2013年3月10日日曜日

文化的なホームレス生活

昭和50年前後の頃の話です。来日したあるアメリカ人の政治家に、日本人が質問をしました。
「日本で印象に残ったことはなんですか?」
それに対してアメリカの政治家は、
「びっくりしたことがある。日本ではホームレスが新聞を読んでいたことさ。これには驚いた」
と回答しました。

この話をとある講演で聞いたのは、昭和60年前後だったでしょうか。その頃はモノ知らずだった私は単純に、
「日本人はホームレス(当時は浮浪者と呼ばれることが多かった)でも新聞が読める! 日本人はスゴイ!」
としか考えなかったのですが、今になってこのエピソードを思い返しますと、そんな単純なものではないことが分かります。

① 当時のアメリカでは、識字階級ならば失業することがないほど、社会が豊かだった
② 当時日本はバブル前だが、それでも識字階級がもホームレスに落ちぶれることがあった
③ 日本には、ホームレスでも興味のあることが新聞に載っていること

このブログの読者は、私よりも頭の良い方々が多いためもっとたくさんのことを瞬時に思いつくかもしれませんが、私が思いついたのはとりあえずこの3点です。

①に関して言えば、知識階級が職を失うことがざらにある今のアメリカでは、ホームレスが新聞を読むようなことは当たり前となっていることでしょうし、②に関しては、高度経済成長期とはいえ、戦後日本はかなり貧しい時代が続いていた、ということが言えるはずです。

③に関して言えば、日本の大変スノビッシュな世相を反映している、と言えるのかもしれません。当時の情報入手の一番のメディアである新聞には、ありとあらゆる情報が満載だったのです。ある面で社会を論じているかと思えば、別の面では夫婦の夜の営みについて解説していたり……。こういった娯楽性が日本の特徴で、上流階級と下層階級が断絶していないのが日本の長所ですね。

もっとも、文字が読めるホームレスの読んでいた新聞とやらは、朝日や読売のようなお固い新聞ではなく、スポーツ新聞や競馬新聞の類かもしれませんが……。

ただ、新聞を読む、という行為は、単に「文字を知っている」ことを意味するだけではなく、知的好奇心を働かせる、精神的な余裕がその人にあることも、同時に示しています。

現在、都心部では、ホームレスの姿が当たり前のように散見されます。長引く不況に、公共事業が減った結果でしょう。でも、彼らを観察してみてください。ほとんどの人々は、ボンヤリと時間を過ごし、新聞を読んでいるような人々はほとんどいません。ゴミ箱で新聞くらいすぐに見つかりそうなものなのに、彼らは文字を読みません。たぶん、生きていくことで精一杯だから、読書をしたいという精神的欲求が湧いてこないのでしょうね。

私だってあなただって、いつホームレスへと身をやつすかわかりません。人生、何が待ち受けているかわかりませんから。でも、最底辺にあってさえ、新聞を呼んだり、あるいは装いに凝るような、精神的余裕を持ち続けていきたいとは思います。それが教養というものだと信じています。

彼らを眺めながらそう考えるのですが、同時に、
「そんなこと、無理じゃないか」
とも思っていました。最底辺な生活をしながら、文化的な生活を追求する余裕。それは果たして可能なのか?

それに対する応えを先日見つけました。私にとっては、この一枚の写真は衝撃的でした。
どこぞの公園に勝手に住み着いたホームレスのテントのようです。
手入れの行き届いたテントは、白を貴重としながら薄汚れていません。定期的に掃除しているのでしょう。周囲には松ぼっくりをしきつめています。そしてドアに窓ガラスを使う贅沢。廃屋から持ってきたのでしょうか? 軒先に置いた人形、壺、どれも道端に捨てていたものを持ってきたのでしょう。すべてゴミだったものを組み合わせ、魅力的で簡易的な日本庭園を作り上げています。

お金はほとんどかかっていないでしょう。廃棄物と自然物を利用して作り上げながら、とても上品で、洒落ています。不遇な境遇を恨むのではなく、楽しんでしまおうとでもいう、この強靭でしなやかな精神!! 脱帽しました。

豊かな家に生まれながらも、自己改革を怠り、ずぼらな生活、汚部屋と呼ばれるような生活に甘んじている人々がいます。そこに教養はないでしょう。それよりももっと豊かな精神が、この「家屋」にはあるような気がしてなりません。

最底辺の人の最上級の文化的生活。苦しい時、この写真をみて、私は勇気をもらっています。

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