏の子として生まれるも、青年になり穀物商に婿入りします。ところが婚家の商売よりも米相場に段々とのめり込むようになり、とうとう投機に失敗して全財産を失ったのが、53歳のときです。人生50年と言われた当時では、すでに晩年。詰んでしまい、どうしようもない年です。彼の伝聞をまとめた書物には、
幼年青年と壮年期に至るまで、何ら伝うる所を聞かぬ
と書かれています。その年まで、これといった事績を残さず、いや、老年になって身代を潰そうとしているのですから、悪名だけが残ってもおかしくなかったはずです。当時、二宮が活躍していた神奈川のあの辺りは、度重なる飢饉で治安が悪化し、博打で身を持ち崩した人々が大勢いました。安居院自身が良からぬヤカラと、付き合いがあった可能性もあります。

さて、食い詰めて借金をこしらえた彼が頼ったのが、無利息で金を貸してくれるという噂の二宮尊徳でした。当時二宮は、貧しくても努力を怠らない農民のために、無利息でお金を貸していたのです。一種の社会貢献、今で言うマイクロファイナンスです。

ところが、二宮の滞在先を訪れた彼は、借金を断られます。真面目そうな人間だったならば、二宮も融資していたはずですが、そうでなかったということは、二宮に、当時の安居院の心底が見透かされていたということでしょう。安居院自身も、そう見られておかしくない風体、人相の人間だったのでしょう。
40歳を過ぎた者は、自分の顔に責任を持て
〜by リンカーン〜
ところが、ところが。

ここからが、安居院の素晴らしいところです。風呂番や雑用をしながら、居候を決め込んだ安居院は、二宮が語る、客や門人への言葉をことごとく筆写しながら、自分のくだらない人生を反省したといいます。ここが、転んでもただでは起きない男。いや、ここは二宮の感化力を褒めるべきか。

いずれにしても、二宮の語る言葉が53歳の安居院の精神を、根本から変えたことは間違いありません。彼は二宮から借金しようとしたことを恥じ、20日滞在しただけで地元に戻り、二宮尊徳が考案した尊徳仕法を婚家の商売へ応用することにしたのです。

彼が始めたのは「元値商い」という、仕入れた米を原価で売るという方法でした。

仕入れたコメを、仕入れた原価で売るのです。どこよりも安いのですから、当然大勢の客がやってきます。しかし利益は出ません。周囲はあざ笑いますが、安居院には勝算がありました。

米を売った後の、空の米俵や米ぬか、こぼれた米などを、細かく集め、それを転売したのです。

ほんのわずかな儲けですが、これが彼の人生を変えました。1年で手元には10両が残ったのです。1両が約5万円ですから、50万円の貯金ができた計算です。借金も返しながらでしょうから、成功といえましょう。

「たかだか50万円の貯金……みみっちい話だ」

と思われるかもしれません。でも、それができなくて困っている人が、この日本に何百万人、いることでしょうか。ネットでは大企業を指導したコンサルタントやMBAホルダーの話が花盛りですが、貧しい庶民にとって必要なのは、むしろ安居院のような存在です。

安居院は74歳で死ぬまでの20年間、二宮尊徳の報徳思想の普及に力を注ぎました。そのお陰で、神奈川県秦野市の一帯は今のような豊かな土地へ変わったのです。

閉塞した時代であっても、老齢となってからでも、倦まず弛まず努力を重ねていくことで、社会をより良いものへと変えていくことは、可能なのです。彼の生き方を知ると、元気が心の底から湧いてきます。

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