2013年2月1日金曜日

長嶋茂雄の脳は英語脳

野球は人生そのものだ
長嶋茂雄とえば元ジャイアンツの野球選手で戦後の大スターですので、いまさら説明する必要もないでしょう。

野球選手時代、監督時代の活躍もさることながら、その底抜けに明るいキャラクターと、独特の言語感覚でも愛されてきました。

たとえば、英語がそれほどうまいとも思えないのに、会話の中に頻繁に英単語が入ります。
"鯖"という字の書き方を確かめるために、
「魚ヘンにブルーだっけ?」
と周囲に尋ねたのは有名な話です。

また、擬態語が多いのもその特徴。
「ダーッと打つ」
「ガーッときたらバーッと行けばいいんだ」
などという言葉づかいは、よく、
「彼の言っていることは意味が分からない」
などと評されたものです。

おおざっぱな性格だろうと思われるエピソードが数々あるにもかかわらず、数字にやけにこだわる、という意外性が笑いの対象となってきました。
「彼のスイングが10cmずれている」
「ふりぬく角度が30度で」
などという単語がよく出てきます。周りからはジョークの一種としてあまり真面目に取り合われなかったのは、
「そんなに彼が正確に物事を把握できるわけがない」
と誰しもが感じ、
「数字も正確に表現しようとして思いつきで言っているに違いない、ウソっぽい」
と思われていたからでしょう。

また、彼には口癖がありまして、
「ひとつの」
という言葉をのべつまくなしに使う、という特徴がありました。
それも、「いわゆる」という言葉とともに使うことが多く、
「いわゆるひとつの」
という言葉を使うと、年輩の方々ならば、
「ああ、長嶋茂雄だ」
と思うくらいに有名な口癖です。

さて、彼の上記の言葉遣いは、これまで、彼の憎めない天然ボケなキャラクターの産物として認知されてきました。

「野球は天才だけれども、論理的思考には弱い。国語能力が低いから、あんな言葉遣いしかできないのだ」
というのが、ほとんどの日本人の感想だったのではないでしょうか。

でも、本当にそうなのでしょうか?

そうではないのではないか、と思い始めたのは、明治大学教授でもあるマーク・ピーターセンの書いた、『日本人の英語』という本を読んだ後です。

日本人が苦手とする"a"と"the"のような冠詞の使い分けや、単数形と複数形をどう区別するかなどに的をしぼって一冊の本にまとめた良著であり、英語が苦手な人にとっては福音となるものでしょう。

この本を読みますと、英米人には簡単に使い分けができるものが、日本人に使い分けができない理由がわかります。

英米人の思考の根本には、
「それが単数なのか、それとも複数なのか」
「それは個別具体的なものなのか、それとも漠然としたものなのか」
を常に意識していこう、という強い欲求があるのです。もっと具体的に言えば、状態の視覚的な把握への執着心がある、とでも言えばいいでしょうか。

日本人は彼らほど、数量に執着心はなく、具体と抽象の区分を意識しません。

だから日本人が英語を話すと、単数と複数か、具体的な話なのか一般的な話なのかが始終曖昧であり、英米人にとってフラストレーションがたまるのだとか。

長嶋茂雄の発言集を笑いながら見ていた時のこと。
上掲書のことをふと思い出し、そして愕然としました。長嶋茂雄の口癖、
「いわゆる一つの」
という言葉は、英語冠詞の"a"を無意識に使っているのではないか?
ということに気がついたからです。

日本人が普段使わない単語が日本語の会話に頻繁に出てくると、
「なんだかおかしな」
と思われますが、長嶋氏には、ものごとを視覚的かつ数量的に把握し、具体的なモノなのか、それとも一般的な"いわゆる"モノなのか、単数か複数を厳密に区別しようという意識がその根底に常にあり、それが彼の独特の言葉使いとなったとは考えられないでしょうか?

