2013年3月28日木曜日

もしかしてあなたは「英語ができない人」なのかもしれない 下

昨日は、ディスレクシアについて簡単に説明した。自分とは関係ない話だ……と感じた人が多いだろうと思う。だが、それほど簡単な話では、ない。


日本語では顕在化しにくいディスレクシア
そもそもディスレクシアという障害は何故起こるだろうか。言語処理能力を他人とは異なる脳の部位で行なっているからだろう、という説を紹介たが、これについてもう少し掘り下げてみたい。

人間が文字を使い始めて約5000年。人間の脳は「文字の認識」を始めて歴史が比較的浅い。このため、脳には文字を認識するための中枢領域というものが、実は存在しない。

どういうことか。手を動かすには脳のこの領域、味を感じるのは脳のこの領域、危険を感じるのは脳のこの領域、などと、脳はその使用目的ごとに、部位ごとの役割分担が進んでいる。

ところが文字認識のための専用の部位は脳にはない。脳ホムンクルスと呼ばれる下記のようなイラストを見たことがある人もいるだろう。
脳は、それまで他のことに使われてきた部位を言語理解のために利用しているのだ。

だから、単なる線を、
        
意味あるものとして捉えるのは、
実はたいへん高度な演算処理を、脳内で必要とする。

また、人類共通の脳の構造が生まれた後に言語が出来上がったため、言語ごとに、脳の使用領域は少しずつ異なる。つまり、日本人と英米人とは、脳の中で文字認識のために使用する箇所が異なっている、ということになる。

日本語は、漢字と仮名の組み合わせによって書かれた、世界でも珍しい言葉だ。漢字は「表意文字」と呼ばれ、仮名やアルファベットのような「表音文字」とは異なり、1字1字が意味を有する記号である。

絵を見て何が書かれているのかは、古代人だって分かる。象形文字は、あらゆる文字の始まりだ。人を見て、その人が誰であるかを思い出すような自然で便利な表現形式が、数多くの日本人を識字障害から救っている大きな要因なのだ

"山"という文字を「やま」だと認識するのと、"mountain"という文字の連なりを「やま」だと認識するのはどちらが楽か――起き抜けのぼんやりした頭で試してほしい。

漢字のような表意文字は、意味と言葉とを結びつける経路が、表音文字よりも短くて済む。左脳中前頭回という部分が活発に動くという点で、英語の文字認識とは大きく異なっている。
もちろん、漢字は文字の数が大変多い。それだけ多くの経路を必要とする。けれども、数10個の文字の組み合わせを何万通りと覚えるのと、何万個もの形を覚えるのと、どちらが脳にとって負担かといえば、前者である可能性がある。漢字には、まず音を想起して、その音と意味とを結びつける……表音文字のような2段構えを必要としないからだ。

だからだろうか、中国でもディスレクシアの症状を示す人の割合は、英米圏に比べて少ない。教育を受けた後に識字障害を示す人の割合は、約7%にとどまるという。英米圏の半分だ。

日本語では、覚えるべき漢字の文字数は、中国語よりもはるかに少ない。主な意味は漢字が伝えるけれども、意味を補助する仮名が、漢字をうまくフォローしている。

この組み合わせは、脳にとってみると理想的なのかもしれない。日本人は江戸時代から、欧米人よりも高い識字率を誇っていたことが知られている。それは日本語の特殊性に起因している可能性がある。


英語学習で顕在化する識字障害
ところが、英語学習では、これまで顕在化していなかった障害があらわとなる。
日本語のディスレクシア発現率、5%と英語のディスレクシア発現率、15%。

もちろん推定値であり、研究者によって示す数字は異なる。でも、可能性としては、普段通りに生活できている日本人の10%、約10人に1人が、潜在的な「英語ディスレクシア」であるかもしれないのだ。

日本語で書かれた文章は、上記の理由から読むことができる。でも、英語で書かれた、アルファベットの文字の羅列を、言語として認識することが、その10%にとっては地獄のような苦痛となる可能性がある。英語を習得するために、他人の数十倍、ときには数百倍の時間を必要とする。

それはあなたかもしれない。

あなたが英語を学ぶためには、英語圏のディスレクシアの人々が必要とするリハビリのような、特別な訓練と、とてつもない苦労が必要だとしたら。
「言語能力に問題がない」
「やればできる」
「単なる言葉じゃないか」

こんなことを言われて、真に受けていてはいけない。

第二言語として英語を学習するためには、英語で書かれた文章を理解できないと話にならない。母語のように母親からつきっきりで言語を学ぶ機会は、一生に一度だけであり、文字を読みながら言葉を学ばなくてはならないのに、ディスレクシアの人にとってはそれはあまりに困難だ。

他の勉強を続けながら、あるいは仕事を続けながら、時間をみつけるような悠長なことはできず、時には全てのことをなげうって取り組まなければ、英語は身につかないということになる。

……果たして、そこまでのコストをかけて、英語に取り組む必要があるの?

英語を読み、意味がわからなくても、日本語訳、日本語による解説を読めば理解できるものだから、
「いつかは英語ができるかもしれない」
と思いながら、何千時間も何万時間もの時間と、何十万円というおカネを浪費したとしても、英米圏の小学生レベルの識字能力を得ることしかできないのだとしたら……。

そんなムダなことをする意味はあるのだろうか?


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