2013年2月5日火曜日

戦国時代の合理主義

フランシスコ・ザビエルという宣教師が戦国時代、日本に布教にきてキリスト教を布教したことを、ほとんどの方はご存知でしょう。日本に2年滞在して多くの信者を獲得した後、中国に渡ろうとして、その途上で病没してしまいます。
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、精神的にも消耗しており、ザビエルは病を発症。12月3日、広東省上川島(サンチェンダン)でこの世を去った。46歳であった。 by Wikipedia
中国へ渡航することを選んだ理由が、日本布教の足掛かりなどの二次的な理由であるはずがあるまい、単に明帝国の方が国土も人口も大きいからそちらが魅力的だったのだろう、と私は学生時代に考えていました。

ところが中国渡航の理由が、本当に日本布教のためであったことを、先日知りました。
ザビエルの手紙には、こと細かく日本人のことが書かれています。 例えば、日本人はすごく知的好奇心が強く、こちらが休む暇もないくらい質問してくる。また、理性的だとも言っています。(中略)もし神様が天地万物をつくったというなら、なぜ悪があるのか――これも執拗に聞いた。さすがのザビエルも、この点には困りました。悪の存在というのは非常に深刻でやっかいな問題です。(中略)しかし、ともかく日本人はこういうことを猛然と食ってかかるように、ザビエルに質問したようです。
ザビエルは日本に一五四九年に来て、二年後の五一年に去りますが、日本を去ってから書いた、イグナチオや、あるいはイエズス会の同僚たちとの往復書簡の中で、もう精魂尽き果てたとのべています。自分の能力の限界を試されたと、正直に告白しています。
ザビエルは日本の文明の先生は支那だと見抜きました。日本でかなりの信者ができたけれども、いろいろ理屈をこねて抵抗している。しかし、日本の“先生”である支那がもしキリスト教に改宗すれば、日本人はイチコロのはずだ――ザビエルはそう思って支那に行こうと決意したように思われます。
上記は、土居健郎の『聖書と甘え』からの引用です。


フランシスコ・ザビエルの往復書簡は書籍化されています。


ただ少々お高いので、購入するなら、岩波文庫の方が(抜粋ですが)お求めやすいでしょう。

日本人との討論に精魂尽き果て、日本を攻略するために隣国中国をまず攻略するという戦略を、とろうとして、ザビエルは離日したのだそうです。ふられた訳ではなかったようです(笑)。

ところで、私は戦国時代に宣教師が記述する日本人の有り方を読むたびに、誇りを覚えると同時に、今の日本人にその特質が欠けているように感じて、悲しくなるときがあります。

たしかに、上記に述べられているとおり、日本人が盗みを嫌い、知的好奇心が強く、礼儀正しい、という点は今も変わりません。

ところが、非常に理屈をこね、休みもないほど質問してくる、という知的好奇心にあふれた態度からは明らかに後退しています。明治期に日本にやってきた外国人は、自分に会った日本人が、モジモジして、お互いに牽制しながら質問をなかなかしないことに業を煮やす、と記録に残しています。

それは今も変わらず世界の「日本人はシャイだ」という評価につながっています。戦国時代の日本人にあった好奇心の塊のような態度は、江戸時代にすっかり失われしまったようです。

日本人の知的好奇心に蓋がなされた理由は、江戸時代から昭和初期にかけて、あまりに長く続いた封建的な体制のためでしょう。知的好奇心は、権威に盲従せずに、徹底的に論理的に考えぬく、という合理的な思考回路が必要です。それが保持されるには、江戸時代の封建体制はあまりに長すぎたようです。大変もったいないことです。

戦国時代の武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)の残した家訓には「武士は主君を七度変えてこそ一人前である」という一文があるそうです。そこには、忠義に縛られず、己の技量をひたすら磨こうという独立独歩の精神がうかがえます。

忠義を重んじた後世には、このような戦国時代の武将の考え方が、なにやら卑しいものととらえられていたようですが、現代のようなドラスティックな社会では、このドライな考え方の方が、むしろしっくりくるはずです。

戦国武士道や戦国時代の人々の考え方をどうにかして取り戻したいですね。

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