口癖だけではありません。
たとえば、若かりしころの定岡との会話。
「学生服を脱いで、洋服を着るのは初めてか」
という長嶋茂雄の発言に、視聴者は、
「そんなわけないだろ? 学生だって、制服以外の時は、洋服くらい着るだろう?!」
というつっこみをしたはずですが、長嶋が「いわゆる」という言葉を使わないときは、
"the"を無意識のうちにつけていると思われます。

この場の「洋服」とは"a suit"ではなく"the suit"のことであり、もちろん背広のことを指しているのです。

長嶋氏にとって「いわゆる」を使うときは"a"をつけている、あるいは不加算名詞を意味していますし、それがつかない時は、この場での共通認識であるものを指しているため、いちいち「背広」などの具体的名称を使わず、一般名詞で代用するのです。

こういった言葉の使い方、英語のネイティブがよくしますよね。一般名詞にtheをつけて固有名詞にしてしまうといった用法。日本人の感覚に馴染めないものですが、長嶋氏にとってはそれがごくごく自然な感覚なのではないでしょうか。

彼の異常なほどの数字へのこだわりも、英米人の特徴です。それが正しいかどうかはあまり重要ではありません。
「扉を少し開けた」
という表現を、
「扉を10cm開けた」
と表現するのが英米流。

「いや、本当は12cmだぞ? 10cmではないから、正確ではない。正確ではないことを書くのならば、むしろ数字はとってしまえ」
と日本人は考えます。逆に英米人は、曖昧な表現を使うよりも近似値を使う方が、具体的で会話を聞く人に対して親切であると考えるのです。

上の動画にもあるように、長嶋氏は、服の皺など、こだわらなくてもよさそうなところに具体的な数字を持ち込みます。彼の意識の根底には、
「不正確ではあっても具体的な数字を出すことの方が、相手にとってイメージしやすいので分かりやすいだろう」
という信念があるはずです。

ところが日本人はそのような概念に慣れていないため、ううろたえて、かえって長嶋氏をバカにするのです。

擬態語の多さについて。彼はあれだけ擬態語を使用しながら、日本語に特徴的な、
「ドキドキ」
「オロオロ」
などの2音による組み合わせが案外少ないのが特徴です。
「ドーッ」
「バーッ」
などの一音が多いですよね。

この手の擬態語は、英米人もよく使います。それは、母国語の異なる者同士ではとても顕著です。論理構造の異なる相手に理解させるために、適切な単語が思いつかず、ボディランゲージと共に擬態語を使用するのです。

言葉によって、思考回路、論理構造は大変異なります。母語によって、脳の神経回路自体がかなり異なることも、最近の研究で分かっています。

だからでしょうか、英米人が日本人の論理を聞いても
「なにを言っているのかよく意味が分からない」
と言いますし、逆もまたしかりです。それが「直訳したもののわかりにくさ」につながっています。

日本人には英語コンプレックスがあるために、英語で書かれた論文が理解できないことは"英語力不足”のレッテルを貼られるため表面化しにくいですが、英語ネイティブの論理構造が日本人と異なるために、理解できずに文意を読みとれないことも多いはずです。

ところが、まれに、英語を母語とする人々の論理構造が先天的に備わっている人がいて、彼らにとっては、英語を習う前から、日本語よりも英語的な考え方がしっくりくる、ということがあるのではないでしょうか。

そして、長嶋茂雄は日本人でありながら、英米人の言語構造が先天的に備わっていたということは考えられないでしょうか。

長嶋氏が英単語を多用していたのも、そう考えると納得出来ます。単語はその言語と不可分のものです。長嶋氏にとって自分の思想を言い表すのに、日本語にちょうどいい概念が見当たらないのです。微妙にずれているのです。だから、英単語をどうしても使わざるを得ない……そんな可能性はないでしょうか?

そもそも長嶋氏は単なる天才ではなく努力の人であり、勉強家でもありました。その彼の頭が悪い訳がありません。

彼の論理構造は英米人のそれである、という目で改めて彼の発言をとらえてみると、大変論理的で、おかしいどころか非常に優れて合理的な発言ばかりなのです。

長嶋茂雄、あなどれませんね?!

0 件のコメント :

コメントを投稿